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「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

あなたはどんな知性をお持ちですか/複雑な現実世界との向きあい方

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思うに、ヒトの知性には二つの方向性がある。
一つは「単純化の知性」だ。モノゴトを単純化すると、複雑なままでは見えなかった秘密が浮かび上がってくる。現代科学は、単純化と理論化を繰り返しながら発展してきた。単純化の知性は、ヒトの知性の本道だといえよう。
もう一つは「複雑さの知性」だ。私たちが生きるこの世界は極めて複雑だ。それを省略・簡素化せずに、複雑なまま理解する。そういう知性もある。「画像記憶」がいい例だ。たとえばテーブルの上に並んだ料理を「料理名」として認識・理解するのが単純化の知性だとしたら、並んだ料理をまるで写真のように画像・映像として脳髄に焼き付けるのが「複雑さの知性」だといえる。
並んだ料理ならば単なる「記憶」にすぎないが、たとえば経済構造だとか国際関係だとか、そういう抽象的なものに対して「あるがまま」に理解できる人たちがいる。記憶のみならず「思考」までもが画像的・映像的な人たちだ。しかし、そういう人たちが自分の理解を、うまく言語化できるとは限らない。自分の見ている世界を、うまく伝えられるとは限らない。他人の目には、理屈の通じない感情的な人間だと映るかもしれない。
しかし他の生き物と比較すれば明らかなように、理論化できることだけが知性ではない。ヒトの感情は立派な知性だ(植物や昆虫と比べてほしい!)。したがって「感情的」と評される人々のなかには、「複雑さの知性」を体得した人が一定数含まれているはずなのだ。
そんなことを、ちきりんさんの記事を読んで思った。



【アゴラ】今、必要な「壊す人」と「考える人」の組み合わせ
http://agora-web.jp/archives/1428246.html



ちきりんさんは典型的な「単純化の知性」を持っていらっしゃる。しかも天才的だ。どんなに複雑で解りづらい現象でも、ちきりんさんの手にかかれば明快ですっきりとしたものに生まれ変わる。まるで霧が晴れるように、問題の解法が頭に浮かんでくるのだ。これこそ知性の王道だ。そういう「わかったぞ!」という瞬間が心地いいから、私たちはちきりんさんの記事を読まずにはいられない。私は時々ちきりんさんへの反論を書くけれど、これは好きだからこそ。ライターとして純粋に尊敬しているし、ファンの一人としてこれからのますますのご活躍を楽しみにしている。
前掲の記事で、ちきりんさんは世の中の人間を6つの類型に分類している。

(1) 創る人
(2) 回す人
(3) 管理する人
(4) 考える人
(5) 破壊する人
(6) 何もしない人


日本ではこのうち「回す人・管理する人」が幅を利かせすぎている、考える人と破壊する人がもっと必要だ――というのが、この記事の論旨だった。
日本人口は1億3000万人だけど、それをたった6つの類型に押し込めることで、読者を「解った気」にさせてくれるのだ。たとえば血液型占いへの典型的な批判は「個性豊かなヒトという生き物をたった四つの類型には当てはめられない」というものだ。しかし、血液型占いは楽しいし、会話の火口としてあまりにも便利。だからこそ、たとえ現実に則していなくても血液型占いの人気はなくならない。
単純なものは楽しい。
これが「単純化の知性」の典型である。



しかし現実の世界は複雑を極める。
朝のNHKで、渋谷のスクランブル交差点が映される。人ごみが、まるで流砂のようにうごめいている。いったい何人いるのだろう。あの人たち一人ひとりに、それぞれの人生があり、それぞれの悩みがある。一人ずつ異なった生活を持ち、よろこびがあり、哀しみがあり――物語がある。それを個性と呼ぶ。現実の世界は想像を絶するほど複雑で、多様性に満ちている。
「創る人」「回す人」「管理する人」……そんなふうに人をラベル付けするのは、はたして妥当なのだろうか。ラベル付けされる側の人間たちは、幸せを感じられるのだろうか。
本当のことを話そう。
ちきりんさんの言うとおり、ヒトを6つの類型に分類することは不可能ではない。が、それらは属人的なものではない。創造だけのヒトはいないし、破壊だけのヒトもいない。ほとんどの人は、自分の中にそういう要素を少しずつ持っているのだ。創造性30%、作業能力45%、管理能力18%で、その他もろもろ7%みたいな感じ。
で、このパラメーターは人によって違う。
もちろん、あるパラメーターが突出して高い人もいる。スポーツ選手が好例だろう。ダルビッシュさんは野球の能力が群を抜いているから、4億円を受け取ることができた。「野球のプレイ」という社会的役割に特化できる人だからだ。
プロスポーツは社会から認められる能力だ。そういう能力ならまだいいけれど、サヴァン症候群のように病気として扱われてしまう場合もある。ヒトは普通、いろいろなパラメーターを複合的に持ちながら生きている。プロ野球選手やサヴァン症はレアケースでしかない。自分のなかの特定のパラメーターだけを伸ばすのは、ほとんどの人にとっては不自然な行為なのだ。



