不定愁訴というものがある。
とくに老人に多いのだが、なんとなく調子が悪い、体がだるい――と訴えて病院を受診する。それじゃあ検査をしてみましょうということになるのだけれど、疾患が見つからない。いたって健康だという結果になってしまう。医者も患者も困惑するばかりだ。
誰だって歳を取ればカラダが衰える。歯や髪が抜けて、膝や腰がシクシクと痛み、若いころのような無理はできなくなる。しかし病気が見つからない以上、どんなに調子が悪くても「健康」という診断を下すしかない。
「老人の健康」には、こういう矛盾――というかなんというか、判断に迷うところがある。歳を取ること自体が不健康なのだ、と言ってしまえばそれまでだけど、No one lives forever。ノスフェラトゥは実在しない。
健康な老人は多い。けれど彼らは、風邪を引いた高校生よりも体力で劣る。
「健康な老人」という言葉は、一見矛盾する二つの要素を持っているのだ。
そんな話を、こちらの記事を読んで思い出した。
「若者ってかわいそう」なの? 20代の70%が今の生活に「満足」
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20111116dde012040015000c.html
「気の合う仲間と日常を楽しむ生き方。野望を抱いたりせず、友だちと一緒にご飯を食べられたら幸せ、みたいな」。そういう感覚が若者に広まっている。(中略)「世代間格差や若者貧困論を一番言いたがるのは40代。将来が不安なのは中高年の方では? 不安を若者に転嫁し、弱者を代弁するふりをしているだけ」
記事中でも触れられているが、世代間格差は火を見るよりも明らかだ。いまの日本の若者たちは、それ以前の世代に比べて明らかに“めぐまれていない”。はっきり言って“みじめ”だ。にもかかわらず、自分たちの生活に「満足」し、「幸せ」だと答える。これはなぜだろう。
たとえば社会の体制――ジェンダーフリーが進み自由が大きくなったからだとか、ネットの整備が進んだからだとか、そういう理由をつけて説明を試みる人は多い。しかし不景気のあおりを受けて就職が決まらない女子大生の隣で、彼女よりも脳みそ空っぽな男子大学生が内定を手にしている。不況になるほど企業は保守化し、男女の就業機会の溝は深まる。そんな現状を見てしまうと、能天気に「いまはジェンダーフリーの時代だぁ!」なんて思えない。(ご立派な大学を卒業なさった賢い人たちの事情はしらないけれど)
そして何よりカネの面に注目すれば、私たち10代・20代の若者は将来、大損することが決まっている。カネはどんなにあっても幸せにはなれないが、貧乏はそれだけで不幸だ。デフレが進んだというけれど、あわせて私たちの所得も激減した。なのに、なぜ、いまの若者は「満足」できるのだろう。
その点、“人は『将来、今より幸せになれる』と思った時、今に満足しなくなる。逆に『これ以上幸せになれない』と思うから、今に満足する”という古市さんの指摘は正しい。どんなに健康であっても、70歳の老人が10代の体力を求めたりしない。無理をして若者の真似をしても失敗するのがオチだ。
「老人」と「健康」が一見矛盾しそうで両立するように、「みじめ」と「満足」とは両立する。「めぐまれていない」けれど「幸せ」という状況は、「健康な老人」によく似ている。年寄りの冷や水がイヤだから、若者たちは現状に満足するのだ。
ただ古市さんの主張はちょっと後ろ向きすぎるというかなんというか、ええかっこしいと思う。大人から喜ばれる優等生の意見って感じ? 同世代として共感できない部分があまりにも多い。「これが今の20代を代表する意見だ(ドヤァ」とか言われると、正直、もにょる。すげーもにょる。
◆
◆ 七割の若者がいまの自分を幸せだと思っている
裏を返せば、自分を幸せだと思えない人が3割もいるということ。
これは日本人における血液型O型の人の割合とほぼ同じだ。ちょっと目を閉じて、身近なO型の人たちを思い浮べてほしい。その人たちと同じぐらいの頻度で「幸せだと感じない」若者がいる。この人数を多いと感じるか、無視できるほど少ないと感じるかは、あなた次第だ。
こういう「世間の○○な人の割合」は、世の中の方向性を調べるのには役立つ。が、一般化するには注意が必要だ。第二次大戦中、ドイツ人口に占めるユダヤ系の割合はごくわずかだった。しかしそれでナチスの迫害が肯定されるわけではない。
少数の不幸は無視していい――と断言できるほど、私たちは野蛮ではない。7割の若者が「満足・幸せ」だと答えたからといって、それを若者全体に一般化することはできない。
◆ 希望があるから不幸になる。今の若者は高望みしないから幸せだ。
古市さんは「今の若者には希望がない、希望を持てない」という事実を認めてしまっている。この発言の背景には、「もしかしたら希望に満ち溢れていたかもしれない僕ら」がいる。しかし、そういう想像上の僕らとは裏腹に、現実の僕らは希望を持つことすら許されなかった。
希望が無いって、それだけで“かわいそう”なことじゃないの?
