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みんな知ってる? お金ってまぼろしかも知れないんだって!/競争原理の限界と貨幣言語説

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日本の戦後史は民営化の歴史だ。電電公社国鉄、郵便局、そして大学……。さまざまな政府機関が市中に下った。その理論的な支柱になったのは「競争原理」だ。競合他社に負けないためには生産物の質を高め、逆に価格は下げなければいけない。競争が継続することで製品やサービスはどこまでも高品質・低価格になり、結果、私たち消費者に恩恵をもたらす――。これが「競争原理」支持者の基本的な方便(ほうべん)だ。
日本のインターネット回線は世界一速いと言われている。電話・通信が国に独占されている状態では、情報技術の開発は立ちおくれ、現在のような便利な生活は無かっただろう。たしかに「競争原理」は一定の成果をあげた。その結果、人々に「競争原理は万能である!」という印象を植え付けた。
さらに「競争原理」は、民営化により財政を緊縮したい施政者にとって、とても都合のいい理屈だった。かくして競争原理を礼賛する風潮が生まれ、私たちは「神(の見えざる手)による救済」を信じさせられた。


言うまでもなく、競争原理は万能ではない。
たとえば保育園の場合、民営化により「親たちの機嫌を損ねないこと」が最大の課題となる。子供たちの成長は二の次だ。すり傷ひとつで客が離れてしまうのなら、子供を園庭で走り回らせるよりも、一日中室内でディズニー映画漬けにしたほうがいい。いたずらを注意して「あの先生嫌い!」と親に告げ口されるぐらいなら、どんなワガママも見逃したほうがトクだ。お客様が神様である限り、乳幼児教育のプロであるはずの保育士は、ド素人の親たちに逆らえない。プロがシロウトの指示に従うという逆転現象が生じる。
ヒトは本来、利他的な行動を取るようにプログラムされている。ガンジー、マリア・テレサナイチンゲール……等々、その「献身」により名を残した人物はいくらでもいる。ヒトに限らず、生物は必ずしも個体の利得を優先して行動するわけではない。ヒトは“感情”を進化させることで、利他性を手に入れた。
ところが現在の貨幣制度は、この利他性を考慮していない。ヒト属の動物が発生したのがおよそ200万年前、現生人類の誕生は40万〜25万年前だと言われている。一方、史上最古の通貨は中国・殷王朝で用いられていたもので、たかだか4000年程度の歴史しかない。貨幣とは、人類の進化史からみればごく最近に生まれた概念なのだ。どんな赤ん坊でも生まれつき「自分より小さくて可愛いモノ」を喜ぶ。しかし「カネの使い方」は誰かが教えなければ理解できない。
民営化の理論的支柱となる「競争原理」は、貨幣制度がなければ成り立たない。その貨幣制度が人間の本質と一致していないために、前述のような「競争原理の限界」が顕在化する。競争原理を無条件に信奉する者は、ヒトという生き物の一部分しか見えていない視野狭窄なヤツらなのだ。
施政者は「競争原理」を言い訳に教育予算を削り、社会福祉を締め付ける。その一方、別の産業では不健全な独占・寡占を許して「競争原理」の機能不全をもたらし、取り返しのつかない大事故を誘発する。金融危機を引き起こした企業を救済したりする。この二枚舌っぷりには、呆れを通り越して苦笑いがこみ上げてくる。
現行の貨幣制度のもとでは、競争原理よりも優れた再分配の仕組みは存在しない。できる限り競争原理を導入すべきなのは間違いない。一方で、競争原理が万能でないことも明らかだ。
では「競争原理」を持ち込むべきでない産業とは、どのようなものだろうか。そして競争原理のない産業から、どのようにしてフリーライダーを減らすべきだろうか。



