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デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

そのお話、小説にする価値あるの?/「面白さ」の二面性

創作
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「面白さは人それぞれ」という言葉、ひじょーに厄介だ。
 やっぱり物語を書く以上、読者に「面白い!」と叫んでもらえる作品を書きたい。
 確かに、どんな作品を「面白い」と感じるのか個人差がある。けれど一般化して考えていけば、たった二つの側面に集約できるのではないか。面白さを決定する二つの軸だ。
 そしてこの二つの側面について考察していくと、「小説はどんな内容を伝えるのに適したメディアなのか」が見えてきた。また自作に寄せられた感想・批評を解釈するうえでも、この二つの側面を念頭に入れておくことが有用なはずだ。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



1.二つの側面ってなに?


 小説に限らず、映画や演劇、マンガなどの物語性のあるコンテンツを考えてほしい。
 その「面白さ」には二つの側面がある。
 一つは、作品を観終わった後に心に残る感動だ。いわゆる「感想」というものは、この事後的な感動のことを指す場合が多い。どんな物語も、その作品世界のなかで時間が流れている。物語が終わって、その時間の流れが止まった後に残る感動。いわば静的な面白さだ。
 もう一つは、作品を観ている最中に感じる「楽しさ」だ。物語のなかの時間の流れを感じながら、登場人物たちと一緒に驚いたり、喜んだり、悲しんだり……。物語性のあるコンテンツには、そういう楽しみ方がある。こちらは動的な面白さといえる。
 読者の側は、この二つの側面をごちゃ混ぜにした感想を述べる。けれど、作品を書く場合には、この二つの側面のどちらにも気を配らなければいけない。感想を自作のレベルアップへと繋げるためには、読者がどういう眼で作品を読んだのか、分析する必要がある。



具体例で考えてみよう。

ローランド=エメリッヒ監督の作品は、しばしば心無い批評に晒される。いわく、人間ドラマの描き方が画一的で、深みがない。表面をなぞっているだけだ。どこかで見たドラマの焼き直しだ……云々。

あのなぁ、わかってねえなぁ。

インデペンデンス・デイ』の観客が、男同士のきずなを観たがっていると思うのか?
デイ・アフター・トゥモロー』に甘酸っぱい青春の憧憬を求めるか?
『2012』に、家族愛を求めるべきか?
違うんだよ、エメリッヒ作品を観るのはさあ、地球がぶっ壊れるところを見たいからなんだよ。日常では想像できないような大迫力の映像を楽しみたいからなんだよ。でっかい画面で、高品質な音響設備のなかで、心を無にしてさぁ。

つまりエメリッヒ作品は、「映像そのものを楽しむ」という側面が強い。
感覚としては遊園地の乗り物に近いものではないだろうか。それを指して「俺はそんなの嫌いだ」というのは、別に悪いことじゃない。けれどコンテンツを作る立場であれば、そうも言っていられない。エメリッヒ作品が大ヒットを飛ばすことは揺るぎようのない事実であり、コンテンツを受け取る側が、そういう作品を求めている。

エメリッヒ作品を楽しむ観客は「映画を観ている時間」そのものを楽しんでいる。
つまりは動的な面白さを求めているのだ。


その一方で、観ている時間そのものは眠気との戦いだけれど、観終わったあとに長く心に残る映画もある。
私の場合、『ブロークバック・マウンテン』がその筆頭だ。
地球がブチ壊れるような派手な映像はない。シナリオも淡々と出来事を描写していく形式で、展開にドキドキハラハラさせることは狙っていない。動的な面白さは弱い。
けれど一度観ただけで、ずいぶん長く心に残る映画だった。朝起きて歯を磨く瞬間とか、晩ご飯をひとり大戸屋で食べている瞬間だとか、何気ない日常のなかで、ふと思い出してしまう。『ブロークバック・マウンテン』はそういう映画だった。
BLって素敵だ

これは静的な面白さが重視された作品だといえる。




2.それを小説に応用すると?


