デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

自分が好きで何が悪い!

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友人から、こんな話を聞いた。
彼女のお世話になった先輩が、会社を休んでいるらしい。30代前半の独身男性。半年前に違う部署に異動して、顔を合わせる機会が減った。そういえば最近見かけないなと思ったら、心を病んで休職しているという。先輩の異動先は会社の経営方針を決める部署で、文句なしの“栄転”だった。

(※なお今回は身バレに配慮してフィクションを随所に入れてあります。)

誰もが憧れる出世コース。一昔前なら実家で赤飯が炊かれただろう。一体、彼に何があったのだろう……と、友人は言った。
これは私の想像にすぎないが、おそらく彼は「自分を好き」になれなかったのだ。
自己評価を他者や社会の常識にゆだねてしまう人は、心を病んでしまいやすい。たくさんの例を見ているわけではないが、私はそう思う。一般的に、賢くて勤勉な人ほど鬱病にかかりやすいと言われている。自殺者には、絶対的幸福感よりも相対的な幸福感を優先する人が多いとも聞く。自分で自分を赦すことができない人は、心が脆くなってしまうらしい。
聞いてみれば、その先輩は中国地方の田舎町の出身だったという。同級生たちが地元に縛られているのを尻目に、学校の成績をのばし、いい大学に入って、京都・大阪という都市圏で仕事を見つけた。ここ数十年来の日本における典型的なサクセス・ストーリーをなぞっていたのだ。いわばジャパニーズ・ドリームだ。それが彼の自己肯定感の源泉となっていたはずだ。
ところが世の中は移り変わり、ジャパニーズ・ドリームはフィクションになってしまった。
いつまで経っても職場では“若手”の扱いで、ようやく後輩が入ってきたと思ったら、すぐに異動させられた。他部署へと“栄転”したものの、また新人扱いで一から仕事を叩き込まれる。自分の上にはバブル入社組の社員がたくさんいて、管理職の席が回ってくるのに何年かかるか分からない。30代前半、未婚。性格は真面目で奥手。出会いの場に自分から飛び込んでいくタイプの男ではないらしい。自分の「人生」が分からなくなるのも無理はない。
きっと祖父母たちは言う:コツコツと地道に頑張りなさいと。
きっと両親たちは言う:誰だって我慢をしていると。
個々人の適性を抜きにして、勤勉に努力さえすれば豊かになれる、幸せになれる。そういう時代があった。自分の“本当にやりたいこと”をぐっと飲み込んで、与えられた仕事をこなせば出世できる。そういう時代がたしかにあったのだ。だから年長者世代には、アラサー世代の悩みが分からない。ジャパニーズ・ドリームを邁進しているのだから、なんの文句があるのだろう、不幸だなんて贅沢だ……と、キョトンとした表情を浮かべる。そして自分自身は「第二の人生」を謳歌して、“本当にやりたかったこと”に老後を費やすのだ。
時代は変わった。
地道な努力だけでは、もはや私たちは幸せになれない。与えられた仕事をコツコツとこなすだけでは、給料は上がらない。子供を養うことも結婚することもできない。我慢を美徳とする人は、いいように使われて都合よくクビを切られる。それが現在の日本だ。私たちが生きている時代だ。ジャパニーズ・ドリームは文字どおり夢まぼろしになった。
友人の“お世話になった先輩”は、その夢を追いかけてしまったのだろう。
世の中の「常識」を、自分の幸福度を計るための「ものさし」にしてしまった。自己肯定感の源泉を、自分の内側ではなく、外側に設定してしまったのだ。心の内外が一致している間はいい。しかし、一度でも「これって本当に俺のやりたかったことなのか?」と疑問を抱けば、自己肯定感に齟齬が生じる。小さな亀裂がどこまでも拡大し、自信が打ち砕かれてしまう。自己評価を他者や社会の常識にゆだねてはいけないのだ。





