昨日の記事では、足がすくむほどたくさんのブックマークをいただきました。ありがとうございます。調子に乗って連日更新しちゃうぜ。
※なお、このブログは小説・映画・アニメなどの感想を淡々と書いていくものです。「社会」について語ってしまったのは……ええと、その、ちょっとした気の迷いです><
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「凡人のための物語」って、どんなものだろう。
日本には「謙遜」という文化・習慣があるので「俺ってすごいだろ、もっと褒めろ!」みたいな態度を取る人は少ない。そういう言動を取ると嫌われるし、最悪の場合はどこかのIT社長のように粉飾決算の嫌疑をかけられて潰される。
社会的に恵まれた人たちに「自分たちは特権階級である」という認識が乏しいのは、そういう文化的な背景もあるんじゃないかな。「いやいや、スゴイだなんてそんな……ぼくは普通ですよ」と答えているうちに、本当に自分が普通であるかのように錯覚してしまう。「普通の人は海外で経験を積むべき」という発言を耳にするたびに、「普通」の範囲の狭さに目眩を覚える。ずいぶんとまあ「普通に生きる」のは難しくなったものだ。
出典)社会実情データ図録
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/3250.html
もはや常識だと思うのだけど、非正規雇用者の割合は年々増加している。この数字を見るだけでも、「サラリーマンなんてするのは能力のないヤツだ」という意見の乱暴さが分かる。サラリーマンになるのさえ難しいという現実を、まずは受け止めたい。
望みさえすれば誰でも簡単に海外留学できる――と無邪気に信じるのは、あまりにも視野狭窄だ。似たような人ばかりと付き合っていると、どうしても世界が狭くなる。自戒したい。社会の様々な階層に友人を作るチャンスは、小学生の頃しかない。品のいい私立校に放りこまれれば、その機会さえ失われる。
江川達也『東京大学物語』にこんなワンシーンがあった。主人公の東大生がいわゆるDQNに絡まれてボッコボコにされる。で、殴られながら主人公は考えるわけだ。(将来、俺が偉い人間になったらお前たちなんか生きていけない世界にしてやるッ!)読んでいて胸くそ悪くなるシーンなのだが、階層間での無理解や断絶を端的に表現している。こういう問題提起をできるあたり、江川さんはただの変態紳士ではない。(ものすごい変態紳士だ)
世間の大半の人は、パチンコにつぎ込む1万円を捻出するために日々を過ごしている。留学には一回で数百万が必要だが、「そんな金額見たことない」という人も少なくない。私だって見たことない。働けど働けど…… 井上ひさし『四十一番の少年』は孤児院を舞台にした小説だ。作中の、近所の婦人会が“ほどこし”に来る場面が面白い。主人公たち孤児が楽しそうに振る舞っているのを見て、婦人会のおば様たちは困惑するのだな。“恵まれない可哀相な子供たち”のはずなのに、どうして――って。どんなに暮らしぶりが違っても、人にはそれぞれ相応の「しあわせ」がある。だけど、そこまで想像力を膨らませるのは、簡単なことではない。自分のモノサシで他人のしあわせを測ろうとしてしまう。
では、自分のモノサシはどのようにして作られるのか:「物語」の出番だ。
「物語」と「みんなの価値観」は、ニワトリとたまごみたいな関係だ。みんなの価値観と合致する物語がよろこばれ、広く語られるようになる。広まった物語は誰かの意識に刷り込まれ、その人の価値観になっていく。
ところが最近は、物語の“作り手”が偏っているのだね。テレビ局にせよ大手広告代理店にせよ、入社できるのはいわゆる“勝ち組”のスーパーエリートたちだ。世の中はどんどん多様になっているのに、語り部たちはどんどん均質になっている(――んじゃないかな。実情はよく知らない)。そういう本当はすごい人たちが、自らの特殊性に無自覚なまま「普通の人」に向けて物語を作っている。そりゃ、「普通」のハードルが上がるわけだよ。
前回のエントリーでは「凡人のための物語が足りない」と書いたけど、これは「庶民のための物語」と言い換えてもいい。「俺、庶民。カネは無い。だけどこんなに幸せ」みたいなお話がもっともっと必要なのだ。――なんのために? これからの時代を楽しく生きるために、だ。
では、庶民のための物語ってどんなものだろう?
