日本人は議論が苦手だと言われている。が、これは「自分の意見をはっきり言わない」ぐらいに理解されている場合が多いようだ。議論の種類や方法について語られることは滅多になく、無遠慮な恫喝で他人を黙らせるのが「議論の上手い人」と見なされてしまう。
マイケル・サンデルのこの講演によれば、民主主義とは物事の「本質」について議論し、合意を形成していくことをいう。この社会の何が大切で、何がそうでないのか、物事の「本質」に立ち返って議論しなければ判断を下せない。民主主義とはただの多数決ではなく、社会の構成員すべてが納得できる価値観を探り出すプロセスのことだ。
そして日本人は、この「本質について議論する」のが苦手なのだろう。
たとえば「秘密保護法反対デモの参加者は顔をマスクで隠すな! 自分の秘密は大事なのかよww」という言葉を2chで見かけた。この書き込みをした人物は、個人の秘密と国家の秘密を同列のものと見なしている。では、それらは本質的に同じものだろうか。本当に、同列のものとして扱うことができるだろうか。
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ところで競技ディベートには、大きく分けて2つの議論の方向性がある。
「プラクティカルな議論」と「フィロソフィカルな議論」だ。
プラクティカルな議論とは、具体的で方法論的な議論を指す。一方、フィロソフィカルな議論とは、物事の価値観を問うような抽象的で哲学的な議論を指す。そして、たぶん日本人は後者が苦手だ。
学生時代のディベート大会で印象的だったのは、「Japanese Gov. should encourage Otaku culture.」という議題。和訳すれば「日本政府はオタク文化を振興すべきか?」だ。当時はゼロ年代の半ば、ニコニコ動画以前の世界では、大学生はこんなのを議論のタネにしていたのだ。
私は観戦席に座って、反対派についた同級生を応援していた。
このとき賛成派のチームは、ひたすら「オタク文化がいかにすばらしいか」を述べた。乗り換え検索サービスを鉄道オタクが開発したこと。ジャパニメーションが国際的に評価されていること等々。これに対して私の同級生は「How encourage?」の一言で反論した。「振興するって具体的に何をするの? 具体案がないじゃん!」とツッコミを入れて、勝利をもぎ取った。
あのとき、賛成派のチームはたぶんフィロソフィカルな議論をしようとしていたのだ。
当時はニコニコ動画の誕生前夜で、オタク文化と“一般人”との距離は今よりも遠かった。その時代に「オタク文化は政府が振興する“価値”があるかどうか」を議論しようとしたのだろう。
一方、私の同級生はプラクティカルな議論に持ち込むことで、相手をねじ伏せた。あのとき、賛成派は「価値観について議論しているのだから具体案は必要ない」と反論すべきだった。具体的な振興案を議論するためには、それ以前に、振興する価値があるかどうかを議論しなければならない。この点を上手く説明できれば、賛成派にも勝機はあった。
私が学生のころは、プラクティカルな議論のほうがジャッジの心証が良かった。しかし最近では、フィロソフィカルな議論が重視されるようになってきているらしい。なぜなら、そうしないと国際大会で通用しないからだそうだ。海外の大会ではフィロソフィカルな議論のほうが好印象なのだという。
日本では、プラクティカルな議論が偏重されがちだ。新聞もテレビも、インターネットでも、フィロソフィカルな議論をしようとすると「現実的でない」「夢想的だ」という烙印を押される。こうして日本人は、物事の「本質」について議論する機会を失うのだ。
プラクティカルな議論をするためには、土台となる価値観を固めなければいけない。価値観を固めるには、フィロソフィカルな議論が欠かせない。しかし日本では、国の政策でも、企業の事業計画でも、フィロソフィカルな議論は滅多にされず、いつの間にか“空気”で決まっている場合が多いのではないだろうか。
国家の借金と個人の借金は本質的に同じものだろうか。個人の秘密と国家の秘密は、本質的に同じものだろうか。「同じだ」と主張することはもちろん可能だろう。大切なのは、その主張に説得力があるかどうかだ。それが、物事の本質について議論するということだ。
