読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

ソーシャル時代のトゥルーマン・ショー/退屈な日常にさよならを

冗語
このエントリーをはてなブックマークに追加
Share on Tumblr

※映画『トゥルーマン・ショー』のネタバレを含みます。





人生はおおむね平凡で、窮屈で、退屈だ。
たとえば寝不足の朝、あなたが駅のエレベーターに駆け込もうとしたら、先に乗っていた男子高校生に目の前でドアを閉じられてしまう。おかげで一本逃し、10分後の満員電車を使うハメになる。気分は最悪だ。つり革をどうにか確保したけれど、正面のシートには若い親子。子供が足をぶらぶらさせるから、あなたは何度もすねを蹴られる。母親が「やめなさい」と諫めても、三歳ぐらいの少年はいっこうに聞かない。こんな時間にガキなんか乗せるんじゃねえよ。あなたが胸の中で毒づいたとき、高らかにケータイが鳴った。すぐ隣の五十代後半のオッサンが通話を始める。マナーのかけらもありゃしない。こういうジジイに限って「最近の若者は――」とか偉そうにくだを巻くんだ。ファ●ク、みんな死ねばいい。ねっとりした車内の空気のせいで、あなたのいらだちは最高潮だ。気を紛らわせるためにケータイを取り出し、あなたはインターネットに接続する。SNSを片っ端からのぞき、知人の書き込みに「イイネ!」を叩きつける。それが済んだら、いつもヲチしている「ネットの人」の動向をチェックする――。
ここで疑問が生じる。
なぜ私たちは赤の他人の動向をチェックせずにはいられないのだろう。
なぜ、ネットを活躍の場にしている「ほかの凡人」のことが気になるのだろう。もちろん政治家や大企業の経営者、芸能人にスポーツ選手。そういう注目に値する人たちもヲチの対象になる。しかし一方で、「ネットで有名だからこそネットで注目される」というトートロジカルな属性の人もいる。そういう人たちのTwitterアカウントをフォローして、日常をのぞき見してしまうのはなぜだろう。彼らの人生を追いかけずにいられないのは、なぜだろう。
情報技術の発達により、今までにない生き方をしている人たちがいる。「ネットの人」だ。彼らがどんな人々なのかは、数々の論考やインタビューがある。なにを考え、なにを喜びとして生きているのか、彼ら自身の言葉で語られている。
では。
「ネットの人」の言葉を受けとる側の私たちについて、充分な考察があるだろうか。ヲチする心理は、いったいどこから生まれるのだろう。ソーシャル時代、露出社会、パブリック・マン――。そんな言葉が飛びかう今だからこそ、ちょっと考えてみたい。



       ◆



いま「新しい生き方」が次々に生まれている。


佐々木俊尚が5人の若者に聞く『21世紀の生き方』
http://bit.ly/zGd9X6


定職らしい定職につかず、あまつさえ「自宅」と呼べるものすら持たない。一昔前なら不可能だった生き方が可能になりつつある。一種の才能に恵まれた人々が、ネットを舞台に活躍している。注目を集め、その知名度を武器に生き抜いている。
最近ではid:elm200さんの「パブリック・マン宣言」が記憶に新しい。自分の生活を隅々まで公開してしまうことにより、新しい生き方のモデルケースを作れるのではないか――ハッキリ言って、ぶっ飛んだ考え方だ。しかし未来志向の考え方でもある。これで食い詰めて飢え死にするのなら、それを実況してやるとelm200さんは豪語なさっていた。「ソーシャル餓死」だそうだ。たしかに、そうなる前に知人やファンの誰かがカンパをしそう。ヲチられることそのものをelm200さんは「職業」にしようとしている。


パブリック・マン宣言
http://d.hatena.ne.jp/elm200/20120215/1329281346


elm200さんだけではない。以前から、こういう「新しい生き方」を模索している人たちはいた。なかでも急先鋒はハンドルネームMGさんこと玉置沙由里さんだ(id:iammg)。彼女の以前のツイートが今でも印象に残っている。いわく、新聞記者は記事が売れないと嘆くけれど、ソーシャル時代では「記事を売る」という発想そのものが遅れている。書いた文章を売るのではなくタダで提供してしまって「信者」を増やし、信者からのお布施で食いつなぐのがソーシャル時代の稼ぎ方だ――。というようなコトをつぶやいていらっしゃった。※あとで過去ログから探しておきます。印象的かつ、あいかわらず適確なご指摘だと思う。
この考え方でも、やはり「注目を集める」ことそのものを「生きる手段」にしている。
こうした「新しい生き方」の先鞭をつけたのは、間違いなくid:phaさんだろう。彼は「ニート」を公言しており、すがすがしいほどに働こうとしない。徹底的に勤労を避けようとなさる姿はあまりにも潔くて、カッコよささえ感じてしまう。phaさんの生き方もまた、インターネットの存在により初めて可能になった生き方だ。発言のおもしろさから注目を集め、そのこと自体を「生きるすべ」になさっている。



