デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

「お金なんていらない」という発想が日本を北京にする/なぜこの世にカネが必要なのか

このエントリーをはてなブックマークに追加
Share on Tumblr

貨幣不要説を唱える人がいる。カネをあまりかけない生き方ができるようになったのは事実だ。しかし「カネが無くてもしあわせ」という発想は、高所得な人々に絶好の口実を与えてしまう。彼らは出来るかぎりカネを再分配したがらない。
カネは本当に必要なのだろうか。それともカネに執着するのは、やはり浅ましいことなのだろうか。「カネとは何か?」を追求しながら考えてみたい。



もくじ
1.パンチ一発のねだん
2.カネの起源
3.ブランド品はなぜニセモノよりも高いのか
4.まとめ







1.パンチ一発のねだん
昨日に引きつづき、北京の日本人駐在員の方から聞いた話。
飲み屋で白酎(パイチュウ)をあおっていたら、隣席の中国人とケンカになったという。お互いぐでんぐでんに酔っぱらっていたので、ケンカの原因など分からない。気付いたら二人とも立ち上がり、大声で怒鳴り合っていた。かたや巻き舌気味の北京語、もういっぽうはバリバリの河内弁だ。目も当てられない大喧嘩だったろう。
そしてヒートアップした相手から一発、殴られた。
ここで日本人の駐在員の方はハッと酔いが覚めた。怒りにまかせて殴り返して、もしも相手が政府関係者やチャイニーズマフィアだったらどうする――。「勘弁してやる」と捨てゼリフを残して立ち去ることに決めた。
ところが相手も「やりすぎた!」と思ったのだろう。なにしろ相手は日本人だ、度胸は無くてもカネはある。公安(けいさつ)にワイロの1つでも握らされたら、間違いなく自分はブタ箱行きだ――。そう判断したのか、相手の中国人は100元札をさっと差し出すと、「すまなかったな」と言って立ち去った。
パンチ1発、100元(約1,300円)かよ――。
その駐在員の方いわく、ひりひりするほっぺたや翌日のひどい二日酔いよりも、「すべてを換金する」という習慣が印象に残っているという。かの国では地獄の沙汰もカネしだいだ。
北京人とカネの逸話は他にもある。
ある日のことだ。現地雇用の中国人社員が、虫のいどころが悪かったのか、朝からイライラと貧乏揺すりを続けるばかりでちっとも仕事をしない。どう注意するべきか悩んだ末、1元札を渡してみた。すると、さっきまで仏頂面だった相手は急ににこやかになり、しゃきしゃきと働きはじめたという。月収6,000元で雇っている社員だ。彼に1元を渡すのは、月収20万円の日本人に33円を渡すようなもの。日本人ならまず機嫌を直さない。
この「1元社員」は極端な例だとしても、北京の人々たちは日本人よりもカネが好きだ。
自分を豊かにするモノというだけではなく、問題解決の手段としてカネをうまく利用している。だからこそ「やりすぎた!」と思ったときは迷わず100元を差し出し、1元を渡されただけで職務上の頼みを断れなくなってしまう。日本の「空気」のように、北京では「カネ」が社会の不文律となっているらしい。北京の人々のカネに対する態度は「執着」を通り越して、もはや「信仰」に近い。
こんな習慣が生まれたのはなぜだろう。





2.カネの起源
中国は、地球上で初めて「貨幣」が使用された場所だ。
世界最古の貨幣は、殷王朝の遺跡から発見されている。中国最古の王朝は夏王朝だが、当時の周辺地域では、原始的な狩猟採集生活を営む人々も珍しくなかった。そんな時代に官僚制度と文字のある「国家」を樹立したのは、そのこと自体がオーパーツのようなものだ。
人類学者ジャレド・ダイヤモンドは、人間の社会体制を規模に合わせて4つに分類している。
・小規模集団(バンド)
・部族社会(トライブ)
・首長社会(チーフダム)
・国家(キングダム)
生産性の低い土地に暮らしている限り、人々は小規模集団として生きるしかない。数十名の血縁社会を維持するのがやっとだ。生物相の豊かな地域で狩猟採集をするか、あるいは原始的な農業を開始するか――とにかく定住かそれに近い生活が可能になって初めて、数百人からなる部族社会を作り出せる。さらに農業の発達により生産活動に従事しない「指導者」を養うことが可能になると、数千人からなる首長社会が生まれる。首長は農業の指揮、軍事の一切合切を任されており、「神託を聞く能力」があると見なされる場合も少なくない。また首長への貢ぎ物とその再配布という、現在の徴税と再分配にも通じるシステムがこの社会では生まれる。
複数の首長社会が衝突・融合を繰り返して人口が増えると、より大規模な灌漑設備の建設やより優れた農法の実践が可能になる。そうして生み出された余剰食糧がさらに人口増加を招き、増えた人口がさらなる余剰食糧を生む。最終的には人口が数万人という規模まで膨れあがり、多数の非生産階級――「官僚」を養えるようになる。国家の誕生だ。実際に十九世紀のハワイではこの方法で王国が誕生している。世界中のあらゆる国家が、こういう進化の道筋をたどってきたはずだ。
中国の古代王朝は、周辺地域に先んじて「国家」を樹立するレベルまで発展した。
当時の書物では周辺民族のことを「野蛮人」と書いているらしい。が、その気持ちは判らなくもない。現代に生きる私たちでさえ、未開の地で暮らす先住民族のことを「遅れた人」だと考えてしまいがちだ。中国の古代王朝の人々が、文字すら持たない周辺地域の住民を蔑視してしまったのも無理なからぬことだろう。
そして中国では早い時代から、周辺地域の平定が行われた。「中国語」は極めて広い地域で使われており、方言も比較的少ない。中国よりはるかに狭いヨーロッパやタイ半島でバラバラな言語が使われているのと対照的だ。極端に早い時代から中国では統一王朝による周辺民族の駆逐・支配が繰り返されていたのに対し、たとえばヨーロッパではマケドニアでアレキサンダーが生まれるまでそのような事態は起こらなかった。この差が、言語の分布の違いとして現代にも残っている。
古代中国の人々は他部族の平定を進めるうちに、言語的・文化的基盤の異なる人々とコミュニケーションを取る必要に迫られた。




