この画像はネット上に出回っているもので、第二次大戦前の世界地図だとされている。日本とタイ以外の地域はすべて欧米の植民地であり、日本が植民地化されるのも時間の問題だった。だから、日本は反撃に出るしかなかった──。この画像には、しばしばそんな解説が添えられる。
しかし残念ながら、この画像はデマだ。
端的に言って、世界地図がこのような勢力図になった時代はない[1][2]。
日本が開戦に踏み切った理由は、経済的な側面を考えたほうが理解しやすい。戦前の日本は金属や燃料などの戦略物資のほとんどをアメリカから購入しており、常識的にはアメリカとの戦争は考えられなかった。ところが、盟友ナチス・ドイツがヨーロッパでのアウタルキー(自給自足経済)を確立しつつあることに触発され、自らもアウタルキーを目指した。これがアメリカによる経済制裁を誘発し、日本はますます自給自足を目指さなければならないという循環に陥り、戦争に至ったのだ[3]。
戦争の原因はつねに経済だ。それはマルクスが言いあてた数少ないことの1つである。
──トム・クランシー『日米開戦』
とはいえ、だ。
歴史上、アジア諸国のなかで日本とタイだけが欧米の植民地支配を受けていない。これはどういことだろう? 日本民族の優秀さゆえ、侵略者たちの魔手を退けることができたのだろうか。歴史にうとい私は、以前から不思議に思っていた。
最近ようやく考えがまとまってきたので、書きたいと思う。
ずばり結論から書こう。日本とタイが植民地化されなかった一番の理由は、交易の要衝ではなかったことだ。欧米列強から見て、植民地支配する価値がない地域、少なくとも侵略する費用対効果が薄い地域だったのだ。
そもそもヨーロッパが世界の覇権を握るのは、近世以降の話だ。
14世紀までの欧州は貧しい辺境の地で、技術も文化も立ち後れていた。シルクロードを通じて東洋から運ばれてくる物品が珍重されていた。インドネシアから届く胡椒やナツメグ、中国から届く磁器、インドから届く織物……。それらは中東の商人たちが利益を上乗せしていたため、ヨーロッパでは極めて高値で取引されていた。したがって、もしも海路で東アジアと直接取引できるようになれば、ヨーロッパ人は莫大な利益を上げられるはずだった。
15世紀末、ヴァスコ・ダ・ガマがアフリカの喜望峰を経由してインドに到達した。来航目的を聞かれた乗組員は、「胡椒とキリスト教のため」と答えたそうだ。ここで、ヨーロッパ人とアジアとの直接取引が始まった。
続く16世紀は、航海技術が成熟していった時代だ。1521年、マゼランの船団が世界一周に成功し、リスボンに帰港した。航海は悲惨をきわめ、生き延びた乗組員はわずかだった。しかし、船には24トンのクローブ(※丁子)が積まれており、この航海の利益率は2500%に上った[4]。現代のソーシャルゲームがかすんで見えるほどの数字だ。大航海時代にヨーロッパ人が命がけで船に乗ったのは、それだけ儲かったからだ。
その60年後にはイギリス人の海賊フランシス・ドレークが世界一周に成功。さらにアルマダの海戦でスペインの無敵艦隊を破った。大英帝国が制海権を得る第一歩となり、その後の大英帝国の礎(いしずえ)となるのだが──。それはもうちょっと先の話だ。
16世紀、アジアとの貿易で主役を務めたのはポルトガル人だった。種子島に鉄砲を持ってきたのも、フランシスコ・ザビエルの後援者になったのも、ポルトガル人である。日本史でいえば戦国時代の話だ。しかし、ポルトガルはなにぶん国力が弱かった。人口や国土はそれほど大きくなく、超大国スペインと国境を接していた。オランダやイギリスに比べて、政治に振り回されやすい立地だった。
16世紀末、ポルトガルはスペインに併合される。これで困ったのはオランダの商人たちだ。当時のオランダはスペインと敵対していたため、リスボンに荷揚げされる東洋のスパイスを入手できなくなってしまった。
