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児童虐待はヒトの本能なのか?

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 誤解を恐れずに言えば、児童虐待はヒトの自然な行動の1つだ。虐待の原因は、いわゆる「現代社会の歪み」なるものではないし、加害者の精神病質でもない。だから虐待を犯した親の過去を調べても、さして実りある情報は得られないだろう。問題の立て方が逆なのだ。歴史をふり返れば、「なぜヒトは子供を虐待するのか」ではなく、「なぜ現代ではここまで虐待を減らすことができたのか」を問うべきである。ヒトは放っておけば、ごく自然に児童虐待を犯す。だからそれを止めるためには文明の力が必要なのだ――。

 

 以上の250字にも満たない文章を読んだだけで、心穏やかではいられなくなる人がいるかもしれない。ヒトの心や行動には、進化の過程で身につけた一定の〝傾向〟がある。社会生物学進化心理学などの学問分野では土台となる考え方だが、どうやら一部の人々はこの発想に激しい怒りと嫌悪を覚えるらしい。

 社会生物学の〝開祖〟E.O.ウィルソンがこの考え方をとあるシンポジウムで講演したとき、聴衆からピッチャーに入った水をかけられたという有名な逸話がある[1]。いったいなぜ、高いリテラシーと社会的道徳観を持つはずの人々が、「ヒトには生まれつきの傾向がある」と聞いただけでチンパンジーのように怒り狂うのだろう?

 物理的威圧行為に出た聴衆を少しだけ擁護するなら、彼らが怒るのも無理なかった。彼らはナチズムの後遺症を負っていたのだ。ナチス優生学にもとづいて、まず障碍者を迫害し、後にはユダヤ人や同性愛者、ジプシー、ロシア人捕虜を虐殺した[2](※現代の生物学知識からいえば優生学は救いようもなく間違っているのだが、それはまた別の機会に記事にしよう。)とにかく生物学の発想を社会科学の分野に持ち込むことは、極めて危険だと考えられていたらしい。このような生物学への不信は、今もぬぐい切れていない。

 だから社会学者たちの多くは、基本的にヒトの心を「空白の石板(タブラ・ラサ)」だと考えている。生まれつきの傾向や遺伝子の影響など一切なく、生まれ育つ環境によってヒトは個性を(石板に彫刻するように)身につけていくのだという。「ヒトはどういう動物か?」という疑問に対するこのような見方を、進化心理学者のジョン・トゥービーとレダ・コスミデスは「標準的社会学モデル」と名付けた[3]

 ベテランの保育士なら、標準的社会学モデルを笑い飛ばすだろう。ヒトが生まれた直後から個性を持っていることは明らかである。生まれつきよく泣く子供もいれば、大人しい子供もいる。好奇心旺盛な赤ん坊もいれば、用心深い子もいる。さらに言語の存在だ。アヒルのヒナは、生まれて初めて目にした動くものを親だと刷り込まれる。同様に、ヒトは生まれた直後に周囲で話されていた言語を母国語として習得する。一定の年齢を超えると言語の習得が難しくなる点も、アヒルの刷り込みとよく似た点だ。

 言語学ノーム・チョムスキーは、ヒトは言語を覚えるための「心的器官」を持った状態で生まれてくると主張した[4]。詳細なメカニズムはどうあれ、ヒトの脳には、生後数年間だけ働く言語習得に特化した機能があることは間違いない。ヒトの脳は――心は――空白の石板などではあり得ない。

 にもかかわず、現在でも多くの社会学者が「空白の石板」仮説に固執している。この仮説にしがみついている人々は、「ヒトには〝本能〟がある」と言われただけで激怒する。日常生活を思い出せば標準的社会学モデルが間違いだとすぐに分かるはずなのに、いったいなぜだろう?

 理由の1つは、社会学者たちの理論体系にあるかもしれない。彼らの理論には「空白の石板」仮説に立脚したものが少なくない。もしもヒトの生まれつきの傾向や遺伝的影響を認めてしまったら、彼らが今まで学び、研究してきた理論体系が土台から崩壊してしまうのだ。

 けれど、理由はそれだけではない。

 彼らが進化論的な考え方を受け入れられない背景には、少なくとも5つの大きな原因があると私は考えている。その5つとは「分子生物学知識の不足」「自然主義の誤謬」「平均値の誤謬」「進化論の限界」そして「二元論のヒューリスティクス」だ。順番に見ていこう。

 

 

【1】分子生物学知識の不足

 心理学者トマス・ブーチャードの行った悪名高き「双子の実験」がある。一卵性双生児は天然のクローンであり、まったく同じ遺伝子を持っている。したがって、生まれた直後に別々の家へ養子として引き取られた双子を調べれば、遺伝と家庭環境とのどちらの影響が大きいかを調べられるのだ[5]

 なぜこの研究が悪名高いかといえば、それまで環境の影響だと考えられていた様々な行動や心理にも、遺伝の影響があると明かされてしまったからだ。たとえばキャスリン・コーソンが行った追試的な調査によれば、政治思想の傾向にさえ遺伝の影響が色濃く見られたという。どうやら一部の人々は、生まれつき「保守右派」になりやすい傾向があるらしい。政治学社会学を研究していた人々には受け入れがたい研究結果だろう。

 白状すれば、私も初めてこの話を聞いたときは「まさか」と思った。自由民主党に票を入れるかどうかさえ遺伝子によって決められているというのか。嘘だろ――?

 じつのところ、「投票先を遺伝子が決めている」という考え方は遺伝子決定論であり、間違いである。

 この点はちょっと詳しく説明しよう。

 

 私たちが学校の理科で習う遺伝子には、どんなものがあっただろう?

「目の色を黒くする遺伝子」「髪の毛をちぢれさせる遺伝子」あるいは「牛乳を飲んでもお腹を壊さない遺伝子」等だろうか?

 余談だが、大抵の哺乳類は大人になると母乳に含まれる乳糖を消化できなくなる。吐き気や下痢によって、乳離れや巣立ちをうながすためだと言われている。ところが一部のヒトは、遺伝子の突然変異によって大人になっても乳糖を消化する酵素を作り続けることができる。この突然変異は、東アフリカ、北インド、アラブ、南西アジアと一部ヨーロッパでそれぞれ独立に進化した[6]。もしもあなたが牛乳を美味しく飲めるのなら、あなたの遠い先祖には、これらの地域の遊牧民がいることになる。

 閑話休題

「目の色を黒くする遺伝子」「髪の毛をちぢれさせる遺伝子」「乳糖を消化できる遺伝子」のように、表現型と遺伝子とが一対一で対応する遺伝子のほうが例外的な存在だ。

(※表現型とは、目の色や髪の毛の質のように生物の肉体に実際に現れる遺伝子の形質のことを言う。ビーバーの巣作りや鳥類の求愛ダンスのような行動も、それが遺伝子によってもたらされたものなら表現型と呼ぶ。)

 ほとんどの表現型は、その原因となる遺伝子を特定できない。

「保守右派になる遺伝子」など、おそらく存在しない。

 

 生物の肉体は、いわば天然の化学工場だ。筋トレやジム通いが趣味の人なら、有酸素呼吸にクエン酸が欠かせないことや、脂肪の分解過程で大量の水が必要になることを知っているだろう。分子生物学の入門的知識である。今こうしてブログの記事を読んでいる間にも、あなたの体の中では複雑怪奇な化学反応が進み続けている。

 生物の表現型はすべて、そういう化学反応の結果として生み出される。そして大抵の遺伝子は、その化学反応にちょっとした調整を加えることしかできない。さらに、その「調整」は周囲の環境からのフィードバックを受ける。

 たとえば五輪選手の両親を持つ子供の例を考えてみると分かりやすい。

 両親が一流のアスリートであれば、生まれた子供は優れた身体機能の遺伝的形質を受け継いでいる可能性が高い。しかし、その子が1日16時間をパソコンの前で過ごす肥満体のオタクに育ったらどうだろう? 当然ながらその子は、ごく平凡な親から生まれたごく平凡な陸上部員にも徒競走で負けるだろう。