 ここでは私の敬愛する宮部みゆき先生の作品から具体例を挙げよう。
火車』と『スナーク狩り』だ。どちらも1992年に初版発行。
うわあもう18年も前の作品なのか、歳をとるはずだ。
どちらも抜群に面白い。著者のもっとも脂ののった時期の作品だ。
しかし、ほぼ同時に発表された作品であるにも関わらず、その評価は大きく分かれる。かたや、直木賞候補作にして山本周五郎賞受賞作。もう片方は隠れた名作の扱いだ。この差は何だろう。


先に私の感想を述べよう。私は『スナーク狩り』のほうが楽しめた。というか、夜中に読み始めたら徹夜コースだった。息をつかせぬ展開、張り巡らされた伏線、まるでハリウッド映画や海外ドラマを観ているような緊張感のなかで、最後まで一気に読まされてしまった。

もちろん『火車』にも、そういった読者を飽きさせない工夫が満載だ。同じ時代のどの作者よりも、読ませる作品に仕上がっている。(というか最近の作者にもあまりいないんじゃないかな、「ストーリーテリング」「ドラマ」「キャラクター」を兼ね備えたうえで、社会性と敷居の低さを両立した作品を書ける人)しかし、私にとっては「一気読み」を誘うほどではなかった。

ここで判るのは、私という読者がより強く求めているのは、動的な面白さだったということだ。


動的な面白さという側面でみれば、『スナーク狩り』のほうが『火車』よりも優れているのは明白だ。(というか宮部は、最初からそちらの側面を追求するつもりで書いたはずだ)
一方、静的な面白さに目を向けてみよう。すると、『火車』のほうがより多くの読者の心に残ったであろうことに納得できる。『スナーク狩り』に描かれる人生は(極端に不幸ではあるものの)単なる復讐譚にすぎない。いっぽう『火車』で描かれたのは、女性たちの想像を絶するような人生だ。また作中に持ち込まれる専門知識についても、ショットガンの扱い方なんてトリビアにしかならない。けれどクレジットカードの使い方はとても身近な題材だ。こうした違いから、多くの読者にとって、より長く余韻が残るは『火車』のはずだ。

動的な面白さと静的な面白さ。
二つの側面の総合評価として、『火車』には高い評価が贈られた。




3.小説に求められる面白さとは?


こうして考えてみると、小説には静的な面白さが求められていると判る。
もちろんどちらの側面もないがしろにはできないし、小説のジャンルによっても「どちらの側面を重視するか」は変わる。たとえばライトノベルならば、平易な表現とユーモア、ストーリーテリングなど、若い読者を引っ張る工夫が欠かせない。ミステリーならば、ラストの謎解きシーンまで読みとおしてもらう必要がある。すると「読むこと自体が楽しい!」という動的な面白さが求められる。

しかし、だ。
物語の「流れ」を楽しむだけなら、小説よりも適したメディアがあるじゃねーか。

マンガ、映画、アニメ、それに舞台。
視覚的な面白さに訴えるならマンガには敵わない。
映画や舞台にいたっては、劇場に足を運ばせてしまえば最後まで観てもらえる。
なにが悲しくて、せせこましい活字を読まなければならないのだろう。想像力を発揮するのは、脳に負担かける。言葉のつながりから映像や音声を想像するのは、コンテンツの受け手にとって大きな負担だ。

したがって、小説には静的な面白さが求められる。
読み終えたあとに残る「何か」。センス・オブ・ワンダーのようなもの。

ところが、静的な面白さだけを追求するならば、それも小説には適さない。
哲学的な思索にせよ、SF小説にあるような知識探求にせよ、知的興奮を純化させていくと学問に行き着く。静的な面白さだけを求めるなら、学術論文や時事批評で構わない。堅苦しい文章は、読み解くのに労力を要する。けれど思い出してほしい、初めて英字の論文を一本読みとおした時のことを。そこに書かれた内容が理解できたときの嬉しさを。あの感動こそ、静的な面白さのもっとも純粋なかたちではないだろうか。そして、それらを小説にする必要はない。


以上をまとめると、次のようなタイプのお話は小説に適している。

1)答えがひとつに定まらないテーマを扱ったお話
  →学術論文では無粋にもひとつの答えを出そうとするけど、現実ってそんな単純じゃ無いじゃん! 答えがひとつにならない問題は、小説というメディアにぴったり。