そしてカネが生まれた。




たとえ文化が違っても「儲け」の大小は理解しあえる。たとえ言葉が通じなくても、カネがあれば安心だ。物々交換では「欲しいモノ」をうまく伝えられなければオシマイだが、カネに交換しておけば「欲しいモノ」を見つける時まで貯蓄しておける。カネは最強のコミュニケーション・ツールであり、現時点で人類が手にしている唯一の共通言語だ。たとえば「単語」に限って考えてみてほしい。モノやサービスに与えられる抽象概念という点で、「名詞」と「価格」はよく似ている。カネは言語の一種なのだ。

魔王「信じている」

青年商人「わたしの……我ら人間の、何を信じると言うのです?」

魔王「損得勘定は我らの共通の言葉であることを。それはこの天と地の間で二番目に強い絆だ」


「まおゆう」の略称で知られているWeb小説『魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」』は、その完成度の高さから注目を集めた。すでに書籍化されており、全5巻という超大な大河小説だ。上記は序盤のいちばん感動的なシーンのひとつである。作者・橙乃ままれさんは、貨幣の言語性をするどく見抜き、このシーンへと収斂させたのだ。ままれさんの広範な知識と洞察眼には敬服させられる。※今後の作品も楽しみにしてます!



カネは最強のコミュニケーション・ツールだ。そして、文化や言語の違う人々とのコミュニケーションを取る必要に迫られた古代中国で、世界最古の貨幣が生まれた。日本人が「空気」を偏重するように北京人がカネを“信仰”しているのには、そういう歴史的な背景があるのかもしれない。
殷は別名「商」と呼ばれていた。
だからこそ、モノをカネと交換する人々のことを商の国のような人――商人と呼ぶのだ。





3.ブランド品はなぜニセモノよりも高いのか
コミュニケーション・ツールとしての貨幣について、もう一つの事例を出そう。
今回の訪中では、北京の「秀水街」という場所に行ってきた。外国人観光客から人気のショッピング・スポットで、ひとことで言えばニセモノのメッカだ。あらゆるブランド品の偽物が、とんでもない安値で販売されている。著作権にうるさい人なら卒倒しかねない。
すごいのは、売られているニセモノのなかには物質的にホンモノと変わらないものがあるという点。
どういうコトかといえば、たとえばナイキ製品の多くは現在、中国国内の工場で生産されている。ラインの動いていない深夜のうちに偽造団(と、その一味の工場職員)が忍び込んで、ホンモノを作っている設備でニセモノを作ってしまうのだという。ナイキだけではない。中国に生産拠点を持つあらゆるブランドが、同様のニセモノ作成の被害を受けていると考えていい。同じ設備で作るのだから、ニセモノとホンモノに物質的な違いはない。公式のライセンスを受けているかどうかの違いがあるだけで、まったく同じものだ。
こんな事例を聞くと、「ブランドってなんだろう?」と首をひねりたくなる。
見落としてはいけないのは、ホンモノがなければニセモノも売れないということだ。ホンモノを切望する人がたくさんいる。欲しくて欲しくてたまらない人たちがいる。だからこそニセモノが作られるのだ。そもそもホンモノが売れていなければ、ニセモノだって売れないのだ。
ではなぜ、ホンモノにカネを払う人がいるのだろう。
それはブランドへの愛としてカネを払っているからだ。iPhoneを買う人は、Apple社を愛しているからこそホンモノを買う。プラダもヴィトンもシャンパーニュも同じだ。流行に支配されたミーハーな人のことは判らないけれど、コアユーザーはそのブランドを愛しているからこそ、そこにカネを投じる。
たとえば日本企業はいま「いいモノを作っても売れない」と嘆いている。当たり前だ。本気でモノを売りたいのなら、いいモノを作るだけでは不充分で、「愛されるモノ」を作らなければいけない。
そう、「愛」はカネを払う対象となりうるのだ。
たとえばバブル期の日本を思い出してほしい。男が女を食事に誘うときは、1食1万円を下らないディナーをごちそうするのが当たり前だった。まさに「虚飾」だ。いまの若者なら、「うまいもの」が食いたければ築地に行く。わざわざ高いカネを払わなくても、美味しいものを食べる手段はいくらでもある。バブル世代は――ええっと、その、控えめな言い方をして――ただのバカだ。当時の「バナナのたたき売り的消費」から脱却して、いまの若者たちは「無印‐ユニクロ的消費」へとシフトしている。※話が思いっきり脱線した。
なぜ当時の男たちは、高いカネを女のために支払ったのだろう。それはブランド品を買うのと同じく、「愛」を示すためだった。当時の日本では「愛」はお金で買えるものだったのだ。これはカネがコミュニケーション・ツールとして使用された身近な例だといえる。しかし「愛」の証拠として異性にカネを払うのは、人身売買にあまりにも近い。倫理的に非常に問題があるため、現在では廃れてしまった。
ブランド品が売れるのは、「愛」が売買の対象になりうるからだ。私がユービーアイ・ソフトウェアのゲームを正規品で買うのは、開発者たちにカネを払いたいからであって、偽造集団や中古業者に払いたくないからだ。これも一種の愛といっていいだろう。