 五輪選手の遺伝子群が力を発揮するには、「毎日運動する」とか「健康的な食事をする」「適切なトレーニング指導を受ける」といった環境要因が欠かせない。筋肉を酷使するというフィードバックがなければ、筋繊維を育てる遺伝子群にはスイッチが入らない。「遺伝か、それとも環境か」という二元論は成り立たないのだ。ヒトは遺伝と環境の両方の影響を受けて成長する。

 しばしば遺伝子は「生物の設計図」と表現されるが、これはあまり正しくない。どちらかといえば、遺伝子は料理のレシピに近い。まったく同じレシピで作っても、素材の違いや加熱時間のわずかな差で、最終的な味は変わる。まったく同じ遺伝子を持つはずの一卵性双生児でも、年齢を重ねるにつれて別人に育っていく。たしかに遺伝はヒトの成長に無視できない影響を与える。が、あくまでも影響するだけで、決定することはできない。脳のように複雑な器官ならなおさらである。「遺伝子がすべてを決める」という考え方は間違っているのだ。

 

 おそらく私たちには、「遺伝」という言葉を誤解するバイアスがある。この二字熟語を目にしただけで、変更不可能な運命論を想定してしまう。これが、「保守右派になりやすい遺伝的形質がある」という話に拒絶反応を起こす理由だろう。そういう遺伝的形質を受け継いだヒトは、必ず保守右派になるし、思想を変えることもないと思い込んでしまうのだ。

 しかし、それは典型的な遺伝子決定論であり、間違いだ。

 実際には「投票先を決める遺伝子」など存在しないし、ヒトの政治的傾向や思想は、遺伝と環境の相互作用によって育まれる。保守右派になりやすい遺伝的形質の持ち主だからといって、保守政党に投票するとは限らない。五輪選手から生まれた肥満体オタクのように、環境によっては遺伝的形質を眠ったままにするかもしれない。あるいは筋トレをサボると急激に筋力が落ちていくように、あるときはスイッチオンになっていた遺伝的形質が、何かのきっかけでオフになるかもしれない。右派から左派(あるいはその逆)へ転向した人間の実例を、いくらでも挙げることができる。たとえばコラムニストの雨宮処凜氏は若いころは右翼活動家だったが、現在では左派系のメディアで積極的に発言している[7]

 

 進化心理学を遺伝子決定論だと勘違いする人は多い。

 しかしそれは、単純な分子生物学の知識が不足していることから生じる誤解だ。「遺伝子→化学反応→表現型」という経路の複雑さや、環境からのフィードバックが生じることを知っていれば、このような勘違いに陥ることはない。

「勘違いする人は知識不足のクソ」と言いたいのではない。

 むしろ現代日本科学リテラシーを考えれば、分子生物学の基礎知識を持っているほうが珍しいのだ。電車の中吊り広告では「遺伝子」と「DNA」が同じ意味で使われているし、その違いをうまく説明できる人は少ない。進化心理学のアイディアを聞いて、誤解するほうが普通なのだ。相手の知識不足をあざ笑うだけでは、誤解をとくことはできない。生物学を少しでも学んだ人には、ブログやSNSを通じて情報発信を続けていく社会的責任があるだろう。

※余談だが、遺伝子とDNAの違いについては以前このブログの記事に書いた。

 

 

【2】自然主義の誤謬

自然主義の誤謬」とは、「自然なものは正しい」という素朴な間違いのことだ[8]

 たとえば男が女よりも浮気しやすいのは、男の自然な姿だ。これは進化心理学デイヴィッド・バスらが行った研究をはじめ、繰り返し実証されている[9]

 慌てて補足しておくと、ヒトは基本的には一夫一妻制の動物である。近縁種であるチンパンジーやゴリラが乱婚制やハーレム制を取るのとは対照的に、ヒトはペンギンやフクロウなどの鳥類に近い繁殖形態に進化したサルだ。オスとメスが協力して子育てを行い、長期に渡って同じパートナーを維持する。睾丸のサイズや精液の量[10]大脳新皮質のサイズといった解剖学的な特徴も[11]、ヒトが一夫一妻制の動物であることを示している。

 しかしヒトには、ゆるやかながらハーレム制の傾向がある。狩猟採集生活などを送る伝統社会にせよ、日本の歴代徳川将軍にせよ、高い地位にあるオスは多数のメスを妻として娶ってきた。じつは現代の日本でも、この傾向は変わらない。男性の再婚率は女性よりも高いため、時間差の一夫多妻制になってしまうのだ。「ああ、男の人っていくつも愛を持っているのね」と歌った『うる星やつら』のラムちゃんの洞察は鋭い。どうやらヒトの男性が生涯に愛せる相手の数は、女性よりも多いようなのだ。

 しかし、である。

 それは浮気を肯定する理由にはならない。当たり前の話だ。

 

 また、女が陰口や仲間外れで他人を攻撃するのは、女の自然な姿であるようだ。

 ヒトの認知能力の高さを示す例として、就学前の保育園児でも「関係的攻撃」を行うことが挙げられる。関係的攻撃とは、悪口を流布したり、仲間外れにすることで、誰かを社会的に攻撃することを言う。そして、この行動は女児のほうが男児よりも盛んに行うことが知られている[12]

 しかし、である。

 だからといって陰口や無視のイジメを肯定することはできない。当然だ。

 

 忘れがちだが、「である」ことと「あるべき」ことは違う。

 たとえば宇宙開発技術は、米ソ冷戦時代に核ミサイルを飛ばすために発展した。ロケットエンジンは核ミサイルを飛ばすためのもの「である」。しかし、だからと言って核ミサイルを飛ばす「べき」とは言えない。「である」と「あるべき」は全く別次元の問題だ。

 ヒトは糖分たっぷりの甘い食品を好む傾向がある。これはヒトの自然な姿だ。しかし自然なことだからといって、生活習慣病の患者が大量の糖分を摂取する「べき」とはいえない。似たような例は枚挙にいとまがない。

 進化心理学はヒトの自然な姿を予測する。ヒトがどういう動物「である」のかを説明する。けれど、そこから倫理的な善悪を導くことはできない。ヒトがどう行動する「べき」かについて、進化心理学は沈黙を守る。竹内久美子氏がしばしばトンデモとして批判されるのは、自然主義の誤謬を頻繁に犯しているからだろう。

 

 自然主義の誤謬は、進化心理学への批判者もよく犯す。

 たとえば女性のプロポーションに関する研究への批判が代表的な例だろう。心理学者デヴェランド・シンの研究によれば、男性は、ウエストとヒップの比が約0.7になる女性のプロポーションに魅力を感じるという[13]。身長や体重ではなく「くびれ」がいちばん重要な要素らしい。過去30年間の『プレイボーイ』のグラビアモデルを比較すると、現代に近づくにつれモデルの体型はどんどんスリムになっていった。しかしウエストとヒップの比はほぼ一定だったのだ。

 女性的な「くびれ」は、お尻や太ももに脂肪が集まることで生じる。生理生物学者ローズ・フリッシュは、女性は体脂肪率が一定レベルを超えないと排卵が起きないことを発見した。これは「フリッシュ効果」として知られている[14]。また、細く引き締まった腰回りは、その女性が妊娠中ではないことを示している。したがって男性がくびれた女性に魅力を感じるのは、受胎能力の高い女性を無自覚に探しているからである。

「理想のプロポーション」論は典型だが、進化心理学者たちは人間の美醜について好んで研究している。で、その研究結果に対して、一部のフェミニストは激怒する。「くびれた女性は美しい」というような性的ステレオタイプに、科学的な「お墨付き」を与えてしまうと言うのだ。

 言うまでもなく、これは自然主義の誤謬だ。

 たしかに男性は、くびれた女性を好むもの「である」。しかし、だから何だというのだ。科学的知識から、倫理的規範を直接に導くことはできない。どんな研究結果が出ようとも、何のお墨付きも与えることはできない。女性がどのようなプロポーションを自らの理想と「すべき」かについて、進化心理学は何も言えないのだ。

