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オタクは「右翼」が好きなの?/『シドニア』と『ガルガンティア』の比較

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ニコニコ動画アニメ『シドニアの騎士』を見ていて、のけぞってしまった。「サヨクなのにシドニアを見てる人がいるの?」というコメントが流れてきたのだ。
たしかに『シドニアの騎士』はオープニング曲が軍歌を思わせる等、そこはかとなく軍国主義っぽいテイストの作品だ。サヨク反戦主義どもはこんなアニメを見るはずがない──、とコメントの主は考えたのだろう。『シドニア』に限らず、「オタク=右翼思想」と認識されるのは珍しくない。


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シドニア

シドニア


では、本当にオタクは「右翼」が好きなのだろうか?
そうではないと私は思う。おそらくオタクは「右翼」が好きなのではなく、全体主義的な思想が好きなのだ。「左←→右」の対立軸ではなく、「個人主義←→全体主義」「自由主義←→保守主義」の対立軸で分析したほうが適切だ。
たとえばソビエト連邦極左だった。しかしソ連文化好きを公言している声優・上坂すみれは普通に人気者だ。もしもアニメオタクが本当に「右」であれば、左側のあらゆるものを──それこそ文化さえも──嫌悪するはずだ。ところが『ガールズアンドパンツァー』には、ソ連をモチーフにした「プラウダ高校」が登場し、何の批判も受けずにファンに愛されている。オタクの嗜好は、「左←→右」の対立軸から切り離して考えたほうがいいだろう。
オタクは全体主義的な思想が好きだ。少なくとも、好きな人が多いはずだ。
ファシズムは極右、共産主義極左と呼ばれていた。ドイツでナチス党が生まれたとき、欧米の知識人のなかにはそれを歓迎する人もいたらしい。「左」のソ連に対する防波堤になると期待したのだ。しかし実際には「エリートによる計画経済」+「全体主義」の組み合わせという点で、2つの政治体制は似通ったものだった。ソ連文化の持っている全体主義的なテイストは、オタクの嗜好と矛盾しない。





見方を変えれば、オタクに全体主義保守主義がウケるというよりも、個人主義自由主義がウケないと考えたほうがいいかもしれない。
端的に言って、後者二つは「強者の思想」だ。一人でも生きていける(経済的・心理的に)強い人たちがハッピーになれる思想だ。経済的にも心理的にも疲弊してる今の日本人には刺さらなくても不思議はない。
最近では「支配」が即座に悪として描かれなくなった。むしろ主人公が支配者側について、秩序を乱す相手を成敗するお話がウケている
この時代に「自由のために戦おう!」と言われてもピンとこない。「たとえみんなのためでも誰か一人が犠牲になってはならない!」と言われても、ワガママ言うなと思う人が多いはずだ。自由よりも家族や国のために戦うお話のほうがウケるし、全体のための個の犠牲は英雄視して美談にしたほうが刺さる。
ところが人間同士の戦争を描いてしまうと、全体主義の心地よさに酔えない。「相手がかわいそう」という気持ちが邪魔をしてしまうから。だから敵には、できるだけ人間性の薄いモンスターを設定したほうがいい。


「1.支配の甘受」
「2.共同体を守るために戦う」
「3.全体のための個の犠牲は、悲劇ではなく美談になる」
「4.抒情酌量せずに済む異形の敵」


以上の要素をアニメ『シドニアの騎士』はすべて満たしている。
3DCGの映像は息を飲むほど美しく迫力満点だ。ウケるべくしてウケた作品だと思う。



     ◆



今の日本では自由主義的な物語、個人主義的な物語はあまりウケない。
たとえばアニメ『まおゆう』第9話では、メイド姉というキャラクターが「私は人間です!」と宣言するシーンがある。思わず目頭が熱くなる名シーンだ。


「人間」とは何か? メイド姉の演説のかきおこし


しかし、このシーンにカチンときた視聴者も少なくなかったのではないか。メイド姉のセリフを聞いて、「じゃあ俺は虫けらなのかよ」と落ち着かない気分を味わった人は多いはずだ。
観た人の心をざわめかせて生き方を見直させる。それは「物語」の果たすべき使命だ。しかし、そういう物語は商業的にはキツい。心をざわめかせるモノに、人はわざわざカネを払わない。カネを払ってもらうには、消費者の心をささくれ立たせてはいけない。端的に言えば、心を慰めるポルノでなければ売れないのだ。
※だから『まおゆう』のような思想的な作品は無料だからこそ意味があったのかも。


男はおっぱいの画像を見ると思考力が低下するらしい。商業的に求められる「物語」は、要するにおっぱいみたいな物語だ。常識や一般的な価値観を疑わない、心をざわめかせない物語。観た人を気持ちよくさせて、思考力を低下させる物語。そういう物語を見ると、人は財布のヒモが緩くなる。




