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批判や反論は、適切な相手に、適切な内容で。/出産したら辞めるべきか?についてのあれこれ

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「怒りに我を忘れる」という言葉がある。目を覆いたくなるような不正義を目にすると、私たちの心には怒りの炎がともる。しかし、怒りに任せて吐き出した正義の咆哮は、的外れになりがちだ。批判や反論は、適切な相手に、適切な内容をぶつけたい。



「出産したらお辞めなさい」労基法違反推奨の曽野綾子論文を週刊現代が掲載した件はなぜ問題にならない?伊藤和子)─Yahooニュース




保守系論者として話題に事欠かない曽野綾子さんが、週刊現代に「甘ったれた女性社員たちへ〜私の違和感〜」という論文を寄稿した。すごいタイトルだ。内容は「女は子供ができたら仕事を一度おやめなさい。職場に居座ろうとするのは企業にとって迷惑だ」というラディカルなもの。それに対してリベラル系論者の伊藤和子さんが反論しているのだが……なぜか最後は曽野さんに対する批判ではなく、週刊現代に対する批判、そして日本のメディアに対する批判に論点がすり替わっていた。


週刊現代は)おじさんたちが「そうだそうだ」と心の中で喝采を送るガス抜きくらいの軽いノリで取り上げたのかもしれないが、労基法違反を公然と推奨するような記事を垂れ流すような言論は果たしてそのまま野放しにされてよいのか、メディア・企業としての資質・コンプライアンスのあり方が問われるのではないか。

それはちょっと論点が違うでしょう、と私は思う。
曽野綾子さんの発言は相変わらず過激なので、伊藤和子さんのようなリベラル系の人が怒るのは当然だ。しかし、少なくとも批判の矛先を向けるべきは発言者であって、怒りのあまりメディアの言論を萎縮させようとするのは──言論の自由表現の自由まで批判しようとするのは、やり過ぎではないだろうか。



言論の自由は、それこそ基本的人権のイの一番に保障されるべきものだ。
「女性の働く権利」と「言論の自由」のどちらが大切か?
「差別の根絶」と「言論の自由」のどちらが大切か?
──などという比較自体が無意味だ。
なぜなら、「どちらも大切」に決まっているからだ。



     ◆



そもそも曽野綾子さんのような保守系の言論人が活躍するようになったのは、2つの理由がある。
1つは、たとえば内田樹さんが以前から指摘しているとおり、現代が「国民国家の崩壊」というフェイズの時代だからだ。国体を維持するにはナショナリズムによるしかない。そして保守系の言論人がマスメディアの寵児となる。テレビや新聞はちからを失いつつあるが、しかしプロパガンダ装置としての側面を完全に失ったわけではない。

政府は人件費を切り下げ、巨額の公共事業を起こしてインフラを整備し、原発を稼働して安価な電力を提供し、法人税率を引き下げ、公害規制を緩和し、障壁を撤廃して市場開放することをグローバル企業から求められることになるだろう。そして、私たちの国の政府はそのすべての要求を呑むはずである。
むろん、そのせいで雇用は失われ、地域経済は崩壊し、歳入は減り、国民国家の解体は加速することになる。
対策としては、ベタなやり方だが、愛国主義教育や隣国との軍事的緊張関係を政府が意図的に仕掛けるくらいしか手がない。気の滅入る見通しだが、たぶんこの通りになるはずである。

国民国家とグローバル資本主義について

保守系の言論人が活躍するもう一つの理由は、橘玲さんが指摘しているようにリベラルの理想がおおむね実現してしまったからだ。具体的な政治課題としてリベラルな施策が語られる必要がなくなり、一種の“揺り戻し”として保守系の言論が注目されるようになった。


リベラルが退潮したいちばんの理由は、その思想が陳腐化したからではなく、理想の多くが実現してしまったからです。「いまの日本には真の自由や平等はない」というひともいるでしょうが、リベラリズムが成立したのは、権力者に不都合なことを書けば投獄や処刑され、黒人が奴隷として使役され、女性には選挙権も結婚相手を選ぶ自由もなかった時代なのです。