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ここまで、民主主義の議論について考えてきた。
続いて、民主主義の具体的な実現方法について考えたい。
世界の近代史を見れば分かるとおり、デモや集会は民主主義を実現する方法の1つだ。政治を変えるには、大きく2つの方法がある。1つは権力者と個人的なつながりを作り、取引と交渉によって行動を変えさせる方法。もう1つは大衆の賛同者を増やして、数の圧力で権力者を動かす方法だ。歴史上、民主主義は後者の方法で実現されてきた。
しかし今の日本では、デモや集会に強烈な嫌悪感を抱く人が珍しくないようだ。ネット上では、とくにそれを感じる。2chにせよtwitterにせよ、デモや集会は基本的に反社会的で犯罪的な行為として糾弾されているのをよく見かける。
これは、たぶん日本独自の歴史的な経緯が大きな影響を与えているのだろう。
日本は歴史上、デモや集会で政治が変わった経験に乏しい。日本史の教科書では、一揆はテロ行為として描かれる。明治維新は市民革命ではなくクーデターだった。現代に入ってからも同じだ。70年代の日本赤軍にせよ、90年代のオウムにせよ、「日本を変える!」という題目のもとにテロを働いていた。ゼロ年代のイスラム過激派によるテロは「野蛮人による秩序の破壊」という文脈で語られた。「アラブの春」の後の混迷を見て、やっぱりイスラムは野蛮人じゃん……みたいな見方が生まれた。
こうした歴史的経緯から、多くの日本人にデモや集会に対する生理的嫌悪感が植え付けられた。世界の近代史を見れば分かるとおり、デモや集会は政治を変える効果的な手段の1つだ。が、日本人は自らその手段を封じた。それが日本人の美徳──冷静で穏やかな気質──の表れなのか、それとも自縄自縛にすぎないのか、今の私には分からない。
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民主主義とはただの多数決ではなく、物事の「本質」について議論を深めて、社会の構成員の合意を形成していくプロセスのことをいう。
しかし日本人はプラクティカルな議論に終始しがちで、フィロソフィカルな議論をあまりしない。
プラクティカルな議論を偏重すると、「専門家以外は口をつぐめ」という論理がまかり通るようになる。議論から社会の構成員を排除してしまうので、この論理は民主主義とは相容れない。
秘密保護法案を巡るネット上の議論は、この日本人の弱点が端的に表れていたと思う。「国家の安全保障に秘密は必要か否か?」というレベルの議論が中心になっており、さらに深いレベルでの議論──そもそも国家とは何か、秘密とは何か──には、あまり踏み込んでいない印象がある。
国家の安全保障に秘密が必要なのは当然だ。したがって、秘密保護法の反対派もこの点はあまり議論の的にしていない。問題は、この“秘密”が誰のもので、誰の手によって管理されるかだ。
民主主義の国家とは、国民が国家を統治する政治形態のことをいう。そのため国家の秘密は、同時に国民の財産でもある。国民の財産であるなら、国民の手によってコントローラブルにしておくのが筋だろう。少なくとも、選挙によって選ばれた国民の代表者の手が届くようにしておくべきだ。
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余談だが、「普通の人は逮捕されない」という言葉では私は安心できない。
冤罪事件の事例を調べれば、任意同行からの自白強制、別件逮捕が黄金パターンだと分かる。たった一週間の勾留でも、仕事をクビになりうるし、婚約は破棄されうる。たとえ起訴されなくても、私たちの生活はかんたんに破壊される。
「罪のない人が捕まることはないし、理不尽な目に遭うこともない」という信念は、そのまま「捕まる人は何か悪いことをしているはずだし、理不尽な目に遭うのはその人に原因がある」という発想につながる。
しかし現実には、権力はいともたやすく暴走する。
それが20世紀の教訓ではないか。
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