     ◆



では、自由主義個人主義はもはや時代遅れのものなのだろうか。それらを組み込んだ物語は、絶対にウケないのだろうか。
たとえばアニメ『翠星のガルガンティア』は自由主義個人主義を思想的背景に持った作品だ。にもかかわらず、ちゃんと8000枚以上売れててOVAも作られてる。視聴者の心を傷つけずに、むしろ感動させてカネを払わせる仕掛けができているのだろう。
ガルガンティア』TV版最終回のチェインバーのセリフは、内容的には『まおゆう』のメイド姉とほぼ同じだ。自由主義個人主義を土台とした物語なのは明らかだ。

ストライカー「唯一絶対の圧倒的支配者が君臨することで、民衆は思考判断の責務から解放される。レド少尉、貴官もまた自ら思考し判断することを負担と感じていたはずだ。……従属こそ、安息への道である」

チェインバー「貴官の論理は破たんしている。思考と判断を放棄した存在は、人類の定義を逸脱する。貴官が統括する構成員は、対人支援回路の奉仕対象足り得ない。……私は、支援啓発インターフェイス・システム。奉仕対象は人間である」


では、なぜ『ガルガンティア』は視聴者の心を傷つけなかったのだろう。反感を与えずに「強者の思想」を組み込むことができたのだろう。『ガルガンティア』は、見る人を傷つけない工夫が随所にこらされていた。
たとえば冒頭部分。まず「行き過ぎた全体主義の世界」を見せて、それに対する反感を視聴者に植え付けるところから物語を始めている。しかも、ここで提示されるのは古式ゆかしいディストピアだ。視聴者は「定番の設定」として安心して受け入れることができる。
また、先述の4つの要素──「1.支配の甘受」「2.共同体を守るために戦う」「3.全体のための個の犠牲は悲劇ではなく美談」「4.抒情酌量せずに済む異形の敵」──これらの条件を『ガルガンティア』はうまく満たしている。
たとえば「1.支配の甘受」は、支配形態の違う二つの社会を見せている。「クーゲル船団よりもガルガンティア船団の統治形態のほうがいいよね」という見せ方だ。『まおゆう』が「支配よりも自由のほうがいいよね!」と言いっ放しだったのに対して、より具体的な「自由のあり方」を見せているのだ。自由主義的な統治・支配もありうるよね、と。
また「2.共同体を守るために戦う」という部分では、『ガルガンティア』の世界ではそもそも生き延びるのが難しい世界観設定になっている。生存するために共同体を作ろう!という発想であり、これは自由主義とは矛盾しない。
それでは「3.全体のための個の犠牲は悲劇ではなく美談」という部分はどうだろう。全体主義的な思想で考えれば、レド少尉は第1話で死んで英雄になるべきだったのではないか。生き延びて汚い星で娘っ子に心奪われるようではダメではないか。
しかし『ガルガンティア』にも「個の犠牲が美談になる」という要素はちゃんと含まれてる。色々な部分に少しずつ組み込まれているから、ただ一つ「これ」と出すのは難しい。けれど、最終回のチェインバーといい、クジライカの設定といい、「全体のための個の犠牲」と呼べるはずだ。
そして「4.抒情酌量せずに済む異形の敵」という部分。『ガルガンティア』のヒディアーズとクジライカは、ヒトだと思えない・感情移入できないという点で、『シドニアの騎士』のガウナによく似ている。ラスボスのストライカーは「叙情酌量の余地のない、ヒトではない敵」だ。ちゃんとポイントは押さえてあるのだ。
以上のように『翠星のガルガンティア』は『シドニアの騎士』と同じ4つの要素を満たしている。前者が自由主義的で、後者は全体主義的な雰囲気の作品であるにも関わらず、だ。



     ◆



シドニアの騎士』では敵に感情移入するのは「間違ったこと」として描かれる。ガウナに理解を示そうとした星白はあっけなく殺される。ガウナの作ったニセモノの星白(※エナ星白)に主人公は心を奪われるが、それは他の登場人物から激しく批判される。紅天蛾ベニスズメは最悪の敵以外の何者でもない。
一方、『ガルガンティア』ではクジライカを敵と見なすのが間違いで、それらモンスターに感情移入するのが「正しい」として描かれている。このあたりの描かれ方の違いはとても面白い。
多様性を受け入れることは、自由主義の価値観のなかでも特に重要なものだ。その延長線上に「異形のものに対する理解」や「姿の違う相手との和解」がある。生まれ育った文化や価値観は違っても、その違いを認めようとする。これは全体主義ではあり得ない判断であり、自由主義を特徴づけるものと言ってもいい。
だから『ガルガンティア』では最終的にクジライカとの共生が選ばれた。そして『シドニア』ではガウナとの戦いが終わることはないだろう。(※ちなみに原作は未読のまま積んでしまっている。早く読みたい)
もしも『シドニアの騎士』が紅天蛾ベニスズメを通じて人類とガウナが和解する物語になったら、さすがにひっくり返るほど驚くよ。



「──それでもいい。ベニスズメは森で、私はシドニアで暮らそう。共に生きよう。会いに行くよ、ツグモリに乗って」