 

 自然主義の誤謬は、進化論的視点の推進者と批判者のどちらもが犯す。

 竹内久美子氏のように、チンパンジーもセクハラをするからヒトの男性のセクハラは仕方ない(許すべきだ)という頓珍漢な主張[15]をする人もいれば、上記のフェミニストのような誤解をする人もいる。

 もしかしたら、これも私たちヒトの認知バイアスなのかもしれない。天然素材、自然食、有機栽培――。自然っぽい表現を使われると、それを無条件に「何だか良いもの」と感じてしまう。そんなヒューリスティクスが私たちの脳にはあるのかも。

 

 

【3】平均値の誤謬

 続いて「平均値の誤謬」について。これは私の造語だ。

 たとえば「男性は平均的に女性よりも背が高い」と聞いたときに、「すべての男性は女性よりも背が高い」と勘違いする人はいない。女性よりも背の低い男性がいることを知っているからだ。「平均値」の裏側には、膨大な数の「例外」がある。

 ところが進化心理学の議論になると、なぜか平均値の意味を誤解する人が増える。「男性は平均的に暴力的な傾向がある」と聞いて「すべての男性は暴力的だ」と勘違いする。「女性は平均的にお金持ちの男が好き」と聞いて「すべての女性はお金持ちの男が好き」だと思い込む。

 これが「平均値の誤謬」だ。

 言うまでもなく、女性よりも平和的な男性はいるし、男性よりも暴力的な女性もいる。お金持ちが好きな女性は多いかもしれないが、そうではない例外だって、かなりたくさんいる。平均値はただの「傾向」しか示さない。頻度や確率しか意味していない。

 

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 男女の脳には、確実に違いがある。

 けれど、その違いはわりと微妙だ。上記のグラフは「メンタルローテーション課題」という、平面に描かれた立体を脳内で回転させる課題の成績だ[16]。もっとも男女差が大きく現れる課題の1つだとされるが、それでも結果はこれぐらい微妙だ。

  平均値で見れば、メンタルローテーション課題は「男性のほうが立体認識が得意」だと言える。けれど、「すべての男性は立体認識が得意」と言えないことはすぐに分かる。むしろ一部に少数の「立体認識が得意な男性」がいて、彼らが男性の平均点を引き上げていると考えるべきだろう。

 

 自然主義の誤謬と同様に、進化的視点の推進派・反対派のどちらもが「平均値の誤謬」を犯す。

 たとえばあなたが女子高校生で、大学は工学部に進学を考えているとしよう。担任教師が理解のない人物なら、こんなことを言われて反対されるかもしれない。「女は生まれつき数学が苦手なものだから、工学部なんてやめておいたほうがいい――」

 この教師は明らかに平均値の誤謬を犯している。

 たしかに一般的に言って、女性は数学を苦手とするかもしれない[17]。しかし、だからといって、あなたが数学を苦手だとは限らない。平均の裏側には膨大な数の例外があるものだし、あなたはその例外の1つかもしれない。

 ついでに言えば、この教師は遺伝子決定論という間違いも犯している。たとえ女性には数学を苦手とする遺伝的傾向があるとしても、本人の努力や適切なトレーニングによって補完できる。

 個人的な経験から言えば、周囲の助言に従って行きたくもない学部で勉強するよりも、自分の興味を持てる学部に行ったほうがいい。能力を伸ばすうえで、「好き」は最高の燃料である。普通の人なら飽きてやめてしまう努力を、飽きずに続けられるからだ。「好き」という感情には、生得的なわずかな不利を(もしもそんなものが存在するとしても)ひっくり返すだけの威力がある。

 

 話を平均値の誤謬に戻そう。進化的視点の批判者も、しばしばこの間違いを犯す。

 先ほど紹介した「ウエストとヒップの比」だが、例外が知られている。ペルーの山奥で伝統的な農耕生活をしているマチゲンガ族の男性は、ウエストとヒップの比が大きい(つまりくびれていない)女性を好むという結果が出たのだ。彼らは西洋社会から隔絶された生活を営んでいる民族だ。この結果から、男性がくびれた女性を好むのは西洋文化の影響にすぎないのではないか……と主張する学者が現れた[18]

 進化論に懐疑的なフェミニストにとっては福音だろう。「理想的な女性のプロポーション」は、やっぱり先進国の社会が生んだ文化的制約にすぎなかったんだ!

 しかし、である。

 よく考えてみて欲しい。なぜマチゲンガ族を人類の代表的なサンプルとして扱うことができるのだろう。むしろ彼らのほうが、珍しい例外なのではないか。マチゲンガ族の研究結果をもとに「人間とはこういう動物である」と主張したいのなら、まずは彼らを人類の典型例だと見なすだけの理由が必要なはずだ。つまりマチゲンガ族の例だけをもって「西洋文化説」を唱えるのは、単なる例外の過大視にすぎないのだ。

 似たような話はたくさんある。たとえば男性は浮気がちという話に対して、「知り合いの男性はまったく浮気なんて考えられないほど一途だぞ!」という反論が寄せられる。女性は陰口や仲間はずれなどの関係的攻撃を使うという話に対して、「私は女だけどそんな攻撃は大嫌い!」という反論が寄せられる。

 なるほど、たしかにあなたの知人男性は浮気をしないだろうし、関係的攻撃をしない女性はかなりの数に上るだろう。しかし、それは進化心理学が研究対象としている「平均的な傾向」とは関係がない。統計的傾向にもとづいた理論を論駁するためには、わずかな例外を提示しても意味がない。統計処理の間違いを見つけるか、より精緻な統計データを用意するしかない。

 ちなみに、マチゲンガ族は思っていたほど西洋文化から隔絶されていないということが、すぐに判明してしまった。他の研究者がインターネットで検索してみたら、シンプソンズのTシャツを着たマチゲンガ族の女性の写真が発見されたのである[19]

 

 

【4】進化論の限界

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 進化心理学の話題を読むときは、進化論の限界についても知っておくべきだろう。進化論は動物の外形的な行動を予測するのは得意でも、心の内面を予測するのは苦手なのだ。

 これはコクホウジャクの例を考えると分かりやすい。

  コクホウジャクはアフリカ大陸に生息するスズメくらいの大きさの小鳥だ。オスは真っ黒な美しい羽毛を持ち、繁殖期になると尾羽が長く伸びる。生息地域では、ごくありふれた鳥らしい。日本でいうところのスズメやヒヨドリムクドリのような存在だろうか。コクホウジャクのメスは、より長い尾羽を持つオスを好むと言われている。

 で、それを実験で確かめた科学者がいた。

 オスのコクホウジャクの尾羽を短く切り(※可哀想だ)、別のオスの尾羽につなぎ合わせたのだ。すると尾羽を長くされたオスは、繁殖回数がぐっと増えたという[20]

 なぜコクホウジャクのメスは、より長い尾羽を持つオスを選ぶのだろう?

