「いまの若い人は俺が若いころよりも恵まれている」という言葉は、豊かさが幸福に直結した時代の人のセリフだ。
たしかに通信費が下がったとか飢餓が激減したとか、絶対的な尺度から見れば、現代人は過去100年でいちばん幸福であるはずだ。が、日本では多くの人が閉塞感を抱え、サッドな気持ちで日々を過ごしている。自殺は減りそうにない。世界でも飛び抜けて豊かなこの日本で、これはなぜだろう。
それはヒトの幸福感が絶対的な指標によってではなく、相対的な指標によって左右されるからだ。
派遣社員は正社員をうらやみ、正社員は役員をうらやみ、経営者たちは高級官僚をうらやむ。自分より格下の女が自分の彼氏よりもイイ男を捕まえるのを見ると落ち着かない気持ちになる。隣の家より洗濯物を白くしたい──私たちは自分と他人を比べずにはいられない。
相対的幸福に翻弄されるのはそれだけで不幸だ。しかし、誰かと比べるのはたぶん私たちの本能のようなもので、否定することはできない。私たちは嫉妬とうまくつき合いながら生きていくしかない。
「ヒトの幸福度は相対的なもの」だとすると、「みんなが幸福になる方法」なんてあるのだろうか。人々の栄養状態が平等になり、健康状態が平等になり、そしてカネの分配が平等になったとしても、私たちは幸福を感じないだろう。どんなわずかな格差にも、ヒトは嫉妬と敗北感を覚えるはずだから。
◆
誰かの「幸福」は、他の誰かにとっては耐え難い苦痛かもしれない。誰か偉い人の決めた「幸福」を押しつけられても、私たちが幸福になることはない。たしかにカネや衣食住の平等は豊かさの証であり、幸福の土台となるものだ。しかし、物質的な平等だけでは私たちは幸福にはなれない。
◆
みんなが幸福になる唯一の方法は「機会の平等」を実現することだ。
いまは誰かよりも劣っていて、ルーザーな感情に包まれているとしても、そこから脱出できるのなら話は別だ。嫉妬はネガティブな感情ではない。嫉妬はヒトを突き動かす原動力だ。解消できない嫉妬だけが絶望に変わる。
みんなが幸福になる唯一の方法は「機会の平等」を実現することだ。
なにを幸福だと感じるかは、人によって違う。一人ひとりが自分の幸福を追求できなければ、全員の幸福はありえない。アインシュタインはこう言っている。「すべての人は天才だ。しかし、もしも魚が木登りの能力で評価されるとしたら、その魚は自分をばかだと思って一生を過ごすだろう」
みんなが幸福になる唯一の方法は、「機会の平等」を実現することだ。
いまの日本には閉塞感が充満しているという。その理由は機会や可能性の平等が実現されていないからだ。自分が「なれるもの」よりも「なれないもの」のほうが多い。それがいまの日本人だ。
たとえば「いい学校を出ていい会社に入って……」「女なら高収入の男を捕まえて幸せな家庭を築いて……」これら昭和の物語のなにが悪いかといえば、機会の不平等を際立たせるからだ。ゴールが一つしかないのなら、よりゴールに近い場所からスタートする人間のほうが有利に決まっている。ゴールの多様性が重要なのは、それが機会の不平等を緩和するからだ。魚は水に返してやろう。
◆
アメリカの独立宣言にはこう書かれている:
「(人は)生存、自由そして幸福の追求を含む侵すべからざる権利を与えられている」
生存や自由と同等なものとして「幸福の追求」が掲げられている。あらゆる人の幸福を達成するためには、幸福追求の平等が──つまり「機会の平等」が必要不可欠だと、アメリカ人は240年前から知っていた。
たとえいまは暗い気持ちに支配されていて、幸福感の欠片も感じられないとしても、そこから脱出できる可能性があれば人は救われる。多様な可能性、開かれた可能性……。将来に可能性を思い描けるのなら、それは人を生かす力になる。
希望とは、幸せになれる可能性のことをいう。
.