「暴力は正義感の欠如ではなく、むしろその過剰によって起きる」
これは進化心理学者スティーブン・ピンカーが『暴力の人類史』のなかで述べていることだ[1]。世の中の暴力事件の大半で、犯人は最初から「悪いことをやってやろう」とは考えていない。自分にとっての正義に基づいて、被害者を「許しがたい悪だ」と見做したからこそ、暴力を振るうのだ。酒場の喧嘩から国家間の戦争まで、これは当てはまる。この辺りの話はデイリー&ウィルソン『人が人を殺すとき』にも詳しい[2]。
ところが、だ。
このことをTwitterでつぶやいたところ、「バカじゃないのか」というクソリプを頂戴した。「正義は正義、悪は悪。本人は頭がいいつもりでこのツイートをしたみたいだけど、当たり前のことも分からないのか」と笑われてしまった。要するに私は、オウム真理教に入信した東大卒の人間のように見做されてしまったのだ。
もしもあなたが(私よりも)このクソリパーの意見に共感するのであれば、映画『ジョーカー』はオススメできない。頭のおかしい男が愚かな行動を繰り返すだけの物語に見えてしまうだろう。
主人公のジョーカーは、本当はあなたと紙一重の存在である。あなただって条件が揃えば、ジョーカーのようになりうる。
けれど、きっとあなたは、ジョーカーと自分がどれほど近い立場にいるか気づけない。なぜならあなたは正義の側であり、ジョーカーは悪だからだ。「正義は正義、悪は悪」という単純な世界観では、ジョーカーと自分との距離を正しく認識できないのだ。
私見だが、「正義」には少なくとも三つのレイヤーがある。
第一に、各個人の正義。
第二に、社会的に合意された正義。
第三に、法律等に明文化された正義だ。
各個人の正義は分かりやすい。要するに、あなたの胸が「正しい」と訴える正義のことだ。言うまでもなく、これは人によって異なる。三者三様、十人十色の正義である。あなたにとって、おやつに「きのこの山」を購入することが正義かもしれないが、「たけのこ派」は決してそれを認めないだろう。
社会的に合意された正義について考えるとき、私はいつも東京の地下鉄を思い浮かべる。東京メトロの乗客は、駅のホームで待つときに必ずドアの両側に並んで待つ。降車する客を待ってから乗り込む。車内の客にも同様の不文律がある。ドアの前に立ちふさがって、降りる客を邪魔するのは「悪」だ。ドアの近くに立っている客は、必ず一旦ホームに降りて、降車する客のために道を開ける。バカバカしく聞こえるかもしれないが、これが東京の地下鉄における「正義」だ。
私の記憶では、乗客たちのこのような統率された行動はマナー広告が展開される以前から、自然発生的に生まれていたように思う。鉄道会社が後追いでこのマナーを広告に掲載し、徹底させたという経緯があるように思う。
つまり、法律によって指図されたわけでも、誰か一人の人間の意見に先導されたわけでもないのに、人々の行動規範が――すなわち「何を正義と見做すか」が――形成されたのだ。
こういうものを、私は「社会的に合意された正義」だと考えている。どんな行動を「正義」と見做すのか、その社会を構成する人々の間で合意されてさえいれば、それは明文化されている必要がない。
もちろん社会的に合意された正義は、何かドキュメントに書き残したほうがいい。そうして生まれるのが三番目の「法律等に明文化された正義」だ。ここには社会を円滑に運用するために、半ば強引に設定された「正義」も含まれる。
たとえばアメリカの道路を見れば分かる通り、自動車が道路の右側を走ったとしても何の問題もない。しかし誰もが自分の好きな側を走ったら交通事情は大混乱に陥るだろう。だから日本では道路の左側を走ることを「正義」と見做し、右側を走ったら逮捕されるのだ。In Japan, the right side is not right.
