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「楽しい!」を仕事にしよう。/知的労働の急激な陳腐化とゲーム化する「仕事」

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就活デモの悲痛さは、参加者が既存の「勤労」に疑問を持ちながらも、「雇われる」という生き方のロールモデルしか持っていないところにある。
「大学でしっかり勉強してもいいだろう?」
「新卒一括じゃなくてもいいだろう!?」
――と、口にしながら、二言目には「だから雇ってくれ」と言うしかない。学生たちの立場はあまりにも弱く、彼らのシュプレヒコールは虐待される子犬の悲鳴のようだ。噛みつく牙を彼らは持っていない。
就活生に限らず、いまの私たちは「仕事」の意味を問い直されている。まともに就職をしても、サービス残業まみれで有給休暇もろくに取れない人生が待っているだけだ。内定の取れない学生は、しばしば「大学院進学は最後の手段」だと言う。しかしマスターに進めば就業可能な職種は狭まるし、ポスドクの自殺率はおそろしく高い。それを考えると、進学は地獄への片道切符のように見えてくる。
多くの学生にとって「就職」こそが最後の手段であるべきだ。在学中に「好きなコト」でカネを稼ぐ筋道を見つけられなかった人が、最後にたどりつくセーフティネット。昭和的な「新卒一括採用による就職」は、そういう立場であるべきだ。
そうでないから、学生たち――日本の労働者たちは雇用者によって安く買い叩かれるのだ。「みんながやっているから」という理由でリクルートスーツを着る前に、もっとすべきことが無いか考えてみたい。




       ◆




現在、ホワイトカラーの仕事は急速に価値を失っている。情報化の波はあらゆる仕事を合理化し、知的産業の姿を塗り替えようとしている。単純な事務作業はもちろんのこと、私たちの「判断」さえも、機械に圧倒されようとしている。


■[映画]その数学が勝負を決める:『マネーボール
http://d.hatena.ne.jp/mickmack/20111212


かつて大リーグの世界は、監督やコーチの勘と経験に支配されていた。それを一変させたのがセイバーメトリクスという戦略だ。膨大な量のデータを統計的に分析することで、弱小球団が優勝候補にまで上り詰める――そんな実話を映画化したのが『マネーボール』だ。
こちらのレビューでも指摘されているとおり、この物語はするどい示唆を含んでいる。
複雑な統計解析が可能になったのは、言うまでもなくコンピューターのおかげだ。そして、そうした機械の「判断」は、私たち生身の人間の「判断」よりも合理的で優れている。ならば、私たちヒトの「判断」の価値とは何だろうか。ただ正しい判断を求めるのなら、人間なんて必要ないではないか――。
人間が機械の傀儡になる:そんなディストピアを描いたSF作品は枚挙にいとまがない。
かつてフォード生産方式が肉体労働の価値を激変させたように、コンピューターの発達は知的産業の価値を揺るがす。これは時代の流れであり、どんなに文句を言っても抗いようがない。ホワイトカラーの仕事の価値は、今後の50年で間違いなく地に落ちる。これは変えようのない運命だ。
では、未来には大失業時代が待ち構えているのだろうか。
じつは、そうとも限らない。



労働塊の誤謬という考え方がある。
http://bit.ly/ghZA3J
技術革新は、一見すると労働者の仕事を奪い、失業をもたらすかのように思える。しかし歴史をひも解けば分かる通り、実際には技術革新により新たな仕事が生まれて、失業者を吸収する。
したがって、技術革新がありながら失業率の増加が進むのであれば、それは技術革新が悪いのではなく、新たな仕事を生み出せない社会構造の側に問題があるのだ。



知的産業の価値が低くなった未来に、私たちはどんな仕事をしているのだろう。あらゆる「判断」は機械のほうが優れている時代の未来人は、いったい何のために仕事をするのだろう。
きっと、「楽しいから」という理由しか残らないはずだ。
たとえばチェスは、すでにコンピューターのほうが人間よりも強い。しかしそれで私たちがチェスをやめるわけではない。週末には気のおけない仲間と集まってチェスボードを広げる。ヒトが下す判断の非合理性や予測不可能性が、楽しくてしかたないからだ。合理的な正しさだけが「判断」の価値ではない。
未来の「仕事」は、きっと現在のチェスみたいな存在になる。機械にやらせれば人間よりも正確な結果が出せるかもしれない。だけどそれでは「楽しくない」から、人間が働くのだ。逆にいえば、そういう「楽しさ」のない仕事は絶滅するだろう。
そう遠くない将来、あらゆる仕事はゲームになる。
楽しくなければ仕事ではない。




