世界を変えてしまう作品というものがある。どんなジャンルであれ、創作物は先行作品を踏み台にしながら発展していく。しかし時々、以前の作品から一段飛ばし、二段飛ばしで進んだ作品が登場する。すると、あらゆる作品がその作品と比較して語られるようになり、環境が一変してしまうのだ。
『ニューロマンサー』は、そんなマイルストーン的な作品のひとつだ。この小説が無ければ、映画『マトリックス』も『攻殻機動隊』も誕生しなかった。ジャンルの壁を越えて、様々なクリエイターに影響を与えた大傑作といえよう。
- 作者: ウィリアム・ギブスン,黒丸尚
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1986/07
- メディア: 文庫
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脳とコンピューターを直結できるようになった時代、犯罪の街“千葉シティ”でケイスは自暴自棄な生活を送っていた。かつては電脳空間(サイバースペース)のカウボーイとして企業の情報をハックしていたケイスだが、雇い主を裏切ったことで神経とコンピューターとの接続を焼き切られ、すっかり落ちぶれてしまったのだ。そんなケイスのもとに、モリィと名乗るサングラスの美女が現れる。とびっきりヤバい仕事に力を貸してくれるのなら、ケイスの神経を元にもどしてやるというのだ。ケイスは一も二もなくその依頼に飛びつき、電脳空間の深淵へと足を踏み込んでいく――。
SFガジェット山盛りの、まるでおもちゃ箱のような作品だ。中二病の特徴的な症状として「漢字にカタカナのルビを振りたくなる」というモノがあるけれど、間違いなく戦犯の一人はこいつ。反転(フリップ)したり、没入(ジャック・イン)したり――、独特の言い回しが楽しい。設定だけ見るとややこしくて理屈っぽいけれど、中身は意外とシンプルだ。「戦闘美少女と出会って旅をして超越的存在に触れる」という典型的な冒険物語になっている。とある奇譚の王道展開(スタンダード)!
読みながら感じたのは、時代性の高さだ。『ニューロマンサー』が発表されたのは1984年、まるで鏡のように当時の世相を写し取っている。『ニューロマンサー』の作品世界はさながら現実の虚像だ。先日紹介したフィリップ・K・ディックの作品群が時代によらない世界の真実(というか作者の思想)を浮き彫りにするモノだったのとは対照的。
ギブスンの時代に対する嗅覚のするどさをあげればキリがないのだが、ここでは『ニューロマンサー』について2つの点を指摘したい。
一つは「企業の時代」の小説だということ。
もう一つは「情報そのものが価値を持つ時代」の小説だったということだ。
1.企業の時代
60年代は「国家の時代」だった。東西冷戦の真っ直中であり、国家が強い力を持っていた。失業、経済格差、そしてインフラにロジスティクス――。世の中のあらゆる難問を解くのは「国家」の責任だった。共産主義国家では政府が経済すべてを掌握していた。また資本主義国家においても、大規模な公共事業や宇宙開発が進められ、国営企業が経済を支えていた。現代では「人々はカネの使い道を自分自身で決めるべき」だと考えられている。しかし当時は「徴税と財政出動によって政府が正しい使い方を決めるべき」だと考えられていた。これは共産主義・資本主義に関わらず、当時の国家に共通する発想だ。「強い国家」の時代だったのだ。クラーク、アシモフ、ハインライン、ディックなど50年代〜60年代に活躍したSF作家の作品には、そういう「強い国家」の影がちらつく。
1979年にマーガレット・サッチャーが英国首相に就任し、1981年にはロナルド・レーガンが米国大統領になった。彼らは「小さな政府」を標榜し、かつての国営企業たちは「国」の手から離れた。70年代末〜80年代初頭に「国家の時代」は終わった。
さて、80年代といえば日本企業の繁栄を抜かして語るわけにはいかない。世界中に「MADE IN JAPAN」が溢れたのがこの時代だ。映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』には象徴的なシーンがある。1955年のドクが故障したタイムマシンの部品を手に取り「やっぱりな、日本製だ」とつぶやくと、1985年からタイムスリップしてきたマーティが「なに言ってんだよ、ドク。日本製は最高だよ」と応える――。日本が「ものづくりの国」として輝いていたのはこの時代だ。そして80年代の後半には、日本はバブル経済へと突入していく。
