- 作者: アーサー・C.クラーク,Arthur C. Clark,伊藤典夫
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1993/02
- メディア: 文庫
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グローバル化により専業化・分業化が進み、私たちは豊かになる――らしい。
たしかに一人で作業をするよりも、役割分担をしたほうが生産効率は高くなる。家事をすべて嫁に押し付けるより、たとえば皿洗いと洗濯&風呂掃除とを夫婦で分担したほうが効率的だ。経済学には比較優位の原則という考え方がある。専業化・分業化が進むほど、私たちは豊かになる、基本的には。
グローバル化とそれにともなうsuper competitionにより、人類の専業化・分業化は極限まで進むはずだ。そして私たちの豊かさも最大化されるだろう。と、楽観的な経済批評家たちは言う。
しかし、これは大嘘だ。
人の専業化には限界があり、閾値を超えると分業は効率が悪くなる。人々の潜在能力のうち、一部分しか発揮されないからだ。専業化により豊かになるという考え方は農耕民族的だといえる。ところが現在はあまりにも変化が速く、そういう昔ながらの世界観が通用しなくなりつつある。
変化の速い現代では「毎日が新しい日」だ。「同じ日々の繰り返し」を前提としていた農耕民族の社会ではなく、移住生活を営む狩猟民族的な社会へとシフトしている。もちろん私たちの多くは食糧生産には従事しておらず、農耕も狩猟もしていない。
ネット上の「第八大陸」に暮らす遊牧民:私たちはそういう存在になりつつあるのだ。
これからの30年を考える7つのメガトレンド
http://learnbydoing.jp/2012/02/08/megatrend/
この記事に登場する「ネットワーク型組織」こそ、私たちが目指すべき生活様式だ。その理由を、順を追って説明していこう。もくじは次の通り:
1.農耕民族と狩猟民族の精神性
2.ピラミッド型社会の限界
3.ネットワーク型組織が強いわけ
4.第八大陸の遊牧民
1.農耕民族と狩猟民族の精神性
誕生したばかり頃、すべての人類は狩猟採集生活を営んでいた。それが時代とともに植物の栽培や動物の家畜化を覚え、人類はやがて農耕定住生活をするようになった。そういう大雑把な時代の流れから、私たちは「狩猟は原始的」で、「農耕は進歩的・文明的」だと考えがちだ。
では、この二つの社会にはどのような違いがあるだろう。
まず狩猟採集生活は、個人主義的な社会だといえる。なぜなら狩りや漁では、究極的には個人の技量が問われるからだ。たとえば日本の漁民の場合、定置網漁は17世紀ごろにようやく始まったらしい。組織的・社会的な採集活動は、中近世になるまで生まれなかったのだ。基本的には家族単位・小さな共同体単位で漁船を運用し、狩猟採集を行っていた。
ネイティブ・アメリカン、アラスカやシベリアの人々、そしてニューギニアやオーストラリアの原住民――。そういう狩猟採集民族の神話では、個人主義的で自然への畏敬に満ちたストーリーが語られる。狩りの結果は毎日違うし、ヒトにコントロールしきれるものではない。そういう「毎日が新しい日」という生活を営んでいたからこそ、「個人と自然との対話」が神話になった。
一方の農耕定住生活は、組織的な社会だといえる。種まきと刈入れ。灌漑のための土木作業。そういった活動を分業しなければ食糧生産を維持できない。そして農耕により単位面積あたりの採取カロリーが急増し、出産間隔の短期化、余剰食糧の備蓄が可能となった。さらに、分業を潤滑に行うための指導者階級――司祭や王が誕生した。現在まで続くピラミッド型組織の誕生だ。
社会体制は人々の精神性にも影響し、神話のなかに顕在化している。狩猟民族の神話に比べて、農耕民族のそれは組織主義的で、自然の克服を是としているものが多いという。たとえば教訓的な神話を比較してみると、狩猟民族では山の神・海の神(=自然環境のメタファー)に対する不敬が禁忌とされるのに対し、農耕民族の神話では仲間への裏切りや規律を破ることのほうが重い罪だとみなされる。
朝起きて畑に出て、帰宅後は保存食を作る。春が来れば草木が芽吹き、秋は収穫で忙しくなる――。そんな「終わらない繰り返し」のなかで生きていたのが農耕民族だ。農耕定住生活では、「同じような毎日」を前提とする保守的な精神性が育まれた。
