「お話の価値は、それが事実かどうかではなく、お話の背景に流れている思想や価値観、真実によって決まる」という記事を昨日書いた。
うそをうそと見抜けない人たちへ/物語とのつきあい方
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20120124/1327397749
すると、「根も葉もないウソを擁護すると“叩き・炎上・祭り”が横行する」というコメントをいただいた。スマイリーキクチさんのように根拠もなく名誉を棄損されたり、(証拠性に乏しい)軽犯罪の告白で社会的に抹殺されたり。そういう殺伐とした空気が蔓延してしまう。だから、ウソを本当のこととして語るのは悪だ――。
たしかに最近の叩き・炎上は目に余る。やっている側は「祭り」として楽しんでいるのかもしれないが、やられた側はたまったものではない。「ウソを楽しむ」のと「そのウソで誰かを攻撃する」のは、まったく別次元の問題だ。
ネットが発達する以前から、叩き・炎上はあった。まだ逮捕段階の(有罪かどうかもわからない)容疑者の卒業文集が全国ネットで放送され、事件関係者の家をマスコミの三脚が取り囲み、子供を殺された親に「いまどんなお気持ちですか」とレポーターがマイクを向ける。犯罪報道はマスメディアによる“炎上”であり、それを喜ぶ視聴者と一緒になって名もなき個人を攻撃している。
こうした炎上の構図は、政治家や芸能人のスキャンダル報道でも同じだろう。彼らは政策や芸で評価されるべきであって、下半身事情などあまりにも無価値だ。
ひとたび「この人を叩いていいよ」という空気が醸成されたら、蜜に群がるアリのように「正義漢」たちが集まってくる。その人を徹底的に晒しものにし、貶める。袋叩きにする。
これは現代の私刑だ。残虐刑だ。
◆
誰かを袋だたきにする刑罰は、古くから世界中にあった。磔刑(たっけい)を持たない文化のほうが珍しいし、社会的に「叩いていいヒト」だと見なされた個人は文字通り吊るしあげられ、なぶられて、十字架のうえで野垂れ死にした。
たとえば日本には「鋸挽き(のこひき)」という刑罰があった。罪人を首から上だけが出るように道端に埋め、横に竹製のノコギリを置いておく。そして通行人や被害者の親族が、竹のノコギリで少しずつ首を切っていき、罪人をゆっくりと絶命させる。苦痛を長引かせるために、罪人を逆さづりにして股から切っていく場合もあったという。この「鋸挽き」は江戸時代まで続いた。
また中国には悪名高い「凌遅刑」があった。生身の人間の肉を少しずつ削ぎ落し、長時間苦痛を与えて死に至らしめる刑罰だ。謀反や反乱を企てた者に対する罰であり、もとは北部の騎馬民族の文化だったものが、統一王朝の成立により広まったらしい。村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』には、満州国の蒙古国境で生きたまま皮を剥がれる日本兵の話が登場する。凌遅刑の源流になった文化に着想を得たのだろう。凌遅刑は清代まで残っていた。
さらに古代ローマ帝国では円形劇場で剣闘士に殺し合いをさせていた。なかには自ら志願して剣闘士になる者もいたが、多くは戦争で捕獲した捕虜や奴隷――剣奴だった。(ただし剣闘士の決闘は時代が下ると興行的な色合いが強くなり、死亡率は下がっていった。「どちらかが死ぬまで闘った」というのは後世の誇張だという)そして時には、なんの訓練も受けていない罪人が刑罰として闘技場に放りこまれた。敗者の血しぶきが飛ぶと、集まった観衆は熱狂した。
「誰かを袋叩きにする・なぶりものにする」という文化は、古くから世界中に見られる。おそらくこういう残虐さはヒトの本能に近い。誰の心の中にもあるモノなのだ。
ところで、こういう残虐なものを楽しんでいるとき、人は「相手」と「自分」のどちらに目を向けているのだろう。もちろん視線は、血を流し苦痛に顔を歪める「相手」へと向けられている。けれど心はどちらを向いているのか。
ヒトの心は、共感や感情移入といった機能を持っている。したがって苦しむ「相手」に目を向けてしまえば、ヒトは「祭り」を楽しめなくなる。「相手」の苦しみを自分のものにしてしまうからだ。感情移入はヒトが社会的な動物として進化させた心理の一つだ。