じゃあ、自分たちでアジアに船を送ろうぜ、ポルトガル人にできて俺たちにできないはずがない、とオランダ人は考えた。
1596年、オランダ商船がジャワ島のバンテンに到達。これに驚いたのはイギリス人だ。アジアとの貿易をオランダに独占されることを恐れて、1600年に勅許会社「イギリス東インド会社(EIC)」を設立した。このことに触発されて、オランダ側でも1602年に「オランダ東インド会社(VOC)」が創設された。VOCは世界で初めて、資金調達のために株式を証券化した――つまり、世界初の株式会社だった。日本で徳川家康が江戸幕府が開いたころ、オランダとイギリスでは現代的な資本主義経済が産声を上げていた。
17世紀前半、オランダはインドネシア東部を支配下に置いた。当時、ナツメグやクローブはバンダ諸島やモルッカ諸島でしか育たず、この地域を押さえることには経済的な利益があった。オランダ人はさらに北へと航路を広げ、中国や日本とも盛んに貿易を行うようになった。鎖国下の日本でなぜオランダが貿易を許されたかといえば、当時の東アジアでもっとも力の強い貿易国だったからだ。
残念ながら、当時の日本には、オランダ人のもたらす商品に見合うような工業製品がなく、もっぱら金・銀・銅・樟脳などを輸出していた。オランダ東インド会社の帳簿には「クーバン」という単語が記されているそうだ。日本の「小判」のことである。オランダ人は日本で仕入れた金銀を使って、中国をはじめ他国との貿易の決済に充てていた[5]。
ちなみに、16世紀後半~17世紀初頭の日本人は、日本列島に閉じ籠もっていたわけではない。むしろ、歴史の当事者としてしばしば登場する。
たとえば公的には朱印船貿易を行っていたことが知られているし、おそらく非公式の民間貿易も花開いていたはずだ。アジア各地に日本人町が作られた。武芸に秀でた日本人傭兵は珍重され、タイのアユタヤ朝に仕えて名を上げた山田長政のような人物もいる。また、当時の日本人はヨーロッパ情勢にさえ影響を与えた。1623年、アンボン島でイギリス商館の関係者がオランダ人に虐殺された。「アンボン島事件」として知られるできごとだ。この事件の発端となったのは、イギリス人に雇われていた日本人傭兵が、オランダ人に対してスパイ行為を働いたからだと言われている。この事件でオランダとイギリスの関係は悪化し、のちの英蘭戦争の遠因となった[6]。
日本人が世界史の表舞台から姿を消すのは、1630年代の鎖国令以降だ。
話を植民地支配に戻そう。
世界地図を見てほしい。高値で売れるスパイスは、バンダ諸島やモルッカ諸島などの「香辛料諸島(※現インドネシア東部)」で生産されていた。またヨーロッパ人は、中国の工業製品や茶、日本の金銀を仕入れていた。それらをヨーロッパに持ち帰るには、まずインド洋に出なければならない。そしてインド洋に出るルートは、マラッカ海峡とスンダ海峡のどちらかしかない。つまりマレー半島やスマトラ島、ジャワ島を支配下に置くことができれば、貿易を独占できるはずだった。だからこそヨーロッパ人たちは、競い合ってこの地域を侵略していったのだ。
さらに周辺地域の話をすると、まずインドの沿岸は東アジアとの貿易の際に補給地として重要だった。16世紀にはポルトガルが、その後はイギリスがインド亜大陸の沿岸を押さえた。一方、オランダ人はポルトガルとの競合を避けるため、16世紀末にはマダガスカルからスンダ海峡まで直航する航路を開いた。
また、フィリピンは16世紀半ばにスペインの植民地となった。当時のスペインはメキシコ周辺を支配しており、大西洋から中米、太平洋を経由して、アジアの香辛料諸島まで至るという航路を開いていた。世界地図を見れば分かるが、フィリピンはその航路のアジア側の玄関口として都合のいい場所にあった。だからこそ、「日の沈まない国」のアジアにおける橋頭保に選ばれたのだ。さらに、当時のフィリピンには、まだ中央集権的な王朝が生まれていなかったようだ。スペインの侵略に、組織的に対抗する手段がなかったらしい。
