※今日のエントリーで友だち無くすかも。
つい先日の話だ。
Facebookを覗いたら、友人が同性愛者だとカミングアウトしていた。「へーそうだったのかぁ」と、その時はとくに気に留めなかったのだけど、翌日になって驚いた。「イイネ!」ボタンが連打され、コメントが山のようについている。いわく、「その勇気を称賛したいです」「わたしまで勇気づけられました!」「応援してます!」――。
うへぇ、って思った。
書き込みをしている人たちに悪意がないのは分かってる。読んだことを伝えたいけど、かける言葉がみつからない――そんな気持ちから「イイネ!」ボタンを叩いてしまうのも分かる。けれど私の目には、「善意」という名の石つぶてを投げつけているようにしか見えなかった。そうやってみんなが特別扱いをするから、同性愛はいつまでも「特別」なのだ。
同性愛は、たとえば「手フェチ」や「脚フェチ」と同一線上の性的志向のひとつでしかない。恋愛や性に関して、人間は本質的に自由である。自分の「性」をどのように認識しようと、そして恋愛対象をどのような相手に設定しようと、誰かから文句を言われる筋合いはない。したがって同性愛も、様々な「フェチ」と同等なものであるはずなのだ。
しかし現実には、そうではない。
わざわざ改まった「カミングアウト」が必要になり、「勇気ある行為」と称賛される。現実の側が、人間の本質と一致していない。この不一致に私たちはもっと注意深くなるべきだ。
たしかに差別は、ある。
日本人は保守的で、「自分と違う人」のことを毛嫌いする。同性愛に限らず、あらゆるマイノリティーに冷たい。けれど思い出してほしい。かつては「衆道は武士のたしなみ」と言われていた。『東海道中膝栗毛』の弥次さん喜多さんは同性愛関係だった。同性愛はごく普通のもので、特別でもなんでもなかった。それがいまでは「少数派」ということになり、蔑視の対象になっている。
そういう現状があるからこそ、カミングアウトは「勇気ある行動」だと見なされる。たしかに私たちは、誰かの勇気に元気づけられる生き物だ。コメントした人たちの言葉は、いつわらざる本音なのだろう。しかし逆にいえば「特別扱いする」という現状があるからこそ、カミングアウトには勇気が必要になるのだ。すべての原因は特別扱いだ。その現状の、なにが「イイネ!」だよ。どこがイイんだよ。
女だの男だの言うまえに、私たちは人間だ。
その人がどんな性的志向を持っていようと、今まで積み上げてきた人間関係は変わらない――それを示すことこそ、友だちとして「あるべき態度」ではないか。「だから何?」と言い返せることが、ほんとうの友情ではないか。どんなセクシャリティーやジェンダーを持っていようと、その人の人間性は変わらない。その人のままなのだから。
何もしないこと・何も態度を変えないこと。それが最大の「応援」だと私は思う。
同性愛は特別でもなんでもありません。
同性愛は特別でもなんでもありません。
みんなの善意を否定するつもりはない。その善意にもとづいて、あらゆるマイノリティーを特別扱いしない社会にしていこうよ。
「ぼくはゲイです」「わたしはレズです」
そんなことをいう人が身近にいたら、こう答えたい。
「だから、何?」
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