「被害者のいる犯罪は刑法で裁かれる」という話を斎藤健二さんがつぶやいてらっしゃった。
また、たとえ被害者がいなくても「倫理を守るのが法、特に刑法の任務である」というリーガル・モラリズムというものがある。同性愛を刑法で罰するのは、特定の倫理観を持ち込んでいるだけなのでNGだ。しかし、種の多様性を守るワシントン条約や、人の尊厳を守るクローン技術規制は、特定の倫理観に深く根ざしてはいるものの、即座にNGとは言いがたい。さらに、覚せい剤やシートベルト、ヘルメットに関する規制は「意思の弱いあなたに代わって法律が禁止してあげます」というリーガルパターナリズムだといえる。
特定の価値観、倫理観を押しつけることになるとしても、被害者がいるのならば思想・信条の自由よりも法の裁きを優先する――ということらしい。至極まっとうな話だと思う。ヒトクローンの作成は「被害者」がいる以上は犯罪なのだ。
では、クローン人間を作成した場合の被害者とは誰だろう?
クローン人間を作った場合の被害者は、細胞提供者(ドナー)でも出産者(代理母)でもない。生まれてくるクローンの子だ。
念のため解説しておくと、映画やマンガで登場するような「培養液のなかでクローン人間を育てる」というのは完全なフィクションだ(※現在の科学技術では)。
体細胞クローンを作成するにはいくつか方法があるのだが、いちばん一般的なのは細胞核を移植する方法だろう。まず受精卵を準備して、細胞核を取りのぞく。そしてドナーの体細胞の細胞核を注入する。こうして作ったクローン細胞を代理母の子宮へと着床させて十月十日、クローン人間は赤ん坊として生まれてくる。映画『シックス・デイ』のような「本人とうり二つのクローン」は、現在の科学技術では作れない。赤ん坊として生まれてきたクローンの子を、普通の子供と同じように育てるしかない。
この大雑把な解説だけでも、倫理的にたくさんの問題をはらんでいると分かる。
たとえば一番最初の「受精卵を準備して細胞核を取り除く」という段階。受精卵は紛れもないヒトだが、それを「人間」として扱うと倫理的な問題が生じる。受精卵が「人間」ならば、細胞核を取り除くのはいわば殺人だ。「たった1つの細胞」を人間として扱うかどうかが、まず第一の倫理的な問題になる。
この「受精卵は人間か?」という問題は、クローン作成に限らず、不妊治療の現場ですでに現実のものになっている。体外受精ではたくさんの受精卵をシャーレのうえで作成し、もっとも状態のいいものだけを母体へと移植する。残りの“状態の悪い受精卵”は廃棄される。それを「殺人」ではないと言い張るには、それなりの倫理的基盤が必要だ。
そしてクローン人間の場合、きちんと健康な赤ん坊として生まれてくるとは限らない。というか十中八九、不健康な状態で生まれてくるだろう。疾病や傷害をほぼ確実に持っている赤ん坊を“作る”ことが、果たして正義にかなうのか――という極めてナイーブな問題が生じるのだ。
クローン人間は、ドナーと遺伝情報が共通しているだけの別個体だ。一卵性双生児は遺伝情報が共通しているが、私たちは彼らを別々のヒトとして扱う。それと同様にクローン人間は、ドナーとは「別のヒト」として扱わなければならない。クローン人間はいわば歳の離れた双子なのだ。
その双子の弟妹がほぼ確実に「不健康な状態」で生まれてくると分かっているときに、その「子作り」は正義にかなうだろうか。生まれてくる子が最大の被害者になってしまうのでないか。クローン人間作成の問題点はこの部分に集約される。たとえば将来、受精卵を使わない体細胞クローンの作成方法が樹立されたとしても、「健康に生まれてこない可能性が高い子を作る・産む」ことに正義はあるのか。
私は、クローン人間の作成は、倫理にもとると思う。
ただし、「健康に生まれてこない可能性が高い子を作る・産む」ことを不正義とした場合、また別の倫理的課題が生じる。私たちの「産む権利」と真っ向から衝突してしまうのだ。生殖医療の発達により、精子に問題のある男でも子をなせるようになった。超高齢出産も可能になった。それら“リスクの高い子作り”は、クローン作成と同様に不正義とみなせるかもしれない――というか倫理的にダメである可能性が非常に高い、クローンの子を「被害者」とみなすのなら。
「クローン作成は是か非か」という疑問は、「親とは何か」を問うている。
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