こういう「注目される生き方」が可能になったのは、裏を返せば「注目する人々」がいるからだ。私たちが――圧倒的多数の「読者」が、elm200さんやMGさん、phaさんの生き方を追いかけているからだ。彼らだけではない。「ネットの人」から目を離せないからだ。
そこで冒頭の疑問に戻る。
なぜ私たちは、彼らに注目してしまうのだろう。「他人の人生」に興味を持たずにいられないのだろう。



       ◆



ヒトは「物語」を求める生き物だ。
あらゆるヒトの社会は物語を持っている。神話、説話、おとぎ話――。古今東西を問わず、物語を持たない社会は存在しない。物語は、ヒトにとって無くてはならない存在だ。私たちは空気や水のように「物語」を摂取して生きている。
なぜなら物語は、人生の縮図だからだ。
ヒトが「好ましい」と感じる生き方、美しいと感じる生き方、そういう生き方には根源的な部分で共通の構造がある。だからこそ、その共通構造が抽出され、物語というかたちに結晶化する。もちろん物語は「いい生き方」のカタログなどではない。「よくない生き方」が反語的に表現されることもあるし、「よくない」と分かっていながらやめられない人間の業に慰めを与えるのも、物語の役割だ。
日本の昔話から例をひけば『鶴の恩返し』は典型だろう。老夫婦は娘と「機織りをするところを絶対に見ない」という約束をしていた。見るなよ、絶対に見るなよ!? でも見ちゃう。お前らダチョウ倶楽部か。この物語は「約束をやぶってはいけない」という教訓を与えるものであり、同時に「やぶってしまうヒトの業」に許しを与えている。
同じような物語は世界中にある。
物語に約束が登場したら、かなりの高確率で破られる。不義を働いた人物には、だいたいいつも罰が与えられる。理不尽な不幸に泣かされて、ちょっとした善行が大成功につながる。物語には、いくつもの共通のプロットが存在している。なぜならヒトは「そういうもの」だからだ。ヒトという生き物を観察した結果として現れるのが物語だからだ。生物学的に同じ生き物である以上、語られる物語が似通ってしまうのは当然だ。
そして物語は、フィクションでなくても構わない。私たちがまだ狩猟採集生活をしている時代から、少年たちは父の経験談を自らの血肉としていただろう。少女たちは母の言葉に耳を傾け、自らの将来を占っただろう。文字と印刷技術が発明されてからは、時代の壁すらなくなった。歴史上の偉人の物語に私たちは心を震わせ、人生に必要なあれこれを学んでいる。
私たちが物語を摂取するのは、教訓を得るためだろうか?
それとも自分と似たような考え方の登場人物に感情移入して、自分は一人ではないと確認するためだろうか?
おそらく、そんな目的は後付けにすぎない。物語を摂取することに、理由も目的もない。食事をしなければ腹が減るのと同じように、生理現象として私たちは物語を摂取せずにはいられない。「物語を通じて誰かの経験を共有したい」そういう衝動を、ヒトは生まれながらに持っているのだ。
その衝動が技術の伝播・拡散をうながし、文明を成長させる原動力となった。
文明は、合目的的には進歩しない。グーテンベルグが活版印刷を発明したのは聖書の教えを広めるためであって、二次元の萌え絵が世界を席捲するなんて想像していなかった。エジソンが蓄音機を発明したのは速記者代わりにするためであって、音楽の記録に最適だと認めたのは晩年になってからだ。しかしエジソンの発明はその後テープレコーダーを生み、ウォークマンを生み、iPodを生み、iPhoneiPadへとつながった。世界中どこにでも一夜で行ける時代を、ライト兄弟はたぶん想像していなかった。彼らは、ただ空が飛びたかっただけだ。
技術や経験――広義の「物語」は人々に伝播して、文明の進歩をもたらす。が、「進歩させよう」として広まるわけではない。合目的に伝播するわけではない。まず勝手に「物語」が広まってしまい、進歩は後からついてくる。
ヒトが物語を求めるのに理由や目的はない。それは、ヒトが生まれつき持っている衝動だ。