       ◆




これから仕事を決める人に向けて、ここで三つの事例を紹介しよう。「いい学校を出ていい会社に入る」という私たちの親世代の考え方は、現在ではすでに通用しない。それを実感できるエピソードをお伝えしたい。



1つ目は、知人の父親の例:
彼が就職活動をしていたのは1977年のことだ。大阪万博から7年が過ぎ、高度経済成長とバブルの間の豊かで平和な時代だった。プロ野球では王貞治がホームラン王に輝いていた。そんな時代に、彼は二つの会社から内定を得た。一つは電子機器を製造している東証一部上場の大手企業。そしてもう一つは関西のおもちゃ会社だ。安定した将来を求めて、彼は大手企業に入社した。
しかし彼の入社した企業はその後、激動の社史をたどる。身バレを防ぐため詳しくは書けないけれど、一度は株式市場から退場し、海外企業の完全子会社となったこともある。そして現在、日本の製造業の凋落ぶりは目を覆いたくなるほどだ。単身赴任は当たり前、家族ぐるみの運動会があるなど極めて昭和的な日本企業だった。
一方、彼が内定を蹴った関西のおもちゃ会社は「任天堂」という名前だった。
当時はトランプ等の生産とレジャー施設の運営を生業としており、現在の繁栄からはほど遠い地味な会社だった。1977年は奇しくも宮本茂氏が入社した年だ。知っての通り、宮本氏はのちに『マリオ』を生み出すことになる。またこの年、米国ではアップルコンピューター社が設立され、現在まで続く情報化の端緒を開いた。
京都の郊外でおもちゃの光線銃を作っていた会社が、まさか連結売上高1兆円超の日本を代表する企業になるだなんて、当時は誰も想像できなかった。一塊の就活生には、正確な将来予想をするなんて不可能だった。
学生の「大企業志向」は、不景気になるほど強くなる。しかし学生ごときに未来なんて見通せない(それができるならトレーダーになったほうがいい)。現在の大企業が、この先もずっと繁栄しつづけるとは限らない。ある日、突然、大事故を起こして全国民からバッシングを受けるかもしれない。歴代の社長が隠し続けていた粉飾決算が明るみに出て、上場廃止の憂き目を見るかもしれない。
将来なんて誰にも分からない。会社と命運をともにするなんてリスクが高すぎる。



――そうは言っても、会社に所属したほうがいいんじゃないの?
――フリーで仕事をすると低収入に苦しむんじゃないの?
学生のころの私はそんな勘違いをしていた。収入はその人自身のがんばり次第であり、「会社か・フリーか」なんてまるで見当違いな論点だ。
2つ目の例を紹介しよう:知人のクリエイターの場合だ
彼は20代前半の才能豊かな人で、ぐんぐんと活躍の場を広げている。が、誰もが知っているほど有名かといえばそうでもなく、テレビ等への露出もまだほとんどない。業界内では注目されているけれど一般的な知名度はまだまだこれからの、まさに「知る人ぞ知る」存在だ。
彼の収入の具体的な額を私は知らない。しかしヒントとして、彼は山手線の内側で2LDKのマンションを借りて一人暮らしをしている。私の知人には東大・京大・一ツ橋を卒業した名だたる企業の社員がいるけれど、私たちの年代でそんなカネの使い方をできる人はいない。どんな有名大を出たスーパーエリートだって、出世しなければ小間使いのような給料でこき使われる。
これが「モノを生み出せる人」と「雇われる人」との差だ。業界を知らない人に彼の名前を出しても、今はまだ「誰それ?」と一笑にふされるだろう。しかし収入は、すでに有名企業の若手社員よりもはるかに多い。
というか、そもそも「収入」ってのはその人が生み出した「新たな価値」の対価だ。「いい会社」に入れば自動的に「いい収入」がもらえるだなんて勘違いもいいところ。会社に勤めていようがフリーだろうが「価値」を生み出せない人は収入を得られなくて当然だ。平均年収で会社選びをする学生がいるけれど、あれって「価値を生み出す」のを放棄した態度だよなーって思う。その平均年収を作ったのは現職の社員たちであって、学生ではない。他人のチカラで自分の収入を得ようとするなんてズルいよね。
いまは何の価値も生み出せない学生でも、会社勤めをしているうちにチカラをたくわえて、世の中から必要とされる人になれるかもしれない。キャリアアップのために「会社を利用してやる」ぐらいのつもりで働いている人は多い。
そして、あなたが「新しい価値」を生み出せるようになったら――
その価値を(会社なんかに還元せず)独り占めしちゃってもいいんじゃない?