農耕民族は人口と組織力という点で狩猟民族に勝っていた。そのため狩猟民族を駆逐することができた。ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』第二章冒頭には、チャタム諸島に暮らしていた狩猟採集民モリオリ族の悲劇が描かれている。彼らは、ニュージーランド北島から侵略してきた農耕民マオリ族に皆殺しにされてしまった。農耕定住生活が世界中に広まったのは、それが狩猟採集生活よりも「いい社会」だったからではない。「戦争に強い」という一点で優れていたために、農耕定住というミームは世界を掌握した。
重要な点は、この二つだけが人類の生活スタイルではないということだ。
たとえばニューギニアの原住民には、移住生活をしながら農耕をおこなう人々がいたらしい。農地が複数存在し、季節にあわせてそれらの地域を移住しながら作付け・刈入れを行っていた。また典型的な狩猟民族とされるアボリジニも、掘り返したイモの茎を(次に採集に訪れた時のために)埋め戻すという習慣を持っていた。農耕が始まる一歩手前だといえよう。さらに季節によって農耕定住生活と狩猟採集生活とを交互に行う民族もいたらしい。農耕をするかどうかは、その土地の豊かさによる。一度は農耕生活を営んでいた部族が、生産性の高い地域に移住したことで狩猟採集に戻るという現象も確認されている。豊かな生物相に恵まれた地域では、定住生活をしながら狩猟採集を行う人々もいた。これらに分類できない「遊牧」という生活スタイルもある。
農耕定住生活が、狩猟採集生活よりも「優れていた」とする客観的な指標はない。
人々は自らの暮らす環境に合わせて、最適な生活スタイルを選択していただけだ。ユーラシア大陸は東西に長いため、気候のよく似た同緯度地域間で作物や家畜が伝播しやすかった。しかし南北に長いアフリカ大陸や南北アメリカ大陸では作物の伝播に時間がかかり、したがって農耕の誕生・拡散に時間がかかった。
生物相や大陸の形状――周囲の環境が、私たちの生活様式を決定している。
文庫 銃・病原菌・鉄 (上) 1万3000年にわたる人類史の謎 (草思社文庫)
- 作者: ジャレド・ダイアモンド,倉骨彰
- 出版社/メーカー: 草思社
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2.ピラミッド型社会の限界
現在の私たちが生きる社会は、ピラミッド型の社会だ。
国家元首をトップに置き、その下に様々な所得階層・社会的階層を作って生活している。国家だけではない。大企業や、巨大な政治団体――あらゆる「組織」が、上意下達の形式を採っている。
現在のピラミッド型社会は、農耕定住生活の究極型だといえる。食糧の生産効率が極端に高まった結果、専業化・分業化がどこまでも進んだ。「考える仕事」は強権のリーダーに一任して、人々は自分に割り当てられた役割を淡々とこなしている。農耕民族的な世界観に染まってしまうと、専業化・分業化に疑問を感じなくなる。
しかし農耕民族のピラミッド社会は、「同じ毎日が繰り返される」ことを前提としていた。ところが現在は変化があまりにも速く、「毎日が新しい日」と言っても差しつかえない。だからこそピラミッド型社会は不適切になり、上意下達の組織は少しずつ解体されているのだ。
※ところで私たちは「変化の速い時代」という言葉を、自明のものとして受け入れている。しかし「変化」とは、何の・どのような変化を意味しているのだろう。技術の進歩だろうか。それともグローバル化による多文化の衝突だろうか。
※狩猟民族の生活では、毎日新しい獲物との出会いが待っていて、毎日違う収穫を持ち帰っていた。だからこそ「毎日が新しい日」だった。そして現在、情報技術の進歩により私たちは毎日新しい人物と出会うことが可能になった。人物だけではない。会社帰りにJR新宿駅から小田急へと乗り換える――そのわずかな距離で、一体いくつの広告を目にするだろう。ケータイを開けば、今日も新しい仕事の情報が入っている。毎日新しい商品・サービス・プロジェクトと出会いながら、私たちはこの時代を生きている。たとえ技術の進歩が頭打ちとなり、あらゆる文化が融合したとしても、もう「同じ毎日の繰り返し」には戻れない。これが私なりの「変化」の定義だ。「変化」は不可逆的に加速していく。
3.ネットワーク型組織が強いわけ
冒頭で紹介した記事では、ネットワーク型組織について次のように説明している。
ネットワーク型の組織が生まれる最大の理由は、「変化のスピードが早い」からという一言につきます。(中略)そこにネットによる情報過多が恒常化し、下記のようなことが起こっています。
・スピード化によりトップの情報収集、意思決定の遅れが全体へのインパクトが大きく、中央集権型では対応できなくなってきている
・情報が多いため、本来乖離しているはずの経営トップと現場の知識格差が狭まる(情報格差ではなく、知識格差。今の時代MBAの知識はネットで学べる。経験は別)
