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デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

少女とSF/『マルドゥック・スクランブル』に見る「戦闘美少女」の合理性

冗語 創作
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戦闘美少女といえば、冲方丁さんだ。
あんまり読んだことがないので知らないのだけど、世間そういう事になっているらしい。『マルドゥック・スクランブル』を読んで、「なぜ少女なのか?」という疑問にまた別の答えが見えてきた。
以前のエントリーでは消費者側の嗜好に主眼を置いて分析したが、今回は物語の技巧論的な観点から考えてみた。ことSFにおいては、主人公を戦闘美少女にするのが合理的だと言えそうだ。なぜなら、男性読者が「超感覚」を味わうための踏み台として、「少女に感情移入させる」のがとても効果的だからだ。



     ◆



SFってジャンルでは、もうずいぶん長いこと「超感覚」がホットなテーマになっている、らしい。『攻殻機動隊』もそうだし、秋山瑞人『おれはミサイル』などは端的な例だろう。「世界の認識・解釈」の全く異なる知性が、何を考えどんな行動をとるのか。このテーマがずっと流行っているようだ。


攻殻機動隊 (1)    KCデラックス

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※『おれはミサイル』収録


「精神世界と情報世界のシームレス化」とか、「ユビキタス化による情報断絶の消失」とか。――「私たちの世界の認識が変わるぞ!」というのが、ここ10年〜20年ぐらいのSFの一大テーマだった。『マルドゥック・スクランブル』も当然この流れの中にある。



※まあ一口にSFと言っても広いから「かなり尖った少数先鋭の人たちの間で流行ってる」と言い換えたほうが良さそうだ。『ひぐらしのなく頃に』『時をかける少女』『涼宮ハルヒ』『新劇場版ヱヴァンゲリヲン』『魔法少女まどか☆マギカ』など、より間口の広いSF作品では「タイムループ」が大流行してる。「超感覚」を嗜好するのはかなりマニアックな層なのかも。


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     ◆



余談だけど、そういう少数先鋭の人たちの間で「超感覚」っていうテーマばかりが追求されるのはなぜだろう。それほどIT化のインパクトが大きかったのか、それともSFギョーカイが狭くて新しい流行が生まれなくなってしまったのか――もしくは同じテーマばかりが追求された結果SFギョーカイが狭くなってしまったのか。/俺にはよくわかんないや。
あとは「このテーマを過去のものにするほど大きな科学的発見・発明がなされていない」ってのは言えそう。この流れを変えるには、それこそ「地球外生命体の存在可能性」とか「DNA構造発見」「インターネットの発明・一般化」に匹敵するようなパラダイムシフトが必要なのかもね。



この論点については、ツイッターで@madeyesonlyさんから3点ほどご指摘いただいた。ありがとうございました。
1.超感覚/異形のものの在り方を描いた作品は、伝奇の時代から存在する。妖怪の覚(サトリ)などがその典型。
→超・納得です。確かに「超感覚」は、なにもSFの専売特許ではない。そういえば中学生の頃に中島敦山月記』を読んで、生々しい「虎の感覚」の描写に震えあがった。『山月記』はもともと『人虎』という中国の伝説を元ネタにした小説だ。人外の感覚を、私たちは大昔から想像しようとしてきた。
2.脳科学や量子情報理論etc…の発達に伴い、今まで哲学の領域だった分野が、科学の光が当たる領域にまで引き摺り下ろされてきた――といったコトをグレッグ・イーガンは指摘している。
→なるほどなぁと、ため息です。確かに「世界をどう認識しているか」「世界は本当にそこにあるのか」というテーマは、思いっきり哲学ど真ん中な論点だ。そういや学生時代、教養科目「哲学概論1」で映画『マトリックス』を見せられた――という話を同級生がしてたわ。90分授業だったから、クライマックス直前のめちゃくちゃいいところで打ち切られたとか。
3.テクノロジーによって作り変えられた肉体と変容するヒトの精神といったテーマは、ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』辺りの時代が着火点。いわゆるサイバーパンクの誕生から。
→勉強になります。
余談の余談だけど、人体改造や強化人間をSF読者はあまりにもすんなり受け入れすぎじゃないか? と、俺は常々疑問に感じています。世の中にはピアスを開けるのだって怖がる人がいるわけで、親からもらった体をやすやすと機械に置き換えるものなのだろうか、と。――ヒトという生物は本能的に、そういう人体改造を怖がるモノなんじゃないの? と俺は思うのです。遺伝子改造なんてもってのほかだよ。
いわく「電子化網膜の移植は、未来人にとっては眼鏡をかけるようなもの」だとか……えぇーうそーん><って思う。いわく「現代の歯医者の技術だって、昔の人から見たら人体改造だ」「だから人体改造に対する恐怖心は未来では無くなっているはず」だとか。いやいや、ちょっと待ってよ、今だってみんな歯医者は怖いでしょ!?
そういうサイバーパンクなSFを書きながら、自らも人体改造しまくっている作家さんているのだろうか。一般人が見たらぎょっとするようなピアスや入れ墨を入れて、人外な姿になっちゃっているSF作家さん。(探せばいるんだろうけれど、メジャーな人ではどうなのかしら)俺は寡聞にして知らない。
どうでもいいけど現代医療のなかでもレーシック手術は、かなりサイバーパンクな印象があるよね。



     ◆



話を『マルドゥック・スクランブル』に戻そう。
冒頭で主人公の美少女バロットが、悪役の男シェルに犯されるシーンがある。これが秀逸なのだ。男性読者は(あたりまえだけど)女性の体は持っていない。したがって「犯される」のがどんな「感覚」なのかを文章から想像するしかない。「女たちの感覚」は、男性から見れば充分に「超感覚」なのだ。
主人公バロットはその後、殺されかける。しかし金属繊維の皮膚を移植された超高性能リモコン少女として蘇り、お話が転がり始める。
復活後のバロットが持つ「超感覚」を、私たち一般人は絶対に感じることができない。にもかかわらず、わりとすんなりと物語に入っていけるのは、冒頭シーンのおかげで「自分とは違う感覚」を想像することに読者が“慣れた”からではないだろうか。「自分は絶対に感じることのできない感覚」を冒頭のシーンで想像しておくことが、その先を読み進めるためのトレーニングになっているのだ。もちろん冲方さんの並はずれた文章力・描写力があってこそ、だけど。
以上が「少女踏み台仮説」だ。
「少女の体に感情移入しておく」ことで、「人外の感覚」を想像するための踏み台になる。「超感覚」をうまく読者に想像させるために、まずメインの読者とは違う性別の人物に感情移入させておく。だから主人公を「少女」にする必要性が生まれ、結果として「戦闘美少女が主人公」というお話ができあがる。
以前のジェンダーロールに着目した分析が消費者サイドからの感想なのに対して、こちらは作者サイドからの分析だ。「超感覚の世界を描きたい」という目標がまずあって、そのための方法として、主人公の性別を「女」にしている。男性読者に超感覚を味わわせるのに、戦闘美少女はじつに合理的なのだ。


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こういう分析めいたつぶやきをするたびに、「こんなこと他の誰かがとっくに言っているだろうなぁ」という気持ちに襲われます。俺はオタクじゃないので、そこらへんの常識というか知識の蓄積が無いんです。的外れなコトもしょっちゅう言っていると思います。変なところを見つけたら、ぜひぜひツッコミを入れてください。










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