本日のもくじ:
1.献身産業
2.貨幣言語説
3.“良心”の競争原理
4.まとめ




      ◆ ◆ ◆




1.献身産業
民営化された病院では、小児科や産婦人科などの不採算部門はリストラされる。少子高齢化の時代だ。小児科の数は、子供の人口に見合った適正な点で均衡する。神の見えざる手の面目躍如といったところだろう。こうして、私たちは熱を出した赤ん坊を抱えて夜の街を右往左往することになり、21世紀だというのに妊婦が命を落とす。前述の保育園の例と同じように「競争原理の限界」がここにも現れている。
医療や教育などの部門では、民営化によりしばしばサービスの質が落ちる。経済的に過剰なサービスが適正なものに戻っただけなのだが、これらの産業では“適切な量”が必ずしも消費者の便益と一致しない。こういう産業のことを献身産業と呼びたい。なお、民営化に反対する勢力は「医療や教育などの部門では適切なサービスの質・量を貨幣価値により評価できない」と主張し、推進派は「できる」と主張する。見飽きた言葉の応酬だ。この議論は平行線をたどり、いつも水掛け論で終わる。
ただし、こういった産業の従事者には「献身」が求められる――という点だけは指摘しておきたい。だからこそ献身産業と呼ぶのだ。お金が欲しくて昇進試験に精を出す教師と、生徒指導のために試験勉強の時間が取れない教師。いったいどちらに自分の子供を任せたいだろうか。もちろん教師の評価方法にも問題があるが、しかし、評価方法のいかんを問わず「自分の収入よりも生徒の便益を優先する教師」はいなくならないだろう。どんな産業でも「献身的な従事者」は一定の割合で存在する。これは事実だ。(※1
献身的な行動は、なにもヒトだけに許されたものではない。たとえばカマキリのメスは産卵時にオスを捕食することが知られている。もしもカマキリが「個体の便益」を最大化するようにプログラムされているなら、このときオスは相手のメスを傷つけてでも逃げだし、他のメスとも交尾するはずだ。しかしカマキリのオスは甘んじて食われる。
あらゆる生物は、「遺伝子の便益」が最大となるように行動する。そしてそれは、必ずしも「個体の便益」とは一致しない。このあたりはリチャード=ドーキンス利己的な遺伝子』に詳しい。が、かなり分厚い本なので専門外の人はすべての生き物は「個体の利得」を最大化するために行動するとは限らないという要旨だけ押さえておけばオッケーなのである。
たとえばあなたの目の前で、子供が川で溺れているとする。その場合、川に飛び込む、浮き輪になるものを探す、レスキューを呼ぶ――程度の差はあれ、自分にできる方法でその子を助けようとするはずだ。貴重なあなたの時間を削って、なぜそんな利他的な行動をとるのか:私たちの遺伝子がそうさせるのだ。私たちの“心”は進化の産物である。私たちは個体の利益のためだけに行動するわけではない。なかにはガンジーやマリア・テレサのように極端に献身的な個体も生まれうる。それがヒトという生き物だ。
ところが「競争原理」支持者は、「各個人はそれぞれ自身の利得を最大化しようとするはずだ」という前提を無邪気に信じている。それが科学的に間違った理解であるにもかかわらず、ヒトはどこまでも利己的だという前提に立っているのだ。この矛盾が「競争原理の限界」の遠因だ。




2.貨幣言語説
ヒト属の動物が現れたのはおよそ200万年前、現生人類ホモ=サピエンスが誕生したのは40万年〜25万年前だ。それに対して貨幣は4000年程度の歴史しか持たない。貝殻や金属片を「他のものと交換できます!」と誰かが決めなければ、貨幣制度はうまく機能しない。貨幣の誕生には、中央集権的な国家の誕生が必要だった。いずれにせよ「貨幣の使用」が遺伝的にプログラムされた行動だと見なすのは無理がある。
貨幣の誕生以前には、「貨幣のない経済」が存在していた。人類史からいえばその時代のほうが長く、貨幣経済はもしかしたら一時的・例外的な経済体制かもしれない。有史以前には物々交換や性交渉を対価とした経済的取引がさかんに行われていただろう。/大人たちは狩猟におもむき、子供たちは採集にいそしむ。妊娠・授乳中のため食料確保に参加できない若いメスは、他の幼児たちの面倒を見る――分業により富の再分配が行われる、立派な「経済」だ。
貨幣がなくても経済は成立する。では貨幣とは何か?


