デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

学校があるかぎり、いじめはなくなりません

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重要なポイントは、大人も「いじめ」をするということ。
いじめは、あらゆる年齢層のあらゆる集団に存在している。にもかかわらず、いじめを学校の問題として語るのは、問題の矮小化にほかならない。いじめは子供だけの問題ではない。この社会に生きる私たち全員の病痾だ。
いまの学校は強制収容所だ。行きたくもないのに早起きをさせられて、会いたくもない連中と薄暗い部屋に閉じ込められる。学校に「通わせる」こと自体が、子供に対する人権侵害なのだ。学校に通わせることと、教育を受けさせることとは違う。現在はたまたま重なっているだけで、学校に通うことを強制する理由はない。
学校に行かないと社会性が身につかない――と、危惧する人もいるだろう。では、社会性(笑)を身につけた大人たちがどんな世の中を作っているのか。どんな生き方をしているのか。私たちが「社会性」だと思っている行動原理は、たぶん構造的にいじめを生む。
そんな社会性なんて要らねえよ。




      ◆




正直なところ、あまり教育を語りたくない。というのも、教育は誰にでも語れるからだ。いまの日本人はほぼ全員が学校に通った経験があり、誰もが教育について一家言を持っている。世の中の問題について二言目に「教育が悪い」と漏らす人のなんと多いことか。教育は諸悪の根源でも、魔法の万能薬でもない。「教育を変えるべき!」と息巻く人は、往々にして他に変えるべきものを知らない。



さて、「子供」が発見されたのは近代になってからだ。中世まで、私たちは子供を「小さな大人」として扱っていた。ヒトには誰にも似たような発達段階があり、その過程で得た知識・経験がその後の人生を決める――つまり子供の期間がある。現在では当たり前の考え方だが、常識になったのは最近だ。子供の期間と教育の重要性を結びつけたのがジャン=ジャック・ルソーであり、だから彼は「子供の発見者」と呼ばれている。
現代的な学校教育が始まったのは産業革命のころのイギリスだ。粒ぞろい労働者を育てるという必要にかられて、学校は始まった。教室に子供たちを詰め込み、チャイムに合わせて行動させ、“現場監督”としての担任教師が指導する――。現在も続いている学校教育は、もとをただせば工場の労働の予行練習だった。
日本の教育のルーツは、古くは中世の寺社教育にまでさかのぼるという。江戸時代になり戦乱がなくなると、人々は「教育の程度」が豊かさを左右することに気がついた。そして寺子屋が広まり、庶民にも教育が浸透していった。
18世紀のロンドンの識字率は30%、パリでは10%だったらしい。が、同じころの江戸では識字率が80%を超えていたそうだ。江戸の識字率が高かったのは武家出身者が多かったからだろう。が、日本全国でみても、明治元年の就学率は男子で40%超、女子で10%だったという。この高い教育水準が人的資本を潤し、明治維新から大正デモクラシーまでの日本の急速な先進国化を支えた。
かくして「学校に通うこと」は当たり前になった。



ところで、このブログではバカの一つ覚えのように「人類の歴史は200万年、ホモ=サピエンスに限っていえば20万年」と書いている。農耕が始まるよりもはるか昔、8万年ぐらい前からヒトは交易をしていたらしい、すごいよね。イヌを家畜化したのが1万2000年くらい前で、ヤギや羊、豚が8000年前。ウシや馬はもっと後だ。集権的な国家の誕生が4000年ぐらい前、この頃になってようやく貨幣が誕生する。へー、お金の歴史って意外と浅いんだね。……という話をたびたび書いてきた。


