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ストライクウィッチーズの倫理と資本主義の精神/2期第6話への批判から考える神話としてのストパン

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「いーけないんだ、いけないんだ♪ せーんせいに言ってやろ♪」
小学校低学年の頃、クラスに頭の固い女子がいた。男子のいたずらを見つけては、この歌を歌っていた。


さて、ストライクウィッチーズ2・第6話が賛否両論だ。演出や映像表現については絶賛されているが、一方で「脚本に欠陥がある!」という声も聞く。問題になっているのは、主人公たちが命令違反をしたこと(しかも罰を受けなかったこと)だ。兵士なんだからそれはおかしいんじゃねーの? という主張を散見する。
軍規違反・命令違反といったモチーフは、戦争映画ではしばしば見られる。登場人物の倫理観を表現するときの常套手段だ。登場人物がいったい何を(規則よりも)大切だと思っているのか、観客に提示できる。いわば「お約束」と言っていいだろう。
そういうお約束の演出に目くじらを立てて、揚げ足を取るのはいささか幼稚ではないか。それこそ、先生にチクることを生きがいにしている小学生女子と同じだ。


作品に流れている倫理観が、視聴者の倫理観と一致していない。価値観にズレがあるからこそ、こういった批判が上がる。時代の変化とそれに伴う視聴者の変化が、このズレを生んだ。
ストパン2第6話を批判する精神とは、どのようなものだろうか。具体的に見ていこう。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



1.ストライクウィッチーズって何?
このブログを読んでいる私のリアルでの知人は、深夜アニメなんて見ない人たちだ。知らない人のために簡単に紹介しておこう。
物語の舞台は、地球によく似た別の世界。人類は正体不明の敵・ネウロイと戦いつづけていた。(エヴァの使途みたいなモン)そのネウロイに唯一対抗できるのが「魔女」と呼ばれる超能力者たちだ。

で、その魔女のヴィジュアルが、なんというか、まあ、とても特徴的だ。猫耳でパンツ丸出しという、狙いすぎのキャラクターデザイン。どういう層を視聴者として想定しているのか一目瞭然だ。いわゆる「萌えアニメ」にカテゴライズできる。
しかし脚本・演出には、昔ながらの「燃えるアニメ」の方法論が持ち込まれている。お話のテーマは友情・努力・勝利だ。少女を少年に、足にはめたプロペラをロボットに置き換えれば、昭和のロボットアニメになってしまう。でも見た目はパンツ丸出し。このギャップが大いにウケた。
※「へーRootportさんってこんなアニメ見るんだ」とドン引きされるのは覚悟のうえです。私はこんな人間になってしまいました。それでも元気です。



2.第6話はどんなストーリーだったの?
めちゃくちゃ簡単にいえば、「仲良し二人組が、ケンカして、和解する」というお話だ。ケンカに至る過程でそれぞれの登場人物の「葛藤」が描かれ、「戦闘・勝利」の過程を経て和解する。青春小説やハリウッド映画の黄金パターンだ。
問題は、戦闘のさなかに「和解」することだ。箇条書きすれば、こんなシナリオだった。
・第六話の主人公はエイラという少女。
・バリアを張れないことを理由に、彼女は作戦の重要な部分から外される。
・ふてくされる彼女は、親友とも喧嘩してしまう。
・そして始まる敵との戦闘。
・やっぱり親友を守りたい!
・その気持ちを抑えられないエイラは命令を無視し、作戦に参加する。
・練習の成果で、バリアをきちんと張れた!
・勝利。親友とも和解。


<参考>
ストライクウイッチーズ2第6話「空より高く」の脚本を語ってみる
http://d.hatena.ne.jp/GiGir/20100819/1282197445
※もっと詳しい脚本の解説はこちら。



繰り返しになるが、ここで「命令を無視したこと」が問題視されている。その動機が、充分に描かれていないという。したがってエイラの行動や、それを許してしまう仲間たちの様子が「頭悪そう」に見え、興ざめなのだそうだ。
断言するが、親友に対する想いはきちんと描かれていた。言い換えれば、規則を破る理由として「友情」だけでは不十分なのだ。少なくとも第六話を批判している視聴者は、そういう価値観を持っている。