19世紀になると、トマス・ラッフルズがマラッカ海峡沿いの小島に自由貿易港を開いた。その島の名前は、シンガポールだ。
19世紀半ば、中国の清王朝はイギリスの影響を恐れて、排外的な政策を取ろうとした。が、イギリス東インド会社の幹部は激怒。清のジャンク船を片っ端から沈めた。アヘン戦争である。ほぼ同時期にフランスがダナンを攻撃し、ベトナムへの侵略を始めた。フランスはアジア貿易で出遅れており、この地域に足掛かりを作ろうとしたのだ。そして19世紀末の米西戦争で、フィリピンの支配権が戦勝国アメリカに移った。
こうして、19世紀末の「日本とタイ以外は全部植民地」という東アジアの地図ができあがった。
日本やタイが植民地化を免れたのは、「中央集権的な政府があったから」ではない。阮王朝は19世紀初頭までにベトナムの全土を手中に収めていた。中国の清王朝は、当時の世界で最大の中央集権国家の1つだった。
日本が植民地化を逃れたのは「戦争に慣れていたから」でもない。17世紀以降の日本では大規模な戦争が起きず、言葉を選ばずに言えば「平和ボケ」が進んでいた。一方、少なくともスマトラ島やジャワ島には、17世紀までにいくつかのイスラム教国が存在し、スルタンたちが覇を競っていた。当時この島々は、決して「遅れた地域」ではなかった。アジアに到達した当初のヨーロッパ人は、それらの王国を武力制圧できるほどの力は持っていなかった。
たとえばジェームズ・ランカスターの記録がある。イギリス東インド会社が最初に送り出した船団の指揮を執った人物だ。16ヶ月におよぶ航海を経て、彼は1602年にスマトラ島のアチェに到着した。現地の老スルタン、アッラーウッディーン・リアーヤット・シャーの権力のすさまじさに、ランカスターは驚嘆と畏怖を抱いたはずだ。
しばらくすると、ラッパを吹き太鼓を打ち鳴らす大音響が聞こえてきた。驚いたイギリス人たちが外に出てみると、六頭の巨大な象と群衆が近づいてくる。王宮への迎えの乗り物であった。「なかでもいちばん大きい象は背丈が三~四メートルほどもあり、その背は深紅のビロードで覆われ、小さな城のような形をした輿(※象かご)が置かれ、(…)その中央に金の大鉢が載っていた。女王陛下(※エリザベス1世)の親書はここに収められたうえ、美しい飾りのついた絹の布で覆われた」。ランカスターは別の象に乗り、部下とともにスルタンの館に向かった。大勢の住民がついてきた。こうして女王の親書を先頭に、お祭りのような行列が始まった[6]。
当時のヨーロッパ人は、アジア人を簡単に蹴散らせたわけではない。数ヶ月におよぶ航海のあとで戦闘行為を働くのは容易ではないし、現地の感染症にも悩まされた。アメリカ大陸の先住民が一方的にヨーロッパ産の感染症で命を落としたのとは対照的に、アジアではヨーロッパ人も現地の病気で大勢死んだ。
だからヨーロッパ人たちは、いわゆる「二虎競食の計」を実行した。まず武器の提供などで特定の王国を支援して、お互いに戦わせたのだ。スルタンたちは世代を重ねるごとにヨーロッパ人への依存度を高めるようになり、やがて傀儡政権へと堕した。
日本とタイに共通しているのは、「交易の要衝になりえない立地」だ。
タイはインドシナ半島の内陸に位置しており、海岸線は短い。日本は極東すぎて、インド洋を介した貿易の拠点として魅力がなかった。中国やインドネシアのように、高価な貿易品を産出するわけでもなかった。ヨーロッパ人から見れば、詭計をめぐらせて侵略するメリットが薄かった。
繰り返しになるが、ヨーロッパ人がアジアと貿易をするには、基本的にはインド洋を使うしかなかった。