現在の学校教育の基本が発明されたのは、産業革命のころのイギリスだ。このブログではバカの一つ覚えのように何度も書いているけれど、学校教育の目的は粒ぞろいの労働者を育てることであり、一人でも生きていける人を――新しい価値を生み出せる人を育てることではない。学校で行われる職業訓練といえば工業技術者か専業主婦向けのものしかなく、いずれも社会的に自立して生きていくには心もとない。
他国の事情は知らないけれど、日本ではそうした人材の育成を「企業」が担ってきた。新卒一括採用で企業に入社してはじめて、実践的な職能を身につけられる。だからこそ就職活動の失敗が、その後の人生に大きく影を落とす。好きなこと・楽しいことをして生きていきたいのなら、学生のうちから業界に飛び込むべきだ。
ここで三つ目の例:友人のデジタルコンテンツ制作会社の話をしよう。
彼は大学在学中の20歳のときに、その業界でもっとも有名な企業の採用試験を受けた。詳しいことはしらないけれど、大卒資格のいらない試験だったのだろう。みごとに採用され、在学中からキャリアをスタートさせた。
日本の大学生は新卒一括採用に慣れきっており、大卒の見込みが立つまでは行動をおこしてはいけないと信じ込んでいる(人が多い)。「学歴不問」は、大手企業の建前だけではない。興味のある業界なら学生のうちから飛び込むべきだ。教育制度に職業訓練がない以上、自分から行動を起こすしかない。
そしてスタートは早いほうがいい。その友人は卒業資格を取得後、同じ業界の別会社に転職した。まだ二十代半ばでありながら、今ではチームの部下を取りまとめる立場に就いている。年収は同年代の倍ぐらい。キャリアが長い、というだけではない。能力があるからだ。学生時代から育ててきた能力が。




       ◆




「社会人」という言葉は、日本語に独特のものだという。英語には同じ意味の単語がない。当然だろう、学生と社会人との間に、本来、境界なんてないからだ。学生も専業主婦も老人も、みんなこの社会を構成するメンバーだ。日本企業の正社員だけが「社会」だなんて笑ってしまう。私は「社会人」という言葉が嫌いだ。
就職活動の企業説明会には「意識高い学生w」が現れる。ああいう学生の滑稽さは、「主体性のある人材」を企業から求められるがままに演じてしまうという、その主体性のなさにある。本当に主体的な人物なら、学生のうちから行動を起こし、「好きなこと・楽しいこと」で稼ぐ方法を模索している。企業説明会に流れ着いた時点で、すでに主体性のなさは明らかなのだ。かつての私がそうであったように。
学生と社会人との間に境界はなく、また本当に主体的な人物は企業説明会などには参加しない。また情報化の進行により、ホワイトカラーの仕事は急激に価値を失っている。100年もしないうちに「楽しくなければ仕事ではない」という時代がくる。ならば答えは決まっている。大学を卒業する前に――いいや就職活動なんて始める前に、自分の好きなことで稼ぐ道を探すべきだ。就職活動は、上手くいかなかったときの最後の手段だと考えておこう。「楽しいこと」だけをして生きていくことこそ、私たちの理想ではないか。稼いだ経験・自活した経験は、社会に噛みつく牙になる。



大人はこう言うだろう:楽しいことばかりじゃないよ、と。そんなことは百も承知だ。苦労はありふれているかも知れないが、だからといって強制されるものではない。若い世代が理想をかかげてなにが悪い。
若いあなたはこう言うだろう:それでも安定した収入が欲しいよ、と。しかし大企業に入ったって、収入なんて保証されない。現在はまだ、あなたの「好きなこと」では収入が不安定かもしれない。けれど、将来それを安定させることこそ、若いあなたの「仕事」ではないか。



未来は大企業や大人たちから与えられるものではない。あなたが作りあげるものだ。
若者にはカネも技能もないけれど、未来だけはあるのだから。





      ◆ ◆ ◆





と、まあ、いつもどおり飛ばし気味に書いてきたけれど、学生のうちから実践的に稼ごうとするのは就職活動のときの話のネタになるし、将来の副業もやりやすくなるのでオススメだよ、という丸いところに着地して今回は終わります。そのまま本業にしちゃってもいいしね!




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http://d.hatena.ne.jp/mickmack/20080629







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