しかし「規則よりも友情を大切にする」という価値観は、古今東西ありとあらゆる青春モノに見られる。思春期の人物が登場する作品では、しばしば「大人vs若者」「社会vs個人」「規範vs自由」といった対立がテーマとなる。そういった王道を萌えアニメに持ち込んだことこそ、ストライクウィッチーズの魅力だったはずだ。
ではなぜ、この価値観が受け入れられないのだろう。昔ながらのロボットアニメやスポ根マンガにも頻出する価値観。こうした倫理観が、どうして批判の対象となるのだろう。
言うまでもなく視聴者の倫理観が変わったからだ。古いタイプの青春物語は、素直に受け入れられなくなった。



3.規範のほうが自由よりも大切になった?
好対照な作品に、アニメ『とある科学の超電磁砲』がある。
作品の主人公が中高校生の場合、社会規範と対立することが多い。思春期になると、社会の「ままならなさ」や、「思い通りにならない世界」に直面する。現実世界では「大人のルール」を覆せない。だからこそフィクションの世界で主人公がそれを打ち崩すと、私たちはカタルシスを感じる。
ところが『とある科学の超電磁砲』では、主人公は「社会規範」の側に立っている。大人の作ったルール(能力開発とか)を疑わない。むしろルールを破った人間に対して、大人に代わって正義の鉄槌を下す。それがあの作品の主人公だ。
たとえば超能力の才能に恵まれなかった子供たちは、幻想御手(レベルアッパー)というアイテムに手を出す。地道な努力をあきらめ、そのアイテムで超能力を伸ばそうとする。これが「悪いこと」として描かれていた。大人が作ったルールから逸脱しているからだ。ズルをするのは許しません、という価値観だ。
また「不良」の描き方も興味深い。学校生活からドロップアウトした人物に、更生の機会は与えられない。たとえバスケがしたくても、あの作品世界に安西先生はいない。ここでも「規範を守ること=正義」「反社会的であること=絶対悪」という構図が見て取れる。


<参考>
「学園都市は養鶏場、御坂美琴は極上ブロイラー」 (とある科学の超電磁砲)
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20100209/p1


なぜ『とある科学の超電磁砲』は不気味なのか/ノーテンキな明るさの背後に潜む「どす黒い未来予想図」
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20100210/1265771726
※手前みそですがこちらは私の過去のエントリーです。


知ってのとおり、この作品はめちゃくちゃ流行った。青春物語としては特異な「主人公が大人側」のストーリーでありながら、多くの視聴者に受け入れられた。
つまり深夜アニメの視聴者には、強烈な「規範意識」があるのではなかろうか。
全員がそうだとは思わない。しかし、そういう社会通念や常識といったものを内面化した視聴者が、少なからずいるはずだ。童心に帰って楽しむことの出来ない人たち。たとえば『けいおん!!』第2話「整頓!」では、主人公たちの反社会性を批判する意見を耳にした。先生のギターを売った主人公たちがそのお金を着服しようとしたからだ。
また、セカイ系と呼ばれる作品群には「社会」の要素が欠落している。『化物語』は社会だけでなくセカイすらも取り除き、「君と僕」の関係に終始させた。そうすることで「社会との対立」を描かないことに成功した。
社会に歯向かうことを諦めて、規範に従うことを是とする。
この価値観があるからこそ、「命令違反」の演出は批判にさらされた。



4.規範を礼賛するメンタリティ
規範を内面化した人たちとは、具体的にはどのような人なのだろう。現代社会のどのような側面が、そういった精神を育んだのだろう。ここでは二つの仮説を示したい。「イジメられっ子根性」説と、「クール&スマート」説だ。


仮説1)イジメられっ子根性説
これは偏見に基づいた仮説だ。深夜アニメを見ているのは「典型的なオタク」だという前提にたっている。制服を着崩したりせず第一ボタンまできっちり止めて、家では母親に与えられた服を着て、煙草なんて吸わない。飲み会には参加しないし誘われない。群れるクラスメイトを「バカなやつら」と見下している。そういう一昔前のアーキタイプ的オタクを思い浮べてもらいたい。こういう真面目な人間は、学校内では弱い立場におかれる。教室で力を持っているのは不良たちだ。
そういう人たちから見れば、この世界はあまりにも不条理だ。校則を守らないDQNにはパシリとして扱われ、ニュースを見れば、モンペ、パワハラクレーマー。モラルを守らない人間のほうがトクをしている。
――フィクションの中だけでも「ルールを守る者が強者」であってほしい。
そう願うのはごく自然な心理だ。だからこそ「社会規範」を正義として振りかざす主人公に快感を覚える。軽音部のメンバーにはモラルを守ってもらいたい。魔女たちが規則を破るのは許せない。大好きな彼女が、大嫌いな不良たちと同じレベルになってしまうから。