古くは親から子への「先祖の物語」があった。シャーマンから村人への「部族の物語」があった。教会から人々への「神の物語」があった。そして「小説」の時代があり、それは「映画」の時代になり、「テレビドラマ」の時代へと移り変わっていった。実在の人、架空の人、様々な人の物語を私たちは摂取してきた。たくさんの人の生き様をのぞき見してきた。
物語を求める衝動とは、つまり他人の生き方をのぞき見したいという衝動である。



       ◆



物語創作者はプロットを練り、モチーフを取捨選択し、注意深くストーリーを組み立てる。架空の人物の経験を通じて、世界の真実を切り取ろうとする。しかし創作物のなかで語られる人生は、あくまでも架空の人生だ。ナマの人生にはナマのおもしろさがあり、「生々しさ」という点でフィクションは絶対にノンフィクションには敵わない。フィクションは無作為を装った作為を楽しむものであり、完全な無作為を魅力とするノンフィクションとは「面白さ」の質が違う。
フィクションは架空の人生を「物語」としてのぞき見るものだ。
ノンフィクションは実際の人生を「物語化して」のぞき見るものだ。
そう、「ナマの人生」は物語として消費の対象となりうるのだ。



トゥルーマン・ショー スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

トゥルーマン・ショー スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]



それをとことん突き詰めたのが映画『トゥルーマン・ショー』で描かれた世界だろう。
主人公のトゥルーマンは保険会社に勤める気さくな青年で、平凡で退屈な――だけど平和で豊かな毎日を過ごしている。生まれ育った島から一歩も出たことがないけれど、それは幼少期のトラウマが原因だ。父親と海でボート遊びをしている時に遭難し、父を失ってしまった。しかしある日、トゥルーマンは通勤途中に一人のホームレスを見かける。そのホームレスの顔は、死んだはずの父だった。その日からトゥルーマンは自分の生きる世界の不自然さに気付きはじめる。
じつは彼は「トゥルーマン・ショー」というテレビ番組の主人公だったのだ。
彼が暮らしている島は、周囲の海ごとドームにすっぽりと覆われた超巨大スタジオだった。両親も、妻も、友人も、すべて役者だった。そうとは気付かず、トゥルーマンは赤ん坊のころから全世界に人生を放映されていた。
はたして彼はすべての真相に気付くことができるのだろうか。そして事実を知ったとき、彼が取った行動とは――。
ヒューマン・ドラマとしても、サスペンスやSFとしても出色のデキ。文句なしにオススメできる映画だ。



いま「ネットの人」たちがしようとしているのは、つまり「トゥルーマン・ショー」の実現なのではないだろうか。elm200さんのパブリック・マン宣言はそれを端的に示している。自分の「ナマの人生」を物語として「生きる手段」へと昇華している。
いわゆる「ネットの人」たちに対して、「コンテンツを生みだしていない」という批判をしばしば耳にする。が、まったくお門違いの批判だ。彼らはコンテンツを生みだしていないのではなく、自らの人生そのものをコンテンツにしているのだ。
ヒトは物語を求める生き物であり、「ナマの人生」は物語として消費の対象となりうる。人々の注目を集めることそれ自体を「生きるすべ」にする――ソーシャル時代の「新しい生き方」とは、つまり巨大スタジオの代わりにインターネットを利用したトゥルーマン・ショーなのだ。



そして現在、トゥルーマン・ショーとしてもっとも成功しているヒトの一人がid:nakamurabashiさんだろう。マネタイズという意味ではなく、「ナマの人生」の物語化に誰よりも成功しているという意味だ。


G.A.W.
http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/


気取らない言葉づかいで、コンビニ店長の日常が活きいきと描かれている。微に入り細を穿つような描写がみごとな臨場感を生み出し、私たちに「人生をのぞき見する楽しさ」を与えてくれる。もちろん少なからず脚色を加えていらっしゃるのだろうけれど、それゆえに「物語」としての完成度は高まっている。特別なヒトの物語ではない。平凡な、私たちと同じようなヒトの物語だ。nakamurabashiさんの物語は、それこそ徒然草みたいな感じで数百年後まで読まれるんじゃないかと私は思う。
いわゆる「アルファブロガー」と呼ばれるヒトたちは、少なからず「トゥルーマン・ショー」としての一面を持っている(と思う)。ナマの人生を物語化することが上手い――そんな人が多い(と思う)。ココロ社さん、平民新聞さん、メレ子さん、id:Delete_Allさんにid:Hashさん等々、ご自身の人生からドラマチックな瞬間を抽出する才能を持っていらっしゃった。だからこそ「のぞき見したい・経験を共有したい」という私たちの心をつかみ、膨大な数の読者から注目された。
たとえばMGさんは以前、ソーシャル時代に生き抜くために必要なスキルは「メディア力」と「ホンモノ力」だとおっしゃっていた。イケダハヤトさんは毎日のように刺激的な提言をブログで発信なさっている。それら発言の内容もさることながら、そうやって試行錯誤をする姿そのものに私たちは勇気づけられているのではないか。
それがトゥルーマン・ショーを求める読者の心理だ。



