デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

AIが広げるマンガの未来

このエントリーをはてなブックマークに追加
Share on Tumblr

「Midjourneyで作った画像を絵画の賞に送ったら受賞しちゃいました」というニュースが世間を騒がせました。正直なところ、この〝犯人〟に対して、私は説教してやりたい。本人はアラン・ソーカルワナビとして芸術界の欺瞞を暴いたつもりかもしれません。しかし私の目から見ると、倫理観に欠けた行動で世間を騒がせて、無駄に反感を煽り、無駄に対立を深めただけの愚か者だと思えます。

「ならばお前はどうなんだ?」と訊かれるかもしれません。「AIで制作した『サイバーパンク桃太郎』なんてマンガを販売しようとしているお前は、Midjourneyで絵画賞に応募したやつと何が違うんだ?」と。

 まず前提として、『サイバーパンク桃太郎』が日本語圏とそれ以外とで、まったく正反対の反応を引き起こしたという点を確認しておきたいです。

 新潮社がこのマンガを発売するというニュースは、2023年1月5日に発表されました。このニュースは多言語に翻訳されて、世界中のマンガ好きの間で激しい議論を巻き起こしました。AIに懐疑的な目を向ける人たちから、激しい反発を招きました。

 ところが、日本語圏での反応は正反対でした。

 元ネタの『桃太郎』の伝説を知る日本語話者の多くは、『サイバーパンク桃太郎』を極めて好意的に受け取ったのです。

 私がTwitter『サイバーパンク桃太郎』の最初の投稿をしたのは、2022年8月10日です。現時点で、この投稿は3.1万RT、7.79万いいね、1495万インプレッションを記録しています。これほど多くの人の目に触れていながら、感想のほとんどは絶賛でした。批判は数える程しかなく、それらも「こうすればマンガとしてもっと良くなる」という建設的な批判が大半でした。インターネットで長く遊んできましたが、ここまで賞賛一色になる光景を私は見たことがありません。

 AIに懐疑的な人の中には、「このマンガが面白いのは原作者の書いたストーリーが面白いからで、AIの画像は大したことがない」という批判を展開する人もいました。Midjourneyが〝タンク役〟としてヘイトを買ってくれたおかげで、なぜか私本人は褒められてしまったのです。

 また、NovelAIが登場した際には、日本でも画像生成AIは大きく炎上しました。その時には「AIで生成した画像をそのまま同人誌として売るなんて許せない! AIは『サイバーパンク桃太郎』のような使い方をするべきだ」という意見を述べる人も見かけました。

 つまり『サイバーパンク桃太郎』は、〝アンチAI派〟の人でも許せる作品だったらしいのです。少なくとも、日本語話者の間では。

 

 なぜ日本語話者は、その大半が『サイバーパンク桃太郎』に反感を抱かなかったのでしょうか? なぜ〝アンチAI派〟の人ですら、『サイバーパンク桃太郎』をAIの望ましい使い方だと感じる人がいたのでしょうか?

 その答えは、あのマンガの「コンテクストの価値」を読み取ることができたからだと、私は考えています。

「物語の価値」と言い換えてもいいでしょう。

 

   ◆ ◆ ◆

 

 芸術作品の価値には、三つの側面があると私は考えています。

 第一に、美的価値。その作品がそれだけで美しいかどうか。見た人を感動させるかどうか。

 第二に、商業的価値。その作品にいくらの値段がつくか。その作品を見た人が、いくらなら払ってもいいと感じるかどうか。

 そして第三に、コンテクストの価値。その作品が背負っている物語の価値です。この点はもう少し詳しく解説した方がいいでしょう。

 

 例えばデュシャンの『泉』という作品は、それ自体はただのトイレの便器です。工業デザインオタクを例外とすれば、トイレの便器に〝美しさ〟を感じるのは難しい。世間一般の常識から言えば、むしろ〝汚いもの〟と見做されがちな製品です(※もちろん、汚れているからこそ美しいという意見もあるでしょう。しかしこの記事では「美とは何か」という哲学的議論には踏み込みません)。またトイレの便器ですから、商業的な価値も大したことはない。公衆便所に設置するために、できるだけ安く大量生産されるタイプの製品です。ところがデュシャンの『泉』は、現代アートの出発点として高く評価されています。芸術としての価値を認められています。

 なぜならデュシャンは、世界で初めて、便器を美術館の展示室で展示したからです。

「美術館の展示室という、不釣り合いな場所に便器を置いた」「しかも、それは世界で初めての試みだった」という物語とコンテクストに、私たちは価値を認めているのです。

 ところで、デュシャンの『泉』は現代の価値観で見ると、便器メーカーの著作権や商標権を侵害していないでしょうか? 恥ずかしながら私は芸術史に疎いのですが、デュシャンは便器のデザイナーから許可を取っていたのでしょうか?

