子供たちの健気さに何度も涙腺がゆるんだ。子供は親を選べない。どんな不運に見舞われても、それ以上“下”へと落ちることを拒み、這い上がろうとする――それは強さだ。高潔さだ。恵まれた環境で安穏と育った人には、かんたんには身につかないものだ。
- 作者: 保坂渉,池谷孝司
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2012/05/18
- メディア: 単行本
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ここに登場する子供たちは、強い。
たとえば睡眠時間を削り、ときには駅のトイレに泊まってでもアルバイトをする高校生。発達障害の母親を持ちながら、彼女と一緒に暮らして支えようとする中学生。誰にでもできることではない。カラダを売ったり、犯罪に走ったり……道を踏み外してもおかしくない状況に彼らは置かれている。だけど、子供たちは踏みとどまる。視線を前に向けて、日の当たる場所を歩いて行こうとする。生半可な強さではない。
きっと、彼らはとくに強い子なのだろう。このルポの裏側には、彼らほどの強さを持たない子供がたくさんいるのだろう。本書に登場するのは、救いの手が届いた子供たちなのだ。人は弱く、いつでも救いがあるとは限らない。本人にはどうすることもできない“運”の良し悪しで、人生は決まってしまう。
家のない少女たち 10代家出少女18人の壮絶な性と生 (宝島SUGOI文庫) (宝島SUGOI文庫 A す 2-1)
- 作者: 鈴木大介
- 出版社/メーカー: 宝島社
- 発売日: 2010/10/07
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- 作者: 鈴木大介
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- 発売日: 2010/03
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宮台真司の功罪は「援助交際」という言葉を作ったことだ。彼自身の失敗というよりも、彼のフォロワーの罪というべきだろう。宮台のフォロワーたちは、「少女たちが売春する」という状況を文化的な文脈でしかとらえなかった。風紀の乱れ・倫理観の崩壊という側面でしか考察しなかった。経済的な背景が黙殺されてしまったのだ。
文化や価値観には、つねに経済的な背景がある。
たとえば私たちは「日本人は昔から肉を食べなかった」と考えがちだ。ところが16世紀の日本では各地で畜産が行われ、牛馬が田畑を耕していた。肉食の文化も当然、存在していた。
しかし17世紀、江戸幕府が始まると人口が爆発して、動物よりも人間の労働力のほうが安上がりになった。そして農村から動物たちの姿が消え、人の手で土を耕すようになってしまった。
たとえば16世紀には飢饉があまり起きていないが、江戸時代に入ると大規模な飢饉が頻発するようになる。畜産の行われている農村では、不作のときは牛馬を潰せばいい。しかし江戸時代以降は、不作のときには人を潰すしかなくなった。
あるいは江戸時代、東海道には「伝馬」が配備され、東西の高速通信手段として重宝されていた。しかし時代が進むにつれて馬の数は減り、飛脚に代替されていった。ここでも人間の労働力が安価になったのがわかる。
人口の増加が食糧生産の増加よりも早く進み、人が人として扱われなくなる――「マルサスの罠」として知られる現象が、江戸時代の日本では起きていた。
こうした経済的な背景は、「生類憐みの令」に代表される仏教偏重の価値観と無関係ではないだろう。もしも戦国時代のように畜産の盛んな時代が続き、肉食文化が深く根付いていたら、「殺生を避ける」という戒律はきっと別の解釈をされていたはずだ。(※1)
文化や倫理観は経済的背景から逃れられないのだ。
なるほど少女たちが援助交際をするのは、倫理観が崩壊したからだろう。AV女優が容姿端麗になったのは、世間の価値観が変わったからだろう。
では、その背景にはどのような経済現象があるのか。
身もふたもないが、日本人の所得が減少しているからだ。若者たちが、つねに「プチ没落」のリスクにさらされているからだ。風紀の乱れも、少年犯罪も、経済問題と結び付けて考えなければ意味がない。
アダルトビデオ業界にみるリスクプレミアムの消失について
http://d.hatena.ne.jp/chnpk/20120110/1326149320
日本の若者はこれからもずっと不幸です/成功よりも「没落」の可能性のほうが高い理由(わけ)
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20120616/1339859333
◆
本書では大阪市の公立中学校の取り組みが紹介されている。貧困家庭に生まれた子供をサポートし、高校卒業まで見守るネットワークがあるらしい。これについて、野宿者ネットワーク代表の生田武志さんは次のように語っている。
塾なら割り切って「うちはお金をもらって勉強を教えているだけですから」と言えますが、少なくとも学校は「ここは勉強を教えるところだから子どもの貧困問題は考えなくていい」と言えるような社会状況ではありません。
一方、経済作家で人気ブロガーの橘玲先生は以前、次のように述べていた。
中学受験という現実を前提とするならば、もっともシンプルで効果的な方法が、学校と塾を一体化させることなのは明らかだ。
「教育問題」に関するあれこれ(橘玲公式サイト)
公立学校に塾が組み込まれれば、親は高い塾代を払う必要はなくなる。教育機会による経済格差の固定化が問題になっているが、公立小学校が進学塾を兼ねれば、賢いけれども貧しい家の子どもが偏差値の高い学校への受験機会を失うこともなくなるだろう。
ここでは子供の貧困問題は考慮されておらず、親の経済格差は「受験格差」という小さな問題としてしか把握されていない。あくまでも受験格差であって、学力格差ですらない、非常に小さな切り口でしか親たちの経済格差をとらえていないようにお見受けする。(※2)
