日本には、大人が少ない。「自分らしさ」や「モテ」を何歳になっても求めつづけ、思春期のメンタリティを捨てらない人ばかりだ。少子高齢化の時代とは裏腹に、精神的には未成熟な人が多い。
では、大人の条件とは何だろう。どんなことができれば「大人」と見なされるだろう。
条件の1つは、「自分を語れること」ではないだろうか。
◆
人気ブロガーで精神科医のシロクマ先生は、思春期のメンタリティをいつまでも捨てられない人々のことを、「思春期ゾンビ」と評している。男たちは何歳になっても女ウケを狙って「ちょい悪」を模倣し、女たちはいつまで経っても「女子」を自称する。そのうち「60代女子」「70代女子」という言葉が雑誌の表紙を飾るだろう。
30代、40代はもとより、60代以上の団塊世代の人々さえも「思春期のメンタリティ」を抱えている。
日本には、大人が少ない。
誰も彼もがライフサイクルの次のフェーズに進まず、若い頃の心性を引きずったままの社会は、どこかおかしいのではないか
青春時代を彷徨い続けるオジサンが大人の音楽を騙るなんて、ちゃんちゃらおかしい
作家・桐野夏生の短編小説に「夜の砂」という作品がある。 (※短編集『ジオラマ』収録)
この小説の主人公は、入院中の老婆だ。死期を悟った彼女は毎晩、不思議な夢を見ている。夢の中の彼女は少女のころに戻っていて、みずみずしいからだで男とセックスをするのだ――。
「三つ子の魂百まで」という言葉が示すように、若いころに身に着けた価値観・性格・知識は、かんたんには無くならない。27歳の私のなかには、17歳のころの私がいて、7歳のころの私もいる。37歳、47歳……77歳になったとしても、彼らが立ち去ることはないだろう。過去の自分は、いつまでも心のなかにいる。それは、ごく自然なことだ。
だから、思春期を忘れないこと自体は、悪いことではない。自分のなかの「子供っぽさ」を閉じ込めて、黙らせて、無視することはできても、それを殺すことはできない。思春期を忘れないのは人間として当たり前だ。
にもかかわらず、「思春期ゾンビ」には不気味さを覚える。還暦を迎えようとする人が「自分らしさ」を誰かに語ってほしいと求めているのだ。定年退職して、昔なら隠居生活に入るような年代の人々が、まるで高校生のようなことを叫んでいるのだ。お尻のあたりがムズムズして、どうも落ち着かない。
思春期ゾンビが「大人」に見えないのは、なぜだろう:
思春期を忘れないのが当たり前だとしたら、「大人」に必要な資質が欠けているからだと考えるしかない。「この人は大人だ」と認定するに足る決定的な基準を満たしていないのだ。「思春期ゾンビ」は思春期を引きずっているのではなく、大人の条件を満たしていないのだ。
では、大人の条件とはなんだろう。
条件の1つは「自分を語れること」だと、私は思う。
決定的にわからんのは「どうしたら自分らしく生きられるか」が胸のなかにありつつも、他人の物語が必要らしい、ということだ。これはまったく意味がわからん。「自分らしく」っていうの自体がなんかすごい地雷ワードな気もするけど、あえてこの意味を考えるなら「自分はこう生きてきた。そしていまここにいる。この先こうやって生きて、こうやって死ぬのだ」ということじゃない。他人の言葉なんざ役に立たないよ。
ぜんぜん「自分らしく」ないじゃん
1万年前の日本を想像してみよう。海辺の集落で10人ほどの男女がたき火を囲んでいる。農業は西アジアで発明されたばかりで、縄文人たちは狩猟採集生活を営んでいた。まだ牛も豚も家畜化されておらず、ヒトが利用できる動物はイヌだけだった。オオカミやクマに喰われることが、おそらく死因の上位を占めていた。
野獣を遠ざける炎に、人々はきっと安堵を覚えただろう。たき火を囲みながら、父は若き日の冒険譚を語り聞かせ、母は家族の成り立ちを語っただろう。少年たちは父の言葉に胸を躍らせ、少女たちは母の言葉に心を震わせただろう。大人から子供への物語の伝達こそが、共同体をつなぎとめ、社会を発展させてきた。
物語を授けるのは大人の役割だ。物語を求めるのは子供たちだ。
思春期ゾンビ――大人になれない人々――に決定的に足りないのは、自らを語ることだ。自分がどのように産まれ、どのように生き、どのように死んでいくのか:自分自身で語ることができない。これが思春期ゾンビの特徴である。
ここでいう「物語」とは、言葉で語られるものに限らない。
職業・ライフスタイル・趣味……あなたを構成するすべてのものが、あなたという人物を語っている。問題は、それらを自分自身で選ぶか、それとも誰かからの借り物で済ますのか、である。
思春期ゾンビたちは、あくまでも借り物の「物語」で自分を語ろうとする。仕事も娯楽もカネの使い方も、あらゆるものにマニュアルを求める。マーケティング業界の作った形式的な世界観に陶酔し、自分の「物語」を語ろうとしない。
LEONに掲載されている通りの服装をしても、あなたはジローラモにはなれない。トヨタ・マークXを乗り回しても、あなたは佐藤浩市にはなれない。あなたはモーツァルトにはなれないし、私はアインシュタインにはなれない。あなたはあなたになるしかない。
女神なんてなれないまま私たちは生きるのだ。
だけど――、と私は思う。
いきなり「自分を語れ」と迫るのは、ちょっと酷ではないか。
どのようなモノであれ、自己表現には「技術」がいる。経験もいる。思春期ゾンビの人々は、そういう技術・経験を持っていないのではないか。彼らは自分を語らないのではなく、語れないのではないか。
たとえば言葉で語る場合に的を絞っても、そこには「型」がある。