結論からいえば、貨幣とは言語の一種だ。


たとえば食べ物なら「美味しい・まずい」「あまい・にがい」のように、味の「評価」を示す単語がたくさんある。石器のナイフにも、切れ味が「鋭い・鈍い」、重さが「軽い・重い」といった「評価」を示す語が存在していただろう。そういう「モノに対する評価」を「価格」という共通の尺度に翻訳したものが、貨幣である。
この世界をメタな視点から記述するという点で、「貨幣」は他の言語と同じだ。たとえばライオンは、なぜ「ライオン」と呼ぶのだろう。それはみんなが「あれはライオンだ」と思っているからだ。ではこの病弱な医者が描かれた紙切れは、なぜ1000円なのだろう。それはみんなが「これは1000円だ」と思っているからだ。「ライオン」という名詞も「円」という貨幣も、自然界に自明的に存在するものではない。どちらもヒトの手による「記述」があって初めて存在しうる。この点において、貨幣は言語の一種だと言える。
言語でありながら、「通貨」の存在により交換と保持が可能になった特殊なコトバ:それが貨幣である。「あの人は誠実だ」「あの人はうさんくさい」といった人物評を貨幣換算(=貨幣という言語に翻訳)したものが「信用」だ。
貨幣が存在しなくても経済は成立していた。しかし「価格」という共通の言葉を持つことで、経済取引は飛躍的に便利になった。とくに他の家族や他の集落との取引において、「価格を設定する」ことが可能になれば交渉がスムーズになる。イノシシ肉の一切れが栗の何個分に相当するか……のような不毛な議論をするよりも、それぞれの価格をみて「高い・安い」と判断するほうが簡単だ。
英語や中国、ましてエスペラント語などとは比較にならない。いまや貨幣は、最強の世界共通言語だ。


しかし貨幣は、言語ならではの弱点をあわせ持っている。
その昔、日本には「I love you.」に相当する言葉が無かった。そのため夏目漱石は「月が綺麗ですね」と訳し、二葉亭四迷は「君のためなら死ねる」と書いた。逆もまた然り。日本語は大量のオノマペトを持っているが、それを正確に翻訳できる英単語はない。米国人の友だちと(※日本語で)喋っているときに、うっかり「昨日はさんさんとした日差しのせいで暑かったね」と口走ってしまい、「さんさん」の説明に窮したことがある。
「さんさんって何?」
「日差しが強いことだよ」
「なんで日差しが強いと『さんさん』なの?」
「それは……えっと、ほら! 太陽! 太陽のSUNだよ! 日差しがSUN☆SUNなの! 太陽が2つあったらヤバイじゃん! 暑そうじゃん!」
とりあえず地球生命は滅亡しそうだ。
「アホか。『さんさん』の語源が英語なわけねーだろアメリカ人なめてんじゃねーよ」
「む! 言ったな? だけど『サボる』って言葉はフランス語のサボタージュが由来だし、『天ぷら』はポルトガル語のテンポーラが語源だぜ。九州弁にみられる否定の接続詞『ばってん』は英語のButから来てるんだ(嘘)。だから、さんさんも……」
このように舌先三寸で煙に巻いてことなきを得た。閑話休題