たとえばオランダ人は、北極海経由でベーリング海峡からアジアに出る航路を模索した時期がある。ドーバー海峡をイギリス・フランスに押さえられたら、外洋に出られなくなるからだ。しかし、当時の木造船では、とても北極海を渡り切ることはできなかった。
また、南米から太平洋経由でアジアに向かうことも可能だ。ところが、ドレーク海峡は世界でもっとも荒れる海と言われており、マゼラン海峡は暗礁の多い難所だ。航海距離も長くなってしまい、ここからアジアに向かうのは不経済だった。
このことから、日本の「太平の眠り」を覚ましたのがアメリカだった理由が分かる。
アメリカは1846~48年の米墨戦争でカリフォルニアを手に入れ、インド洋を経由せずともアジアと貿易できるようになった。極東の島国に足掛かりを作るインセンティブが生まれたのだ。このときも日本は幸運に恵まれた。ペリーが来航したのは1853、54年の2回だが、その後アメリカの国内情勢は急激に悪化。1861~65年の南北戦争で国内がめちゃくちゃになってしまう。その間、日本は明治維新を果たし、文明開化・富国強兵の道へと突き進んでいった。
◆ ◆ ◆
この説明でも、歴史に詳しい人から見たら「雑すぎる」とお叱りを受けるだろう。間違いにお気づきの際は、ご指摘いただければ感謝甚大である。
いずれにせよ、「19世紀末の東アジアで欧米の植民地化されていないのは日本とタイだけだった = だから日本はすごい」という解説は、あまりにも短絡的だろう。日本が植民地化されなかったことに何かすごい点があるとすれば、その運の強さだ。
まず、交易の要衝にならなかったという立地上の幸運があった。スマトラ島やマレー半島、インド沿岸やベトナムとの違いだ。
また、垂涎の的になるような輸出品を産出しないという、自然資源や産業上の幸運もあった。バンダ諸島やモルッカ諸島との違いである。
さらに歴史をさかのぼれば、中国や朝鮮半島経由で、大陸の進んだ文化を容易に入手できるという幸運があった。にもかかわらず、大陸から侵略を受けるには離れすぎていた。中国を手本に中央集権的な王朝を作ることができたのは、フィリピンとの違いだ。
黒船が来航した直後に南北戦争が始まるという、歴史上の偶然にも恵まれた。リンカーンが奴隷解放などと言い出さなければ、南北戦争は起こらず、アメリカは淡々と日本を植民地化していたかもしれない。
驚嘆するほどの運の強さによって、日本は植民地支配を免れた。
もしも日本列島がもう少し大陸に近かったら、歴代の中国王朝のいずれかに侵略支配されていただろう。もしもパナマ地峡がなく、大西洋と太平洋が直接つながっていたら、日本はカリブの島々同様に、スペインやポルトガル、フランスの植民地になっていたかもしれない。もしも地球の平均気温があと5℃高かったら、北極海経由でオランダ人がやってきたかもしれない。もはやSFの世界だけど、こうやって妄想を広げるのは楽しい。
【2016/8/31 追記】
誤読されると困るのだが、この記事は日本の過去の偉人たちを否定するものではない。とくに幕末~明治初期の日本の指導者層は、現代の水準から見ても驚くほど的確な判断を下している。少なくとも経済政策については、すべてにおいて正しい選択をしたと言っていいだろう。だからこそ、日本はアジア地域でいち早く産業化を果たし、先進国の仲間入りを果たした。彼らの偉業には、畏敬の念を覚えずにはいられない。
ただし、そういう「優秀な人材」の存在だけでは、国の運命を説明できないというのが、この記事の趣旨だ。世界地図のなかで有利な場所にあるかどうか。そして、歴史上の偶然のできごとに恵まれているかどうか。そのような偶発的な要素が、国の運命には大きく影響する。
歴史をふり返れば、優れた指導者がやがて独裁者に変わってしまう例は枚挙にいとまがない。クロムウェルにせよ、ナポレオンにせよ、当時の人々から熱烈な支持を集めるほどの「優秀な人材」だった。ところが、彼らは優秀であるがゆえに、経済的に合理的な行動を取った。当時のイギリスやフランスは、独裁者として振る舞うことが利益になる状況だった。だからこそ、彼らはそうなってしまった。