各パラグラフの冒頭に結論をおき、「抽象→具体」の流れで語るパラグラ・フライティングの「型」がある。できごとや情景の素描から始まるルポルタージュの「型」がある。「見出し・リード・本文」の順番で詳細度を高めていく新聞記事の「型」がある。
これは「物語」でも同じだ。歴史上、数えきれないほどの英雄が「行きて帰りし」の物語を経験してきた。黄金の羊毛を手に入れるために、あるいは父親を探すために、悪者を討伐するために旅に出た。ときには血族の過失により故郷を追われた。数えきれないほどの少女が魔法にかけられ、また魔法が解かれた。
一寸法師が鬼の落とした「うちでのこづち」を拾ったように、夜神月は死神の落としたデスノートを拾った。ダンテが煉獄山の山頂で永遠の淑女ベアトリーチェと出会ったように、ある勇者は魔界の奥底で美しい魔王と相互所有契約を交わした。「オオカミ少年」と「いなばの白うさぎ」に共通するモノが、遠くのほうで『PSYCHO-PASS』にも流れているのではないか。物語には「型」がある。
もちろん「型」を知らなくてもお話は語れる。けれど、格闘技を知らないシロウトのケンカのような見苦しいものになる。「自分語り」の多くが居酒屋の愚痴レベルを脱しないのは、語り手が「型」を知らないからだ。自分の人生を、聞くに値する物語へと昇華できないからだ。なぜなら、言葉づかいの「型」を誰も教えてくれないからだ。
皮肉なことに、型を壊したと思いきや、結果として「子どもが見たまま、感じたままを綴る学校作文」という唯一の型を作り上げてしまいました。
(・・・)
日本の教師は、意識する、しないにかかわらず、結果的に「綴り方」の伝統に則って、「自由に、思ったままを書けばいいんだよ」と励まして子どもに作文を書かせます。しかし、でき上がった作文は、どれも驚くほど似通っています。
(・・・)
型を知らずに「自由に書け」といわれても、いったい「何から」自由になればよいのか分かりません。その結果、「起こったことをありのまま書いて時系列で気持ちの変化をたどる」という書き方が逆説的に唯一の型になってしまうのです。
Q.日本の国語教育では書き方の様式を教えず、創作文を書かせませんが、それはなぜですか。
思考とは、自分のなかのもう1人の自分と語り合うことをいう。言葉を覚えた人間は、もはや1人にはなれない。言葉を発する自分と、言葉を受ける自分とがいるからだ。
ヒトはしばしば1人になりたがり、みんなといるときでも沈黙を守る。これは社会性動物には珍しい特徴で、たとえばネズミは常にヒトには聞こえない高周波で呼び合っている。クジラはいつも歌っている。ヒトが孤独を求めるのは、言葉を持っているからだろう。ほんとうに1人にはなれないからだろう。
おそらく「嬉しい・悲しい」「怖い・安心」等は、多くの哺乳類が持っている原始的な感情だ。鳴き声や歌声で、そういう感情 (のようなもの)を仲間に伝え合っている。ヒトの祖先も「歌うサル」の一種だったはずだ。餌場を探すときの高揚した気分を歌ったはずだ。敵が襲来したときの緊迫感を歌ったはずだ。愛を歌ったはずだ。
そして歌から言葉が生まれたとき、そこに思考が生まれた。知性が生まれた。初めに言葉があった。言葉は人間と共にあり、言葉は人間だった。言葉づかいの「型」を知らないのは、語り合う方法がわからないということだ。他者との意志疎通に困るだけでなく、思考を深めることもできないということだ。
◆
日本には、大人が少ない。いつまでも思春期のメンタリティを捨てられない「思春期ゾンビ」がたくさんいる。青春時代を忘れないのは、人間として当然のことだ。重要なのは思春期を覚えているかどうかではなく、大人の条件を満たしているかどうかだ。
「自分を語れる」のは、大人の条件の1つである。
私たちの社会は、知識の蓄積によって発展してきた。大人から子供へと物語が継承されることで維持されてきた。物語るのは大人の役目だ。物語を求めるのは子供たちだ。商業的に大量複写されたキャッチコピーではなく、自分の言葉で自分の人生を語れること。世の中を、歴史を、私たちがどこから来てどこに向かうのかを語れること:それが大人の条件である。
ところが、この条件を満たしている人は少ない。多くの日本人は自己表現の手段を学んでいない。たとえば言葉づかいの「型」を教わらない。さらに、つい10年ほど前までは「消費の時代」だった。他人の作った世界観に身をゆだねるほうが、自分を語るよりもはるかに簡単だった。こうした背景から、日本では「自分を語れる」人が増えなかった。いま「思春期ゾンビ」となっているのは、そういう人々ではないだろうか。
“消費の時代”から“生産の時代”へ
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20121031/1351686158
「思春期ゾンビ」の人がすべきなのは、究極には自分を語ることだ。まず手始めに、語る技術を身につけることだ。60代の人間は、20代の人間の3倍のものごとを経験しているはずだ。自分が見聞きしてきたものを、次世代へと伝えること。自分が死んだあとの世界のために言葉をつむぐこと。それができるようになれば、もはや誰からも思春期ゾンビとは呼ばれないだろう。
自分のことで手いっぱいで、次世代のことなんて想像も及ばない。そういう人を、子供という。
生きた時間が長いだけでは、ヒトは大人にはなれない。
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