 進化論の観点からは、「長い尾羽がハンディキャップにならないほど強いオスを選んでいる」と説明される。長い尾羽を伸ばすには余計なカロリーが必要だし、羽毛の色つやを維持するには健康的な食事が欠かせない。何より、黒くて長い尾羽を持っていると捕食者に見つかりやすくなる。そんなハンディキャップをはね除けられるほど生存能力に優れたオスを、コクホウジャクのメスは選んでいるのだ。

 しかし、コクホウジャクのメスが小さな脳みそで、そんな計算をしているとは思えない。

 コクホウジャクのメスは長い尾羽を持つオスに対して、ただ単に「素敵!」と感じているだけだろう。その性的嗜好が、たまたま強いオスを選ぶことに繋がっただけだ。進化論は動物の外形的な行動を上手く説明できる。しかし、心の内面で何を考えているのかまでは、完全には解明できない。これは進化心理学の弱点だ。

 

 平均的に、男性は侮辱されると怒りやすい。だから酒場の喧嘩が、ときには殺人にまで発展する。

 進化心理学では「オスは群れの上位にならなければ多数のメスと交尾できないため、素早く汚名返上&名誉挽回しなければならない。だから侮辱されるとすぐ怒る」と説明される[21]。けれど、喧嘩中の男はそんなことは考えない。

 また進化心理学は、女性は「育児に協力的で、資源をたくさん分けてくれる――つまりは経済力や社会的地位の高い――男性を好む」と予測する。

 けれど、合コンで向かいの席の男に魅力を感じたとしても、女性は「この人は私にたくさん投資してくれそうだから魅力的」とは考えない。もっと色々な理由を並べて彼の魅力を語るはずである。

 進化心理学はヒトの心の内面を上手く記述できない。進化によって生じた「無自覚な欲求」を説明するだけだ。本人が自覚できる顕在的な欲求を説明するのは苦手だ。本人が何を考えていて、どんな心の動きがあるのか。それは進化論だけでは分からない。どちらかと言えば、臨床系の心理学が得意とする範囲だろう。

 進化心理学者は非常にしばしば、「ヒトには●●という欲望がある」という表現をする。けれど、一般人から見れば納得できない場合が多い。なぜなら「私はそんな欲望を持ったことはないぞ」と感じてしまうからだ。その感想は正しい。進化論の予測する「欲望」のほとんどは無自覚なものであり、自覚できる感情や欲望と一致するとは限らないのだ。

(※念のため補足すると、進化心理学の中でも分野によっては人間の内面にかなり踏み込んだ研究が行われている。たとえばヒトは怒りや悲しみ等の感情を持つが、その感情にはどのようなバリエーションがあるのか。その感情はどういう刺激によって引き起こされて、進化の上ではどんな状況で適応的だったのか。こういう疑問に、進化論の視点から切り込んでいる研究者はいる)

 

 

【5】二元論のヒューリスティクス

 しつこいようだが、理想的な女性のプロポーションに話を戻そう。

 男性は時代を問わず、ウエストとヒップの比が約0.7になる女性を魅力的だと感じてきた。どうやらこれは西洋文化の影響ではなく、男性が生殖能力の高い女性を(無自覚に)探しているかららしい。

 もしもあなたが大学でフェミニズムを専攻している学生なら、この説を聞いてこう感じるかもしれない。「男性が女性の容姿を一方的に査定し消費する権力の不均衡が古今東西あり続けてきただけであり、進化など関係ない」と。

 しかし、ちょっと待ってほしい。

 その考察は、同じ現象を別の言葉で記述しただけである。

 どういうことか、少し詳しく説明しよう。

 

 日本語の「なぜ」を英訳しようとすると、しばしば二通りの翻訳が可能なことに気付く。「Why」と「How」である。英語では厳密に区別される2つの疑問詞が、日本語ではわりと曖昧なままに使用されている。

 つまり、どんな疑問にも二通りの答え――「Why」の答えと「How」の答え――があるのだ。

 たとえば「なぜ鳥は空を飛ぶのか?」という疑問を考えてみよう。

 回答の1つは、「鳥は揚力を発生させる翼を持ち、空力に優れた体型や高効率の生理機構を備えているから」というものだ。こちらは「How」の答えである。ある行動がなぜ存在するのかという疑問に、メカニズムの面から答えている。

 もう1つの回答は、「空を飛ぶことで餌や休息地を発見しやすくなるし、捕食者から逃げやすくなる」というものだ。こちらは「Why」の答えであり、ある行動に対する目的や理由を示している。進化心理学が提供するのは、こちらの答えだ。

 

 男性がくびれた女性を好むのは妊孕力の高い女性を求めているからだとして、これは「Why」の答えでしかない。なぜ男性がそんな嗜好を維持できたのか? という疑問には答えていない。

 想像力を働かせて、もしもヒトがメスのほうが体格に優れる動物だったと考えてみよう。メスがオスを支配下に置き、オスには一切の配偶者選択の自由が許されない。そんな生き物だったとしよう。そういう習性を維持したまま進化したら、ヒトのオスには「くびれを好む」という性的嗜好は発達しなかったかもしれない。

 なぜ男性は「くびれた女性を好む」という嗜好を進化の過程で失わなかったのだろう? そのメカニズム的な答えの1つは、フェミニズムが提供してくれるかもしれない。つまり、男性にも配偶者選択の余地がある程度には、男性側に権力のある社会を維持してきたからではないか――。充分に検討に値する仮説だ。

「同じ現象を別の言葉で記述しただけ」という私の説明を、ご理解いただけだろうか。

 

 1つの「なぜ」には「Why」と「How」の2つ側面から答えることができる。

 じつを言えば、2つでは済まない。動物行動学者ニコ・ティンバーゲンによれば、「なぜ生物が●●という機能を持つのか」という疑問には、少なくとも4パターンの正しい答えがありうるという。「ティンバーゲンの4つの〝なぜ〟」という名前で知られる思考法だ[22]。生物について考えるときは、「適応の側面」「系統発生の側面」「メカニズムの側面」「発達の側面」のそれぞれに答えを出さなければならない。

 先ほどの「鳥はなぜ空を飛ぶのか?」という疑問で考えてみよう。

 

〈適応〉
 空を飛べば餌や安息地を見つけやすくなり、捕食者からも逃げやすくなる。

 

〈系統発生〉
 鳥はもともと恐竜であり、体温保持のために鱗を羽毛へと進化させた。そういう解剖学的特徴をさらに進化させて、やがて現在のような鳥になった。

 

〈メカニズム〉
 鳥は揚力を発生させる翼を持ち、空力に優れた体型や高効率の生理機構を備えているから、空を飛ぶことができる。

 

〈発達(個体発生)〉
 陸棲脊椎動物の基本的な指の数は5本であり、鳥も例外ではない。しかし鳥は卵の中の胎児の段階で、一部の指の骨が退化したり他の骨と融合したりして、空を飛ぶのに適した骨格へと成長していく。

 

 お気づきの通り、「ティンバーゲンの4つの〝なぜ〟」を適用できる範囲は生物学に留まらない。「なぜフェラーリの車は速いのか?」とか「なぜGoogleはあんなに成功しているの?」とか、あるいは「なぜAmazonは赤字が続きでも成功できるの?」といった疑問にも、上記4つの側面から答えを導くことができる。非常に柔軟性が高く、応用範囲の広い思考のフレームワークなのだ。

 ヒトの心や行動について言えば、進化心理学が得意とするのは「適応」の側面から答えを出すことだ。系統発生の面から謎に挑むのは古生物学や考古学のほうが得意だろうし、発達や生理的メカニズムの面では、脳神経系の生理学や解剖学のほうが得意だろう。そして社会的なメカニズムの面では(フェミニズムを含む)既存の社会学のほうが得意かもしれない。

 これら4つの側面すべてを知らなければ、ある動物について理解したことにはならない。江戸川コナンは「真実はつねに1つ」と言うけれど、進化生物学者に言わせれば、真実はつねに4つなのだ。

 

 以上の議論から分かるとおり、「なぜ男性はくびれた女性を好むのか?」という疑問に、「男性優位の社会構造が維持されてきたからであり、進化論は関係ない」と答えるのは誤りである。社会構造と進化論との2つの原因は、相互排他ではない。どちらか片方の原因が正しいからといって、自動的にもう片方の仮説が間違っていることにはならない。

 ところが私たちの脳は、こういう「複数の原因が同時に正しい」というロジックを理解するのが苦手なようだ。

 今までの説とは違う「もっともらしい説」を見つけたら、すぐにそちら〝のみ〟が正しいと感じて、古い説を間違っていると感じてしまう。新旧の説が相互排他的かどうか、一歩立ち止まって考えることができないのだ。インターネット上では頻繁に見かける光景だ。

 おそらく私たちの脳には「二元論を好む」というヒューリスティクスがあるのだろう。

 歴史上の科学議論を紐解けば、地質学の「火成説」と「水成説」が典型例だ[23]産業革命が始まったばかりの18世紀末、科学者たちは「地層」の存在に頭を悩ませていた。石炭を掘るために山を切り崩せば、必ず地層を観察できる。では、この地層はいったいどのようにして形成されたのだろう?