本書について橘先生はどのようなご感想を持つのだろう。とても気になる。
また本書では、貧困家庭の小学生女児について次のような記述がある。
運動靴は穴が空いており、「どうせ足が濡れるなら」と二人ともサンダル履きで来たのだった。
「お母さんに靴を買ってもらいなさい」
小学校の保健室で河野が二人に言った。
「うち、お金がないから買えない」
夏が近づくにつれて愛と静香は服の汚れが目立つようになっていった。同じ服を何日か続けて着ることもあり、周りから「かわいいねえ」と言われた白いスカートは数日経つとすっかり黒ずんだ。食事も不規則になり、姉妹は深夜まで起きていた。
一方、超人気ブロガーのChikirinさんは以前から「格安生活圏」という構想を持っていらっしゃる。物価を低く抑えて貧乏人が快適に生活できる地域を、日本国内に作っていくべきではないか……という発想だ。
少子化にしても、「教育資金が払えないから子どもを生まない」のは、親に「お金がなくても子どもを育てられる」という選択肢が見えないからです。
年収200万円でも快適に――“格安生活圏”ビジネスの可能性
海外の格安生活圏に住んでいる人は誰も、子どもの習い事や塾、子供服やおもちゃなどに多額のお金はかけないし、大学進学もよほど優秀で奨学金がもらえる子どもでない限り、考えません。こうなると子育てに大金がかかるわけではなくなり、「低収入だから少子化」とはなりません。
格安生活圏を「スラム」と言い換えると理解しやすいだろう。当たり前だが、そういう地域では教育にカネをかけないのではなく、かけられないのだ。教育の機会に恵まれない子供たちが貧困から脱出できるわけもなく、貧困は固定化してしまう。それは社会的にも倫理的にも許しがたい事態だ。グローバル化とはプノンペンを東京にすることであって、その逆ではないはずだ。(※3)
本書についてChikirinさんがどのようなご感想を持つのだろう。とても気になる。
◆
腰痛は、ヒトに特有の病気だという。哺乳類のボディプランは本来、直立二足歩行をするようにはできていない。そのため腰に負担がかかり、腰痛になってしまう。ヒトがヒトとして生きる以上、避けられない病:それが腰痛だ。
貧困は、これによく似ている。健全な経済社会を営む限り、貧困はかならず生じる。この世から貧困をなくす魔法の方法など存在せず、その都度、対処療法的に解決していくしかない。貧困に陥った人が一生を貧しさのなかで暮らすことがないように。あるいは、貧困家庭に生まれた子供たちが、やはり貧困に陥ることのないように、受け止め続けるしかないのだ。
重要なポイントは、「日本と途上国とのどちらにも、それぞれの貧困問題がある」ということだろう。
たしかに日本の貧困層は、カンボジアの富裕層よりも豊かな生活をしている。優れたインフラに支えられ、肥満や糖尿と戦っている人さえいる。しかし、だからといって日本の貧困を救わなくてもいいことにはならない。
社会が変われば、貧困の定義も変わるのだ。
(高校教員の)藤井には苦い経験があった。5年前のことだ。授業中、携帯電話で話していた男子生徒に「電源を切れ」と注意した。
「俺の仕事と生きる権利を奪うのか」
猛反発を受けた。電話の内容は、その夜の仕事の依頼だった。
ダブル、トリプルワークで働く生徒たちにとって、職場の勤務シフト変更の連絡などを受ける携帯電話がなければ仕事にならない。
この20年ほどで、情報通信をめぐる社会情勢は激変した。
かつては“贅沢品”だったケータイが、靴や衣服のような生活必需品になった。電子機器が格安で手に入るようになった――この部分に注目すれば、社会は間違いなく豊かになっている。が、いまの子供が20年前よりも豊かな生活をしているからといって、彼らの貧困を解決しなくていい理由にはならない。社会が変われば、貧困の定義も変わるのだ。
狩猟採集生活をしていた時代から、身体的な差異は存在していた。農耕が始まってからは所有地の広さに差が生まれ、貨幣が発明されてからは貯蓄・所得の差が生まれた。貧困はヒトの経済活動から絶対になくすことができない。
だからこそ地道に対処しつづけるしかない。貧困層への支援が社会の治安を良くし、教育の充実が社会を発展させる。貧困層を支援したほうが、社会全体のトクになる:それが理解できる程度には、私たち人類は賢くなっているはずだ。
※ご参考
【読書感想】ルポ 子どもの貧困連鎖 ☆☆☆☆☆ ‐琥珀色の戯言
http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20120815#p1
カネ持ちにカネを配るな/年金の受給年齢引き上げや増税の前にすべきこと
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20120322/1332422160
(※1)たとえばイスラム圏であっても、トルコやインドネシアは戒律がゆるいと言われています。たとえば飲酒に対して寛容で、アラックという伝統的な焼酎が製造されています。これらの地域は昔から貿易の要所で、様々な宗教・思想の人々が行き来していました。経済的な背景によって宗教的な戒律の解釈は変わるようです。
(※2)橘玲さんを誹謗・批判する意図はありません。むしろいつも「勉強になるなぁ……」とありがたく拝読しています。それゆえに、ごく一部の私には共感できない部分が気になりました。
(※3)Chikirinさんはネット上で議論するつもりはないと宣言なさっています。(http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20120813 )したがって、私のこの記事は議論を吹っ掛けることを目的にしていません。ただ、ファンの一人としては、Chikirinさんが本書にどのようなご感想を持つのかは気になりました。
※※記事タイトルの「貧乏なやつ」とは、お二人のことではありません。橘玲先生とChikirinさんのことはガチで尊敬しています。タイトルが釣り気味なのは仕様です。