17世紀インドネシアのスルタンたちも、特別に愚かな人々だったとは考えにくい。むしろ、その時点では極めて合理的な選択をしていたのではないかと思う。隣国との争いに勝つために、欧州からの武力提供を受け入れた。ところが、そういう合理的な選択を重ねていった結果、数世代後には傀儡政権へと堕してしまった。
幕末の日本に話を戻すと、当時の江戸幕府は内戦を防ぐだけの影響力はありつつも、それほど専制的・独裁的ではなかった。少なくともハプスブルク家のような絶対的な権力は持たず、各藩にはある程度の自治が許されていた。この状況は、英国でマグナ・カルタが作られたころ(※地方貴族がわりと強かった)や、名誉革命が起きたころ(※上層農民や豪商が力をつけていた)に似ていなくもない。
権力者が絶対的な支配力を持っていれば、その立場を巡ってみんなが争う。一方、権力者の力が弱すぎると、内戦が相次ぎ、世紀末状態になってしまう。内戦を許さない程度には中央政府に力があり、なおかつ権力者の支配力がそれほど強くない状況──歴史的にはわりと珍しい状況──では、物事を話し合いで解決することが合理的になる。議会を作り、憲法を決めて、選挙を行うことにメリットが生まれる。
幕末の日本は、そういう状況だった。だからこそ、封建制から立憲君主制への転換に成功したのだ。もちろん当時の日本にも、新しい政治体制に不満を抱く者がいて、戊辰戦争や西南戦争が起きた。しかし大半の人々にとっては、民主主義と立憲主義を選ぶほうがメリットが大きかった。
繰り返しになるが、この記事は日本の偉人たちを否定するものではない。もしも「優秀な人材」がなければ、日本は先進国になれなかっただろう。しかし、優れた判断力を持つ人物は、その優秀さゆえに合理的に振る舞い、現代の水準で見れば間違った選択をしてしまうことがある。優れた人物が正しい選択を下すには、その選択がメリットになるような「状況」が必要なのだ。
地理、資源、政治体制、人材、そして偶発的なできごと──。
それらのうち何か1つでも欠けていたら、今の日本はない。
【2017/11/03 追記】
インカ帝国のように交易の要衝ではない地域も植民地化されているのはなぜか? また、オランダは向こうから頭を下げて交易を求めてきたではないか? という疑問が寄せられた。いい論点だと思うので追記したい。
考慮すべき点は、三点。
第一に、植民地支配が行われた時代が1世紀以上も違うこと。コロンブスが新大陸に到達したのは1493年、スペイン人がインカ帝国を征服したのは1573年だ。一方、(16世紀にはポルトガル人の独占していた)アジア貿易にオランダ人が参入して競争が激化するのは、17世紀になってからだ。少なくとも百年以上の時代の違いがあることは、頭の片隅にとどめておきたい。
第二に、航海の難易度が違うこと。大西洋の横断には、コロンブスでも二ヵ月少々しか要しなかった。一方、1595年4月にオランダを発ったコルネリス・ド・ハウトマンの艦隊がジャワ島のバンテンに錨を降ろすのは、出航から14カ月後のことだ。コロンブスから100年以上後の時代になっても、アジアの極東地域との航海にはこれぐらい時間がかかった。
冷蔵技術も充分な医療知識もない時代だ。ビタミンCの欠乏による壊血病で、多数の船員が命を落とした。ヨーロッパ人にとって極東地域への旅は、かなりの疲弊・消耗を伴うものだった。若い男たちが大挙して押し寄せて侵略するなんてことが簡単にはできないくらい、アジアとヨーロッパは離れていたのだ。
だから、最初から植民地化を考えるよりも、まずは現地の支配者と交易の約束を取り交わすほうが合理的だった。のちに植民地化されるインドネシアの王たちにも、ヨーロッパ人はまずは頭を下げて交易を求めた。日本にそうしたのと同様に、である。
