こちらの記事になんだか違和感を覚えた。
育休フィーバーの影で犠牲を強いられる“正直者”たちの鬱屈
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20120229/229264/
現在、多くの企業で育児休暇制度が充実してきている。これは本来、好ましいことであるはずだ。その一方で、育児休暇を取る同僚のぶんまで仕事をこなしている人がいる。“しわ寄せ”を受ける人がいるのは事実だ。そういう人たちの複雑な心境を理解すべきだよね、という記事だった。
気になったのは一点。
「権利を主張するのは果たすべき責任を果たしてから」
という一言。
「デキる人」にしか育児休暇を取る権利がないなんて、おかしくない? こんなセリフを吐く人は、「権利」というものがよく分かっていない。たとえば、なんの責任も負わず、なんの義務も果たせない赤ん坊にはなんの権利もないのか? そういう疑問を持つべきだ。
なにもできない赤ん坊だろうと、生きる権利はある。権利には「先天的なもの」とそうでないものがあるのだ。無人島で独り生活する人にも「生存権」はある。他者の存在とは無関係な、絶対的な権利というものがこの世にはある。
それに対して、責任や義務は後天的だ。他者の存在が――すなわち社会がなければ、責任も義務も生じない。
生得的で先天的な権利を、私たちは持っている。生きる権利、生殖する権利……社会情勢とは無関係な、絶対的な権利だ。それに対して責任や義務は、社会が変わればそれらも変わってしまう。
「仕事の責任」と「子育ての権利」は、どちらが「軽い」のだろう。
どちらを優先する人が、より「軽い価値観を持つ人」だろう。
「権利を主張するのは、果たすべき義務を果たしてから」というセリフは、後天的な権利(ex.債権とか)にしか当てはまらない。生得的な権利と後天的な責務とを比較するのはやめたほうがいい。思慮の浅い人だとバレてしまうから。
【追記】
なお、生得的な権利などない、という考え方もある。権利は、誰かが認めるからこそ存在するという考え方だ。生まれたばかりの赤ん坊の場合ならば、周囲の大人たちが「生きる権利」を認めるからこそ生きていける――と考えることもできる。事実、江戸時代にはそういう発想のもとに子供の間引きが行われていた。
生得的な権利は「ある」とするイマドキの考え方と、「ない」とするオクレタ考え方のどちらが正しいのかを、ここで問うつもりはない。思想や価値観の「正しさ」を問うことにはあまり意味がない。重要なのは、どちらがより「好ましいか」だ。
生物の場合は、もっとも強い者でも、もっとも賢い者でもなく、もっとも変化に適応的なものが生き残る。そして文化や思想、価値観といったヒトの精神活動の場合は、もっとも正しいものでも、もっとも分かりやすいものでもなく、もっとも「好ましい」ものが生き残る。世の中に広がり、世界を変える。もちろん明らかに論理的に破綻した考え方は「好ましくない」というレッテルを貼られるだろう。「正しさ」は「好ましさ」を支える一要素だ。
生得的な権利は「ある」とする考え方と、「ない」とする考え方――。あなたにとってより「好ましい」のはどちらだろう。生きる権利や生殖する権利、子育ての権利――そうした権利を生まれつき持っているとする考え方と、属した社会の承認がなければ(端的にいえば労働しなければ)得られないとする考え方。どちらがより「いい」だろう。
- 作者: 山田昌弘
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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