デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

しろうとは歴史学をどう見るか

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中高生のころから歴史が苦手で、成績は低空飛行を続けていた。とにかく興味を持てなかった。最近になって、ようやくその理由が分かってきた。
中学・高校での歴史は「誰が」「何をしたか」を重視しすぎなのだ。
ある生物集団の生態を調べる場合、どの個体が群れのリーダーであるかはあまり重要ではない。むしろ分析対象となるのは環境と個体群との相互作用だ。ヒトの研究も、そうあるべきではないか。
だから私の場合、人類史や、それに関わる経済学的な視点を持ったことで、ようやく歴史に興味を持つことができた。生態学とは、生物と環境との経済を研究する学問だ。経済学的な視点を得たことで、ようやく歴史研究を科学の一端だと認識できるようになったのだ。
だから私は、どこの国のどの政治家が何をしたとか、何を言ったとか、あまり興味がない。その人がいなかったとしても、似たような誰かが似たようなことを発言していたのではないか……と思うからだ。もちろん、政治家の思いがけない一言が予想外の解釈をされて、歴史が大きく揺れてしまうこともあるだろう。バタフライ効果というやつだ。しかし、乳脂肪のコロイド粒子の動きが予測できないからといって、一度混ざったコーヒーとミルクがひとりでに分離したりしない。生物の群衆も同じで、ミクロ的な揺らぎよりもマクロな法則性を見つけだすことが重要だ。そしてヒトの社会も、生物の群衆である。
だから私は、たとえばテレビが発明されたとかボーイング747が就航したとか、あるいはプラザ合意で日本円が暴騰したとかインターネットが普及したとか、そういう社会的・環境的な変化に興味がわく。そういう要素を調べていたほうが面白い。
学生時代の歴史の授業でも、そういう大局的な視点から教えてくれればよかったのに……と思っていた。




そう思っていた矢先に、こんな記事を見つけた。


初心者のための歴史学講座1 〜先行研究編〜
http://d.hatena.ne.jp/hazama-hazama-hazama/20120308/1331203206
※全四回+α


で、いきなり考えを改めさせられた。
たぶん歴史学のプロは、科学研究でいうところの「実験屋」なのだろう。
大雑把にいって、科学研究者は2つのタイプに分類できる。「理論屋」と「実験屋」だ。とくに物理では、この分業体制がはっきりしていると思う。アインシュタインは典型的な理論屋だった。テーブルのうえで理屈をこねくり回しながら、すばらしい業績を残した。
しかし、いかにアインシュタインの理論といえど、実験で実証されるまでは「妄想」にすぎない。科学とは、突き詰めれば「観察結果からモノを考える」学問だ。再現性のある実験を行い、その観察結果から何が言えるかを探究している。したがって、実験の精確さや観察の正しさが、なによりも大事なのだ。
しかし、たとえば古代生物の研究のように、再現性のある実験ができない場合もある。その場合は化石資料を比較検討しながら、当時の様子を論理的に再現しようとする。もちろん化石で分からない部分は想像に頼るしかない。イグアノドンは前足にするどい爪を持っているが、発見された当時はこの爪は歯の化石だと解釈された。するどい牙を持つ肉食恐竜だと誤解されたのだ。のちの研究でこの解釈が誤りだとわかり、イグアノドンは草食恐竜だったと判明している。今後、この「史実」が覆されることはないだろう。
科学は、観測にもとづく学問だ。
そして観測の正しさを担保するために「実験屋」がいる。信じられないかもしれないが、科学実験の精度は実験する人によって変わる。手先の器用さや手際の良し悪しが、実験の結果に大きく影響してしまうのだ。だから実験に特化した人材が必要とされる。
そして実験をできない分野では、正確な史料を突き合わせることで、実験を代替する。過去の出来事をつまびらかにしていく。捏造された史料なんてもってのほかだ。ときには新しい史料の発見によって、過去の解釈が覆されることもある。



歴史は、しばしば施政者や民衆の「好み」によって、ゆがんだ解釈がなされてしまう。私は牧歌的に「出来事の暗記よりも、そこから浮かび上がる法則性のほうが大事」だと思っていた。しかし、現実には「出来事」そのものが歪曲されやすい。科学でいえば、実験結果や化石史料が捏造されるようなものだ。間違った観察結果からは、間違ったことしか言えない。だからこそ、「実験屋」に類する存在として歴史学のプロが必要なのだろう。
そういった歴史学への入り口として、中学・高校での「歴史」の授業があるとすれば、あれはあれでよかったのかも知れない。



世の中には「絶対に正しい」ものなど存在しない。
ハルキゲニアの「頭部」がどちら側だったのかはいまだに不明だし、新しい動物門だと思われていたアノマロカリスは、なんのことはない、カニや昆虫と同じ節足動物だと明らかになった。
しかし「絶対に正しい」ものがないからと言って、どんなものでも否定できるわけではない。真実は確率的だ。一億年前の地球で恐竜が生きていた可能性は、きわめて高い。「恐竜などいなかった」と主張するには相応の証拠集めが必要で、たやすいことではない。
「史実」とは、一般人には否定できないほど高い可能性で「正しい」できごとのことをいう。史実の「確かさ」を高め、探究してきた人たちの研究成果に、私は敬意を払いたい。




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