デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

【メモ】選挙の前に考えていること

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「選挙に行くべきか?」という設問に、私は「行くべきだ」と答える。
私は、文句だけ一丁前で行動しないやつが嫌いだ。居酒屋やWeb上では声がデカいくせに、何もしないやつが大嫌いだ。将来、この国がどうなるかは分からない。悪い方向にしか進まないかもしれない。もしも「ひどい時代」がきたとしたら、いまこの時に何もしなかった自分をたぶん私は許せない。
行かない人を糾弾するつもりはない。
自分のために、行く。
しかし「投票したい政治家がいない」という声も大きい。「票を入れたくなるような人がいない」という意見にもうなずける。政治の世界の人材不足は深刻だ。こんな状況で、私たちはどのような投票行動を取るべきだろう。
今回の記事では、まず「なぜ日本の政治は疲弊したのか」を考察する。選挙がこんなにも虚無的になったのはなぜだろう。続いて、「本来の政府のあり方」について考える。現状の問題はいったん脇に置いて、原則的・理想的な“政府”について考察する。さらに、それらを踏まえたうえで「選挙」に対してどのような態度で臨むべきかを考える。



■目次■
【イ】なぜ「政治」は疲弊し、「選挙」は形骸化するのか
【ロ】豊かな社会での政府の役割
【ハ】どのような投票行動を取るべきか





【イ】なぜ「政治」は疲弊し、「選挙」は形骸化するのか
「選挙」が力を失うのは、社会の構造的に避けようがない――と考えるようになった。社会が豊かになるにつれて、構造的に「政治」の力が弱くなり、選挙が虚無的になっていくのではないか、と。
個人主義的で自由な民主主義国家では、個々人の幸福追求がしばしば行政の方針とは相反する。独裁国家でもない限り、「お国のため」の行為が個々人の利害とぴったり一致することなどありえない。世の中が自由で豊かになるほど、「国」や「政府」は目の上のたんこぶになっていく。
また、充分に豊かになった社会では、「政治家になる」ことが世の中を変えるための最適解ではなくなる。50年前なら政治家を目指していたような優秀な人間が、政治の世界に見向きもしなくなる。世の中を変えたいなら、選挙に出馬するよりも何かプロダクトやサービスをリリースしたほうが早いし確実だ。充分に能力のある個人や企業にとって「国家」や「政府」が不要ならば、政治の力が弱くなって当然だろう。
一方、貧しい社会では、世の中を変えるには政治家を目指すのが近道だ。だからこそ、破竹の勢いで急成長している新興国では、のけぞるほど優秀な人材が政治家になる。インドネシアのユドヨノ大統領がいい例だろう。以前、「ユドヨノ大統領に比べて日本の政治家がボンクラすぎる」という内容の記事を書いたことがある。その記事に対しては「学歴で人の優秀さを判断するのか!」という批判を頂戴した (※たしかに最終学歴を強調しすぎたきらいがあり反省している)が、私が比較対象としているのは「どれほどのヒトやカネを動かした経験があるか」という部分まで含めた総合的な履歴だ。
日本は、豊かだ。
斜陽だとはいえ、個々人が自由と幸福を追求できる社会を作り上げてきた。もちろん、思い通りの生き方ができず、周囲のせいで人生を台無しにされる人がいまだにいるのは認めよう。けれど経済的に立ち遅れている他国に比べれば、ずっとゴールに近い場所にいる。全体の利益のために個人が犠牲にされることのない世の中を目指して、私たちは約70年を過ごしてきた。
日本が充分に豊かな先進国である以上、政治の世界から「優秀な人材」が遠のくのは必然だ。「国」や「政府」のために人生を捧げるよりも、自分自身のために命を使うほうが魅力的だからだ。個人として世界に向き合い、挑戦しようとするはずだからだ。あなたが世界を変えられるほど優秀な能力を持つ人材だったとして、「国」と「世界」のどちらのために生きようとするか。「政府」と「人類文明」のどちらがより大切なものに見えるか。より大きなモノへと力を向けようとするはずだ。



何度でも繰り返そう:
「全体の利益追求」よりも、個々人の幸福追求のほうが大切だ。
ここ数百年にわたり、私たち人類はそういう世界を目指してきた。安楽な不自由よりも、自由という苦しみを私は選ぶ。なぜなら、その安楽は心を麻痺させているだけだからだ。魂が流血している痛みを、モルヒネで一時的に忘れているだけだからだ。
魂に血の通っていない人間には、関係の無い話かもしれないが。






