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デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

小説の設計図(1)/「感動」の正体を探る

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――二つ折りの恋文が、花の番地を探している。/J.ルナール『博物誌』




小説とは、いったいどんな芸術なのか。それを考察することで、小説の書き方を探ろうというシリーズの第一回目です。(全四回を予定)
今回は、「感動」の正体について考えていきます。
書いた小説を友人に読んでもらって、「テーマが見えない」「このお話が何を言いたいのかわからない」なんて感想が返ってきたことはありませんか? 読者の意見を尊重しようと改稿すると、かえって完成度が下がってしまうこともあります。原因は明白で、作者のチカラ不足です。では、作者にどのような能力が備われば、このような「つまらない」という感想を防ぐことができるのでしょうか。
また、これは私の個人的な経験談ですが、誤字脱字を指摘したら逆切れされたことがあります。その作者の言い分は「小説の感動はお話全体の流れから生まれるものだ(だから細かなワードチョイスのミスは関係ない)」というものでした。これは本当でしょうか。
小説作者はどんな細かな言葉遣いにも最大限の注意を払うべきだと、私は考えています。また、細かな言葉遣いまで網羅的・俯瞰的に把握する能力こそ、書き手に求められる「能力」だと考えています。
今回のエントリーでは、その理由を説明していきましょう。



   ◆ ◆ ◆



1.言葉の「意味」の二つの顔
言葉の「意味」には二つの側面がある。一つは「論理的な意味」で、モノを説明するときに使われる。もう一つは「非論理的な意味」で、詩歌や小説などの言語芸術はこちらの側面を利用している。
たとえば「青」という言葉には冷たいイメージ、知性的なイメージがあると言われている。また、「赤」という言葉には熱いイメージや死のイメージがあると言われている。そういった「イメージ」は、論理的な文章を書く上では必要がない。赤・青のような言葉は本来、「色の名前」という以上の意味を持たないはずだ。しかしヒトの脳みそは、言葉を単なる論理的記号としてとらえるだけでなく、そういった非論理的な部分まで想起してしまう。
たとえば「りんご」という単語を考えてみよう。論理的な記述をするだけならば、「可食果実の名前」という意味があれば充分だ。しかし人間の脳みそは論理的な意味のみならず、非論理的な部分にまで想像力を広げてしまう。「りんご」という単語を聞いた瞬間に、その甘酸っぱい香りや、みずみずしい色合いを思い浮べる。人によっては、さらに個人的な経験を思い出す場合もあるだろう。幼いころ、風邪を引いた夜に母親がすりおろしリンゴを作ってくれた――そんな記憶から、「りんご」という単語に「母性」のイメージを重ねる読者もいるかもしれない。もちろんそのようなイメージは、論理的記述を行ううえでは必要がない。学術論文を思い浮べてほしい。りんごの持つ酵素の生化学的特性を書いた論文があるとして、そこに「イメージ」は必要ない。学術論文は極めて論理的な文章だからだ。
以上のことから、言葉の持つ「意味」は二つの種類に分類できる。一つは論理的な文章を書くために必要な「論理的な意味」。もう一つは、ヒトの脳みそが勝手に想起してしまう「非論理的な意味」だ。
このエントリーでは、こういう非論理的な意味のことを「イメージ」と呼ぼう。
言うまでもなく、言語芸術はイメージを活用している。論理的な意味だけではなく、イメージを駆使して人間の脳みそを刺激し、感動へと導こうとする。それが言語芸術だ。




2.イメージの昇華
世界でもっとも短い小説をご存じだろうか。アーネスト=ヘミングウェイは、「たった六単語で小説(story)を作れるか」という賭けを友人と行い、勝利した。その時に書かれたのが、次の短文だ。


For sale; baby shoes, never worn.
「売ります!赤ん坊用の靴(未使用)」


これを小説と呼べるかどうかは判らない。が、確かに、なにか物語性を背景に感じさせるフレーズだ。それこそ中学生レベルの英単語が並んでいるだけなのに、ヒトの脳みそはそこから豊かなイメージを想起してしまう。
またこのエントリーの冒頭には、J.ルナールの詩集『博物誌』から引用を載せた。


二つ折りの恋文が、花の番地を探している。


これはある生き物を表現しているのだが、おわかりいただけるだろうか。
そう、正解は「蝶」だ。このフレーズには「蝶」を示す単語は一切使われていない。にもかかわらず、人間の脳みそは「蝶」のイメージを想起してしまう。つまり、イメージは複数集まると、まったく別の新たなイメージを生みだすのだ。
この現象を「イメージの昇華」と呼ぼう。
たとえば単語Aのイメージをa、単語Bのイメージをbとする。この二つの単語を並べた時に得られるイメージは、単なる(a+b)ではない。まったく違うイメージα(アルファ)が浮かび上がる。
これを化学反応式っぽく示すと、
a + b → α
と記述できる。


ここで、さらに別の単語C、Dを仮定し、それぞれのイメージをc、dとする。これらC、Dを並べた場合、やはり新たなイメージが生まれる。上述の式に従えば、
c + d → β(ベータ)
と記述できる。


