デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

リア充判定リトマス試験紙としての『ソーシャル・ネットワーク』

このエントリーをはてなブックマークに追加
Share on Tumblr


毎月一日は映画の日、というわけで三月一日は映画を二本続けて見てきました。今回は、そのうちの一本『ソーシャル・ネットワーク』の感想を書きます。やっと今週のお題「心に残る映画」に一致するエントリーを書けます。
あの映画を見て分かったのは、俺のメンタリティはやっぱり非リアだということ。


     ◆ ◆ ◆


あらすじ:
ハーバード大学二年生のマーク=ザッカーバーグは、学内でもとびきりの変わり者だ。親友のエドゥアルド=サベリンをはじめ、周囲にいるのはギークでナードなイケていない連中ばかり。おまけに彼女のエリカからは「あんたがモテないのは性格がサイテーだから!」と振られてしまい、非リアな学生生活を鬱々と過ごしている。
そんなある日、体育会系リア充学生のウィンクルボルス兄弟から、女と出会うことを目的としたSNS「ハーバード・コネクション」の制作依頼を受ける。これにヒントを得たマークは、独自のSNSを作り上げてしまう。サイト名は「ザ・フェイスブック」――伝説の始まりだった。

http://www.socialnetwork-movie.jp/




1.「どこにでもいる若い男」としてのマーク=ザッカーバーグ
偉人モノ映画の場合、主人公を「どこにでもいそうな人」として描くのが常套手段だ。この映画もご多聞にもれず、主人公マーク=ザッカーバーグをごく普通の男として描いている。たとえば彼女とパブでケンカするシーン:頭の回転だけは速いけれど、空気が読めなくて損をする――そんな彼のキャラクターが描かれている。中学高校の頃、各クラスに一人ぐらいはこういうヤツがいた。
続く「寮へ戻るシーン」も、とてもいい。(画面の上手の)誰だか分からない雑踏からマークが現われ、カメラの前を横切って、(画面の下手の)誰だか分からない雑踏へと消えていく。同じようなシーンが何度も繰り返され、ハーバード大学構内の様子(世界観)とマークの人物像とが印象づけられる。前かがみに歩くマークの姿は、どこにでもいる若い男そのものだ。否、どこにでもいるイケていない若い男だ。着ているグレーのパーカーも、彼の残念度を高めている。


映画の中のパーカー‐破壊屋
http://hakaiya.web.infoseek.co.jp/html/2010/20100115_2.html


しかし部屋に戻りPCの前に座った瞬間、彼はまったく別の顔を見せる。親友エドゥアルドと共にあるイタズラを画策し、非凡っぷりを見せつける。いったいどんなイタズラなのかは観てのお楽しみ。ぜひ劇場で確かめてね。


その後ウィンクルボルス兄弟に声をかけられるくだりは、あらすじに書いた通り。ザ・フェイスブックを立ち上げ、彼の伝説が幕を開ける。様々な人と出会い、いくつものドラマを乗りこえていく。
そして問題はラストシーンだ。【ネタバレ注意→】マークは元カノのエリカへと友達登録の依頼を送信し、F5キーを連打して反応を待つ。【←ネタバレここまで】このシーン、観る人によって反応が真っ二つに分かれるらしい。主人公の行動に共感を覚える人もいれば、「気持ち悪い」と拒絶反応を示す人もいるという。「……億万長者になっても人のぬくもりを云々」とブンガク的な解釈をしようとする人もいるだろう。だけど私の目には、このシーンのマークも「どこにでもいる若い男」に見えたのだ。――今の時代こういう男の子って、そこらじゅうにいるよね。
つまりこの映画は、「どこにでもいる若い男」の姿で始まり、やはり「どこにでもいる若い男」の姿へと回帰する――という形式のお話になっている。(この点では、いわゆる「行きて帰りし」型の物語のバリエーションと見なすことができるかもしれない)
注目すべきなのは、「どこにでもいる若い男」像が、最初と最後では変化していることだ。イライラと前かがみに歩くことしかできなかった男が、まったく別の行動を取るようになった。いったい何が、この変化をもたらしたのだろうか? 答えは言うまでもないだろう。フェイスブックをはじめとしたSNSの存在が、私たちの行動様式を大きく変えた。こうした時代の変化を描いているからこそ、この映画のタイトルは『マーク=ザッカーバーグ』ではなく、『ソーシャル・ネットワーク』なのだ。



2.非リアの視線
※この先ネタバレが多くなるので、未見の方は「戻る」ボタンをクリックしてね!
この映画は、徹底的に非リアの視線に寄り添っている。たとえばウィンクルボルス兄弟はボート部・有名クラブの会員・親が金持ち――と、一昔前の少年マンガならば主人公クラスの高性能キャラクターだ。にも関わらず、今作では「敵役」に配置されている。なぜなら「体育会系・リア充・高貴な生まれ」の人間は、マークたち非リアの敵だからだ。
またパーティーシーンの描き方も興味深い。たとえばこれが万人向けディズニー映画なら、パーティーは楽しげなモノとして描かれるだろう。しかし本作においては、背徳的で禍々しいものとして描かれている。薄暗い室内を紫煙が満たし、酒の匂いと女の嬌声にまみれている――まるでマフィアの会合か悪魔召喚の儀式みたいなシーンになっていた。
そして、マークは一度もパーティーに参加していない。仲間たちが祝杯を上げている時でさえ、人の輪から離れた場所で一人ビールを啜っている。それどころか親友をパーティーから連れ出したりする。今作の主人公は徹頭徹尾、非リアなのだ。
そんな彼が唯一「リア充的な場所」で過ごすシーンがある。クラブでショーン=パーカーと下着の話をするシーンだ。ショーンは典型的な「狂言回し」キャラであり、主人公と親友との関係を引っかき回す。そのきっかけとなるのは、マークとショーンが一対一で語り合うこのシーンだった。クラブという「リア充的な場所」に片足を突っ込むことで、マークは非リア的な場所(=親友との安住の地)から引っ張り出されてしまう。


このように、今作は徹底して「非リアの生態」を研究したうえで作られている。実話に基づきながらも、サスペンスフルな青春物語に昇華していた。映画賞を総なめにし、アカデミー賞では脚色賞を獲得している。納得の受賞だ。
この作品に感情移入できるかどうかで、あなたのメンタリティがリア充か、非リアかが分かる。いわばリトマス試験紙のような映画だと思った。――俺? もちろんすげー感情移入しましたけど何か。





.