したがって凄惨な「祭り」を楽しんでいるとき、人は自分に目を向けている。抵抗できない相手をなぶるとき、人の心には優越感が生まれる。悲鳴を上げる人々を遠くから眺めれば、まるで神のごとき全能感にひたることができる。残虐刑を楽しむとき、人は「相手」のことなんてこれっぽっちも見ていない。自己愛におぼれているだけだ。
磔刑に処された罪人にツバを吐きかけるとき、竹のノコギリを挽くとき、肉をそがれた人の悲鳴を聞くとき、負けた剣闘士を「処刑せよ!」と叫ぶとき――。そして、画面の向こうの誰かを侮辱するとき、ヒトは圧倒的に優位な立場にいる自分に陶酔している。
なぜなら、それがヒトの本能だからだ。
◆
誰かを袋叩きにして楽しむのは、ヒトの本能に刻み込まれた行為なのだろう。けれど、本能のままに行動するのは動物のすることだ。畜生のすることだ。本能をコントロールできることこそ、人間らしさではないか。
ヒトには睡眠欲があり、食欲があり、性欲がある。
※余談だけど、いちばん抗うのが難しいのは睡眠欲だと思う。
けれど、そういう本能があるからといって、電車のシートで横になって眠ることは許されるだろうか。スーパーで会計前の菓子を子供に食べさせてしまう親がいるけれど、可哀相に、その子は動物のような人に育つだろう。そして性欲のおもむくまま道端で脱げば犯罪になる。本能をコントロールできないのは、それだけで反社会的で犯罪的だ。
炎上や叩きに加担する人たちは、自分たちを正義の実行者だと考えているようだ。疑わしきは罰するという原則にもとづいて小さな犯罪の芽を摘み、社会を浄化しているのだという。それが警察の仕事だということを、彼らは忘れているのだ。
そもそも炎上や叩きに、社会を良くする効果はない。
よーするに、たとえばさぁ――。
未成年飲酒をした高校生を社会的に抹殺したら、この国の景気がよくなりますか。女子高生と付き合っている大学生を「未成年姦淫だ!」と叩いたら、対中関係がよくなるのですか。この国の財政状態が改善しますか、官僚と重厚長大産業との馴れ合いが浄化されますか。いわゆる“○○ムラ”を解体できますか。
――できねえだろ?
個人を叩いても何にも変わらないし、「ガス抜き」にしかなっていない。これはネットだけに限らない。マスメディアによる炎上も同じだ。小さな犯罪に手を染めた個人を潰しても、後続が現われるだけだ。もしも「ネットの発達と飲酒運転の減少の因果関係」を証明した研究があるなら教えてほしい。炎上は抑止力たりえない。犯罪を無くすには犯罪の土壌となった社会構造を変えるしかないし、官民癒着を無くすには選挙制度を変えるしかない。
そしてその力は、いまの炎上にはない。
誰かを「叩けるから」という理由で叩くのは、本能をコントロールできない人間のすることだ。畜生どものすることなのだ。
ローマ帝国は「パンとサーカス」で滅びたと言われている。
ラテン語の「サーカス」は娯楽全般のことを指し、つまりコロッセオでの殺し合いを意味していた。皇帝たちは治世への不満をそらすため、ローマ市民に小麦粉と血みどろの娯楽を提供した。それらに熱中した市民たちは政治への関心を失い、ローマはゆっくりと衰退していった。
大きな問題から目をそらし、小さな個人を私刑に処する。そんな今の日本人を見ていると「滅びるのも時間の問題だよな」と痛感する。「パンとサーカス」で滅びたローマにそっくりだ。
ここまで書いてきてこんなことを言うのもアレだけど、私は「炎上させること」そのものは否定しない。何かを袋叩きにするのはヒトの本能であり、野性的な部分だ。コントロールはできても無くすことはできない。
ただし「相手を間違えるな」と言いたい。
たしかにいまの炎上には世の中を変えるチカラはない。けれど将来の炎上はどうだろうか。
内なる野性は世界を変える。
呪いの言葉は、正しい方向にむけようぜ。
※ご参考
匿名の人々が世界を動かす時代/ハッカー集団“アノニマス”の正体
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20111114/1321267753
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