 大雑把にいえば、「火山活動によって流出したマグマや粉塵が岩石を作り、地層を作った」という発想が火成説である。一方、「海底や湖底、河口に沈殿した土壌こそが岩石を作り、地層を作った」という考え方が水成説だ。当時の科学者たちは2つの仮説のうちどちらが正しいのか、日夜、議論を重ねていたらしい。

 現代の科学知識から言えば、火成説と水成説はどちらも正しい。地層に含まれる岩石には、火山活動によって生まれたものもあれば、水によって作られたものもある。二元論がそもそも成り立たないのだ。

 似たような例では、光の「粒子説」と「波動説」も当てはまる。かつて、光の正体が粒子なのか波動なのかで激しい論戦がなされた時代があった。現代の物理学では、光の正体は粒子でもあり波動でもある――。つまり、どちらも正しかったことが分かっている。その時代でもっとも優れた頭脳の持ち主たちでさえ、ときに二元論に陥ってしまう。

 私たちの脳は二元論が大好きだ。1つの「正しそうな仮説」を見つけたら、他の仮説はすべて誤りだと考えがちだ。しかし現実の世界は複雑で、複数の仮説が同時に正しいということがよくある。社会学に基づく「正しそうな仮説」を思いついたら、進化論に基づく仮説を間違いだと決めつけたくなる。逆に進化論を信奉するあまり、社会学の仮説を実際以上に軽んじてしまう。二元論のヒューリスティクスには要注意だ。

 

(※なぜ私たちが二元論を好むかといえば、おそらく部族社会の時代の進化適応によるものだろう。自分以外の他者を、いつも一緒に生活している「仲間」と、そうではない「敵」とに二分することで、遺伝的な利益を得てきたのかもしれない……が、これも無限に文章を書ける論点なので、また別の機会にブログ記事にしよう)

 

 

児童虐待はヒトの自然な行動か?

 長くなったが、ここまでが前置きだ。ブログの記事は1本2,000~3,000字で書くべきだとされている。電車で一駅ぶん、10分程度で読み終わる長さでないと最後まで読んでもらえないからだ。けれど前置きが長くなるのには理由がある。進化論の視点から児童虐待を考えるのは、それだけ注意を要することなのだ。

児童虐待は自然な行動だから避けられない」という遺伝子決定論のような誤解を招くし、「継親は必ず児童虐待をする」という平均値の誤謬に基づいた偏見を助長しかねない。「児童虐待は対策しても無意味であり、許すしかない」という自然主義の誤謬に陥る危険性さえある。このような危険を避けるためには、どんなに注意喚起をしても足りない。

 

 

児童虐待の歴史

 まずは児童虐待の歴史的事実を確認しておこう。

 手始めに今から数千万年前、私たちの祖先がまだ他のサルと分化していなかった時代にさかのぼってみたい。

 ハヌマンラングールというサルがいる。インドやパキスタンバングラディシュなどの南アジアに生息するオナガザルの仲間で、白い体毛に黒い顔という神々しい姿をしている。「ハヌマン」というインド神話の神の名前で呼ばれる理由だろう。

 ハヌマンラングールは凄惨な「子殺し」をすることで知られている[24]。このサルはハーレム制の繁殖形態を持つのだが、群れのボスが交代すると、新たなボスは以前のボスが残した子ザルを皆殺しにするのだ。私たち現代人の倫理観からすれば、眉をひそめたくなるほど残酷な習性である。が、進化論の視点から見れば理に適っている。新たなボスは、メスの授乳期間を強制的に終わらせることで、自分の繁殖のチャンスを増やそうとしているのだ。

 じつのところ、ヒトが一夫一妻制に進化した理由の一端は、このような「子殺し」にあるのではないかと言われている。メスにしてみれば、新旧どちらのボスが父親だろうと、自分の子供は自分の子供である。霊長類のメスたちは、オスの子殺しからわが子を守らねばならなかった。

 ここで彼女たちが取りうる戦略は2つある[25]

 1つはチンパンジーのような乱婚制を取ることだ。メスが群れのオスの大多数と交尾すれば、オスはどの子が自分の子なのか分からなくなる。結果として、子殺しを防ぐことができる。反面、オスから子育ての協力を得ることも難しくなるだろう。オスにしてみれば、自分の遺伝子を継いでいない子供にエサや教育を施す可能性が増えてしまう。チンパンジーのオスは外敵からメスや子供を守る程度のことはしても、育児らしい育児はしない。

 子殺しを防ぐ2つ目の戦略は、一夫一妻制を取ることだ。繁殖期間中は浮気をしない(少なくともそのそぶりを見せる)ことで、オスに「この子は自分の子だ」という確信を深めさせるのだ。結果として子殺しを防げるだけでなく、オスから育児協力を引き出すことも可能になる。(※ヒトが一夫一妻制に進化した過程はじつに面白いトピックなので、これもまた別の機会にブログ記事にまとめよう)

 

 ハヌマンラングールの社会には、「児童虐待」という概念は存在しない。子殺しが当たり前に行われる社会なのだから、当然だ。

 ハヌマンラングールに限らない。ヒトを除くあらゆる動物に、児童虐待という考え方は存在しない。

 もしもあなたがNHKBBCの自然科学番組をよく見る人なら、動物たちが簡単に育児放棄することを知っているだろう。上野動物園で飼育されているパンダのシンシンは、2012年に初めて出産したとき、すぐに子育てをやめてしまった。赤ちゃんは生後6日目に死んだ[26]。飼育下でも野生でも、動物が育児を中止して子供を殺すことは珍しくない。

 現代人の私たちから見れば、動物はなんて残酷なのだろうと感じてしまう。

 気まぐれに子供を殺してしまうなんて、いったいなぜ――?

 しかし進化論の視点に立てば、彼女たちの育児放棄という判断は決して気まぐれではない。

 哺乳類の親には、つねに葛藤が存在する。遺伝子を残すには子供を育てなければならないが、育児期間中は新たな子供を作ることが難しくなる。目の前にいる赤ん坊を育てることと、この子を諦めて新しい子供を産むこととを比較して、どちらがより確実に遺伝子を残せるのか――。そういう計算をしなければならないのだ。

 たとえば赤ん坊が生まれつき弱い個体だったり、あるいは食糧難や外敵の存在などで育児が難しい場合、その赤ん坊を諦めたほうが(遺伝子を残すという点では)賢い選択になる。野生の世界を生き抜くのは厳しい。無理に赤ん坊を育てようとすれば、自分まで飢えて死ぬかもしれない。子育てに不安がある環境では、メスは育児放棄を選ぶだろう。もっと子育てに相応しい環境が整うまで体力を温存するはずだ。

 問題は、どうやってその判断を下しているのかだ。

 動物たちが遺伝的利益を計算しているとは思えない。コクホウジャクのメスの場合は、おそらく「素敵!」と感じたオスを選んでいるだけだ。同様に、動物は一定の条件が揃うと赤ん坊への愛情が失われるだけだろう。それが結果として、「弱い赤ん坊や環境が悪いときには育児を諦めたほうがより多くの遺伝子を残せる」という計算と一致するのではないか。

 では、ヒトにもそういう心理はあるだろうか?

 自分の子供に愛情を感じられなくなる瞬間があるのだろうか?

