デマこい!

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なぜブンガクは死に、ライトノベルに負けたのか/ポップカルチャーが価値観の再構築を担う

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※この記事はブンガクのことなんてぜんぜん分からない素人の思いつきをメモしたものです。失笑されてしまう部分も多いかと思いますが、どうか優しくご教授ください。
※というわけで、すべての文章の頭に「これはRootportの私見だが」という注釈を加えつつお読みください。
※ど、どうか石を投げないで……。



神は妄想である―宗教との決別

神は妄想である―宗教との決別



ここ数日、現在の日本での「神話の不在」について考えていた。
2011年はストーリー復権の年だったと私は書いた。私たちの嗜好が『かもめ食堂』や『けいおん!』などの日常系から、骨太な「物語」のある作品へと移行している。将来の見えない時代だからこそ、私たちは人生の指針・規範となるような物語を――神話を求めている。


混迷の時代に「物語」が必要な理由/「日常系」の終わりと「神話」の始まり
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20120109/1326100574


が、ここで「物語」の代表としてあげたのはアニメ作品ばかりだ。また昨年のオリコンランキング書籍販売部数を見ると、『謎解きはディナーのあとで』が堂々の一位を獲得している。この作品は“ライトノベル的”と評されることが多く、旧来の本格・新本格ミステリーとも社会派ミステリーとも違う雰囲気をまとっている。さらに小説の売上げ全体が伸び悩むなか、「ライトノベル」だけは好調で、近年は新規レーベルの参入も非常に多い。
アニメ、ライトノベル――。
人生の指針を示してくれる「物語」を喪失した時代に、こうしたポップカルチャーが注目を集めるのはなぜだろう。逆にいえば、本来こういう時代にこそチカラを発揮すべき「ブンガク」と呼ばれる作品たちが活躍できないのはなぜだろう。新しい時代の価値観を創り、人々の生き方に柱を与えるのが、ブンガクの役割ではなかったのか。


神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)


結論から言えば、日本のブンガクは既存の価値観の破壊ばかりに気を取られ、その創造を怠ってきたのではないだろうか。人々の規範意識や倫理観の原点になるような物語を軽んじ、世界観の破壊ばかりを好んできた。その結果、社会環境という外的要因によって本当に価値観が破壊された時に、まるで役に立たなくなってしまった。
不良であることを尊び、優等生であることを軽んじる。
この風潮が日本の「ブンガク」を衰退させた。




       ◆




そもそも日本のブンガクは、出発点からして不良的だ。
明治期の文豪たちが描いたという「近代的自我」なるものは、それ以前の封建的倫理観に対するカウンターだった。たとえば学校の授業で森鴎外舞姫』を読んで、主人公のクズっぷりに閉口した人は少なくないはずだ。また安楽死は現在でこそ許容されるようになったが、鴎外のころは極めてインモラルな話題だっただろう。当時の人々にとって『高瀬舟』は衝撃的な物語だったはずだ。
現在でも女を捨てる男はクズだ。一方、安楽死は犯罪ではなくなった。
明治の文豪は既存の価値観を破壊しながら、新しい価値観を創出しようともがいていた。
漱石の『こころ』は「殉死」が極めて個人的な理由で行われるものだと暴いた。もとから何となく「死にてえなあ」と思っていた人たちが、天皇崩御を口実に自殺しただけではないのか、と。『こころ』は極めて不敬な小説なのだ。さらに、『こころ』はBL小説としても最高傑作に近い(ちょっと待て)
例をあげればきりがない。近代的自我の確立は、それまでの倫理観の破壊とセットだった。どの時代をとっても文豪たちは当時の「不良」であり、人間失格だったのだ。