       ◆



ヒトは物語を求める生き物であり、情報技術の発達によりトゥルーマン・ショーが現実のものになった。この事実は、私たちに2つのことを教えてくれる。


1つは「新しい生き方」をするのに必要な資質だ。ネットでの知名度を利用して糊口をしのぐための――しのぎ続けるための才能だ。
それは端的にいえば、愛されることである。
映画『トゥルーマン・ショー』のいちばんの謎は、平凡な男の物語が「なぜ数十年続く長寿番組になりえたのか」だ。いうまでもなく、主人公トゥルーマンのことを視聴者たちが愛していたからだ。見た目の美醜とか行動の高潔さは、愛されるうえであまり大事ではない。カツオにせよ、のび太にせよ、あるいはやる夫にせよ、長く愛されるキャラは往々にして「弱点だらけ」だ。その弱点の一つひとつに感情移入させられるからこそ、私たちは彼らを愛してしまう。たまに成功を収めたときは、拍手喝采してしまう(劇場版ドラえもんのび太の頼もしさを見よ)。弱点だけでも、成功だけでもトゥルーマンは愛されなかったはずだ。生身の人間であり、どこまでも不完全な存在だからこそトゥルーマン・ショーは長寿番組になりえたのだ。
パブリック・マン、露出社会、ソーシャル時代――。様々な言葉が飛びかい、「新しい生き方」が模索されている。「人々から注目され続ける」という生き方は、「愛され続ける」という人生だ。


そしてもう1つは、私たちの平凡な日常も、もしかしたらドラマに満ちているかもしれないということだ。
アルファブロガーの人々が「ナマの人生の物語化」に成功したのは、日常の中からドラマチックな瞬間をうまく抽出していたからだ。視点が変わればモノの見方は変わる。彼らの才能を使えば、私たちのつまらない日常もドラマに満ちたものに変わるかもしれない。平凡で、窮屈で、退屈だと思っていた人生も、物語に満ちたものになるかもしれない。
たとえば寝不足の朝、あなたが駅のエレベーターに駆け込もうとしたら、先に乗っていた男子高校生に目の前でドアを閉じられてしまう。もしかしたら、彼はたいせつな入学試験を控えていたのかもしれない。あなたが「エレベーターを止めてくれ」と叫ばなかったおかげで、彼は遅刻せずに済み、志望校に合格できたかもしれない。
あるいは満員電車のなかで足をばたつかせる少年、もしかしたらこの親子は母子家庭で、看護師の母親は仕事に忙殺されているのかもしれない。今日は奇跡的に非番と小学校の休日とが重なったので、二人で遊園地に行くのかも。あなたが我慢強く耐えたおかげで、親子は「楽しい思い出」として今日一日を記憶できただろう。
そして電車内でケータイを鳴らした五十代後半の男性。もしかしたら彼の娘は遠い異国の地に嫁いでいて、無事に初産を終えたことを報告する電話だったしれない。マナー違反かもしれないが、娘の声を聞きたくなるのが親心だ。
ほんの少しの想像力を持てば、日常はドラマに満ちたものに変わる。アルファブロガーたちが自らの人生からドラマを抽出しているように、ほんのちょっと心がけるだけで、日常は「物語」に様変わりする。あなたが生きている今日は、ほかの誰かが生きられなかった明日だ。語るに足る「ナマの人生」だ。だから好奇心と想像力を持ちたい。
平凡な人生かもしれないが、退屈だけはしたくない。






Time Out of Joint (S.F. Masterworks)

Time Out of Joint (S.F. Masterworks)

かぼちゃの馬車 (新潮文庫)

かぼちゃの馬車 (新潮文庫)

※収録作「ナンバー・クラブ」は必読。星新一先生はSNSの登場を予見していた!?




.