仮説2)クール&スマート説
視聴者が大人になってしまったのだ、という説。「ルールや常識に歯向かっても得るものは少ない、むしろそれらと上手に付き合っていくほうが大事だよね」というクールな価値観を持っているのではないだろうか。「KY」が流行語になったコトもそれを示している。空気を読んで、社会と一体化するほうが「生きやすい」のは事実だ。
学園紛争の時代には、社会に対する不満が犯罪行為へと繋がってしまった。また最近の出来事を見れば、自由の象徴だったはずの「フリーター」は「貧困」と同義語になってしまった。そういう先人たちの失敗を、今の視聴者は知っている。派遣切りされるぐらいなら、大きな組織に属したほうがいい。個性を殺すことになるかも知れないが、規範や常識に従ったほうがトクだ――。そういう価値観を持っていても、なんら不思議はない。


上記のような倫理観を持っている人は、エイラの命令違反を許し難く感じただろう。繰り返しになるが、深夜アニメの視聴者すべてがそうだとは言っていない。一部の視聴者がこういうメンタリティを持っているのではないか――と、推察しているだけだ。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



『鶴の恩返し』『浦島太郎』の教訓は、「約束は守りましょう」だ。守らなければ損をするという価値観が、物語の根底に流れている。


物語とは、人々の倫理観の投影だという。幼いころに聞かされた物語によって、私たちのなかに倫理観が植え付けられる。あるいは、私たちの倫理観に合致するお話だけが語り継がれ、残ってきたのかも知れない。いずれにせよ「物語」や「神話」は、私たちの精神性と深く関わっている。勤勉と貯蓄を良しとするプロテスタンティズムが資本主義を生んだ。その根底には、聖書に記された「物語」がある。
「物語」や「神話」は、その文化圏に属する人たちの価値観を端的に示している。たとえばアメリカには神話がない。多人種の国家ゆえに共通の宗教がなく、まだ歴史も浅い。だからこそ『スターウォーズ』が、あの国では神話となった。辺境の地に生まれたルーク=スカイウォーカーは、仲間の導きにより、銀河を指導する立場へと成長していく。アメリカンドリームそのものだ。正義の力で宇宙を支配することが「新たなる希望」だった。しかしイラクから核弾頭は発見されず、アフガニスタンは泥沼そのもの、米軍死者の死因第1位は自殺だ。世界中に失業者を生みだしたリーマンショックは、アメリカが震源地だった。そういう時代だからこそ人々の価値観は変わり、映画『ダークナイト』が新たな神話となった。光の騎士ではなく、暴力的な闇の騎士。そういうヒーローの姿が、人々に受け入れられた。
ストライクウィッチーズには、古式ゆかしい少年マンガの文法が取り入れられている。「規則よりも友情が勝る」という価値観は、その端的なものだ。しかし現代の視聴者には、それを素直に受け入れられない者がいる。時代が違うのだから当然だ。脚本の出来/不出来を論じるだけではなく、消費者の性質にも分析の余地がある。まあ、一言でいえば「好みはヒトそれぞれ」ということ。
価値観や倫理観は絶えず変化するものだし、それを追いかけることで、今まで見えなかったものが見えるようになる。ような気がする。








<参考>


「神話の力」はスゴ本
http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2010/08/post-bf75.html


ストライクウイッチーズ2の各話再生数推移から見えること
http://d.hatena.ne.jp/GiGir/20100819/1282191351


■[アニメ]ストライクウィッチーズ2第06話の演出の解説 脚本、絵コンテ、演出の佐伯昭志がすごい件
http://d.hatena.ne.jp/karimikarimi/20100818/1282139059


ストライクウィッチーズ2」第6話が素晴らしい
http://d.hatena.ne.jp/mike_neko/20100812/1281634161






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