 

 話を戻しましょう。

 芸術作品の「コンテクストの価値」では、アンディ・ウォーホルの作品群にも同じことが言えるでしょう。

 彼の代表作の一つである『キャンベルのスープ缶』は、それ自体は何か面白味のあるものを描いたものではありません。どこにでもありふれた、既製品のスープの缶を描いただけです。デュシャンの『泉』と同様、美的な価値や商業的な価値が、取り立てて高いものではない。

 ところが、ウォーホルという成功した芸術家が、(写真ではなく)わざわざシルクスクリーンの技法で制作した……という物語が面白い。また、第二次世界大戦から復興が進み、大衆文化が花開いた1960年代という時代に、「スープの缶」という大衆的な製品を題材にしたことが面白い。ここでも、私たちは物語とコンテクストの価値を高く評価しているはずです。

 ところで、アンディ・ウォーホルは現代の価値観で見ると、キャンベル社の著作権や商標権を侵害していないでしょうか? マリリン・モンローの肖像権を侵害していないでしょうか? 恥ずかしながら私は芸術史に疎いのですが、ウォーホルはキャンベル社のデザイナーから許可を取っていたのでしょうか?

 

 もしもあなたがデュシャンやウォーホルの作品を「芸術的に価値がある」と見做す立場であれば、「画像生成AIには権利上の問題があるから、『サイバーパンク桃太郎』は芸術とは認められない」とは主張できないはずです。

 そもそも画像生成AIの開発陣は、AIで生成した画像に権利上の問題は〝ない〟と主張しています。もしも仮に、そのような問題が〝ある〟としても、それを理由に『サイバーパンク桃太郎』の芸術性・創造性を否定することは困難でしょう。なぜなら、デュシャンやウォーホルは既存の製品や意匠を〝丸パクリ〟しているにもかかわらず、芸術性を認められているからです。

 

   ◆ ◆ ◆

 

 マンガ原作者という立場から見た画像生成AIは、クラシック作曲家から見たMIDIのようなものです。

 現在のMIDIは技術が進歩し、かなり良い音で演奏できるようになりました。それでも、人間の演奏するフルオーケストラの〝良さ〟には敵いません。同様に、現在の画像生成AIは驚くほど高精度のイラストを出力できるようになりました。それでも、人間のマンガ家が描くイラストには遠く及びません。

 クラシック作曲家であれば、自分の作った楽譜をMIDIで再生してYouTubeに投稿することはあっても、本心では人間のフルオーケストラに演奏してもらいたいと考えるものでしょう。同様に、私は自分の作った物語を画像生成AIでマンガの形にしてTwitterに投稿することはあっても、本心では人間のマンガ家に作画してもらいたいと考えています。

 作曲家は音楽を売っているわけではなく、本質的には楽譜を売っています。シンガーソングライターが増えた現代では忘れがちですが、「楽譜を創ること」と「音楽を演奏すること」は、別の仕事です。マンガ原作者という立場も、これによく似ています。私はマンガを売っているわけではなく、本質的には物語を売っているのです。

 

「画像生成AIはMIDIのようなものである」という比喩は、「画像生成AIによりマンガ家の仕事は奪われるか?」という疑問への答えにもなっています。

 MIDIの発展により、驚くほど良い音質でパソコンに音楽を演奏させることが可能になりました。

 では、人間のフルオーケストラは絶滅したでしょうか?

 答えはもちろんノーです。

 現在でも毎週末、世界中でオーケストラのコンサートが開催されています。むしろMIDIの発展は、EDMやクラブ・ミュージックのような新しいジャンルを生み出しました。MIDIという新技術は、音楽の世界の多様性を広げることに寄与したのです。

 19世紀、初めて写真という技術が生まれたとき、人間の絵描きの仕事を奪うと恐れられたそうです。しかし、現代でも人間の絵描きは絶滅していません。むしろ写真の登場により、芸術家たちは「人間にしかできない表現」を追求しました。パリのモンマルトルの丘が最盛期を迎えるのは、写真の登場後、20世紀の初頭になってからです。ここでもやはり、写真という新技術は絵画の世界の多様性を広げました。

 同じく19世紀、蓄音機が登場したときに、人間の演奏家の仕事を奪うと恐れられたそうです。しかし、人間の演奏家は今でも絶滅していません。20世紀に入ると音楽は大衆文化として花開き、巨大産業へと成長しました。レコードという新技術の登場は、人間の仕事を奪うどころか、音楽の世界を芸術的にも経済的にも豊かにしたのです。

 20世紀の後半にテレビが登場すると、映画産業はもうおしまいだと見做されたそうです。自宅で映像を楽しめるテレビという新技術により、誰も映画館には来なくなるだろうと予想されたのです。

