デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

うそをうそと見抜けない人たちへ/物語とのつきあい方

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日本人にとって幸運だったのは、幕末から明治にかけての知識人たちが抜群の翻訳センスを持っていたことだ。mindを精神と訳し、nerveを神経と訳し、bookkeepingを簿記と訳した。旧来の日本には存在しなかった概念を日本語化し、私たちの身近なものにした。
しかし「概念」は、そもそも一言で表せるようなものではない。「愛」という言葉を知っている人がほんとうの愛を知っているとは限らないし、「成長」という言葉を連呼する人に限って子供っぽいものだ。言葉はこの世界を小さく切り取った記号にすぎない。どんなに優れた翻訳でも、言葉を知っているだけでは意味がない。この世界の真実を描きだすには、一言、二言ではとても足りない。
だから私たち人類は、物語らずにはいられない。
フィクションとは、ウソを通じて真実を暴くモノだ。戯曲を書くなら「ウソみたいな本当の話」よりも「本当みたいなウソ」を書きなさい――と言われている。意外性や精緻さでは、フィクションは到底ノンフィクションに敵わない。なのに、なぜ私たちは作り話に胸をときめかせるのか:そこに真実があるからだ。
複雑すぎる現実をうまく省略し、戯画化して、真実だけを浮かび上がらせる。それが「物語」のチカラだ。
そんなことを、こちらの記事を読んで思った。


実話として流通する嘘に大喜びする愚民島国大和のド畜生
http://dochikushow.blog3.fc2.com/blog-entry-2176.html


ネットには、ウソかホントか分からない与太話が溢れている。それらの信憑性を疑うことなく心酔するのは危険ではないかと、このブログの著者さんは問題提起している。不誠実な作り話は嫌いだと、こちらの記事には書かれている。
この記事に対して「ウソでも楽しければいいじゃん!」という反論が噴出した、らしい。自分の感動したお話を批判されたら、まるで自分まで批判されたような気持ちになる。その感情はよく分かる。
「ウソ」であることは悪か、それとも善か――。
この議論のなかでも、とくにこちらの記事が興味深かった。


実話と紛らわしいフィクションを叩く人を見て危惧する事 - Fukuma's Daily Record
http://fukuma.way-nifty.com/fukumas_daily_record/2012/01/post-f478.html


たとえば途上国の悲惨な現状を伝えたり、性犯罪の闇を暴いたり――。内容をありのまま伝えるわけにはいかないモノも、世の中にはある。そういう時には少しずつ脚色を加えて語るのが普通だ。ブロガーのプロフィールとか。 それを「ウソだっ!」という理由だけで否定するはよくないと、こちらの著者さんは言っている。物語を通じて見えたはずのものが、見えなくなるから。



世の中には、「ウソかホントか」で価値の変わるモノがある。
たとえば、あなたがツイッターを眺めていたら、TLにサーバーラックの下敷きになって動けない、出血がひどい、誰か助けて!」というつぶやきが流れてきたとする。この時、あなたはどんな行動を取るべきだろう。
常識的に考えれば「どうせネット上のウソに違いない」と無視するのが賢いやり方だ。こんな与太話を真に受けて、リツイートしまくって、一緒になって助けを求めてしまったら、あなたは「釣られたアホ」になってしまう。誰だってアホにはなりたくない。
けれど、もしもこの話が本当だったとしたら?
数日後の新聞に「サーバーラックの下敷きになった遺体が発見され……」と書かれていたら?
あなたはものすごい後味の悪さを味わうはずだ。「釣られたアホ」と「ヒトを見殺しにしたバカ」のどちらがマシだろう。
ウソかホントか分からない話を目にした時、あなたはあなたの正義にしたがって行動するべきだ。その結果釣られることになったら、釣ったヤツを全力で叩けばいい。本当の悪者は釣られたアホではなく、ハタ迷惑なデマを垂れ流しにしたヤツだ。
そしてウソだろうとホントだろうと、お話から受け取る感想は誰だって違う。そのお話がたとえウソだろうと、あなたが感動したという事実は変わらない。ネット上の与太話に感動した人は、堂々としていればいい。「俺はこの話で感動した、それのなにが悪い」と胸を張ればいいのだ。そして、ちょっとだけ好奇心を持って「もっとデキのいい作り話」を探してほしい。
すぐれたウソには真実があり、真実はあなたを変える。



フィクションを「事実でない」という理由だけで批判してはいけない。そのウソの背後にある真実の重さで価値を決めるべきだ。


実話のフリした嘘話にそれでいいじゃないかを、良しとしたくない理由。島国大和のド畜生
http://dochikushow.blog3.fc2.com/blog-entry-2178.html


このことはブログ「島国大和のド畜生」の著者さんも重々承知していらっしゃる。だからこそ一言目に「不誠実な作り話は大嫌い」と書いていらっしゃるのだし、その後の記事では「そもそも嘘付きたければ、フィクションですと一言書けばいいんです。それで価値が減じるような話は、もともと大した話じゃない」とおっしゃっている。背後にある真実があまりにも軽くてくだらない物語は、うそだとバレた瞬間に無価値になる。
大事なのは「ウソかホントか」ではなくて、物語とのつきあい方なのだ。


機動戦士ガンダムSEED』監督・福田己津央氏「声優を目指してる方、ゲームやアニメばかり見ても何の役にも立ちません」
http://yaraon.blog109.fc2.com/blog-entry-6792.html


フィクションは何の役にも立たないかもしれないが、それでも、私たちの人生の一部になる。福田監督の「いい物語を沢山読むのは大切です」という言葉は、つまりそういうこと。自分には経験できないはずの物語を、自分の血肉にしていきなさいということだ。優れたお話は人を変える。
ネットで「いい話」と出会ったときは、そのお話が事実かどうかよりも、そのお話が自分をどう変えたのか――小さな変化だったのか、それとも大きな成長だったのか――を考えるべきだろう。そこに込められた「真実」を評価すべき。
これはネット上の都市伝説に限らない。お話を通じて自分自身と向き合い、この世界に想いを馳せること。
それが物語とのつきあい方だと私は思う。



嘘をもうひとつだけ (講談社文庫)

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