◆ ヒトは「逃避」する生き物
人間の我慢強さについて、面白い研究結果がある。4歳児とマシュマロを使った実験だ。
マシュマロを15分間食べずに我慢できたら、もう一個マシュマロをあげます――というルールで4歳児を小部屋に招き、目の前にマシュマロの載った皿を置く。この実験で、マシュマロをじっと見つめていた子供はことごとく我慢に失敗した。15分間耐えることができた子供たちは、顔を手で覆ったり、おさげの髪をいじったり――マシュマロを意識の外に追いやることができた子供たちだった。なかにはマシュマロをぬいぐるみに見立てて遊び始めた子供もいるという。想像してみるとすごく可愛らしい――ってか、めちゃくちゃ可哀相! 研究者ってヒドイ!(笑)
この実験から分かるとおり「我慢」とは歯を食いしばって耐えることではない。目をそらし、気を紛らわし、忘れ去ることだ。別のもっと楽しいコトを考えることだ。
だから「自分は幸せだ」という人がいても、それが、その人が心から希望した“幸せ”なのか、それとも本当の幸せから目をそらした我慢の結果なのか、観察者には(もしかしたら本人にも)分からない。
参考:「我慢できる人」は脳が違う?
http://bit.ly/p2aIyw
では、なぜ「本人にも分からない」のか:それはヒトの心が、本質的に自由ではないからだ。
◆ ヒトは自分で自分をコントロールできない
誰しも自分の心を、自分のものだと思いこみがちだ。だから自分が下した判断は、いずれも自分の効用水準を高めるものだ――と勘違いしてしまう。しかし、ヒトの心はそんなに堅牢ではなくて、あぶない言葉を耳元で囁かれるだけで、簡単に自殺を選んでしまう。終戦間際の日本帝国にせよ、現在の自爆テロにせよ、「洗脳」はさまざまな形で利用されてきた。
そんな極端な例を持ち出すまでもないだろう。
価値観は、その人が育ってきた環境に左右される。自分ではコントロール不可能だ。
イギリスのドキュメンタリー番組『Jamie’s School Dinner』に登場した子供たちが印象的だった。この番組は、英国のあまりにもひどい給食事情を、人気イケメン料理人のジェイミーが立て直すというもの。メシマズ大国として悪名高いイギリスだか、公立学校の給食は「最悪」の一言。正体不明の素材を使ったフライに、脂ぎった成形肉――日本人の私たちなら、口にすることさえためらうレベルだ。
少ない給食予算をやりくりしながら料理人ジェイミーは奮闘する。イギリス人だからといってあなどることなかれ、世界中で修業をつんだ彼の料理はどれも一級品だ。野菜がたっぷりと使われて、見るからにヘルシー。
しかし、子供たちはまったく喜ばないのだな。
生野菜を食べたことのない子供たちだ。彼らの舌は「これは食べ物ではない」と判断してしまう。ズッキーニとたまねぎのグリル? トマトとひよこ豆たっぷりのスープ? そんなまずいモノよりも、いつものフライドポテトを出せ、と。――日本人が昆虫食に馴染めず、アメリカ人が頭のついたシシャモを食べられないのと同じだ。育った環境は、私たちの価値観・判断基準に強い影響を与える。これは食べ物だけではない。
母親・父親からどんな言葉をかけられたか、どんな友人と出会い、どういう人間関係を作ってきたのか――あなたの価値観は、今まであなたが出会った人たちからの刺激によって形成されている。自分の頭で考えるということは、自分のなかの他者と対話するということだ。そういう意味で、完全に自分“一人”でモノを考えるのは不可能だ。ヒトはどこまでも社会的動物だ。
さらに、遺伝的・生理的な影響も無視できない。
寝不足では判断力が鈍るし、機嫌も悪くなりがちだ。私たちの心が体のコンディションと無関係でないことは、よく知られている。寝不足はごく身近な例だが、遺伝的な影響や、発達段階での脳神経の発達も無視できない。楽天家、悲観論者、皮肉屋、笑い上戸――私たちが「個性」と呼んでいるものの多くが、生得的な影響から逃れられない。