【ロ】豊かな社会での政府の役割
「個人の幸福追求」がいちばん大切だ、という立場を取ると、「政府」に期待される役割は3つだけになる。
1つは国際犯罪を含む暴力の抑止と取り締り。
2つめは市場の失敗を防ぐための最低限の規制の整備。
3つ目は富の再分配によるいきすぎた格差の是正。
この3つの役割を果たしていれば充分で、それ以上のことをする必要はない。



1つ目は、まあ警察は必要だよね、国防も考えないとダメだよね、という話だ。
民間の警備会社だけでは「儲けにならない犯罪」は放置されてしまう。むしろ世の中の治安が悪化したほうが、民間の警備会社にとってはトクになる。治安維持は、やはり利潤追求ではなく献身的な組織によって運営されないとダメだ。この分野では、おそらく市場がうまく機能しない。
2つめは、公害・環境破壊や独占はきちんと規制しないとダメだよね、という話だ。
規制を緩和するかどうかという話題になりがちだけど、まずは「整理」をしたほうがいいと私は思っている。現在の国家はどこも規制法案そのものが複雑になりすぎて、法律の運営側さえも把握しきれていない始末だ。あらゆる規制をシンプルで判りやすくしたほうがいい。
3つ目の富の再分配、これも市場の機能だけではうまくいかない分野だ。
世の中の治安を維持するには必要不可欠だし、失敗しても食いっぱぐれない社会は個々人の挑戦を可能にする。安全面と幸福追求の両面で、富の再分配は「個人」の利益になる。
貧困は犯罪を生むという言葉があるけれど、本当は格差が犯罪を生むのだ。なぜなら「貧困」の度合いは、時代や地域が違えば変わるからだ。かつては栄養失調が貧困の象徴だったが、現在の先進国では貧困層のほうが肥満率が高い。治安を悪化させるのは絶対的な貧困ではなく、相対的な貧困:つまり格差だ。
だから私は、いきすぎた格差はやはり是正するべきだと考えるし、格差拡大が避けられない事態だとしても、できるかぎり軟着陸できるように手を尽くすべきだと考えている。



ここまでで、政府が「何をすべきか」を語った。
1.犯罪を防ぐ
2.市場の失敗を防ぐ
3.富の再分配を行う
――問題は、「何をすべきではないか」だ。以上の3つに当てはまらないすべてのことだが、具体的にはどんなものがあるだろう。



たとえば大型の公共事業があげられる。
必要ない道路、空港、建物は作らないでくださいってことになる。それらが本当に必要ならば、必要としている人たちで作っている。民間の力で建設されているはずだ。100年前ならいざしらず、いま「国を挙げて」作らなくちゃいけないモノなど残っていない。腐敗の温床になるだけで、百害あって一利なしだ。
※なお、このブログでは原子カ発電に対して懐疑的な記事をしばしば書いているが、これは私が国策的な事業すべてに懐疑的だからだ。原子カだけが特別ではない。
※また、最近では「原子カ発電は無くしていったほうが良さそうだけど、放射脳な人はダメ」という意見を頻繁に目にする。しかし「敵の敵は友」という言葉から学ぶことは多いだろう。
※世の中でいちばん強いのは、銃でもミサイルでもなく、数のちからだ。武器は相手の数を減らせるからこそ強いのだ。人間社会に、数より強いモノはない。ゆえに「敵の敵は友」なのだ。
※電カ産業が費用逓減的で、市場に任せれば自然と独占的・寡占的になりがちなのは認めよう。けれど、積極的に独占を許すのと、少しでも競争の余地を残そうとするのでは、雲泥の差がある。電気料金が高くなったとしても、消費電カの少ない製品が作られるようになるだけだ。
※余談ここまで。