リベラルが“保守反動”になった理由

では、リベラルの理想は充分に実現しているのか?
もちろん奴隷は解放され、華族・士族のような身分制度はなくなり、権力者を批判しても投獄されず、自由に転職・起業ができるようになった。ちまたでは自由恋愛が百花繚乱だ。リベラルの理想はすべて実現してしまって、もう「やるべきこと」は残っていないのだろうか。
そんなことはない、と私は思う。
たとえば格差是正や貧困者の支援は充分とは言いがたい。日本は主要国のなかでも、富の再分配による格差是正効果が最低のレベルだ。なぜなら戦後高度成長期に「1億総中流」の平等社会を実現したからだ。結果、再分配前の所得格差は世界でも例を見ないほど低く、一方で再分配政策が充分に整備されてこなかった。ようだ。
富の再分配なんてしなくても格差が少ない社会」だったから、「再分配による格差が是正」があまり整備されていないのだ。しかし、今後のグローバル化により格差は拡大する。どんな経済政策を打とうと、間違いなく拡大する。その時に、日本の格差是正の弱さは悲劇をもたらすだろう。
格差が「富の再分配をしないとヤバい」レベルに広がるのに、「再分配によって格差が是正されない」のであれば、暗い未来像しか想像できない。グローバル化が進み、1人ひとりが国際社会での競争にさらされる時代だからこそ、再分配的な政策を見直し、充実させる必要がある。
グローバル化による格差拡大がイヤならば、他国との取引を閉め出して保護主義に走り、世界経済をシャットアウトするしかない。そんなの、まったく現実的ではないし、私たちの豊かさにもつながらない。
リベラルの理想は、いまだに実現していない。
その最たるものは、女性の社会進出と男女同権だ。とくに日本は先進国のなかでもとくに女性の社会進出が遅れていると言われている。女が男並みに働くことだけを「男女平等」だと見なす稚拙な価値観がまかり通っている。男も、女並みにならなければ。
女性の社会進出を後押しすると同時に、男が女並みに家族や育児に関われる世の中を作る。そのための闘いは、まだ終わっていない。伊藤和子さんのようなリベラル系の人は、その急先鋒と言っていいだろう。だからこそ、刃を向ける先を間違えないでほしい。



「女性の働く権利」と「言論の自由」のどちらが大切か: 答えは「どちらも大切」だ。リベラル系の言論人として保守系の言論を批判するのは当然だが、その勢いでメディアの発言まで萎縮させようとするのは――言論の自由を抑制するようなことを書いてしまうのは、「やりすぎ・言いすぎ」だろう。
マスメディアは、かつて唯一の言論発信源だった。だからジャーナリズムには公平性や社会的責任がことさら要求されていたし、ときにはプロパガンダの道具として利用された。しかし時代は変わったのだ。
もちろん今でも、発言には一定の責任がともなう。テレビや新聞に限らず、こうやってブログで何かを語る場合にも、社会正義にもとる発言をすべきではない。たとえ匿名であっても、だ。最近では2ちゃんねるの情報流出で、阿鼻叫喚の地獄絵図が広がった。「匿名だから何を言ってもいい」とカン違いした結果があれだ。
とはいえ、マスメディアはもはや唯一の言論発信源ではない。
ブログがある、Twitterがある、Facebookがある。承服できない内容の発言を目にしたのなら、本人に直接文句を言える時代だ。マスメディアのちからを借りなくとも、自分の見解を世に問うことができる時代だ。私たちには言論の自由があるのだから。



なお、伊藤和子さんには、もう一歩踏み込んだ反論をしてほしいと感じた。
曽野綾子さんの記事に対して「産休制度は労働基準法に明記されている」と反論するだけでなく、その立法趣旨についても語ってほしかった。
「産休は法律で決まった制度だ」
「この制度の背景には、こんな価値観がある」
「この価値観は私たち人間にとって極めて大切だ」
……と順番に書いてあれば、女性を就労環境から締め出そうとする発想に対して強烈なパンチを浴びせることができただろう。読者のなかには、産休など必要ないと考えている人もいるだろう。そういう読者が抱く「なぜ産休が必要なのか?」という疑問に対して「国際的にも当然のこととして疑問の余地なく認知されているから」と答えるだけでは不十分だ。「なぜ○○なの?」という疑問に「○○で当然だからだ」と答えるのは、トートロジーになってしまう。



批判や反論は、適切な相手に、適切な内容で投げたい。







コドモのコドモ (1) (ACTION COMICS)

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