ウォークマンやカローラを作ったのは国営企業ではない。民間企業だ。敗戦時に財閥は解体されたものの、三井グループや三菱グループ、住友グループ、芙蓉グループなどの企業集団に姿を変えて残っていた。日本ではもともと「企業」が強い力を持っており、その日本が世界に影響を与えた――それが80年代だった。「国家」の力が弱まったことと併せて、この時代は「企業の時代」と呼んでいいだろう。
そして『ニューロマンサー』は、この時代のシルエットを緻密になぞっている。
(闘技場での殺し合いを見ている)観客の大半は日本人だ。必ずしも“夜の街”の群衆ではない。環境建築群から来た技術者たちだ。つまり、このアリーナは、どこかの企業の厚生委員会から承認されているということなのだろう。ひとつの財閥で一生働きつづけるというのは、どんなものなのだろう、とちょっと気になる。社宅、社歌、社葬。
もしも日本のバブルが崩壊せず、そのまま科学技術が進んでいったら――そんな想像力をかき立てられる。作中にちりばめられた日本製品の多さには、なんだか微笑ましい気持ちになる。たとえばトランシーヴァはサンヨーの製品だし、宇宙コロニーに向かうシャトルはJALだ。物語は荒廃した未来の千葉市(チバ・シティ)から始まるが、それは日本の千葉が世界でいちばん神経外科技術が進んだ地域だから、という設定になっている。日本すごい。「日立に収めたやばいRAM三メガバイト分」なんて言葉も飛び出す。
『ニューロマンサー』が提示した世界観は新鮮で、なおかつ当時の時代の空気と地続きだった。だから誰の心にも素直に響いたのだろう。当時の(とくに日本の)若手クリエイターや子供たちが強く影響を受けたのも無理はない。押井守は『攻殻機動隊』を作り、それを観たウォシャウスキー兄弟は『マトリックス』を作った。そして「仮想空間」を舞台にするというコンセプトは、『アクセル・ワールド』など現在の「オンラインゲームもの」にも継承されている。
2.情報そのものが価値を持つ時代
『ニューロマンサー』が発表された1984年、情報工学者の村井純は慶応大学と東工大、東京大学をネットワークで結んだ。これが日本におけるインターネットの起源だ。翌1985年、米国で学術用ネットワーク基盤NSFNetが作られる。World Wide Webシステムのための最初のサーバーとブラウザが開発されたのは1990年で、毎度おなじみ(?)の素粒子研究所CERNのスタッフが完成させた。そして1995年、NSFNetは民間へ移管され、さらにWindows95の登場によりインターネットは一般個人へと爆発的に普及していった。現在でこそインターネットは、空気や水のように「あって当たり前」のモノになった。しかし、ほんの15年前までは一部の「凝り性(マニア)」のモノだった。
そんな時代に電脳空間を扱い、見事な冒険譚に仕上げたギブスンはやっぱりすごい。とくにネットを「マフィアや不良の巣窟」として描いたのは示唆的。「ネットはバカと暇人のもの」なんて言う人もいるけれど、インターネットがエリートたちの手を離れたらどうなるかを、ギブスンは予見していたのだ。
しかし『ニューロマンサー』は、現実のハッカーたちの聖典にはならなかった。もしかしたらなってんのかもしんないけど、私はハッカーじゃないし知らない。 たとえば国際的ハッカー集団アノニマスがアイコンにしているのは映画『V・フォー・ヴェンデッタ』だ。「情報世界を泳いで大冒険する」という物語よりも、「実力行使と自己犠牲により権力と対決する」という(見る人が見れば)古くさい物語のほうが神話化された。
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『V・フォー・ヴェンデッタ』が聖典になった理由はわかった。では『ニューロマンサー』がそうならなかった理由は何だろう。