文学史のことはよく分からないけれど、日本のブンガクの「不良」っぷりが最高潮に達したのは1950年代末から60年代末にかけての20年ほどだったのではないか――と、私は見ている。
ザ・キング・オブ・不良の寺山修司が大活躍した時代だ。
世間では学生運動が活発化し、あらゆる既存の価値観をぶっ壊してやろうという機運が高まっていた。つい最近では「都条例」にちなみ、石原慎太郎都知事の小説のむちゃくちゃっぷりが再注目された。女を拉致して犯して殺して捨てるお話を書いた人が、いまでは青少年の健全な育成を訴えているよ――と失笑を買った。当時はこういう物語が評価される時代だった。
そしてこの時代に、「不良的であること」が日本のブンガクのドレスコードになってしまった。
勧善懲悪や純愛などは「エンターテインメント」とされ、ブンガクよりも一段下のものと見なされるようになった。優等生的な価値観のうえに書かれた作品はブンガクにあらず。「純文学」にあたる単語は、日本語以外の言語にはない。日本にしかない「純文学」というジャンルでは、倫理観の破壊・規範からの逸脱こそが是とされた。本来、ヒトが物語に求める「神話性」が、不当に低く評価されてきた。
その結果が、現在のブンガクの凋落を招いた。



一方でライトノベルは、児童文学やジュブナイルを出自としている。
子供たちに倫理観や規範を与えるのが、こういった子供〜青年向けの文学作品の役割だ。またライトノベルのなかにはテーブルトークRPGのリプレイを原型にするものもある。こちらは勧善懲悪の物語になることが多く、やはり「優等生的な価値観」が根底に流れている。
こうした規範意識・倫理意識は、現在のライトノベルにも受け継がれている。
読後に絶望しか残らない作品は滅多にないし、あっても部数が伸びない。血みどろの物語である『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』シリーズですら、根底に流れているのは純愛――すなわち優等生的な価値観だ。勧善懲悪とか大人気。世界征服をたくらむ強欲な男は必ず倒されるし、家族は仲良く暮らすのがいちばんだ。だから上条さんは幻想をぶち殺して、兄貴は妹のオタク趣味を全力で擁護する。



ライトノベルだけではない。友情・努力・勝利はジャンプマンガの方程式だ。マンガの歴史はPTAとの戦いの歴史であり、規範意識・倫理観と折り合いをつけていく歴史だった。もちろんマンガ家たちは、親や教師の言いなりだったわけではない。古い価値観を壊しながら、読者の親世代にも「新しい価値観」を理解させようとしてきた。日本のブンガクが問答無用でぶっ壊してきた「優等生的な価値観」と、マンガは真っ正面から向き合ってきた。
ブンガクが無視した「価値観の再構築・再生産」の役割を、ポップカルチャーが担ってきたのだ。



だから現在のように、過去のすべての「物語」がチカラを失った時、私たちはポップカルチャーを選ぶ。ブンガクが教えてくれない「ヒトとして忘れてはいけないこと」や、「人生でいちばん大切なこと」を、ポップカルチャーから学ぼうとする。要するに、日本のアニメやマンガで描かれるのは愛の話なんだよ! なんで分かんないのかなあ。つまりコミケは愛による死を自ら選択した者へのご褒美でもあるんだよ――。
新しい物語が必要な時代にポップカルチャーが注目され、ブンガクが忘れ去られるのは、「倫理観・規範意識」に対するそれぞれの態度の違いが原因だ。




       ◆




この記事では「ブンガク=既存の価値観の破壊」「ポップカルチャー=価値観の再構築・再生産」という分かりやすい図式を提示した。が、これはあくまでも「そういう傾向がある」程度の話だ。例外はいくらでもある。
ただし、時代の変遷とともに私たちがフィクションに求めるものは変わる。これだけは事実だ。そして今の時代、新しい生き方の模範となるような物語が――端的にいえば規範意識や倫理観を教えてくれるストーリーが求められている。欲しいのは価値観の強化・安定であって、破壊ではない。
「価値観が揺らぐような作品を読みたい」という言葉をしばしば耳にする。年長の読書家の人は、よくそういうコトを言う。しかし現在の物語は、揺らいだ後の「落ち着く場所」まで示してやらなければならない。
素人の私は、そう思うのだ。
人は追い詰められるほど、神話をよりどころにする。



NEWスーパーマリオブラザーズ ぐらぐらゲーム

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なーんて長々と書いてきたけれど、単純にライトノベルは単価が安いから手を出しやすいんだろうな。