また「富の再分配」に逆行するようなコトも、政府はすべきではない。
具体的には、貧乏人からカネを集めて富裕者にカネを渡すような政策をやってはいけない。また、貧乏人のほうが負担が重くなるような税制を行ってはいけない。
金持ちに対する年金や、消費税などがこれにあたる。
現在の年金制度は、“平均して貧乏”な若い世代からカネを集めて、“平均して金持ち”な老年世代にカネを渡すという形になってしまっている。もちろんこれは“平均”や“傾向”の話で、“貧乏な老人”だって珍しくない。しかし、年金なしでも生活できるような金持ちの老人に対してカネを渡すことに正義はあるのだろうか。“金持ちがカネを受け取る”という構造を放置したまま、困窮する若年世代からカネを巻き上げることを正当化できるのだろうか。
消費税の“逆進性”についてはあまりにも有名なので、ここで詳述するまでもないだろう。低所得な人ほど生活が苦しくなり、高所得な人ほど負担が軽くなる:消費税の“逆進性”と呼ばれる現象だ。消費税は“平等”な税制かも知れないが、“公平”な制度か?という点には疑問が残る。



さらに、犯罪を助長するようなことを政治に関わる人間がやってはいけない。
これには国際犯罪も含まれる。他国をいたずらに挑発するような言動を繰り返し、その国の過激派を犯罪行為に走らせるなど言語道断だ。




       ◆




不必要な公共事業、再分配に逆行するような政策、犯罪を助長するようなこと――。これらは「政府がすべきではないこと」の代表例だろう。
いずれにせよ、なによりも大切なのは個々人の幸福追求であり、そのためには「政府」はできるだけ影響力が小さいほうがいい、3つの最低限の機能だけを果たしてくれれば、それ以外のことはしなくていい。これが私の立ち位置だ。
以上のことはあくまでも原則論であり、理想論だ。
実現可能性を考えると気が遠くなる。






【ハ】どのような投票行動を取るべきか
さて、ここまで理想について考えてきたが、この理想を実現できるような人材がいまの日本の政治の世界にはいない。実現できるような政党はない。そもそも「理想の実現」を政治家に求めること自体が間違いだ。私たちがこの社会の構成員である以上、私たち一人ひとりが「理想の実現」に向けて行動しなければならない。
そして「選挙」は、数多ある行動のうちの1つにすぎない。
しかし、とりたてて能力も影響力もない私のような一般人にとって、かなり大きなウェイトを占める“行動”だ。「選挙なんて無意味だ」と冷笑を浮かべることができるのは、選挙など介さずとも世の中を変えられるほどの力を持った人だけだ。
いま行動しなければ、将来、なにか“ひどい事態”が起きたときに後悔することになる。賢く明晰な人間ほど、いまの「選挙」の虚しさや無意味さに気づいている。しかし、いつの時代も世の中を変えてきたのは、行動しない賢人ではなく、行動するバカだ。



「入れたい政党がないから棄権する」というのは早計で、自分の意見とぴったり一致する政策を掲げた政党なんて「あり得ない」という前提に立たなければダメだろう。人間の思考が一人ひとり違う以上、あなたの主張を100%代弁してくれる相手などありえない。政治を丸投げできる相手を探すのではなく、選挙の結果、各勢力の議席数がどれくらいのバランスで落ち着くのがいいかを考えるべきだ。
たとえば、人気取りのために極端な政策を掲げる政党だけ議席を埋め尽くすような事態は避けたいのなら、そのカウンターになる政党に(自分の信条とは一致しなくても)票を投じる……という選択は「あり」だ。棄権よりずっといいし、白票よりも効果的だろう。



より大雑把な言い方をすれば、テレビや新聞の主張とは逆の選択をすればいいということになる。
最近ではテレビが言うとおりの選挙結果にしかならない。そのため「どうせ勝つのは○○でしょ……」みたいなムードが蔓延しがちだ。この傾向が加速すれば、議席は一つの勢力で埋め尽くされ、政策は先鋭化・強硬化していくだろう。個人の幸福追求という立場からすれば、憂慮すべき事態だ。


現代日本の「テレビ政治」
http://d.hatena.ne.jp/dongfang99/20120304


技術やサービス、コンテンツは確実に「良いほう」に向かっているのに、政治は悪い方向に突き進んでいる。これはつまり、技術やサービス、コンテンツの恩恵を受けられない人たちが割りを食うということだ。
個人の尊重される自由で豊かな社会を、私たち人類は数百年かけて作ってきた。安楽な不自由よりも、自由という苦しみを私たちは選んできた。なぜなら、その安楽は心を麻痺させているだけだからだ。
理想まであと一歩というところで、いまの日本は足踏みしている。
時計の針を、逆戻りさせてはならない。







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