言語には「翻訳不可能なもの」が存在する。イヌイット語には雪を示す言葉だけで数百種類あるという。彼らなら区別できる細かな雪質の違いを、たぶん日本人は見分けられない。「言葉にならないものは記述できない」これが言語の弱点だ。
そして貨幣も同じ弱点を有している。言語であるがゆえに「記述できないものがある」のだ。
JAVAを初めとしたプログラム言語は、言語としての様態を満たしている。しかし日常会話にJAVAを用いる人はいない。JAVAはあくまでもケータイアプリの開発に特化した言語であり(違)、日常生活に必要な語句が欠落している。だから言語として立派な文法を持っていても、私たちの日常を記述できない。
そして貨幣は、私たちの暮らしのうち「経済活動」に特価した言語である。
しかしながら私たちは経済――富の収奪と分配だけに生きているわけではない。生物学的な観点からいえば、ヒトのライフサイクルのほとんどは、富の収奪・分配と無関係だ。つまり貨幣は、人間のごく一部分しか記述できない言語なのだ。
たとえば「主婦たちのご近所づきあい」は高度な政治戦だ。国家間の政治ならば貨幣経済と無関係ではない。が、ご近所づきあいならどうだ? そこに「貨幣の収奪と分配」はあるだろうか。むしろ「貨幣」の誕生するずっと以前から、私たちはご近所づきあいをしていたはずだ。政治は本来、貨幣とは無関係だ。
たとえば主婦が「おいしいよ」という家族からの一言のために料理の腕を磨く。この現象を貨幣的に表現することは可能だろうか。「美味しいご飯で旦那が元気になれば、彼は仕事を頑張るので家計が豊かになり、主婦の所得が向上する」「うまいメシで子供が健やかに育てば老後の世話をきちんと見てもらえる」等々、貨幣的な便益に着目して主婦の行動を解釈しても、説得力に欠ける答えしか出てこない。主婦が料理の腕を磨くのは、そんな理由ではない。自分の作ったごはんを誰かが褒めてくれたら「うれしいから」それだけだ。食べた人の喜ぶ顔=プライスレス。貨幣という言語ではカバーできない分野なのだ。
貨幣はヒトを記述する言語として不適切である――これが「人生はカネがすべてではない」という聞き慣れた言葉の理論的背景だ。世の中には、お金で買えない価値がある。




3.“良心”の競争原理
人間には貨幣的な尺度で測れる部分と、そうでない部分がある。医療や教育などの「貨幣で測れない部分」が顕在化しやすい産業では、「貨幣に基づく競争原理」がうまく機能しない。
保育士は年間100人程度、10年もキャリアを積めば1000人以上の子供の成長を見守る。担任する子供だけに絞っても、半端ではない人数を育てている。せいぜい2〜3人しか育てない親バカたちとは「子供」というものに対する理解度に天と地ほども差がある。しかしプロがシロウトの指示に従うという逆転現象は、その知識・経験を殺してしまう。とんでもない社会的損失だ。
保育園は一例にすぎない。「献身産業」では消費者の便益を貨幣的に表現できない。そのため貨幣に基づく競争原理の導入が、かえってサービスの低下をもたらす。従事者に「献身的」であってもらうためには、彼らの生活をある程度保証してやるべきだろう。