 心理学者スティーヴン・ピンカーは、いわゆる「産後うつ」や「ベビーブルー」こそがそれに当たると述べている[27]。進化論の視点が予測する通り、母親や夫の経済力が弱いとか、年齢が若いとか、支えてくれる家族が少ないとか、そういう場合にベビーブルーは起きやすい。

 驚くべきことに、ホルモンバランスの崩れと産後うつとの相関関係は弱い。出産にともなうホルモンの撹乱による病気というよりも、ヒトは特定の状況下では産後に気分が沈むようにデザインされていると考えていいだろう。生まれた子供をきちんと育てられるという自信が持てないと、女性は赤ん坊を可愛いと感じにくくなってしまうのだ。

 したがって、母親が「赤ん坊が可愛くない」と感じるのは、母性が足りないとか、人間性がねじ曲がっているなどという理由ではない。哺乳類として、ごく自然な反応をしているにすぎない。ここからベビーブルーに効果的な処方箋も予測できる。「きちんと育てられそう」「まあ、何とかなるかも」という、自信や余裕を回復することだ。専門知識を持つカウンセラーや信頼できる周囲の人間に早めに相談することが重要であり、「自分は母親失格かもしれない」と1人で思い悩むのがいちばん危険だろう。

 ここまでの話を知人にしたら、ひどく狼狽えさせてしまった。「動物は弱い赤ん坊を育児放棄する。もしもヒトにも同じ心理があるのなら、障碍児は育てなくていいという結論にならないか?」と眉をひそめられたのだ。

 すでにお分かりの通り、これは自然主義の誤謬だ。

 実際、生まれた赤ん坊が不健康であると母親はベビーブルーに陥りやすい。しかし、だからといって障碍児を殺していいことにはならない。「障碍児にも人権がある」という判断は哲学の領域であり、科学的事実によって揺らぐものではない。むしろヒトの心にも他の動物と変わらない野蛮な傾向が残っていると知ることで、障碍児を持つ家庭にはとくに手厚いサポートが必要になると予測できる。

 

 児童虐待の歴史的経緯を調べるときに問題になるのは、虐待の程度を数値化しにくいことだ。

 たとえば悪いことをした子供のお尻を叩いたり、しっぺやデコピンをするのは虐待だろうか? 現在の基準で考えれば明らかな体罰であり、虐待だと見なされるはずだ。しかし、その子供がとんでもない悪ガキで、マンションの給水タンクに農薬を混ぜるなんてイタズラを計画していたら? 私が親だったら(体罰はダメだと分かっていても)1発ぐらいはぶん殴ってしまうかもしれない。

 私の子供時代である20年前には、まだお尻を叩いたりしっぺやデコピンをする親はいた。けれど19世紀の学校教師のように、棒で叩いて懲罰をするような大人はいなかった。子供に対して許される体罰の程度は時代とともに変わるし、虐待の基準も変わる。だから、虐待の程度は数値化が難しいのだ。

 

 だから、ここでは「子殺し」に焦点をあわせよう。

 児童虐待とは子供に対する人権侵害であり、殺人は究極の人権侵害だ。また、殺人は隠匿が難しく、比較的信頼できる統計データも残されている。子殺しは児童虐待のなかでも最悪のものである。

 

 江戸時代の日本では、間引きや口減らしの形で子供が殺されていたことが知られている。

 歴史人口学者の速水融によれば、18世紀初頭の日本人口は2500~3500万人だった。ところが徳川体制崩壊直後の1870年の人口は約3500人で、ほとんど人口増加が無かったことになる[28]

 これは当時の日本が「マルサスの罠」と呼ばれる状況に陥っていたからだ。人間の数はネズミ算式に増えていくのに対して、食糧生産は足し算式にしか増えない。そのため、やがて人口増加率が食糧生産の増加を追い抜いてしまう。人々はつねに飢饉と隣り合わせの状況で暮らさざるを得なくなり、人口は伸び悩む。

 当時の日本人女性が、初婚年齢を遅らせる等の方法で出生数を抑えていた証拠はない。主に堕胎と間引きによって人口調整が行われていた可能性が高く、農村で「子殺し」が横行していたことは定性的な歴史資料からも明らかである[29]

 子供の人権が軽んじられてきた(というか無視されてきた)のは、日本だけではない。

 つい百年前まで、世界中でそうだった。

 イギリスの小説家チャールズ・ディケンズが1837年から連載開始した小説『オリバー・ツイスト』には、当時の救貧院(※今でいう孤児院)の子供たちがどのような扱いを受けていたのか、生々しく描かれている。

 18人のうち8人半は、栄養不足や感冒で病気になるとか、油断をしていたため暖炉の中へ落ちるとか、偶然、窒息しかかるとか、そういう事件が起こり、どの場合でも、そのあわれな子供は、つねにあの世へと呼ばれ、この世ではついぞ知らなかった父親のもとへと連れて行かれるのであった[30]。

 

 ディケンズを信じるなら、そういう事故を起こしても救貧院の職員は大した処罰を受けなかったようだ。もちろん小説なので誇張はあるだろうが、当時の雰囲気を知ることができる。

 1846年にアメリカのカリフォルニアからオレゴンへと一家で移住したとある入植者は、興味深い手記を残している。彼は旅の途中、親に捨てられた8歳のネイティブ・アメリカンの娘と出会った。彼女は傷だらけで、飢えていた。旅の仲間たちは娘の処遇について大いに悩んだあげく、最終的には馬の世話係だった若者が彼女の頭に銃弾を撃ち込んで「苦しみから解放してやった」というのだ[31]

 かつて子供は親の所有物のように考えられることが普通であり、生かすも死なすも親次第だった。捨てられて親を失った子供は、命があるだけマシであり、場合によっては殺してやったほうが幸福だと考えられた。ホモ・サピエンスには約20万年の歴史がある。芸術を楽しむ等、現代人と変わらない「心」を手に入れたのは、約3~7万年前だと言われている[32][33]。その長大な歴史のほとんどすべての時期において、子供に人権はなかったのだ。

 事態が好転するのは、19世紀後半に入ってからだ。

 1874年、ニューヨークのマンハッタンでエレン・マコーマックという10歳の少女が保護された。彼女は養母とその二番目の夫に育てられており、あざだらけであることに気付いた隣人たちが通報したのだ。ところが当時のアメリカには、児童虐待を専門に扱う公的機関も慈善団体もなく、最終的に彼女を助けたのは全米動物愛護協会だった[34]

 エレンの一件を契機にニューヨーク児童虐待防止協会が設立され、これが世界初の児童保護団体となった。以降、子供たちの人権は少しずつ重要性を認識されるようになり、1959年の国連総会における「児童権利宣言」へと繋がっていったのである。

 

 

児童虐待に至る心理

 ヒトは基本的に、子供に愛情を注ぐ動物だ。ときには血の繋がっていない子供にさえ「可愛い」と感じて、あれこれと世話を焼きたくなる生き物である。これはヒトに深く刻み込まれた本能だと考えて間違いない。

 なぜならヒトは成熟に極めて長い時間を要するからだ。体重わずか60kgのサルにすぎない私たちは、体重6トンのアフリカゾウと同じくらい時間をかけて大人になる。子供を可愛いと感じる本能がなければ、長期間に渡る子育てには成功できない。ついでに言えば、ネアンデルタール人は私たちよりも成長が早かったことが知られている[35]。人類の中でも、私たちホモ・サピエンスはとくにゆっくりと育つ種であるらしい。

 だからこそ、私たちは残虐な事件のニュースを聞くと、犯人を異化したくなりがちだ。自分とはまったく別の心理構造を持った、危険な生き物だと考えたくなる。児童虐待のニュースを耳にすれば、すぐに加害者を叩きたくなる。なんてひどい親なんだろう、あいつはきっと人間の心を持っていない――、と。

 しかしどれほど加害者を糾弾しても、そして(おそらく)厳罰化しても、児童虐待はなくならない。子供の人権がほとんど無視されてきた歴史をふり返れば分かるとおり、虐待はむしろヒトの自然な行動のレパートリーの1つだ。

 子供を愛してやまない普通の親でも、ときには子供に対して本気で腹を立てたり、憎たらしく感じることがある。頭の中の天使と悪魔が議論するというマンガ的な表現は正しい。ヒトは心の中にいくつもの矛盾する人格を抱えている。どれほど子供を愛していても、その愛情がブレーキにならない場合がある。条件さえ整えば、あなたも、私も、子供に対してむごたらしい行為を働きうる。あらゆる野生動物がそうするように。

 だからこそ、その条件を知ることが重要なのだ。

 文明の力をもって、私たちの心の中に残る野生を超克しなければならないのだ。

 

 児童虐待の危険性を高める要因には、どのようなものがあるだろう?

