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作者と読者の哀しい年齢差(2)/語るべきは人の強さか、弱さか

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今回は深町秋生『新装版 果てしない渇き』の読書感想文です。
ようやく読むことができました。今さら感が漂うけれど、つらつらと書いてみます。



     ◆ ◆ ◆



深町秋生『果てしない渇き』

果てしなき渇き

果てしなき渇き

あらすじ:
元刑事の主人公・藤島は、別れた妻から突然の電話を受ける。高校生の娘・加奈子が姿を消したという。しかも彼女の部屋には、覚せい剤が残されていた。行方を捜すうちに、加奈子の抱えていた闇が徐々に明かされていき――。


クスリみたいな魅力を持ったアブナイ小説だ。目を背けたくなるような暴力描写を用いて、狂気へと堕ちる人間たちを、克明に描いている。何より、ストーリーテリングの巧さが光る。最悪な方向にしか進まない物語に、何度「読むのをやめよう」と思ったことだろう。だけどお話にぐいぐいと引き込まれ、結局、最後まで一気読みだった。中学生のころに初めて2chでグロ画像を踏んだ時みたいだ。見てはいけないと思いつつも、目を放せなくなってしまう。こんな読書経験は久しぶりだった。


ポイントは三つ。
1.新人作家のデビュー作とは思えない完成度
2.繊細な時代性
3.人間を弱いモノとして描く
全体的にネタバレ注意なので、未読の人は今すぐ「戻る」ボタンをクリックだ!



     ◆ ◆ ◆



1.新人作家のデビュー作とは思えない完成度
この作品はいわゆるノワールだ。社会の裏側に生きる人間を描きつつ、それが私たちの日常と紙一重なものであることを描く――そういうお話をノワールという。お話を「最悪な方向」へと転がしていくのはノワールの特徴であり、また「消えた女を探す」のはハードボイルド小説の典型だ。主人公が「ワケありの元刑事」というのもテンプレ的な設定。そういったお約束な設定に暴力・クスリ・売春・マフィア(やくざ)などで味付けすれば、ノワール小説の一丁上がりだ。
この作品を構成要素へと分解すると、目新しいモノは見当たらない。「新人賞はオリジナリティが勝負〜」なんて言葉をよく聞くけれど、それを真に受けてはいけないと分かる。オリジナリティでしか勝負できない(底ヂカラのない)作家の戯言なのかもしれない。目新しいものが無くても、完成度が恐ろしく高ければきちんと評価されるのだ。
まず驚かされるのは、文章力の高さだ。簡素な文で登場人物の心情をみごとに描いている。行間から立ち昇る「イメージ」の濃さには、目眩を覚えるほど。とても素人には真似できない文章だし、プロ作家でもデビュー後二、三作は書かないとたどり着けないレベル。とても新人作家のデビュー作とは思えない。
またストーリーテリング能力も卓越しており、1ページたりとも退屈なシーンがない。読者に対して、常に「続きはどうなるんだろう」と思わせることに成功している。プロットをかなり煮詰めないと、こうは書けないはずだ。
こういう作品を読むと、小説の「強み」を再認識できる。ここまで過激な暴力描写は映画やアニメではなかなか見られないし、心の防衛本能が働いて客観的な見方をしてしまう。「スクリーンの向こうの世界の出来事」として、妙に醒めてしまうのだ。一方、小説の場合は登場人物への感情移入が深いので、暴力描写から受ける衝撃度も高い。『果てしない渇き』は、小説の魅力が分からないという人にこそ、ぜひとも手に取ってもらいたい一作だ。――ただし徹夜注意! 読み始めたら止まらないから。
ていうか、コンスタントにヒット作を生み出せるのは、目新しさで勝負する作家ではなく、手元の材料をうまく料理できる作家だと思うんだよね。深町秋生さんは人気作家になるべくしてなったのだと思う。