加えて、法律に記載された「正義」が、社会的に合意された正義と一致しない場合もありうる。よくあるのは法律の条文が時代遅れになるケースだ。
たとえば日本の刑法200条では、尊属殺人(父母や祖父母に対する殺人)は普通の殺人よりも罪が重いとされていた。しかし20世紀も後半になると、人権意識や「法の下の平等」の認識が広まった。そして、この条文は時代遅れのものになり――つまり社会的に合意された正義とのズレが許容できないレベルまで大きくなり――ついには違憲判決を下されることになったのだ。
このような正義の多層性に気づいている人は、意外と少ないのかもしれない。
たとえば有名な「トロッコ問題」に嫌悪感を示す人は珍しくない。「社会制度をデザインする際に何を正義とするか」を考える場合には、トロッコ問題は威力を発揮する。しかし「各個人の正義」とその他の正義との区別がつかない人にとっては、あれは不愉快な質問なのだ。「お前は何が正義だと考えているんだ?」と詰問されているような気がして、お尻のあたりがムズムズしてしまうのだ。
要するに私が言いたいのは、「正義」とは多層的で多様だということだ。
Twitterで遊んでいると、自称リベラルの人が「この世界には絶対的な正義がある」と主張しているのを見かけて驚かされることがある。絶対的な正義という概念を持ち出している時点で、とても自由主義的とは言えない気がするのだが……。
どうやら「正義は正義、悪は悪」という単純な世界観は、私たちヒトが自然に身に着ける、ごく本能的な認識であるらしい。少なくとも一部の人は、その認識から脱却することに苦労するようだ。
じつを言えば、先述のスティーブン・ピンカーも、善や正義の一般原則に私たち人類がたどり着ける可能性を指摘している。文化圏を越えて「これが善だ」「これが正義だ」と納得(あるいは妥協)できるような「正義」のルール体系を作り出せるかもしれないと論じているのだ[3]。
とはいえ、それは半ばSFのような遠い未来の話だ。
現代を生きる私たちが「絶対的な正義がある」と考えるのは時期尚早だろう。拷問や残虐刑が先進国から消えるのに要した時間を鑑みれば、あと数世紀は必要なはずだ。私たちがその域に達するためには、政治哲学的な議論の蓄積がまだ足りないのだ。
今までに人類が試みてきた「地上にユートピアを生み出す実験」は、いずれも地獄を生み出してきた。あなたにとっての楽園は、誰かにとっては地獄である。
◆
注意すべきは、映画『ジョーカー』の主人公アーサーは、決して「正義」のために行動していないという点だ。
もちろん彼は、彼なりの「俺ルール」で行動している。けれど、それは自分が正しいと信じているとか、その正しさを他人に押し付けたいからとか、そんなルールではない。物語の結末で、彼は積極的に暴力行為を働くようになる。その理由は「笑えるから」だ。
物語の冒頭ではティーンエイジャーの不良にからかわれてボコボコに殴られていた主人公アーサーが、なぜ結末では「笑える」という理由だけで暴力を振るえるようになってしまうのか?
本作は、この極端な変化を追いかける122分だ。
V For Vendetta Trailer(Japanese)
ジョーカーが正義ではないという話をもう少し続けると、やはり彼はヴィランであって、ダークヒーローではないのだ。彼がヒロイックに見えすぎないように、制作スタッフは細心の注意を払ってこの映画を作り上げている。
たとえば社会的混乱を扇動するダークヒーローといえば、『V・フォー・ヴェンデッタ』が思い浮かぶ。しかしジョーカーが街に暴動を引き起こす過程は、Vほどカッコよくない。ド派手なクラシック音楽で観客の気分を高揚させるような演出にはなっていない。
むしろカメラは、アーサーという1人の男の物語のみにピントを合わせており、その周囲で起きている社会的状況は画面の外に追いやられている。テレビのニュースや新聞の記事という形で「匂わせる」だけで済まされているのだ。
なぜならジョーカー(=アーサー)にとって、社会など興味がないから。社会を変えようなんて考えていないから。自分が「笑える」ことが大切だからだ。
とはいえ、アーサーを史上最悪のヴィランに変えてしまったのも、また社会的状況である。
この点では、かなりストレートに「経済格差がジョーカーを生んだ」という描き方になっていることに驚いた。