 ところが、現在でも映画は絶滅していません。

(※もちろん、産業構造の再編には直面しました。たとえば〝報道映画〟というジャンルはテレビの登場により消滅し、ドキュメンタリー映画というジャンルに吸収されました)

 映画は「映画にしか提供できない映像経験」を追求することでテレビとの差別化に成功し、今でも興行収入第1位が更新され続けています。それどころか、Netflixのような新たな視聴形態が生まれたことで、映画文化はますます豊かになろうとしています。

(※余談ですが、私はNetflixのオリジナル・ドキュメンタリー映画が大好きです。知的好奇心をくすぐられる素晴らしい作品が揃っています)

 

 このような歴史を振り返ると、「画像生成AIはマンガ家の仕事を奪う」という主張には説得力を感じられません。

 なぜなら芸術は、食料生産や運輸、通信とは違うからです。

 新しい技術が登場しても、古い技術の需要がなくなるとは限らない。むしろ古い表現技法を、私たち人類はしつこく楽しもうとします。大抵の場合、新技術により需要が失われるのではなく、新たな需要が生まれるのです。結果として、表現の多様性が広がることも珍しくありません。

 

 話を戻しましょう。

「画像生成AIはMIDIのようなものである」という比喩は、冒頭の私の主張にも繋がります。

 なぜ私が「Midjourneyで生成した画像を絵画賞に投稿した人」に批判的かといえば、MIDIで制作した音源を「自分の演奏だ」と偽って音楽の賞に応募するようなものだからです。その行為は「詐欺的だ」と批判されるべきでしょう。

 MIDIの鳴らす〝音〟それ自体には、ほとんど芸術的な価値はありません。わずかな美的価値があるだけで、商業的な価値もコンテクストの価値もゼロに等しい。AIの生成した画像も同様だと私は考えています。パッと見には美しくても(つまり、わずかな美的価値があっても)、商業的な価値やコンテクストの価値はありません。

 

 AIが生成した画像たちは、ただそれだけでは価値がありません。

 では、どうすればそれらに価値を与えることができるのか?

 そう考えた結果、私はマンガにすることを思いつきました。

 なぜならマンガは、「何の変哲もない画像」に「コンテクストの価値」を与える、最も優れた方法だからです。

 

 たとえば2020年頃の日本では、「黒と緑の市松模様」のハンカチが飛ぶように売れました。ペンケースを始め、ありとあらゆる文房具、ありとあらゆる衣料品に「黒と緑の市松模様」のバージョンが製作され、販売されました。

 なぜなら『鬼滅の刃』が流行っていたからです。

「黒と緑の市松模様」は、主人公の竈門炭治郎を象徴するデザインだったからです。

 市松模様は日本の伝統的な模様であり、それ自体はさして特別なものではありません。ありふれた、やや退屈な模様です。ところが『鬼滅の刃』という物語が流行ったことで、この模様は特別な意味を持つようになりました。「竈門炭治郎の象徴」という、コンテクストの価値を背負うようになったのです。だからこそ日本中の子供たちが、黒と緑の市松模様の文房具を欲しがるようになったのです。

 同じことがMidjourneyでもできるはずだ、と私は考えました。

 AIの生成した画像そのものは無価値でも、マンガの形にすれば、何かしらの〝価値〟を持たせることができると考えたのです。

 

 最初の疑問に戻りましょう。

 なぜ『サイバーパンク桃太郎』は、日本語話者の間では好意的に受け止められたのでしょうか?

 その答えは、日本語話者は「物語を楽しめたから」でしょう。

『桃太郎』は、日本語話者なら誰もが知っている、極めてポピュラーな童話です。『サイバーパンク桃太郎』に登場するこの童話のパロディやオマージュを、日本語話者なら誰でも理解できました。

 だからこそ(作家としては大変光栄なことに)たくさんの読者が、あの物語を楽しんでくれたのでしょう。あの作品に〝コンテクストの価値〟を認めてくださったのでしょう。たとえばスープ缶の描かれたシルクスクリーンに〝価値〟を認める人が、アンディ・ウォーホルを芸術家だと認めるように、『サイバーパンク桃太郎』に〝価値〟を感じた読者は、私のことを物語作者として認めてくださったのでしょう。私はマンガ原作者です。絵ではなく〝物語〟を売ることが、私の仕事です。

 

 もしも『サイバーパンク桃太郎』の翻訳版を作る機会があれば、冒頭に伝統的な『桃太郎』の伝説を追加したいと考えています。外国語話者の皆さんにも、『サイバーパンク桃太郎』に〝コンテクストの価値〟を感じていただきたいからです。そのためには、パロディ元である『桃太郎』についても知っておいてもらいたい。

 そしてそのページには、もちろん、Midjourneyで生成した〝挿し絵〟をつけるつもりです。

 

 

   ~~~ お知らせ ~~~

 

『ドランク・インベーダー』というマンガを連載しています。現在、単行本第①巻が好評発売中です。