ブランド品は、あるいは「ステータスシンボル」として購入されている。
では「ステータス・シンボル」とは何かといえば、コミュニケーション・ツールそのものだ。アウディフェラーリは(インディオの酋長の羽根飾りと同じく)、自分の社会的地位を示すための非言語的な意思疎通手段だ。白のベンツに煽られたら、たいていのドライバーは道をゆずる。だって怖いもん。ステータス・シンボルがあれば、言葉がなくてもコミュニケーションが取れる。
つまり「ステータス・シンボル」としてブランド品を購入するということは、カネというコミュニケーション・ツールを、他のコミュニケーション・ツールへと交換しているのだと見なせる。
いずれにせよ、カネがコミュニケーション・ツールであるという結論は揺らがない。カネは愚かな人類が生みだした、最高に知的な共通言語だ。





4.まとめ
以上の話をまとめると、「貨幣のいらない経済体制」が誕生する条件も見えてくる。
その条件とは、カネよりも便利で普遍的なコミュニケーション・ツールの存在だ。そういう意思疎通手段が生まれて初めて、貨幣経済を終わらせることが可能になる。しかし貨幣には4000年の歴史があり、カネに匹敵するようなコミュニケーション・ツールは今後20年内では登場しえないだろう。少なくとも2012年現在には存在しない。この時代にあって「貨幣不要説」を唱えても、社会全体の変革へとつなげるのは不可能に近い。
貨幣の要不要――それは経済体制の問題ではなく、個人の生き方の問題である。



       ◆



北京の街を見て、私は近い将来の東京を思い浮かべた。
そう遠くない未来、日本は北京のようになる。にょきにょきと生えた高層建築のすぐ足もとに、古びたレンガ造りの家々がならんでいる。億万長者とスラムの住人とが、同じ生活圏で暮らしている。指をひと振りするだけで数千万円稼ぐ人のとなりで、一日の売上げが100元(約1,300円)の風船売りが生きている。年収一億円の人にはその人のための店があり、年収50万円の人にはその人のための食料品や生活必需品が売られている。それが北京だ。究極の格差社会であり、日本の未来像だ。
日本的なるもの」の問題点の多くは「精神性を偏重する習慣」に起因する。職業的な能力よりも「空気が読めること」が重視されるのはなぜか。かつての日本企業が「家族的な一体感」を報酬の一部として社員に提供していたのはなぜか。日本のサラリーマンが1円にもならないサービス残業に身をやつして過労死するのはなぜか。
それはカネを「汚いモノ」とみなすあまりに、精神的なモノが重視されすぎているからだ。
たしかにカネがいくらあっても、しあわせにはなれない。いくらカネがあっても友人が一人もいないのは不幸だ。配偶者や家族との愛が冷め切っているのは不幸だ。本当のしあわせを知らないくせにカネだけ持っているやつらは、この世でいちばん惨めな人種である。
しかし、それでも。
私たちは「豊かな生活に必要な金額」について考えを巡らせるべきだ。カネは汚いという発想を少しずつ捨てていくべきだし、「空気」の支配する社会から脱却していかなければいけない。日本人はもっとカネに執着したほうがいい。


カネでしあわせは買えないが、貧乏はそれだけで不幸なのだから。







.