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「学ぶ」だけでは階層社会は崩れない/「革命」ではなく「脱出」の時代へ

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内田樹先生のブログに、ロスト・ジェネレーションに関するエッセイが載っていた。


 階層化する社会について(内田樹の研究室)
 http://blog.tatsuru.com/2010/11/10_1216.php


で、このエントリーを読んでいたら、なんだか妙に腹が立ったのだ。
いらだちの理由を考えてみるに「この人ぜんぜん共感(わか)っていない!」という結論に至った。そりゃそうだ、「理解」と「共感」は似ているようで全然違う。学者の仕事は理解することであり、「共感」は創作者の役割だ。
いつもながら私は浅学菲才の身、まったくのド素人だと前置きしておく。上述のエントリーに登場する書籍もほとんど読んでいないので、プロから見れば「お話にならない」状態だ。たぶん勘違いも多いと思うけれど、感じたことを書き連ねてみる。
※間違いは指摘されてから直せばいいと思ってます。
※要するに私は「論戦」なんてする気はさらさら無いのです。
※感想を書いているだけ。
※ああ! ごめんなさい! 石を投げないで!


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ロスト・ジェネレーションについて:
上述のエントリーに書かれた内容から想像すると、だいたいこういうことらしい。


「自分らしさ」の追及を是とするイデオロギーをマスメディアが流布した結果、社会の階層化および階層の固定化が進んだ。


いま低所得にあえいでいるフリーターたちは、かつて「自分らしさ」を追求した人たちだった。「自分らしく生きる」ということは、言い換えれば「他者を模倣しない」ということだ。そして「他者を模倣しない」というのは、「“学び”を拒絶する」ことと同義だ。「学び」は、まず、先人の模倣から始まる。自分らしさの追及は、「学ぶ」ことと相容れない。

しかし社会資本を手に入れるためには「学び」が不可欠だ。ここでいう社会資本とは、権力や地位、威信や文化資本なども含まれる。カネに限らず、“豊かさ”をもたらす全てのものだといえる(と、私は理解した)。そういった“豊かさ”を先人はどのように手に入れたのか――それを学ばない限り、豊かさを手に入れることもできない。
「自分らしく」のイデオロギーが浸透した結果、学ばない層――すなわち社会資本を分配されない層が生じた。


問題があるとすれば、潜在的な“自分らしさ”を顕在化できないことだ。顕在化のチャンスをきちんと分配する必要がある。


ただし、ここで前提となるのは「“自分らしさ”を潜在的に持っている」ことだ。潜在的に「知っている・出来ている」ことが無ければ、チャンスを与えられても“自分らしく”生きることなど不可能だ。
高学歴フリーターなどは、しばしば「知らない・出来ないことがあるのは“自分らしさ”を阻害する社会のせいだ!」と主張する。しかし知らない・出来ないことがあるならば「学ぶ」べきではないのか。「このような主張は幼児の理屈だ」と内田先生は指摘している。
また左翼的な言説では「社会資本を分配されない層は、虐げられているがゆえに、そうでない人々よりも社会をよく知っている。しかるに社会をよくできる」と主張される。この主張に従うと、やはり「学ぶべきことなどない(俺たちのほうが社会をよく知っているから)」という結論に至る。したがって、学ばない層の固定化を進めてしまう。「安易に社会へと責任転嫁するような主張は幼稚だ」と内田先生は指摘している。
「学ぶべきことはない」と主張する人は社会をダメにするのでタヒったほうが良いと、内田先生は考えていらっしゃるようだ(と、私は理解した)。