それは「情報の価値」だ。ギブスンは情報の価値を過大評価していた。しかし現実には、インターネットの発達により情報の価値は大暴落した。この「価値の大暴落」を描いていないという点が、現実のハッカーたちの目には「嘘くささ」として映り、『ニューロマンサー』は聖典になれなかったのだろう。この作品には様々な先見的な発想がちりばめられている。しかし「情報の価値の下落」だけは予見されていない。逆にいえば80年代当時は「情報」がまだまだ高い価値を持っており、天才的SF作家といえど当時の世界観から抜け出せなかったのだ。IBMに対する日本企業の産業スパイ事件が起きたのは1982年のこと。当時は「情報」が、ヤバいクスリのように売り買いされる時代だった。
しかし現代では、どんな秘密もいったん漏洩すれば無限にコピペされて増殖していく。ネットは巨大になりすぎて、「ヤバい情報」のやりとりは見つかりづらくなった。メスのひよこの群れにまざった一匹のオスを探すようなものだ。今日もP2Pで児童ポルノや著作権違反のデータが拡散され、あろうことか国家機密までも動画共有サイトにアップロードされてしまう。一昔前なら絶対に知りえなかった情報が、現在では「タダ」で手に入るようになった。かつてはキリスト教の写本を手に入れるために命がけの旅をする時代もあったというのに。
現在の情報の無価値性についてはid: elm200さんも指摘なさっている。
「情報を売る」時代の終焉‐elm200のノマドで行こう!
http://d.hatena.ne.jp/elm200/20120224/1330048857
経済学には「自由財」という考え方がある。稀少性が薄く、人々の需要量よりも供給量が遙かに上回っているモノのことだ。たとえば地球上なら大気や日光がそれに当たる。供給量が多すぎるため商売にならず供給者が現れない(ちなみにかつては「水」も自由財だとされていた、現代ではどうかな?)、それが「自由財」の特徴だ。
いまインターネットは空気や水のように「あって当たり前」のモノになった。それはつまり「情報」が空気や水のような「自由財」になったことを意味している。これが「情報の価値の大暴落」の経済学的な説明だ。『ニューロマンサー』の電脳空間カウボーイのような「情報を売る」という商売は成り立たない。どこかの誰かがぶっこ抜いた情報を、無垢なネット利用者たちは無償でばらまいている。
現在でも売りモノになるのは「技術」だ。情報そのものには価値がないが、その情報をぶっこ抜く「技術」は自由財になっていない。依然として希少価値があり、商売として成立する。
また情報にも種類があり、供給量の限定された情報はいまだに価値を失っていない。たとえば名簿だ。個人情報保護法により名簿は限られた数量しかコピーされない。しかし、あらゆる業種のマーケティング担当者が、年齢・性別・職業などでまとめられた名簿を必要としている。供給量に対して需要量が多いため、商売として成り立つのだ。皮肉にも個人情報保護法のおかげで、非合法な「名簿市場」は発展した。あなたが通販サイトや就活サイトに入力した情報は「名簿」として転売され、合法・非合法をとわず様々な組織・個人の手に渡る。そしてあなたのケータイには今日もスパムが届くというわけだ。
◆
ギブスンの『ニューロマンサー』には、80年代前半の空気がくっきりと刻み込まれている。「企業の時代」そして「情報が価値を持つ時代」だったからこそ、この傑作は生まれた。SF小説にありがちな「未来の予言」ではなく、当時の世相を写し取った銀盤写真になっている。初めてこの作品を読んだ80年代の人々の目には、新鮮な未来予想図として映ったのだろう。しかし30年近く経ったいま読み返すと、「古き良き」と形容したくなるような郷愁を感じずにはいられない。作中に登場するアクションシーンやガジェットは、その後の映画やアニメに多大な影響を与えてきた。そういうポスト・ニューロマンサーの作品群を見て育った私たちは、なんだか懐かしさを覚えるのだ。
意識しようとしまいと、エンタメ作品には時代の空気が反映される。フィクションを読んで時代を知ることはできないが、時代について知ればフィクションはもっと楽しくなる。
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