 第一に、資源獲得の観点。安心できる環境でなければ野生動物が育児放棄をすることはすでに述べた。ヒトの場合、これは経済的資源や社会的資源に置き換えられる。

 第二に、子供の男女差。遺伝的利益から考えれば、親にとって男児を持つことはハイリスク・ハイリターンであり、女児を持つことはローリスク・ローリターンである。この違いから、きょうだいのうち男女どちらか一方を親が「ひいき」してしまうことはありうる。

 第三に、実子と継子の違い。進化論の視点に立てば、継親が、遺伝的な繋がりのない継子よりも、実子を「ひいき」してしまうことはありそうな話だ。では実際にはどうなのだろう?

 

 まずは資源獲得の観点から考えてみよう。

「子供をきちんと育てられる」という安心感が重要ならば、収入が少ない親はその安心を得られない可能性が高い。ただし、ここでは子育てのコストも大きな影響を与える。

 子育てのコストとは、子供が「一人前の大人」になるのに必要な資源の量である。たとえば100年前のスラム街の家庭のように、周囲の人間がほとんど小学校もまともに卒業していない環境の場合、子育てのコストは低くなる。したがって親が安心できる収入の水準も低いだろう。一方、現代日本のように9割以上の人間が高校を卒業しており、大学進学率が5割前後で推移する――。こういう環境では、子育てのコストは高くなる。「子供をきちんと育てて、孫の顔を見られる」と安心できる収入の水準は跳ね上がるはずだ。

 日本でいえば、東京都は比較的物価が高い地域である[36]。さらに東京都の大学進学率は極めて高い[37]。したがって東京は、子育てのコストが極めて高い地域だと言える。もしもコストの低い地域から東京都へと引っ越してきて、なおかつ親の収入が不充分である場合、児童虐待のリスクは高まるものと思われる。

 子育てに必要な資源は、経済的資源だけではない。

 社会的資源――いざというときに頼れる人間の数――も、重要な資源である。

 かつて私たちがサバンナや森で狩猟採集生活を営んでいたころ、私たちの祖先は十人~数十人の集団で生活していたと考えられている。であれば、子育ては親だけではなく、集団全体の協力によって行われていたはずだ。現代社会で言えば、信頼できる家族や親戚、友人、知人、顔見知りの公的機関職員などが社会的資源となりうる。

 ここから、ある家族が縁もゆかりもない遠隔地に引っ越した場合には注意が必要だと予測できる。その親たちは、それまでの社会的資源をすべて喪失したに等しいからだ。新しい共同体を構築したり、新天地の共同体に属することができなければ、やはり児童虐待のリスクは高まるものと思われる。

 

 続いて、子供の男女差について考えてみよう。

 一般的に言って、男性のほうがモテる/モテないの格差は大きい。社会的地位が高くモテる男性であれば、歴史的にはたくさんの妻を囲うことで、たくさんの子供をもうけることができた。現代社会であれば、社会的地位の高い男性のほうが結婚や再婚の可能性は高まるし、不倫に成功(?)して婚外子をもうけることさえあるかもしれない。

 これはヒトに限らない。多少なりとも一夫多妻の傾向がある動物では、オスの多くが子供を持てない一方で、優位のオスはたくさんの子供を残す。理論上は生産できる精子の数だけ、オスはほぼ無制限に子供を作ることができる。親からみれば、オスの子供を持つことは(遺伝的利益の点で)ハイリスク・ハイリターンである。

 それに比べると、メスの子供を持つことは(遺伝的利益の点では)ローリスク・ローリターンだと言える。メスはモテる/モテないの格差がそれほど大きくなく、配偶者を見つけられる可能性はメスのほうが大きい。しかし反面、メスは生涯に産める子供の数に限りがある。

 ヒトの社会でいえば、厳しい身分制度のせいで男児の地位向上が難しい場合、貧しい親は女児をひいきする可能性が高い。男児にいくら投資しても地位向上を望めないのなら、女児をきちんと育てあげて、上昇婚を狙うほうが上手く子孫を残せるからだ。

 一方で、階層の流動性が高く、子供への投資量次第でその子の社会的地位を高められる(少なくともそう信じられる)社会の場合、男児をひいきすることが遺伝的に利益になる。男児に資源を集中投下することで彼が上位のオスになれるのなら、よりたくさんの子孫を残せるからだ。世界中に見られる男児優先の家族制度の根底には、おそらくこのような遺伝的利益の男女差がある。

 したがって特定の条件下では、男児よりも女児のほうが児童虐待の被害を受けやすいと思われる。念のため付け加えれば、時代や地域を問わず子殺しや堕胎は女児のほうが対象にされやすかった[38][39]

 

 最後に継親と継子の関係について。

 遺伝的利益の観点から言えば、継親は継子よりも実子をひいきしてしまうバイアスがあると予測できる。統計的な調査もこのことを支持しており、継父が継子と過ごす時間は、実子と過ごす時間よりも有意に少ない[40]アメリカ合衆国のデータでは1週間あたり約3時間少なく、南アフリカのデータでは父子の相互作用(一緒に遊んだり宿題を教える等)の回数が、1週間あたり1.62回少ないことが示された。

 タンザニアのハッツァ族の観察研究でも同様の傾向が見られた。継子が継父から受ける世話は、実子が受けるそれよりも大幅に少なかったのだ。とくに顕著な差が見られたのは遊ぶ時間であり、観察期間中、ハッツァ族の継父が継子と遊ぶ場面は一度も見られなかったという。

 児童虐待に焦点を絞れば、結果はさらに衝撃的だ。

 ある研究では10年間にカナダで親に殺された子供407名を調査し、2歳未満の子供が継親に殺される可能性は、実親に殺される可能性の70倍であると分かった。アメリカ合衆国のサンプルによる類似の研究では、2歳未満の末子が継親に殺される可能性は、実親に殺される可能性の100倍だったという[41]

 史上初の児童保護団体を生むことになったエレン・マコーマックも、継親に育てられていた。私も信じたくないが、事実を踏まえれば結論は明らかだ。継子の場合、児童虐待のリスクは高まるものと思われる。

 

 しかし、ここで「継親児童虐待をするものだ!」と考えてはならない。

 それは平均値の誤謬であり、遺伝子決定論であり、単なる偏見だ。

 圧倒的多数の継親たちは虐待などしないし、実子と同様に継子を育て上げている。少数の悲劇を過大視するあまり、偏見を深めてはならない。

 言うまでもなく、ヒトは血の繋がらない子供を愛することができる。おそらく太古のサバンナや森の中で、集団で育児をしていた時代の名残りだろう。他人の子供を育てることで集団のサイズを維持して、間接的ではあるが自分の遺伝的利益を増大させることができたはずだ。血の繋がらない子供の世話をするのは、決して進化論に矛盾する行動ではない。

 アメリカ合衆国中流階級を対象とした調査では、継子に対して何らかの「親の感情」があると答えたのは継父で53%、継母で25%だった[42]。いわゆる母性神話を信じている人には、にわかに受け入れがたい結果かもしれない。親の愛情は女性のほうが芽生えやすいと考えられがちだが、継子に対するそれは当てはまらない。

 もちろん、この結果が社会的なバイアスによるものである可能性はある。継父は愛情を疑われやすいために、アンケート調査では実際以上に自分の愛情を過大申告するのかもしれない。

