ニュースを見ていると、犯罪者の動機が没個性的なことに気付かされる。「遊ぶ金ほしさに」「むしゃくしゃして」「痴情のもつれが原因で」お決まりのキーワードだ。けれど私たちの心はそんなに単純ではない。実際には犯罪者一人ひとりに、個別の背景があるはずだ。心の闇と一口に言っても、そこには人それぞれの色がある。
しかし警察はヒマではない。個々の事件ごとに犯罪者の動機を詳述したりしない。自分たちに理解可能で、検察や弁護士、マスコミが語りやすい言葉へと落とし込んでいく。たとえばあなたが、先週のキャンプに持って行ったナイフを、うっかりカバンから出し忘れていたとする。銃刀法違反だ。警察の定型句で言い換えれば、これはナイフを「隠し持っていた」ことになる。
人は誰でも、遊ぶ金が欲しいときはある。むしゃくしゃすることだってある。痴情がもつれてどうしようもなくなる経験も珍しくない。そういう気持ちがあっても私たちは犯罪に手を染めず、一線を超えてしまった人だけが罪を犯す:そんなふうに私たちは理解している。けれど犯罪者の本当の気持ちなんて、本人にしか分からない。ニュースで語られる「動機」は警察の定型句であり、新聞記者の想像だ。私たちが感情移入しやすいものだからこそ、こういう心理は犯罪の動機として選ばれるのだ。
そういう意味で、こちらの記事は印象深い。
乳児の脚折り女に懲役4年6ヶ月「理想家族に嫉妬」
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012020101001349.html
栃木県足利市の子ども用品店などで2010年、抱っこした乳児4人の脚を骨折させたとして、傷害罪に問われた同市の無職五月女裕子被告(30)に宇都宮地裁足利支部は1日、懲役4年6月(求刑懲役7年)の判決を言い渡した。
宮崎寧子裁判官は判決理由で「被告が理想とする家族への嫉妬心を抑えきれず、抵抗できない乳児に暴力を向けた卑劣な犯行で、常習性が認められる」と指摘。
犯人の女性が、本当に「理想家族に嫉妬」していたのかどうかは分からない。「嫉妬」と一言でいっても、燃え上がるような嫉妬もあるし、冷たく湿った嫉妬もある。本当の気持ちは彼女自身にしか解らないし、その感情は本人にもうまく説明できないものかもしれない。しかしそれでも「理想家族に嫉妬」という言葉が選ばれた。
なぜなら、私たちにも理解可能な感情だと判断されたからだ。
遊ぶカネを欲しがったり、むしゃくしゃしたり、あるいは痴情に翻弄されたり。そういう誰にでもある感情の一つとして「理想家族への嫉妬」が選ばれた。理想的な家庭をねたんでいるのは、新聞を読んでいる私たちのほうなのだ。
私はあまり詳しくないのだけど、こういう若い女性犯罪者の動機として「理想家族に嫉妬」というのはある種の定型句になっているのだろうか。しあわせな結婚そのものを憎む女たちは、それこそ江戸時代の怪談話にも登場する。昔から「社会」は、女性たちをそういう視線で見つめてきた。「家事手伝い」が「ニート」になり、お見合いが消えて婚活パーティが残った。運や能力のない女性たちの生活は厳しさを増している。こんな時代だからこそ、「理想家庭」に向ける妄執はどこまでも深く、暗く冷たいのだろう。
◆
私が高校生のころだ。入院中の叔父の看病をしていた母が、ぷりぷりと怒りながら帰ってきた。当時、叔父は大腸癌を患っており、母は毎日のように病院に通っていた。帰宅するなりコートを脱ぎ捨てると、「あの分からず屋、手術中に麻酔が切れてしまえばいいんだ!」と怒鳴った。痛い思いをして反省しろ、という意味らしい。どんなに激怒しても「死ね」という一言を飲み込んだのは、大人としての理性を働かせたのだと評価したい。
訊けば、怒りの原因はパンツだという。
入院初日から、叔父は一枚のトランクスを、ハンガーにかけてベッドの枕もとにつるしていたらしい。色あせてゴムの伸びたトランクスだ。「こんな古いパンツは捨てちゃいなさいよ」と母は言い、(世の中の母親という人種がみんなそうであるように)返事を待たずに言葉を実行しようとした。
すると叔父は激怒した。
下着の管理ぐらい自分でできる。子供じゃないんだから、勝手なことはするな。どんなパンツをはこうと俺の自由だ。そのトランクスに手を触れるんじゃない――。こうなると、私の母も黙ってはいない。いいじゃない、こんな古いパンツの一枚ぐらい。あんたの下着なんて子供のころに何度も洗ってやったわよ。今さら「触るな!」だなんてバカ言わないで――。