・スピードが早く問題が複雑化することで目の前のことを淡々とこなす作業から、さまざまなことを平行して進める必要がでてくる(決められたことをやるだけでは対応できない)
だが、この解説だけでは不充分だ。なぜネットワーク型の組織は、中央集権型の組織よりも「変化」に即応できるのだろう。なぜトップとボトムとの知識格差が縮まると、ネットワーク型の組織が生まれるのだろう。そしてなぜ様々な案件の同時進行は、中央集権型よりもネットワーク型のほうが上手くいくのだろう。こちらの記事は「ネットワーク型組織は優れている」ことを自明としており、これらの疑問について充分に考察していない。
結論から言えば:ネットワーク型組織が優れているのは、人間が「本当の能力」を発揮できるからだ。
人の能力とはなんだろう。
たとえば「単純作業をミスせずにこなすのが得意」な人がいるとする。作業能力が高い人だ。そういう人には、作業能力を要する仕事(工業製品の品質チェックとか)を割り振りましょう:これが今までの考え方だった。同様に、創造性の高い人には創造的な仕事を、交渉が得意な人には渉外の仕事を、人間関係の調整が得意な人には管理職の仕事を――それぞれ与える。これがピラミッド社会における役割分担であり、農耕民族的な考え方だ。
グローバル化によって専業化が進むと主張する人たちは、こういう「人と仕事とを一対一で結びつける」という考え方に染まっている。骨の髄まで農民なのだ。
しかし人間は多面的だ。
作業能力だけしか持たない人はいないし、創造性だけの人もいない。交渉能力も管理能力も同じだ。一つの体に、それらの能力を共存させている。たとえば作業能力45%、創造性30%、管理能力18%、その他もろもろ7%――という具合に。パラメーターは人それぞれだ。様々な能力があわさって、100%の一人の人間ができあがる。
こういう能力のうち、一つだけを伸ばすのは病的だ。サヴァン症の例を出すまでもないだろう。伸ばした能力が社会的に認められるとは限らない。プロスポーツ選手のように大金を手にできる能力もあれば、声優オタクのダメ絶対音感のように、なんの役にも立たない能力だってある。そもそも私たちは生まれつきたくさんの能力を持っているのに、どうして一つを残して他のすべてを殺さなければならないのか。
グローバル化によるSuper competitionにより、一つの能力を異常に発達させた人が――ビョーキの人だけが大金を手にするようになるだろう。それが「豊かな社会」なのだと、脳天気な経済評論家たちはいう。しかし私たちが本当に考えなければいけないのは、“正常な”一般人が幸せになる方法だ。社会を構成しているのは圧倒的多数の「負け組」である以上、凡人が豊かさを手に入れる方法を考えなければいけない。
作業能力45%、創造性30%、管理能力18%、その他もろもろ7%――という人がいるとして、「あなたは作業能力が高いから、単純作業の専門家になりなさい」と言うのは非効率だ。その人の持っている能力の半分も活かせていない。クッキーの型抜きをするように、もともと準備された「社会的役割」に人間を押し込めるやり方だ。せっかく複数の能力を持っているのだから、それに見合った仕事を割り振ればいい。単純作業45%、創造的な仕事30%、管理職の仕事18%――という要領で。
完璧なヒトはいない。
創造性を30%持っている人は、25%持っている人、45%持っている人、そういう人たちとチカラを合わせて、100%にすればいい。作業能力も、管理能力も同じだ。不足部分を補完し合うことで、私たちは一人では為しえないパフォーマンスを発揮できる。人材活用とは、人材を活かして用いるということだ。最近では「用いる」という部分が強調されすぎて、「活かす」ことが軽んじられている。
もちろん人間はそんなに単純ではない。50%の能力を持つヒトが二人揃ったからといって、100%の仕事ができるとは限らない。10%、5%のパフォーマンスになってしまうことも珍しくない。そういう「ダメな組み合わせ」を避けて、一人ひとりが最高のパフォーマンスを発揮できるチームを作ること:それが人を「活かす」ということだし、本当の人材活用であるはずだ。
いいチームと巡り会うことで、私たちは完璧な存在になれる。専門家になる必要はないし、苦手な能力を「無い物ねだり」する必要もない。自分のパラメータを正しく理解して、それを活かせる仲間を探すべきだ。あなたは、あなたのままでいい。
完璧なヒトなんて、いないのだ。