2)知識を解りやすいかたちで伝えるお話
  →時代小説とか、SF小説とか。

3)小説にしかできない表現を用いたお話
  →叙述トリックを利用したミステリーとか。またあまりにも過激なグロ描写、エロ描写もこのカテゴリーかも知れない、大人の事情で。


と、まあ、こういう分類をしてみたのだけれど、これはあくまでも静的な面白さの側面に目を向けた場合の話だ。読者のなかには、小説というメディアにも動的な面白さを希求する層があるはずだ。たとえば私がそういう読者だし。
本音を言えば、動的な面白さも静的な面白さも、どちらもずば抜けた作品を書きたい。ていうか書くべきだ。
ラストまで「一気読み」を誘い、死ぬまで続くような長い余韻がある。
そういう作品を、私は書きたい。



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自作を誰かに読んでもらって、まず「面白かった?」と聞くようにしている。
昔は、いろいろと前置きをしていた。どういうことを狙ったとか、ここの表現には気合を入れたとか、書き手側の理屈を押し付けていた。言いワケを並べたうえで、感想を求めていた。その不毛さに気付いたのはつい最近になってからだ。

冒頭の「面白さは人それぞれ」という言葉。
なにが厄介なのかといえば「面白さ」の定義があやふやなまま使われることだ。

求めているような感想が読者から返ってくることはほとんどない。最高傑作だと思っていた作品に「いくらなんでもこれはひどい」という感想を付けられるのは日常茶飯事だ。自分ではイマイチだと思っていた表現が、案外、読者の涙を誘ったりする。読者からの「面白かった/面白くなかった」という感想は、まったくアテにならない――分析をしない限り。


まず、作品の「どこが/なぜ/どのように」つまらなかったのかを聞くべきだ。
また読者その人が、どんな作品を嗜好し、どういった作品と比較したうえで評価を下しているのか、それも聞き出すといいだろう。

とくに「つまんねー」という感想を受けたときは凹むし、詳しい話を聞きたくなくなる。逆に褒めてもらえたときは有頂天になって、どこが良かったのかを聞き逃す。だから自戒を込めて、このようなエントリーを書き残した。


繰り返しになるが、読者はいろいろな要素をごちゃ混ぜにしたまま感想を述べる。
「動的な面白さ/静的な面白さ」の区別を付けないし、「ストーリーテリング/ドラマ/キャラクター」の違いも解るはずがない。そういう事情も加味したうえで読者からの感想を読めば、どんな悪評(あるいは盲信的な好評)であろうとも、執筆能力を高めるための血肉となるはずだ。

「感想を読み解く能力」が身に着けば、第0次審査は怖くなくなる。







参考(トラックバック一覧):

すべての新人賞には第0次審査落ちがある。-Something Orange
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20100125/p1
※というわけで安心しようぜ! 第0次審査で落ちるような奴は俺たちワナビのライバルじゃねえから!



ライトノベルが衰退するかはわからないが変化はしている、エロい方向に - Windbird::Recreation
http://d.hatena.ne.jp/kazenotori/20080907/1220761563
エロ萌え展開ってのはたぶん動的な面白さに分類できる。そういったエロ萌え展開がマニア受けしないという分析は面白い。小説が好きで好きでしかたない人ほど、静的な面白さを求めるのだろうか。



“文学少女”シリーズ」の結末に感じる違和感を「とらドラ!」との比較で説明してみる-いつも感想中
http://d.hatena.ne.jp/hobo_king/20100201/1265031787
ラノベには動的な面白さが求められると書いたけれど、やっぱりそれだけじゃないよね。物語を分析することで見えてくる静的な面白さだって必要だ!



ライトノベルに携わる人々は今一度「風と共に去りぬ」を読むといい-ハックルベリーに会いに行く
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20090517/1242546021
※だからさー、コンテンツの送り手側だって百も承知なんだよ、物語に苦みが必要なことぐらい。あとはその苦みの量と、動的な面白さとのバランスなのではないか。



小説まともに書けない人が、徹底的に添削された-G.A.W.
http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20091228/1261936270
※歯に衣着せぬ感想を得るには、夫婦って理想的な関係なのかも。



なぜ増田小説概論(須江岳史)
http://anond.hatelabo.jp/20090629223650
※おもしろい。