脳内で自らをコピペしまくる遺伝子と人間の個性-蝉コロン
http://d.hatena.ne.jp/semi_colon/20111101/p1
幸福の遺伝子、または喜びの伝達物質-山形浩生の「経済のトリセツ」
http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20111111/1320995562
こうして見てきたように、私たちの心は、私たち自身でコントロールしきれるものではない。私たちが「幸せ」だと感じたからといって、それは私たちの脳細胞が、脳内麻薬で見せた幻かも知れない。「つらい」と感じ続けていると、いつか気が狂う。それを防ぐための防御反応として、私たちは大して幸せでもないことを「幸せ」だと感じるようにプログラムされているのかも知れない。
あなたは「自分が幸せかどうか」の判断を、自分一人ですべきではない。
自分自身のセリフほど疑わしいものはないからだ。
◆
古市さんやその研究仲間は問う。
「フリーターや派遣で働いていて、学歴も経験もない若い子たちがキャリアアップできる仕組みが、この社会にありますか?」
「頑張ってもその先に楽しそうなものが見えないのよね。頑張ってる人も幸せそうじゃないし」
こういう「お先真っ暗」な感覚は、私たち同年代に共通するものだろう。社会のどの階層を取っても、上から下まで、先行き不透明な空気に支配されている。
私たちがすべきことは、どうすればこの空気を払拭できるのか考えることだ。私たち若者が「夢」や「希望」を当たり前に持つためには、どうすればいいだろう。フリーターや派遣からスタートしても、安定した壮年期を手にして幸福な老後を迎えられる――そんな世の中を作るためには何ができるだろう。
しかし古市さんは言う。
「若者が頑張ることのできる仕組みもない社会で『夢をあきらめるな』なんて言うな。むしろあきらめさせろ」
ここが後ろ向きすぎる。大人に文句を言わないイイ子ちゃんになろうぜ、って呼びかけているのだ。だまれ優等生。 学校教育は、優等生が得をする仕組みに支配されている。その価値観を大人になっても引きずるのは、個人の生存戦略としては合理的かもしれない。実るほど頭を垂れる稲穂かな:腰を低くして生きていれば、流れ弾に当たらずに済む。
しかし、問題の本質は「なぜ頑張ることのできる仕組みがないのか」だ。夢を諦めるべきかどうかは個人の問題だけど、こちらは社会構造の問題だ。ていうか、社会学者ってこういう社会の構造を研究するんじゃないの?
社会の抱えた慢性疾患を、個人の行動へと矮小化してはいけない。
◆
人はパンのみに生きるにあらず、だ。少年マンガのくさいセリフみたいでカッコ悪いけれど、ヒトは夢や希望のために生きている。本当に――深層心理のいちばん深い部分から、将来への希望がなくなったら、ヒトはたぶん生きていけない。
あなたが生きているのは、
あなたが、まだ未来をあきらめていないからだ。
こんな世の中を変えてくれるヒーローを待つのは、もうやめよう。あなた自身がヒーローになる必要もない。特別な行動を起こす必要はないし、匿名のままでいい。ただ、自分の気持ちを認めるだけでいい。自分のほんとうの望みに素直になればいい。あなたの望みが叶わないのは、半分はあなたの責任、もう半分はいまの世の中を作った誰かのせいだ。
あなたのような人が増えれば、それだけでチカラが生まれる。「同じ気持ちの人」がたくさんいるだけで、いまの世の中は変わる。ガラリヤのトリックスターも言っている、求めよ、されば与えられん。
足もとの小さな幸せに満足して、本当の希望から目をそらすな。
もう我慢しなくて、いいんだよ。
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