デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

王様の耳は本当にロバの耳なのか/ネットの不確実性と公共の精神

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ネットの情報は不確実だ。「こいつが悪者の顔だ!」と貼り出された写真が、ネタ画像のコラージュだったり、「こいつが悪者の家族だ!」と名指しされた人物が、縁もゆかりもない人だったり。真偽を疑わずに盛り上がってしまうのは、日頃の鬱憤を晴らすために誰かを叩きたくてしかたない……という暗い感情があるからだ。
「個人的な感情から他人を貶めたい」
そんな行為が正義であるものか。炎上に正義はなく、偽善よりもなお悪い。部屋の掃除もせずにゴキブリを一匹潰して喜ぶのは、ただの怠惰でしかない。

      ◆


イソップ物語に『王様の耳はロバの耳』というお話がある。

あるところにロバの耳を持つ王様がいました。王様はいつも帽子を深々とかぶって、自分の耳を隠していました。
王様のお付きの床屋だけが、その秘密を知っていました。床屋はきつく口止めをされていたのですが、誰かに秘密を言いたくて言いたくてしかたありません。そこで河原に穴を掘り、その穴に向かって叫んだのです。
「王様の耳はロバの耳!」
床屋はすっきりとして、穴を埋め戻して河原を立ち去りました。
ところが穴のあった場所から葦(あし)が生えてきて、大きな茂みになりました。そして風が吹くたびに葉がこすれあい、「王様の耳はロバの耳! 王様の耳はロバの耳!」という音を立てるのでした。
そして王様の秘密は、国中の人に知られてしまったのです。

あまりにも有名なお話なので、紹介するまでもなかったかも。
なかには「私の知っているお話と違う!」という人もいるはずだ。じつは『王様の耳はロバの耳』にはたくさんのバリエーションがある。イソップ物語の起源はとても古く、紀元前6世紀ごろ。アイポーソスという話術の巧みな奴隷がいて、お話を語り聞かせることで名声を得た……とヘロドトスの『歴史』に記されている。ギリシャ語のアイポーソスが訳されてイソップになった。
現在の私たちが「イソップ物語」として知るお話は、中世ヨーロッパで編纂されたモノだ。古代ギリシャの寓話だけでなく、さらに古いメソポタミアの物語や、後世の説話なども含まれている。長い歴史のなかで、時代ごとの教訓の影響を受けながら、少しずつ改編が加えられていった。そして『王様の耳はロバの耳』にはたくさんのバリエーションが生まれた。



いちばんシンプルなのは「井戸」が登場するタイプのものだろう。
床屋は河原の穴ではなく、深い井戸に向かって「王様の耳はロバの耳!」と叫ぶ。ところが、その井戸はじつは他の井戸とつながっていて、国中の井戸から床屋の叫び声が聞こえてしまう……というストーリー。このお話では、秘密を保持することの難しさが教訓になっていると思われる。人の口に戸は立てられない。
また、穴を埋め戻した場所から葦が生えてくるのではなく、周りの葦が聞いていたという「壁に耳あり」型のものがある。また羊飼いが生えてきた葦で草笛を作ったら「王様の耳はロバの耳!」と鳴るようになったというバリエーションもある。この羊飼いはおもしろがって笛を鳴らしまくるのだが、現代のインターネットにも共通する教訓を感じずにはいられない。誰かの秘密を第三者が知ったら、それを拡散せずにはいられなくなる。人はそういう生き物なのだ。
さらに後日譚のあるバリエーションも存在する。
たとえば「秘密を暴露された王様は床屋を捕らえる」ところまでは共通のパターンだ。床屋は処刑を覚悟するが、王宮の前にはうわさの真偽をたしかめようと人々がつめかけていた。床屋と、そして民衆の目の前で王様は帽子を外す。なんと彼の耳はごく普通の人間の耳だった。王様はウソをついて床屋が秘密を守れるかどうか試したのだ。
さらに「王様ではなく、王子様の耳がロバ」というパターンもあるらしい。葦のせいで秘密が広まってしまうのは同じだし、床屋が捕らえられるのも同じだ。しかし王様が床屋を処刑しようとしたところで、王子様が「やめて」と言う。「ぼくはロバの耳を持っていることで、弱い人の気持ちもわかる、いい王様になれると思うんだ。だから床屋さんを許してあげて!」
捕らえられた床屋が処刑されないバリエーションは(いまの人の感覚に合致するのか)よく目にする。大きなロバの耳は、民衆の声がよく聞こえる耳……というわけだ。王様がじつは人間の耳だったパターンとは対照的だ。床屋が試されていたパターンでは「人との約束は守りましょう・秘密を口外するのはやめましょう」という教訓が込められていると思われる。一方、床屋が助かるパターンでは約束を守るのが難しいことを――誰かの秘密を知ってしまったら、それを言わずにはいられないことを認めてしまっている。人はそういう生き物ですよ、と。