たとえば落語。あれは江戸時代の庶民のための物語だ。殿様や億万長者は滅多に登場しないし、出てきたとしても笑いのタネにされる(ex.めぐろのサンマ)。また昭和に輸入されたアメリカン・ホームドラマも、やはり庶民のための物語だった。それは核家族化した日本人に受け入れられ、「昭和の庶民」に生きるよろこびを教えた。
私たちは江戸時代を生きているわけではない。20世紀初頭のアメリカを生きているわけでも、高度成長時代を生きているわけでもない。過去の「庶民の物語」を盲信しても、英雄譚を目にした時と同様、現実との乖離に苦しむだけだ。
私たちは「2010年代の庶民」だ。
私たちのための「庶民の物語」があってもいいじゃんか。
「金持ちになることを至上とする価値観はもう通用しない」とか、「収入に囚われない新しい価値観が必要」とか、昭和的な物語に対する反省の弁は多い。が、そういう言葉が空虚なのは、どんなに「お金よりも大切なものがある!」と叫んだって、世の中の価値観は変わらないからだ。
世の中の――みんなの価値観を変えるのは言論ではない。ストーリーだ。「お金が無くてもしあわせ」だと本気で思っているなら、そういう生き方を具体的に語ってみせろってんだ。やっぱりカネは大事だ。ていうか、みんなが「カネより大切なものは無い」と思っているから、いまの経済は流動性の罠にハマってるんでしょ?
いつの時代も、庶民ほどカネにこだわる。景気が悪化するということは、それだけカネにうるさい人が増えるということだ。
カネはない、よほどの運に恵まれなければ大成できない、だけど治安はすこぶるいい、友だちとも簡単につながれる――これが2010年代の庶民の姿だ。で、これはこれで、けっこー楽しかったりする。この生活に結婚・出産などの人類の営みをどのように織り込んでいくのかが今後の課題だろう。超・成功者の物語ばかりが目につくこの時代に、私たちはどうやって「小さな成熟」を果たせばいいのだろうか。
高度成長期やバブルのころが「昼」ならば、いまは「夜」だ。失われた二十年は、あまりにも長い黄昏の時だった。昼の明るさを知っている人たちは、夜の暗がりを怖がる。しかし夜がなければ、星空の美しさはわからない。
私たちは、これからの星空の話をしよう。
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最後に本の紹介。「これからの庶民の物語が必要だッ!」と啖呵を切ったはいいものの、それって具体的にどんなお話なの? って部分が煮詰められていなかった。自分でもお話作りに挑戦するとして、最近読んだ本のなかにイメージに近いものがあった。
ファンダ・メンダ・マウス (このライトノベルがすごい!文庫)
- 作者: 大間九郎,ヤスダスズヒト
- 出版社/メーカー: 宝島社
- 発売日: 2010/09/10
- メディア: 文庫
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“おれはマウス。しみったれた倉庫でくそったれなAIシステム相手に終日ダラ~っと、家に帰ればネーネがべったり。そんな毎日。でも、おれは今の自分にかなり満足。いい女はべらして万ケンシャンパンドンペリジャンジャンBMベンツにPMゲッツーみたいなことが必要だとは思わない”
このあたりの感覚、すげー2010年代っぽいと思うのだけどどうだろう。こういう「諦念」はハードボイルド小説のお約束だった。のだけど、それが今の私たちの感覚に近いんだよね。『ファンダ・メンダ・マウス』では、既存のハードボイルド小説では不足しがちな「受け入れる心」を徹底的に描いているのがすばらしい。☆五つでオススメしちゃいます。
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