イメージαやβは複数の単語から成り立っているが、「言語によるイメージ」という点でabcdと同じだ。したがってイメージα、βを配列した場合にも、同様に新たなイメージが発生するはずだ。すなわち、
α + β → 「イ」
と記述できる。つまり文章には、イメージ「イ」「ロ」「ハ」……が並んでいることになる。
この考え方はどこまでも拡大していくことができる。イメージ「イ」と「ロ」が並ぶことで、さらに大きなイメージの塊が生まれるはずだ。最終的には「小説全体から生み出される一つの巨大なイメージ」を想定できる。
この巨大なイメージの塊のことを、読者は「感動」と呼び、作者は「テーマ」と呼ぶ。私はそう考えている。「感動」の善し悪しがマクロな視点からの評価だとすれば、ワードチョイスの巧拙はミクロな視点での評価だ。しかし上記のように、ミクロなイメージの昇華を積み重ねることで、小説全体からの感動が生み出されている。


創作での実用上は、
「ミクロでのイメージの昇華にかかわるもの=単語・言葉遣いの取捨選択」
「マクロでのイメージの昇華にかかわるもの=エピソード・イベントの取捨選択」
と考えて差し支えないだろう。
各単語の持つイメージは「昇華」というプロセスを経て、小説全体への感動に繋がる。小説におけるミクロとマクロは、このような関係性を持っている。




3.小説を書くのに必要な能力
前述の通り、小説による「感動」とは、作品全体から浮かび上がる「イメージの塊」だと私は考えている。そして、それは小さなイメージの集合体によって生み出される。単語一つひとつのイメージから、こつこつと積み重ねられたものだと言える。足もとには「単語」があるのだ。
どんなにプロットが優れていても、読者が最初に目にするのは単語の一つひとつだ。その選び方が優れていれば、読者はすんなりと「感動」へ到達できるだろう。逆に単語の選択が不適切ならば、感動にたどり着くことができない。
たとえば「難病恋人モノ」の小説を考えてみる。セカチューとか、そういうのだ。誤解を恐れずにおおざっぱに言えば、難病恋人モノのお話は次のようなプロットを持っている。
1.二人が出会う
2.二人は愛し合う
3.恋人に難病発覚
4.必死で闘病
5.恋人の死
この一連の流れを用いて読者になんらかの感動を与えるのが、難病恋人モノの基本的な戦略だ。こういう全体の流れがどんなに独創的で優れていても(あるいは基本に忠実で手堅いものだったとしても)、各シーンの出来がイマイチでは、読者は感動できない。出会った瞬間のときめきや、愛し合うことの幸福、そして難病が発覚した時の絶望感など、丁寧に描写していく必要がある。では、ときめきを表現するのにどんな状況設定をすればいいのか。さらに、それをどんな言葉で語るのか――。視点はどんどんミクロな部分へと向かっていく。
「どのようなプロットを引くか」という設問は、「大きなイメージの塊(前述の例なら「イ」「ロ」「ハ」)をどのように配列するか」と言い換えられる。そして「イ」「ロ」「ハ」のような大きなイメージの塊は、α、βがなければ生じない。したがって、各単語のイメージabcdからα、βを生みだすのに失敗した場合、これら大きなイメージを読者に与えることはできない。
以上のことから、小説を書くときには細部にまで注意を払うべきだと言える。また作品全体から生み出される「感動」が各単語とどのような関係を持っているのか、俯瞰的に把握する能力も必要になるだろう。プロとして活躍している作家は、言葉のこういう特性を(意識的・無意識的に関わらず)使いこなしている。



   ◆ ◆ ◆



小説を書く時、誰だって「なにか言いたいこと」を持っていると思います。それ自体は上手く言語化できなくても、作品全体で伝えたい「何か」があるはずです。それを作者サイドでは「テーマ」と呼びますし、読者サイドは「感動」と呼ぶ。私はそう考えています。
「テーマが見えない」「このお話が何を言いたいのかわからない」――こういう感想は、その「何か」が伝わっていないことの証拠です。もしもこういう感想を得たならば、単語の一つひとつや、フレーズの並べ方、あるいはシーンの配列。それらすべてが「言いたいこと」に繋がっているかどうか、再検証する必要があるでしょう。
単語にせよ、フレーズにせよ、作中に登場するすべての「言葉」がテーマに収斂する。そういう作品を書くことが私の理想です。


   ◆ 予告 ◆


というわけで今回は、かなり抽象的な内容になってしまいました。実際に創作をする際には、あんまり役に立たないですよね。あくまでも「こころがまえ」ぐらいにしかならない。今後はもう少し実用的な内容に踏み込んでいきたいと思います。
第二回では、「繰り返し表現の効用」について考察する予定です。小説に限らず、言語芸術ではしばしば「繰り返しの表現」が登場します。おなじフレーズを繰り返すことで、どのような効果が得られるのか。それを分析したところ、「登場人物とは何者か」という疑問に答えが見えてきました。
また第三回では「ストーリーとは何か」という疑問に踏み込んでいく予定です。今回のイメージに関する考察は、言葉の非論理性に基づくものでした。一方、ストーリーでは言葉の論理的な部分が重要になります。小説に限らず、演劇、映画、音楽、マンガ等、ストーリーを持つ芸術はたくさんあります。それらの共通事項は何でしょうか。
最終回・第四回では、小説の持つ非論理的な部分(=イメージによる感動)と、論理的な部分(=ストーリー)とを統合し、「小説とは何か」という疑問に、答えの一つを示したいと思います。タイトルは「人物を描くということ」。
素人ワナビの的外れな考察かもしれませんが、「デマこいてんじゃねえ!」とツッコミを入れながら読んでいただければ幸いです。それでは、乞うご期待。






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