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……と、まあ具体例が一切示されないエントリーから無理やり理解してみると、上記のような内容が書かれていた。んで、私はすっげームカついたのだwww
下流社会』には「上から目線で勉強しない人間や労働しない人間を“叱咤”している本」という書評が多い。しかし、それは誤読だと先生は嘆いている。そして誤読であることの解説としてお書きになったのが上述のエントリーなのだが・・・・・・やっぱり「叱咤」しているようにしか思えないんだよね。
理由は一つ:「学ばない層の“気持ち”を共感(わか)っていないから」だ。
いわゆる“下流”は本当に「学ぶべきことなどない」と宣言しているのだろうか。正確には「学びたくない」というべきではないか。「学ぶべきことがあるのは判っているけどさー、嫌だよ」というが本音ではないのか。そして、そのような「学びたくない」という心理は、マスメディアの生み出した「自分らしく」のイデオロギーだけで説明できるのだろうか。もっと経験に根ざした、生活実感を伴った拒絶なのではなかろうか。
ここでいう「学び」とは単なるお勉強に限らず、社会資本を手に入れるためのあらゆる努力を意味しているだろう。具体的には「出世するために必要な100のコト」みたいな内容だと思っていいはずだ。サビ残に命を燃やし、行きたくもない飲み会に参加する。見たくもない野球を観戦し、阪神ファンの上司と話を合わせる。1ミリも興味を持てない会計学の知識を詰め込んで脳の記憶容量を圧迫する。そういった全ての活動が、社会資本を手にするための「学び」だと考えられる。
だとすれば、「学ぶ」こととは、同調圧力に屈することと同義だ。
そういう滅私奉公がちっとも幸せそうに見えないから、学ぶことを拒絶しているのではないのか。
滅私奉公を不幸とする価値観は、マスメディアの生み出した「自分らしく」幻想だけでは説明できない。かつて企業戦士やモーレツサラリーマンと呼ばれた男たちは、会社の都合でスパスパと首を切られた。銃後の守りとして専業主婦となった女たちは、子供の独り立ちと共に夫との別れを選んだ。滅私奉公を選んだ上の世代が、すこしも幸せそうに見えない。だからこそ、その子供たちはロストジェネレーションになった。価値観の形成にマスメディアの影響が無いとは言わない。けれど、実経験のほうがはるかに強い影響力を持つはずだ。
下流に属している人々は「学び」が足りない。脱出したければ「学べ」――。これって、すごく乱暴な主張に見える。つーか、滅私奉公って考え方は、階層の固定化をもたらす代表格なんじゃねーの?



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内田先生のエントリーは「学びによって力を蓄えた人が“大人”なのだ」と読める。
でも、これって本当だろうか。周りの人たちに聞いてみるといい。「あなたは大人ですか?」と。胸を張って「俺は大人だ」と言うのは、たいてい自分のことをよく理解していない幼稚な人だ。人は歳を重ねるごとに、自分のことを理解していく。自分の中に残る「幼稚な部分」を自覚していく。
本当の「大人」っていうのは、他人を慈しむことのできる人だ。他者のなかにある「幼稚さ」を認め、許せる人のことだ。なぜなら似たような幼稚さを、きっと、自分も持っているから。お互いの幼稚さをどうすれば補いあうことができるのか。どんなに学んでも「力不足」な部分は必ず残る。あなたにも、私にも、足りない部分がある。ならば、それをどうやって埋め合わせるか――他者と協力できる人のことを私は「大人」と呼ぶ。


いい歳こいて「こんなに勉強したボクを褒めてッ!」と言っても、冗談にしかならない。


既存の社会に適応するためには「学び」が必要だ。この点は論を待たないだろう。しかし学ぶことによって「搾取する側」に回ることのほうが、私は怖い。多様な人々の多様な感性に無関心になってしまうコトを、私はいちばん恐れている。たぶん“下流”に分類されてしまう人たちも、似たような考えを持っているのではないだろうか。「つまらない大人になりたくない」という叫びは、学習拒否の宣言ではない。ままならぬ世を嘆いているのだ。
人類の歴史は「世界を思い通りにする」ことを目指して進んできた。飢えをしのぎ、川の流れを変え、波を防ぎ、そして暴力を治めようとしてきた。不条理な社会制度を「革命」という手段によって変えてきた。「農奴は死ぬまで農奴だ、現実を見ろ、大人になれ……」そんな考え方を否定しながら、進歩してきた。
「つまらない大人」の社会に、無理やり順応する必要はないと思う。つっても、まあ、先立つものはカネだから、「学ぶ」必要はあるかも知れない。で、学んでみてから「つまんねーwww」と笑い飛ばしてやろう。学ぶべきことは、他にある。
経済活動に的を絞っていえば、世の中はつまらない大人の作ったつまらない仕組みで回っている。生産・流通・小売。すべてが前時代的なまま、ハリボテのまま動いている。正直なところ「革命」で打ち崩す価値もないような体たらくだ。だから私たちは「脱出」しよう。学ぶべきは、逃げ出すための方法だ。大人たちの作った仕組みの外側で、新しい仕組みを作ろう。


そういう意味で、コミックマーケットにかかる期待は大きい。
  ※飛躍だ!論理の飛躍だ!




以上、他人のエントリーを曲解したうえで反論するという一人相撲を演じてみた。
※繰り返しますが、私は「論戦」なんてする気はさらさら無いのです。
※感想を書いているだけ。
※ああ! ごめんなさい! 石を投げないで!







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