2.繊細な時代性
『果てしない渇き』は、書かれた当時の世相をあまりにも上手く掴んでいる。それゆえに2011年現在になって読むと、時代遅れな印象をぬぐえない。(※時間と共に陳腐化していくのは社会派小説の宿命だし、それでこの作品の評価が落ちるわけではない。ほら、松本清張の作品って、どれも今では時代遅れじゃん。だからといって価値が下がるわけじゃないよね。当時の「時代性」を切り取っているからこそ、現在とのギャップが目立つんだ)
この作品が刊行されたのは2005年の1月だという。第三回「このミステリーがすごい!大賞」の〆切は2004年5月末(だったはず)で、逆算すると、この作品が執筆されたのは2003年末〜2004年初旬ごろのはずだ。


・現在でも通用する部分
2011年とのギャップを指摘する前に、現在との共通項を考えてみよう。私が注目したのは“なぜ「娘」でなくてはいけないのか”という点。消えた女を探すのはハードボイルド小説のお約束だ。しかしなぜ、その女に「わが子」という属性を付与したのだろう。
それは今の時代、ただ「魅力的な女」というだけでは男たちの心が動かないからだ。
片想いの相手や恋人、妻といった立場の女では、男に行動を促すほどのチカラを持ちえない。そういう女が何か事件に巻き込まれたとして、自分一人で解決しようとする男がどれほどいるだろう。「アブナイ女だったのか、関係を切ることができて良かった……」と胸をなで下ろすやつがほとんどだろう。まして妻なんて、消えて欲しいと思っている男のほうが多い。
そういう時代を反映して、消えた「娘」を探すノワールが生まれた。


・現在では時代遅れな部分
書かれた当時がどういう時代だったかを思い出してみよう。
私は、90年代末〜ゼロ年代前半を「子供恐怖症の時代」だったと感じている。
いつの時代も大人は子供を理解できないものだ。が、「子供たちの人間関係」を理解できなくなったのがこの時代だ。ケータイ電話が爆発的に普及し、出会い系サイトが幅を利かせていた。インターネットが身近なものになり、援助交際が大流行した。娘や息子がどんな人間と付き合っているのか解らない――それは親たちにとって恐怖以外の何ものでもなかった。
世相を作り上げたのはケータイの普及だけではない。たとえば酒鬼薔薇聖斗の事件をきっかけに、マスコミは少年犯罪の凶悪化を叫び続けた。90年代末からゼロ年代初頭にかけて「凶暴な若者像」を視聴者の脳裏に刷りこんだ。そして視聴者もそういうニュースを喜んだ。報道姿勢は徐々にエスカレートしていき、実態とはそぐわない「凶悪な子供たち」のイメージを作り上げた。当時、十代後半だった私には「大人が子供を敵視している」かのように思えた。大流行した小説『バトル・ロワイヤル』は、「子供を恐怖した大人たちが中学生に殺し合いをさせる」という設定だ。この作品が成功したのは時代の空気感とみごとに一致していたからだろう。

バトル・ロワイアル

バトル・ロワイアル

『果てしない渇き』は、この子供恐怖症の文脈に位置づけられる。というか「子供恐怖症の時代」の最後を飾った作品だといえるはずだ。消えた娘を探すうちに、想像を絶するような彼女の過去が明かされていく。そこで描かれる「少女像」「少年像」は、マスコミの作った「凶悪な若者像」に酷似している。
作中における加奈子の立ち位置は、典型的なファム・ファタールだ。男を惑わし堕落させる女のことをファム・ファタールと呼ぶ。ノワール小説には欠かせない存在だ。そんで、そもそもファム・ファタールって女性恐怖症っぽいんだよね。「女は何を考えているか解らん」というマッチョズムを感じるのだ。加奈子を「女子高校生」に設定した結果、女性恐怖症が子供恐怖症へと深化した。そして世相とシンクロした。