もちろん経済格差だけがジョーカーを生んだという解釈は単純すぎる。聖書のカインとアベルにも通じるような、神話的な親子の愛憎劇も通奏低音として流れている(※バットマンの本名がブルース・ウェインだというのは現代の基礎教養だ)。しかし、そういう家族間の確執を表面化させて、最悪の形で爆発させてしまうのは、何と言っても経済格差なのだ。少なくとも、この作品の中では。
(※さらに言えば、この親子の愛憎劇すらも真相はよく分からない、妄想かもしれない……という演出にしている点に制作陣の底意地の悪さ(※褒め言葉)を感じる。閑話休題)
たとえば10年~15年ほど前の映画であれば、ここまであざとく「経済格差は問題だよね」という描き方はしなかったのではないか。当時の私たちは、新自由主義者の言う「トリクルダウン」という仮説を受け入れていた。金持ちが富を手にすれば、そのおこぼれにあずかれると純粋に信じていた。
しかし、だ。
現実には、アメリカで「ウォール街を占拠せよ運動」が起き、フランスでは「イエローベスト運動」が起きた。新興国経済の発展により単純労働が国外にアウトソーシングされて、先進国では中間層の消失が進んだ[4]。中産階級はアッパーミドルと貧困層とに二極化したのだ。
ハリウッド映画では、今の世界で「常識」とされるものが(その常識の正誤は脇に置くとして)土台となりがちだ。「経済格差は問題だ」という認識も、今の地球上では共通の常識になったのかもしれない。隔世の感を覚える。
日本には、いまだにレッド・パージの後遺症を負っている人が多い。インターネット上で「経済格差」とか「貧困問題」と口にするだけで、「お前はサヨクだ」「アカだ」という罵詈雑言が飛んでくる。そういう〝普通の日本人〟が、この映画を見てどのような感想を抱くのかには興味がある。たとえば社会福祉の切り詰めにより主人公が投薬治療を受けられなくなるのも「自己責任」だと考えるべきなのだろうか。
◆
最後に、映画の「作り」について。
とにかくカメラワークがキレッキレである。すべてのカットが、写真作品やイラストとして成立しそうなほど美しい。計算されつくされた構図や色彩にため息を禁じえなかった。そういう「絵作り」の部分だけでも1900円分の価値はある映画だ。ぜひ大きなスクリーンで味わって欲しい。
また、この作品はスコセッシ監督の『キング・オブ・コメディ』のオマージュという一面があるらしい。「らしい」というのは、恥ずかしながら私は未見だからだ。『キング~』を見たうえで、もう一度『ジョーカー』に挑戦したい。一周目では気づかなかった様々な仕掛けを発見できそうで、ワクワクしている。
スコセッシ監督といえば、本作は『タクシードライバー』っぽさもある。主人公がヴィランである都合上、まったくスッキリしない。ダークヒーロー映画のようなスカッとする終わり方ではないのだ。ラストシーンは『トム&ジェリー』みたいなギャグシーンに「The End」という文字が重なるというもの。しかしストーリーが陰惨すぎてまったく笑えない。
主人公のアーサーは映画の中で、様々なジョークを披露する。しかし、あまり上手ではない。制作スタッフは、わざと笑えないように作っている。
私が一番笑ったジョークは、仕事をクビになった直後、仕事場の看板に落書きをするシーンだった。
あの落書きが一番笑えるというのが、なんとも哀しい。
『ジョーカー』を見てなんだか元気が出た…って感想の人も多いみたいだけど、分かる気がする。周囲の社会的環境に縛られまくっていた男が、ついに「自分らしい生き方」を見つける映画でもあるんだよな。その生き方は「悪」だという切なさがあるのだけど。
— Rootport (@rootport) October 4, 2019
私が劇場に入った時間帯には、高校生くらいの観客もたくさんいた。
もしも人生で初めて観るダークなクライム・ムービーが『ジョーカー』だとしたら、私は彼らが羨ましい。こんな上質な作品から「暗い映画」の経験をスタートできるのだから!
彼らのような若い観客には、この映画でぞんぶんに不愉快になってもらいたい。落ち着かない気分になってもらいたい。「もっとカッコいいダークヒーロー映画が見たかったんだけどなぁ」とモヤモヤしてもらいたい。それが「正義」について考えるきっかけになるはずだから。
※参考文献(のちほど追加します)
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[2]
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[4]