二人は年甲斐もなく、怒鳴りあいの姉弟げんかをしたそうだ。同室の患者さんたちはさぞ迷惑だったろう。
私はこの話を聞いて「なるほど」と思った。
詳しくは書かないけれど、私の叔父は典型的なブルーカラーとして働いてきた。仕事中に事故に遭う可能性も、決して低くはない。だからきっと、家族にも言えないような「危ない経験」だって一度ならずしているはずだ。そういう「死にかけた時」にはいていた下着が、そのトランクスなのではないか。いわば「げんかつぎ」だ。命を助けてくれた奇跡のパンツだからこそ、枕もとにつるしていたのだろう。
きっと叔父も怖かったのだと思う。
叔父の大腸癌は早期に発見されたため、まず命には関わらないと医者は断言していた。しかしそれでも癌は癌だ。「もしも俺が死んだら、愛車のトライアンフは譲ってやる」なんて、ガラにもない弱気なことを言っていた。私は大型二輪の免許を持っていないし、そもそもそのバイクはまだローンが残ってるだろ――というツッコミを必死で飲み込み、私はベッドの叔父を励ましていた。医者は平気だと笑っていたけれど、万が一ということもある。叔父はきっとそういう恐怖心にさいなまれていたのだ。だからこそ、奇跡のパンツをおがまずにはいられなかった。
人は心に余裕がなくなると、変なものを信じるようになる。
私にも似たような経験がある。中学生のころ、おまじない好きの女ともだちから「わりばし占い」を教えてもらった。ファミレスやラーメン屋でわりばしを綺麗に割ることができたら、好きな人と両思いになれる。そんな他愛もない占いだった。私も最初は信じていなかったのだけど、繰り返しているうちにだんだんとのめりこんでいき、最後には綺麗に割れなかったら一日中ブルーな気分になるほどハマってしまった。わりばしを一袋買って綺麗に割る練習をしようか――と真剣に検討したことさえある、ただの森林破壊だと気付いて思いとどまったが。
癌に比べたら、笑ってしまうぐらい小さな悩みだ。
けれどクラスに次々とカップルが誕生していた中学二年生のあの頃、私はたしかに心の余裕を失っていた。だからこそ、わりばし占いなんてヘンテコなものを信じてしまった。綺麗に割れたときは翌々日ぐらいまで上機嫌だった。人から見れば「変なもの」でも、当時の私には心の支えになっていたのだ。
奇跡のパンツをあがめたり、わりばしを割ることに真剣になったり――。イワシの頭も信心というけれど、私たちは時々、「ヘンテコなもの」を心の支えにしてしまう。
だからこそ私は怖い。
乳児の脚を折るなんて、異常者のすることだ。少なくとも私たちはそう信じて日々を過ごしている。犯罪に走るような人とは生まれつき心のつくりが違うのだと、根拠もなく信じている。だけどもしかしたら、パンツやわりばしに心をゆだねることの延長線上に、そういう許されざる犯罪行為があるのかも知れない。私たちは自分のことを「普通」だと考えがちだ。だけど人の心はそんなに確実ではない。自分だと思っていた人が、また違う顔を見せる――。そんな経験を繰り返しながら、私たちは大人になる。犯罪者と私たちとの間を隔てているのは薄い氷一枚で、ちょっとでも気を抜けば道を踏み外して、暗く冷たい感情に支配されてしまうのではないか:そう思うと、すごく怖い。
理想の家庭なんて時代とともに移り変わるし、しあわせを感じられるかどうかは気の持ちようだ:が、理屈ではそう解っていても、私たちの心はそんなに器用ではない。あたたかで優しい家庭を夢見ながら、そうではない自分と向き合いつつ、誰かの赤ん坊を抱く。そんな時、人はどんな感情を抱くのだろう。そして赤ん坊の脚を折ったとき、この犯人はどんな気持ちになったのだろう。異常な泣き声を耳にしながら、胸がスッとしただろうか。
これが警察やマスコミの語った犯人の「動機」だ。そしてこの動機が選ばれたのは、私たちにも理解可能で感情移入ができるものだからだ。
人はみんな心に闇を持っている。大事なのは、その闇と上手くつきあうことだ。誰かを傷つけるぐらいなら、わりばしやトランクスを心の支えにするほうがずっとマシだ。
私たちはみんな、自分だけの「奇跡のパンツ」を見つけるべきなのだ。
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