承認欲求には三つのレイヤーがあると、私は思う。
いちばん外側にあるのは「無数の他者から認められたい欲求」だ。目立ちたがりの欲求と言ってもいい。Twitterのつぶやきがリツイートされ、Facebookの書き込みに「イイネ!」が付くと、私たちは誰かに認められたような気分になる。ブログの記事が1,000件ほどブックマークされれば、自分が特別な存在になったかのように錯覚する。現代のSNSだけではない。新聞の投書欄に取り上げられれば、社会に対して物申したような満足感を得られる。無数の他者から認められたいという欲求を、私たちは間違いなく持っている。
その内側には「仲間から認められたい欲求」がある。職場や教室、友人たちから認められたい、必要とされたいという欲求だ。なぜ非効率な飲み会文化が日本企業には残っているのか、あるいはなぜ不良中学生が仲間から一目置かれるために万引きやバイク窃盗をするのか。周囲の人間関係のなかに自分の居場所を作りたいからだ。お互いの顔を知っている必要はなく、たとえばネットゲームで「わたしが寝たらパーティが全滅しちゃう!」という理由から徹夜をするのは、「仲間から認められたい欲求」があるからだろう。
そして、心のいちばん深い場所には「自分で自分を認めたい」という欲求がある。たとえ仲間たちから必要とされても、圧倒的多数の人々から拍手喝采されても、そんな自分を好きになれなかったら生きるのはツラい。ヒトはわがままな生き物で、「自分の思うとおりに生きる」ことを渇望する。ジャパニーズ・ドリームを追いかけたり、あるいはスーパーシチズンノマドを目指したり……外部的な基準で幸福を計るとしても、結局は「そういう生き方をしている自分」がヒトは好きなのだ。
承認欲求の三つのレイヤーうち、もっとも大切なのは「自分で自分を認める」という部分だ。しかし、いちばん外側の欲求から満たそうとする人はとても多い。




ところで日本では、なぜか「自分を好きな人」が「痛い人」として扱われる。ナルシストを見つけたら全力で叩きつぶそうとする。そういう習性を逆手にとって、痛い人を演じることで自己プロデュースするブロガーや作家がいるぐらいだ。
なぜ私たちは「自分が好き」なことを「恥ずかしいこと」だと感じるのだろう。「自分が好き」な人は、どんな社会的害悪をまき散らすというのだろう。ナルシストを「痛い」と笑い飛ばすことに、合理的な理由はあるのだろうか。
すぐに思いつくのは「自己中心的な人がいると集団行動がなり立たない」という見解だ。日本のあらゆる職場で、チームの和を乱さないことが至上命題になっている。
しかし仕事を経験するということは、働いている個々人が実績を積むということであり、自身の労働資本としての価値を高めることにつながる。一人ひとりが自己中心的になればなるほど、仕事をうまく進めようという意思が働くのだ。自己中心的な人間のせいで仕事がうまく進まないとしたら、その人が充分に自己利益を追求していないか、個々人の実績にならないほどくだらない仕事であるかのどちらかだ。
たとえば北米大陸の入植者たちは、原野に思うがままに囲いを作って、自分の土地にした。先住民を追い払いながら開拓を進めていった。農家どうしは孤立しており、人力で農業をするには限界があった。そこで牛馬や機械を使った効率的な農法が発展し、現在の“農業大国”としてのアメリカが生まれた。自立心の強いアメリカの国民性は、こうした歴史的な背景から生まれた……というようなことが駐日アメリカ大使館のホームページに書いてあった。
一方、日本は江戸時代にいわゆる“マルサスの罠”にはまり、効率的な農法を捨てることになった。食糧生産技術の発展よりも人口増加のほうが早く進んでしまったため、たとえば牛馬を飼育するための牧草地を作るよりも、田畑を作ってヒトを労働力としたほうが「安上がり」になってしまったのだ。鎌倉時代には牛馬耕が始まり、16世紀〜17世紀には役畜を使うのが当たり前になっていた。世界で最もすぐれた鉄砲を国内生産するほどの技術もあった。ところがヒトの値段が安くなったため、人々は自らの手で鋤をふるい、土を耕すようになった。資本集約的な鉄砲ではなく、労働集約的な刀が生き残った。そして人々は相互監視的な農村社会を発展させていったのだ。
もちろん、歴史的経緯ですべてを説明しようとするのは間違っている。
しかし、なぜ日本では「自分が好き」な人が嫌われてしまうのか:その理由の一端には、均一を是として逸脱を罰する村落的な発想があるに違いない。
私たちは、もっと自分を好きになっていいはずだ。
自己愛を批判する風潮は、「自分はすばらしい、なぜなら自分だからだ」という自己肯定を許さない。この風潮に毒された人は、自己肯定の尺度を自分の内面に求めることができなくなる。他者や社会的な常識に、自己評価をゆだねてしまう。そして、ちょっとした齟齬が原因で心を病んでしまうのだ。

誰かの「自己愛」にうんざりさせられる時もあるだろう。けれど自己愛を批判する習慣は、それ以上の害悪を日本社会にまき散らしている。
過去には、ナルシストを笑い飛ばすことが社会的な便益を生んだ時代があったのだろう。自分を抑えて、お互いに我慢しあうことで豊かになれる。そういう時代があったのだろう。けれど、私たちは次の段階の豊かさに進むべきではないか。
誰かの我慢で作られた笑顔は、どこか歪んでいるのだから。



鉄砲を捨てた日本人―日本史に学ぶ軍縮 (中公文庫)

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自己愛人間 (ちくま学芸文庫)

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