現在、子供恐怖症はようやく下火になった。「草食男子」「若者の○○離れ」といった言葉が叫ばれ、若年層が穏やかになったと言われている。「大人が目を放せば子供は狂う」「親の愛がなければ子供は歪む」といった物語が通用しない時代になっている。大人の目がなくたって、ほとんどの子供たちは道を踏み外さない。親の愛がなくたって、力強く生きている。大人よりもはるかに堅実な生き方を選んでいる――それが2011年現在の若者像・子供像だと私は思う。こういう時代では、加奈子のキャラクター像はファンタジックすぎてリアリティを持ちえない。この部分で私は「時代遅れ」だと感じた。(だからといってこの作品が超・傑作だという評価は揺らがない、前述の通り)
(※ただし惜しむらくは、加奈子がファンタジックになりすぎた結果、彼女の「動機」から深みが失われてしまったことだろう。「復讐」という極めて人間臭い動機を持つには、加奈子は人間離れしすぎている。/ていうか、傷つけられる恐怖や大切なモノを失う悲しさを知っている人間は、こういう手段での復讐を選ばないと思うんだよなぁ。血も涙もない行動が取れるのは「人間臭さ」を持たない人物だと思うし、そういう人物は「復讐」なんてシミッタレた行動を取らないと思う。/発刊された当初に読んでいたら、また別の印象を持ったかも)



3.人間は弱いのか、強いのか
この作品に登場する人物は、みんな呆れるほど弱い。力ではない、心が弱いのだ。暴力やクスリに溺れて自滅していく。そういった「弱い人間像」は、ノワールでは頻繁にテーマにされる。やっぱり暴力ってのは、人間の弱さの発露なのだ。暴力を扱うノワール小説は、「人間の弱さ」と向き合わざるをえない。『果てしなき渇き』もご多分にもれず、人間の弱さをこれでもかと見せつけてくれる。ここでも、やはり私はゼロ年代前半の空気を感じた。今では懐かしさすら覚えるほどだ。
ゼロ年代の後半は「日常への憧憬」を描く作品が流行し、暴力は廃れてしまった。オタクの世界では『涼宮ハルヒの憂鬱』のメガヒットがあり、『らき☆すた』大流行へと変遷していった。派手なストーリー展開よりも穏やかな日常が大事にされるようになっていった。この流れのなかで生まれた『けいおん!』は日常系物語の金字塔だ。ではオタクじゃない人たちは何を見ていたのだろう。血沸き肉踊るようなサスペンスを求めていただろうか? 答えはノーだ。この時代、非オタは『かもめ食堂(2006公開)』を観て、つつましい北欧の日常に憧れを募らせていた。オタクだろうとなかろうと「日常的なるもの」に憧れを持っていたのが、ゼロ年代後半だ。○○離れした若者や草食化といった空気も、この流れのなかに位置づけられる。

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私の印象では、この「日常的なるもの」も、すでに飽きられ、離脱が始まっている。現在放映中のアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』はその意味で象徴的な作品だろう。「日常系」の代表的作者である蒼樹うめ先生をキャラクターデザインに使って、徹底的な暴力と、救いのない闇を描こうとしている。日常からの揺り戻しが始まっている。だけど私の考えでは、なんつーか、暴力が流行るとは思えないんだよなぁ。
私の(あてにならない)予想では、次に流行るのは「シュール」だ。その震源地は、またしてもニコニコ動画になる。あのサイトでどういうモノが流行るのか、かなり研究が進んだからだ。代表例は『ミルキィ・ホームズ』だろう。あれは企画の段階からニコ動での公開が決まっており、あのサイトのユーザーにウケることを第一に脚本も絵コンテも引かれていた。ニコニコ動画がなければ、ここまで話題にはならなかった。ニコ動では「刹那的な笑い」や、思わずコメントしたくなるような「シュールなもの」がウケる。春から放映予定の、京都アニメの作品『日常』によって、オタクカルチャーにおける「シュール」は一つのピークを迎えるはずだ。
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暴力――人間の弱さなんて、わざわざ物語にする必要もない。それが2011年現在の空気だと思う。そんな弱さはニュースを見れば一発で分かる。多くの人間にとって、貧困や脱落はすでにフィクションではない。差し迫った恐怖だ。だからこそ、つかの間の平穏をいつくしみ、そこにしがみつこうとする。
だから深町秋生さんが「人間はどこまでも弱い」と書くのなら、私は「人間はどこまでも強い」と書いてやりたいな。現実に「絶望的な将来」に向かって生きていく十代・二十代の求めるのは、そういう物語だと思うから。





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