で、学校教育の歴史はたかだか200年だ。


なにが言いたいかといえば、「学校に通うこと」が当たり前でもなんでもないということ。
学校に通うことは、生まれつきプログラムされた本能的な行動ではありえない。決められた場所で、決められた時間に、決められた通りの行動をする――。これは私たちにとって、極めて不自然な行動だ。
だからこそ、ストレスが溜まる。
もちろんヒトは社会的な動物であり、仲間と一緒にいるだけで安心するようにできている。同じ目標を共有できることに喜びを感じる。ヒトのそういう性質に、学校という場所が合致しているのは認めよう。しかし、それでも、仲間でもない相手と顔を合わせる必要はないし、目標や価値観の一致しない他者と行動をともにする理由はない。学校に通うことを強制する理由はないのだ。
だからこそ、学校に通う子供たちは多かれ少なかれストレスにさらされる。
一人ひとりのストレスは大した量ではないかもしれない。心にこびりついたあかとして、放課後には洗い流せるかもしれない。しかし、落とされたあかは汚泥となって、教室の底に溜まっていく。一人ひとりのストレスはわずかでも、クラス全員分になればすさまじい量だ。積み重なった暗い感情が、特定の誰かに向かって一気に襲いかかる。それが、いじめだ。
こういう暗い感情が襲いかかるとき、それは犯罪行為として具体化する。窃盗、器物破損、傷害、恐喝、そして殺人。新聞用語としての「いじめ」は、これら犯罪行為をやわらかく表現するための言葉だ。売買春を「援助交際」と呼ぶようなものだ。曖昧で中身のない言葉を使うと、書いた側も読んだ側も、理解していないことを理解した気になってしまう。「いじめ」という言葉を、免罪符にすべきではない。




       ◆




・自分の意思で、仲間を選べない。
・自分の意思で、時間を選べない。
・自分の意思で、行動を選べない。



学校に限らず、いじめの生じやすい環境がある。とくに上記の三つの条件を満たす場所では、いじめが過激化しやすい。軍隊や警察のような職場でいじめが問題になるのは、この三つの条件から逃れられないからだ。現在の学校は工場労働の予行練習の場として設計されており、これらの条件から不可避だ。学校からいじめを無くすには、いまの学校そのものを無くすしかない。
現在、この条件を満たさない職場はとても少ない。程度の差はあれ、ほぼすべての職業で上記の条件が満たされいる。これは戦慄すべきことで、私たち全員がいじめの加害者・被害者になりうるのだ。
大人がいじめをやめない限り、子供がいじめをやめるわけないじゃん。





       ◆





教育とはなんだろう?
ある人は、知識を習得する/させることだという。ある人は、社会性を身につける/つけさせることだという。
私は「次世代の社会の一員を育てること」だと思う。
したがって教育について考えるということは、理想の社会について考えるということだ。次世代の社会をどのような姿にしたいのか、未来について考えるということだ。
学校でのいじめを無くすには、「学校に通うこと」を当たり前でなくするしかない。不登校や避難転校がスティグマにはならず、暗い感情が犯罪行為になる前に居場所を変えられる――。そんな世の中にしていくしかない。
頭の堅い人は言うだろう。「そんなんじゃロクな大人になれない」と。「大人になったら、嫌な相手とも付き合わなければいけない」と。なんという時代錯誤だろう。いまや地球上のどこにでも一晩で行ける。世界中の人と無料で何時間でも通話できる。この世界には70億人もヒトがいるのに、私たちの人生は3万日あるかどうか……。嫌いな相手と付き合っているヒマはない。
いじめを生み出すのは、「嫌な相手とも付き合うべき」等の誤った規範意識、社会性だ。そんな社会性を押しつけるなんて、ロクな大人ではない。
これからの社会で必要となるのは、嫌な相手と付き合う能力ではなく、居心地のいい仲間を見つける能力だ。どんなに優れた愛想笑いも、本気の笑顔には劣る。



ソ連の科学者コンスタンチン・ツィオルコフスキーは、ロケット工学の父として知られている。ロケット・エンジンの理論を発展させただけでなく、宇宙服や宇宙遊泳、人工衛星軌道エレベーターなどを考案した偉人だ。が、彼は高等教育を受けていない。9歳で熱病にかかり聴力を失い、13歳から独学を始め、16歳でモスクワに出て図書館の蔵書を読みあさったという。
エジソンはとくに有名だが、学校教育を充分に受けていない偉人は枚挙にいとまがない。当たり前だ、歴史上のほとんどすべての偉人は「学校」のない時代に生きていた。
いまの日本は強烈な学歴社会であり、学校教育のレールから外れることには恐怖がともなう。しかし歴史上のほんとうに優秀な人々は、世の中の枠組みのなかで評価されるのではなく、その枠組みをぶち壊したことで評価されている。大事なのは学歴ではなく――つまり何を与えられてきたのかではなく、何を得てきたのかなのだ。
行きたくない学校には、行かなくていいよ。





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