だが、ここで世にも恐ろしい「フリーライダー」の問題が浮上する。


保証された身分のうえにあぐらをかいて努力を怠り、消費者の便益を損なう存在。それがフリーライダーだ。簡単にいえば給料泥棒のことだね。競争原理の支持者はこれを恐れる。彼らの信じる「貨幣的便益の最大化」を狙うなら、身分保障された職場における最適な戦略はフリーライダーになることだ。なにもしなくてもカネが手に入るのだから、こんなに美味しい話はない。従事者が全員フリーライダーとなれば、その産業は壊滅する。
が、「献身産業」でそのような事態になったなんて話は、寡聞にして知らない。公立病院や学校で働いている人が、全員フリーライダー? そんなん聞いたことねーよ。/旧・国鉄社会保険庁では似たような事態になったが、どちらも献身産業ではない。そしてこれらメチャクチャなコトやりやがった職場でも、なかには最後まで献身的に働こうとした職員がいたはずだと私は信じたい。人間は多様だ。
ともかく「献身産業の従事者がみんな怠惰になる」なんて現象は観測されていない。学校の先生たちを思い出してほしい。たしかに、やる気を失った典型的なフリーライダーもいるにはいた。が、大部分の教員は献身的に生徒指導にあたっていたはずだ。私の場合、とくに高校時代の部活動の顧問教員には頭が下がる。サラリーマンになった今なら分かるけれど、土日や夏休みを返上して働くなんて、ぶっちゃけ常軌を逸している。献身的すぎだろJK。高校時代だけに。
もしもヒトが貨幣的便益の最大化を目指す生き物なら、こんな行動を取る教員は現れないはずだ。にもかかわらず、現実にはフリーライダー化しない教員のほうが多い。なぜだろうか。
答えは至ってシンプルだ:サボるやつは白い目で見られるから、だ。
人間は貨幣的な便益だけに喜びを感じる生き物ではない。尊敬を集めれば嬉しいし、軽蔑されるのは避けようとする。こういった人間関係の機微は、「貨幣」では表現できないものの一つだ。「献身」を是とする職場で一人だけフリーライダー化しようとしても、冷ややかな視線にさらされることになり、仕事を続けるのが“精神的に”難しくなる。また、多くの生徒から信頼を集めることを“誇らしく”感じる教師だって少なくない。精神的なものも誇らしさも、どちらも「貨幣」での記述は難しい。
他の産業では従事者が「より儲けようと努力する」ことで競争がおこり、財やサービスの向上・低価格化が達成される。一方、献身産業では従事者が「より感謝されようと努力する」ことで競争が生じ、サービスが向上する。
つまり献身産業では、「“良心”の競争原理」が働いているのだ。
献身産業のサービスを向上させるには、この“良心”の競争原理をうまく機能させればいい。といっても具体的な方策は私にはまだ分からない。ただ、はてなのブロガーはスターを報酬にブログを書くし、ニコニコ動画のうp主はマイリスト数を報酬に動画を作成する。スターもマイリスト数も換金不可能であり(不可能ですよね?まだ使いこなせてない……)、彼らは貨幣的価値とは別の次元で競争している。これをどうにかして献身産業に応用できないか、適切な競争をもたらしフリーライダーを弾くための仕組みを作れないか……等々、いまだにぐるぐると考え続けている状態だ。なにかアイディアが湧いたら、また続きを書きたい。




4.まとめ
じつをいえば競争原理は間違っていない。「競争により何かが優れていく」のは、極めて一般的な現象だ。ただし「貨幣を前提と」しなくてもいいのだということは押さえておきたい。生物は競争により進化するが、自然界に貨幣など存在しない。貨幣以外のものを基盤とする競争原理は、生物学の業界では古くから研究されてきた。そして献身産業では“良心”を前提とした競争原理が働いていた。
競争原理がごく一般的な法則だとしたら、問題をはらんでいるのは貨幣制度のほうだ。
なお、「貨幣以外のものでの競争」や「ヒトの利他性を前提とした経済学」は、アカデミックな世界ではすでに深く語られているそうだ。ところが、それをわかりやすく解説できるコラムニストが少ない。世間一般で「競争原理」と口にしたら、いまだに貨幣経済とヒトの利己性を前提としたモノを指す。で、それはやっぱりちょっと変だ。
世の中には「貨幣」でしか語れない人たちが一定数存在する。金融業界に関する日記をつけている人とか要注意だ。貨幣が言語である以上、貨幣では語れないモノも当然ある。にもかかわらず貨幣で世の中のすべてを分かった気になるのは、英語しか話せない人間がイスラム文化を語るようなものだ。日本語をまったく知らない人に、日本文化がきちんと理解できるだろうか。私たちは「貨幣」の限界を認識しておくべきだ。









※1)「従事者が献身的であるほど消費者の便益になる」のは、医療・教育部門に限らない。そのため今の日本ではあらゆる業界が“献身産業”と化している。適切な報酬を得られない本人も不幸だし、社会全体の労働生産性も下がる。ミクロでもマクロでも美味しくないまさに誰得状態だ。