デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

それを共有することに意味はあるのか?

このエントリーをはてなブックマークに追加
Share on Tumblr

私たちの暮らしの中で、情報の「共有」が当たり前になった。なにか面白いことがあったらすぐにFBやLINEやTwitterで誰かに伝えたくなる。「共有」することが新しい価値を生む――なんて言説をしばしば目にする。
けれど、それは目の前にいる誰かに伝えるよりも優先すべきなのか。
電車のなかで並んでiPhoneをいじってるカップルを見ると、考えてしまう。



あなたが言葉を交わすべき相手は、ケータイの向こう側の誰かなの?
すぐ隣にいるその人ではないの?




どんな情報であれ、ある程度の「熟成」を経なければ共有する価値はないと思う。
速報的な情報なら別だけど、ちょっとした思いつきやひらめき、感情は、誰かに伝える前にきちんと熟成させないとダメだ。ただ情報を右から左に流しているだけでは、新たな価値は生まれない。情報をコピペしているだけでは、私たちは新聞紙と同じになってしまう。私たちの脳は紙と同じになってしまう。




情報に付加価値を与えて、新たな情報を創出できること:
それこそが人間のすばらしさだ。



だから、なんでもかんでも広く薄く共有するのは、なんというか、人間らしくないよなぁって思う。
もちろん、必ずしも人間らしいことが良いことだとは限らない。が、少なくとも私は、誰かと一緒にすごしているときはその人と喋りたい。頭が固いと言われそうだけど、人と喋っているときにケータイを出すのはいかがなものかと思う。
だって、もったいないよ?
ケータイの向こう側の人よりも、生身の相手のほうが何倍も色々なことを教えてくれるよ?
広く共有することでは、情報は「熟成」できない。
もっと閉じた場所で少数の仲間と(※ときには1人で)考えなければ、「まだ世の中にない情報」は生み出せない。
これは私の好みがすごく反映された考え方だと思う。
私は「仲間」ってモノが好きなのだ。マンガや映画なら、“秘密結社”が大好き。○○団とか△△倶楽部とか聞くとわくわくする。「これは我々だけが知りえる真実だ…」みたいなセリフにゾクゾクしちゃう中二病患者だ。クラスのみんなには内緒だよ!
だから画面の向こうの誰かより、目の前の仲間のほうが大切なのだ。



「10インプットして、1だけアウトプット」を心がけたい。








※とはいえTwitterはアイディアのメモ帳代わりに使ってるのでインプット対アウトプットが1:1に近くなっててうわー言動不一致ごめんなさい!って感じです