第三に、侵略戦争の難易度が違うこと。この論点は、愛国心に燃える人たちを喜ばせるものだと思う。ヨーロッパ人がアジアで競争を拡大するのは17世紀だが、日本の歴史でいえば江戸の初期で、戦国時代を経験したばかりだった。当時の日本人は戦争慣れしており、おそらくヨーロッパ人の目には簡単に侵略できそうな相手には見えなかったはずだ。
たとえば南米の先住民は、馬を持っていなかったが、日本人はそれを持っていた。前近代の戦争で馬が強力な兵器だったことは言うまでもない。また、南米の先住民は鉄砲を持っていなかったが、日本人は持っていた。1543年に種子島に到着したポルトガル人が、それを教えてしまったからだ。
さらに、南米の先住民は文字を持っていなかった(※一部の民族は持っていても失ってしまった)が、日本人はそれを持っていた。春秋戦国時代から続く中国の戦記軍略を知ることができたし、武家七書を研究することもできた。ブログ記事本文の繰り返しになるが、明王朝の時代までは中国は世界でもっとも先進的な地域だった。そこから多くを学べるほど隣接しており、侵略されない程度に離れていたことは、日本にとって幸運だったと言っていい。
加えて、南北アメリカ大陸は人口密度が低く、ユーラシア大陸の文明国に比べて疫病が蔓延しづらかった。病原体が進化しにくかったのだ。そのため、ヨーロッパ人の持ち込んだ強力な疫病により膨大な死者が出た。ところが、極東アジアでは古くから人口稠密な都市が形成されており、病原体を〝育てて〟いた。ヨーロッパの感染症に一方的に殺されることがなかった。現在でも、日本に長期滞在する外国人は日本脳炎の予防接種を受けるものだ。
馬、鉄砲、文字、病原体――。このあたりが、南北アメリカの先住民と旧世界の住民との違いである。もちろん日本人も、ここでいう「旧世界の住民」に含まれる。この話題は『銃・病原菌・鉄』が詳しいので一読をオススメしたい。アジア地域でも早期に植民地化されたフィリピン等は、これらの要素のうちどれかが欠けていたのかもしれない。(フィリピン史に詳しい人に教えを乞いたい)
反面、同じアジアでも日本と同様の条件を満たす地域はある。馬と鉄砲で戦場を血に染めた歴史を持ち、文字で記録を残し、断続的な疫病に悩まされる――。そういう似たような条件を持ちながらも、植民地化された場所とそうでない場所があるのはなぜか? この疑問に答えようとすると、「交易の要衝になりうるかどうか」を無視することはできないはずだ。
最後にロシアの圧力についても簡単に書いておこう。
ロシア帝国がハバロフスクやウラジオストク等の極東地域の開発に着手するのは、19世紀後半だ(※だからこそ20世紀初頭の日露開戦につながるわけだが)。しかし、今回の記事では大航海時代から近世までという長い期間を扱った。この数世紀のなかで、ロシアが日本にとって目と鼻の先の存在になるのは、最後のほんの数十年にすぎない。「なぜ日本は植民地化されなかったのか」という疑問を考えるうえで、ロシアはそれほど大きな論点にはならないだろう。
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このブログが書籍になりました。
◆参考文献等◆
[1]これが第二次世界大戦前のアジアの地図です(キリッ→間違いだろ常考 - Togetterまとめ
[2]『何度でも書きます。これが戦前のアジアの実態』←違います - Togetterまとめ
[3]板谷敏彦『金融の世界史』新潮選書(2013年)p187
[4]マージョリー・シェファー『胡椒 暴虐の世界史』白水社(2014年)p72
[5]永積昭『オランダ東インド会社』講談社学術文庫(2000年)p138
[6]マージョリー・シェファー(2014年)p100~102