      ◆




では、現代日本版の『王様の耳はロバの耳』を作るとしたら、どんなお話になるだろう。
床屋の叫びを周囲の葦が聞いており、あとで囁くようになる――このモチーフは2chtwitterの雰囲気によく似ている。私たち“匿名の参加者”は、河原に生えた葦なのだ。床屋の叫びの意味や真偽を確かめようとはせず、ただひたすらにコピペを繰り返している。
現代版の『王様の耳はロバの耳』では、捕らえられるのは床屋ではなく王様になりそうだ。
葦の言葉を鵜呑みにした人々は、「あの王様は悪魔の手先だ!殺せ!」と宮殿に押しかける。詰めかけた民衆を目にして、王様は風呂場に逃げ込む。そしてカミソリで自分の耳をそぎ落としてしまう。人々の声を聞くはずだった、ロバの耳を。
あるいは王様は暴徒に捕まってしまうかもしれない。そして帽子をかぶったままギロチンにかけられるのだ。彼がほんとうにロバの耳を持っているのか、誰もたしかめようとはしない。
いずれにせよ、血なまぐさい結末になりそうだ。
人間は残酷なものが好きだ。闘牛、闘鶏、闘犬、あるいは人間同士の格闘技……。流血や暴力を「娯楽」として楽しむ習性がヒトにはある。個人ごとに好みの差はあるだろうが、ヒトが残虐性を持っているのは事実だ。だからこそ私たちは「悪者」を探している。自由に傷つけることのできる相手を、正義を振りかざして叩くことのできる相手を、ヒトはいつも探している。
他人と耳の形が違う、そんなわずかな特徴が「悪」の象徴になりうる。
「悪」だと認定されたら、もはや誰も真偽を問おうとはしなくなる。


王子さまの耳はロバの耳 (おはなしのたからばこ 13)

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炎上が頻発し、twitterが「バカ発見器」と呼ばれるのは、そこが公共の場には見えないからだ。
本当は市の開かれる広場のような場所であり、たくさんの人々が言葉を交わしている場所だ。けれど、ユーザー一人ひとりの目にはアイコンしか映らない。画面の向こうに生身の人間がいることを想像するのは、生得的に難しい。私たちの脳みそはガラス板と会話するようにはできていない。画面に映る世界が「誰もいない河原」であるかのように錯覚してしまう。そして聞き耳を立てている葦に気づかず、人々は言うべきでないセリフを漏らす。
ネットの情報は不確実だ。たとえば駅前の広場を想像してほしい。デマともつかない言葉を鵜呑みにして、広場で大声でふれ回る……それってすごく恥ずかしいことだ。葦の存在に気づかなかった床屋は愚かだが、そのセリフをコピペする葦も同じぐらい愚かである。
私たちはインターネットを公共の場にしていかなければいけない。バカと暇人のものだなんて、揶揄されない場所にしていかなければいけない。私たち一人ひとりが考え方を変えれば、きっとインターネットはもっと使いやすくなる。そして、それは不可能ではない。
私たちは一本の葦かもしれないが、考える葦なのだから。






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