しかしピラミッド型組織では、一つの役職のなかで「完璧」であることを求められる。たとえば日本の家電メーカーではテレビが不採算部門になっている。テレビの開発に携わっているのが優秀な理工系のエリートたちであるにも関わらず、だ。
優秀な技術者を「一円も価値を生まないセクター」に幽閉する愚行
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20120204
なぜなら彼らは「研究職」として完璧であることを求められるあまり、潜在能力の大部分を犠牲にしているからだ。もしかしたらマーケティング能力や財務管理能力に高いポテンシャルを秘めているかもしれない。が、分業の進んだピラミッド型組織のなかで、それらは商品企画部や財務部の「専業」となっている。専業・分業がある一定以上まで進むと、人間の潜在能力が塩漬けにされてしまう。
一方、ネットワーク型の組織ではそのような能力のロスが生じづらい。一人ひとりの仕事の幅が広いため、持てる能力をすべて発揮できる(というか発揮せざるをえない)。またお互いの能力を補完しあう相手を見つけるのも簡単だ。ピラミッド型組織では上意下達で配属先が決まってしまい、「潜在能力を発揮できるチーム」となかなか巡り会えない。しかしネットワーク型組織では横のつながりでチームが形成されるため、「すばらしいチーム」が生まれやすい。
ネットワーク型の組織は、人間の潜在能力をあますことなく発揮できる。だからこそ、どんな変化にも即応できるし、様々な案件を同時進行させるのもたやすい。かつては知識の格差がボトルネックとなっていたが、情報化によりそれが無くなった今、ネットワーク型組織はますます存在感を増している。
繰り返しになるが、能力のパラメーターは人それぞれだ。この記事では「作業能力」とか「創造性」だとか、分かりやすい言葉を使った。しかし、これらは便宜上のものにすぎないし、「能力の種類」は無限だ。ヒトは多様なのだ。そして他者と協力しあえば、能力を補完しあえる。それぞれのパラメーターに見合った仕事を分担できる。
これが本当の分業だ。
会計や金融の専門家になる必要はないし、ITの専門家になる必要もない。それらはコモディティにすぎない。病的なやつらに仕事を奪われるのが目に見えている。不毛な競争に身を投じるよりも、自分の能力をもれなく発揮することのほうが重要だ。
私の専業は「私」です。
そう言えるようになることこそ、理想ではないか。
4.第八大陸の遊牧民
人類の歴史は狩猟採集から始まる。周囲の環境にあわせて生活様式は発達していった。移住か定住か。狩猟採集か、それとも農耕か。そのどちらでもない遊牧か。地域ごとに、人々は最適な生活様式を選択した。そのなかで農耕定住生活が世界を席巻したのは、たまたまた戦争に強かったからだ。
現代のピラミッド型社会は、農耕定住生活の究極型だといえる。農耕が生まれてから1万年かけてたどり着いた社会体制だ。しかし農耕定住が「同じような毎日」を前提としていたのに対し、私たちは「毎日が新しい日」という時代に生きている。ピラミッド型の社会では、人々は社会的役割と現実との乖離に苦しめられ、もはやしあわせにはなれない。農耕定住生活は役目を終えた。
今後はネットワーク型の組織が台頭するだろう。一人ひとりの裁量が大きく、能力をあますところなく発揮できる組織だ。人々の生活が「個人」を基盤とするようになり、そのうち「組織」の境界さえもあいまいになっていくはずだ。個人主義的で、狩猟民族的な社会だといえる。1万年も慣れ親しんだ「生活様式」が変わろうとしている。IT化はただの技術革新ではないのだ。
グローバル化・IT化はただの社会変化ではない、人類史上の大事件だ。
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20111109/1320829167
それまでは組織に頼らなければ生存できなかった人類が、インターネットを得たことで、個人での自給自足が可能になった(ように見える)。そんな現状をさして、人気ブロガーのMGさんは「第八大陸」という言葉を使っている。まるでネット上に新天地が――八番目の大陸が現れたかのようだ、と。
女。MGの日記。
http://d.hatena.ne.jp/iammg/
もちろん「自給自足」は比喩的な表現だ。インターネットの世界に農作物は育たない。第八大陸の住民は、農耕民族でもなければ狩猟民族でもない。どちらにも分類できない「遊牧民」と言うべきだろうか。人類がこれまで経験したことのない、まったく新しい生き方をしようとしている。
職業:私
生活:第八大陸の遊牧民
――それが未来の私たちだ。
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