 とはいえ、「継子に対する愛情は男性のほうが芽生えやすい」という調査結果は、進化心理学の予測とも一致する。何度も繰り返すが、ヒトはゆるやかなハーレム制の傾向を持つものの、基本的には一夫一妻制の動物だ。この「基本的には一夫一妻制」という部分が重要なのだ。

 ヒトのオスは継子を愛することで、その子の母である妻を自分のもとに引き留めることができる。結果として、自分の繁殖機会を増すことができる。ヒトは一夫一妻制であるがゆえに、ハヌマンラングールのように子殺しによって遺伝的利益を享受できないのだ。

 進化論に基づくこういう身も蓋もない話をすると、必ず反発を招く。「継父が継子を愛するのは自分がセックスをするためだというのか! 継子への愛情は偽物だというのか!」とお叱りを受けるだろう。お怒りごもっともだ。

 ただ、ここで思い出してもらいたいのはコクホウジャクの例だ。コクホウジャクのメスは、別に「強いオスを選ぶ」という計算はしていない。遺伝的利益には無自覚なまま、純粋に「素敵!」と感じたオスを選んでいるだけだろう。

 ヒトも同様だ。継子を愛する継父は、別に遺伝的利益など計算しておらず、純粋な愛情を注いでいるだけである。個人的経験から言えば、嘘を見抜く能力は女性のほうが優れている。とくに愛情や友情などの人間関係にまつわる嘘には、女性のほうが敏感だ。たとえ継父が「偽物の愛情」を注いでも、妻には簡単に見抜かれるだろう。したがって継父が継子に対して抱く愛情は、一点の曇りもない真実の愛情だと私は確信している。

 

 

■結論

 児童虐待のような社会問題を、進化論的な視点から論じるのは注意を要する。

 遺伝子決定論自然主義の誤謬、平均値の誤謬、その他もろもろの地雷がそこら中に転がっていて、誤解や偏見を簡単に招いてしまうからだ。竹内久美子氏をはじめとした一部の論者が、これらの地雷に無頓着だった罪は重たい。「社会学的なトピックに進化論を適用するのは、優生学と同様に危険である」という警戒心を深めさせてしまった。

 くどいようだが、進化論の視点からどんな事実が判ったとしても、偏見や差別を深めて「いい」ことにはならない。むしろ、正反対である。偏見や差別を取り除くためには、まずはヒトがどういう動物であるのかを理解しなければならない。そのための強力な思考ツールが進化論なのだ。

 この記事の中で、継親に殺される子供は実親に殺される子供よりも多いというデータを紹介した。しかし、だからといって近所に住む継親子を「虐待しているに違いない」と思い込むのは、まったく合理性に欠けている。圧倒的多数の継親たちは虐待などしておらず、それどころか真実の愛情を注いでいる可能性が高い。問題があるとすれば、それは進化論に基づく研究結果ではなく、偏見を抱く側の判断力だ。

 では、進化心理学は何の役に立つのだろう?

 いくら進化論の視点が偏見や差別を助長しないと言っても、それは充分な科学リテラシーがあってのことだ。「遺伝子」と「DNA」の違いを説明できない人のほうが多い現状では、やはり進化論の視点でヒトの社会を研究するのは、やめておいたほうがいいのではないか?

 そう心配する人もいるだろう。

 進化的視点の有用性について、すぐに思いつくのは専門機関におけるリスク評価への応用だ。

 たとえば児童相談所では、虐待が疑われる家庭とその危険度を注意深く判断しているはずだ。進化心理学の研究結果は、そのリスク評価をより精緻なものにできるかもしれない。もしそうなれば、進化論の視点は児童虐待の減少に貢献できる。

 かつて子供には人権が認められず、親に捨てられた娘は殺してやるほうが慈悲深いと考えられる時代があった。数十万年にもおよぶ人類の歴史から見れば、つい昨日のことである。私たちは文明の力によって、心の中に潜む野蛮な部分に打ち勝ってきた。気が遠くなるほどの残酷な時代を経て、ようやく私たちはここまでたどり着くことができた。

 進化論の視点があれば、私たちはさらに先へと進むことができる。

 立ち止まるわけにはいかないのだ。

 

 

 

※参考文献等

[1]スティーブン・ピンカー『心の仕組み』ちくま学芸文庫(2013年)上p103

[2]ニコラス・ウェイド『人類のやっかいな遺産』晶文社(2016年)p55-58

[3]ピンカー(2013年)p102-103

[4]D.F.ビョークランド、A.D.ペレグリーニ『進化発達心理学新曜社(2008年)p187

[5]マット・リドレー『やわらかな遺伝子』紀伊國屋書店(2004年)p107-109

[6]ダニエル・E・リーバーマン『人体600万年史』早川書房(2015年)下p46-47

[7]雨宮氏は自身の経験を様々な媒体で発表している。たとえば新聞記事等。
失われた20年インタビュー 作家・雨宮処凛さん「格差が、同じ日本で言葉が通じないくらい広がった」‐毎日新聞

[8]ダグラス・ケンリック『野蛮な進化心理学白揚社(2014年)p88

[9]デヴィッド・M・バス『女と男のだましあい』草思社(2000年)p87-123

[10]マット・リドレー『赤の女王』ハヤカワ・ノンフィクション文庫(2014年)p351-356

[11]ロビン・ダンバー『友達の数は何人?』インターシフト(2011年)p11-13

[12]ビョークランド、ペレグリーニ(2008年)p292-293

[13]バス(2000年)p99-101

[14]ダンバー(2011年)p84

[15]長谷川三千子と竹内久美子のセクハラ擁護がヤバすぎ!「オタクよりセクハラ男のほうが大切」「チンパンジーなら慰安婦OK」‐LITERA

[16]第5回 「男脳」「女脳」のウソはなぜ、どのように拡散するのか‐NATIONAL GEOGRAPHIC

[17]キングスレー・ブラウン「仕事と性差」(王暁田、蘇彦捷[編]『進化心理学を学びたいあなたへ』収録コラム)東京大学出版会(2018年)p242
※個人的には性的偏見が強いコラムだと感じた。すぐ後ろのページに収録されているナイジェル・ニコルソン「ビジネスとマネジメントに進化心理学を導入する」を併読することを強く推奨したい。

[18]Is Beauty in the Eye of the Beholder?

[19]Beauty and the Bart Simpson effect

[20]リチャード・ドーキンス『盲目の時計職人』早川書房(2004) p342-344

[21]ケンリック(2014年)p55-59

[22]岡ノ谷一夫『「つながり」の進化生物学』(2013年)p86-90

[23]松永俊男『ダーウィンの時代』名古屋大学出版会(1996年)p66-67

[24]ハヌマンラングールの子殺しは有名な話であり、様々な媒体で紹介されている。たとえば:自然界に「悪」は存在するか

[25]ジャレド・ダイアモンド『セックスはなぜ楽しいか』草思社(1999年)p119-127

[26]赤ちゃんパンダ、シンシンの母乳飲んだ

[27]スティーブン・ピンカー『暴力の人類史』青土社(2015年)下p78-80

[28]マッシモ・リヴィ‐バッチ『人口の世界史』東洋経済(2014年)p79-81

[29]たとえば茨城県利根町の「間引き絵馬」など

[30]チャールズ・ディケンズオリバー・ツイスト新潮文庫(1955年)p12

[31]ピンカー(2015年)下p90

[32]クライブ・フィンレイソン『そして最後にヒトが残った』白揚社(2013年)p220-221

[33]ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』河出書房新社(2016年)上p35-38

[34]ピンカー(2015年)下p107-108

[35]リーバーマン(2015年)上p179-180

[36]都道府県別・10大費目別消費者物価地域差指数の構造により各都道府県を8つのタイプ(型)に分類

[37]都道府県別の大学進学率(2017年春)

[38]リヴィ‐バッチ(2014年)p82ほか

[39]ピンカー(2015年)p81-87

[40]ビョークランド、ペレグリーニ(2008年)p262-264

[41]ビョークランド、ペレグリーニ(2008年)p265

[42]ビョークランド、ペレグリーニ(2008年)p262

 

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