経済学的には、分業が進めば進むほど私たちは豊かになる。らしい。
だけど、その「豊かさ」は、心の内側まで一般化できるのだろうか。専門性を伸ばしなさいと有識者たちは言う。グローバル化の進む時代だからこそ、専門性のない人材は生きていけなくなると脅迫する。たしかに、その言葉には一片の真実があるのだろう。しかし「専門家しか生き残れない時代」を認識するのと、その時代を「正しい」と見なすのとには、天と地ほどにも開きがある。
そんな時代は「いい時代」なのだろうか。そこに正義はあるのか。
そもそも、分業が進んだとしても私たちが豊かになるとは限らない。
経済学には「効用」という言葉がある。
ミクロ経済学の入口で必ず学ぶ概念だ。たとえば年収300万円のヒトがいるとして、何円をゲームソフトに使い、何円を旅行に使うだろう。年収300万円という制限のなかで、いちばん楽しい割合で予算を割り振るはずだ。そして、「いちばん楽しい割合」はヒトによって違う。ヒトの行動には、必ずその人の「好み」が反映される。
これを経済学の用語では、「ヒトは『効用』を最大化するように行動する」と言う。ヒトは必ずしも収入を最大化するようには行動しない。効用最大化のために行動するのだ。「心の豊かさ」と言うと怪しげなフレーズだけど、経済学のいちばん入口の部分では人間の内面こそが重要視されている。ヒトは金銭的な豊かさのために生きているのではなく、効用のため――精神的な豊かさのために生きているのだ。
専業化・分業化が進めば、たしかに人材の最適化と所得の最大化は果たせるだろう。けれど所得が最大になったとしても、心が泣いていたら意味がない。
本当に誰もが専門家になれるだなんて、私には思えない。社会的な意味ではなく、内面的な意味で困難だからだ。勉強ができないとか、資格が取れないとか、そんな理由で専門家になれないのではない。たとえば野球選手のように、社会に認められた特技を持つヒトは「専門家」とよばれ、そうでないヒトは病気扱いをされる。希少例なのだ。自分のなかの特定のパラメーターだけを伸ばすのは、多くの人にとってhuman natureにそぐわない。だからこそ、専業化と分業化には限界がある。凡百の一般人がおしなべて専門性を身につけるなんて不可能だ。



たとえば創造性30%、作業能力45%、管理能力18%の人がいるとして、「あなたは作業能力が高いから“回す仕事”の専門家になりなさい」と言うのは残酷だ。その人が生まれつき持っている能力の半分も活かされないからだ。そのパラメーターに合わせて仕事を割り振られたほうが、ずっと幸せだと私は思う。たとえば創造的な仕事30%、回す仕事45%、管理の仕事18%――という具合に。
完璧なヒトはいない。
創造性を30%持っている人は、25%持っている人、45%持っている人、そういう人たちとチカラを合わせて、100%にすればいい。作業能力も、管理能力も同じだ。不足部分を補完し合うことで、私たちは一人では為しえないパフォーマンスを発揮できる。人材活用とは、人材をかしているということだ。最近では「用いる」という部分が強調されすぎて、「活かす」ことが軽んじられてはいないだろうか。
もちろん人間はそんなに単純ではない。50%の能力を持つヒトが二人揃ったからといって、100%の仕事ができるとは限らない。10%、5%のパフォーマンスになってしまうこともある。そういう「ダメな組み合わせ」を避けて、一人ひとりが最高のパフォーマンスを発揮できるチームを作ること:それが人を「活かす」ということだし、本当の人材活用であるはずだ。
いいチームと巡り会うことで、私たちは完璧な存在になれる。専門家になる必要はないし、苦手な能力を「無い物ねだり」する必要もない。自分のパラメータを正しく理解して、それを活かせる仲間を探すべきだ。あなたは、あなたのままでいい。
完璧なヒトなんて、いないのだ。
私は「知性」というものを二つに大別した。単純化の知性と、複雑さの知性だ。しかし、人は誰でもこの両方を持っている。単純化した思考しかできない人はいないし、複雑さの思考だけを持っている人もいない。ただ、そのパーセンテージが違うだけなのだ。
人間は多面的である。





       ◆





前述の記事で、ちきりんさんはこう言っている。

こうなると元々少ない“壊す人”や“考える人”をリーダーシップポジションから排除してしまえ!という力が働き、日本は“回す人”と“管理する人”ばかりが幅をきかせる社会になってしまいます。そしてヒドイ制度疲労のまま、まったく変われなくなってしまうのです。
今必要なことは「社会には、“創ったり、回したり、管理したり、壊したり、考えたりする”様々な能力をもつ人が必要」だと認識することです。


社会の中にそういう人たちがバランスよく必要だと、ちきりんさんは言う。
私たちの内面にそういう要素をバランスよく取り入れるのが必要だと、私は思う。
人には得意・不得意があるし、ゼネラリストになる必要はない。けれど一つのパラメーターだけしか持たない人なんて空想の産物だ。だからこそ、ルーチンワークをしている人は「回す能力を偏重していないか」と自問すべきだし、クリエイターの人なら「管理する能力を軽んじていないだろうか」と自省すべきだ、よね?
世の中には、回すこと・管理することだけに長けた人がいる。あるいはクリエイターとは名ばかりで、破壊と考察だけに熱中している人もいる。某・元芥川賞選考委員とか。 そういう人たちと顔を合わせた時に、「あなたの考えは解ります」と言える人になりたい。



「あなたのことはよく知っています」
「だって私の中にも、あなたのような人がいますから」



そう言えるようになれば、世界の見え方はきっと変わる。
人間は多面的で、どこまでも多様だ。複雑なものを複雑なまま理解する能力がなければ人間については語れないし、そういう能力を伸ばそうと努力しない人に、語る資格はない。
理論化は知性の本道であり、あらゆる学問分野で「モデル化」は威力を発揮する。この世界を理解するのに単純化は欠かせない。が、だからといって世界が本当に単純になるわけではない。あなたがどんなに単純なモノの見方をしていようと、世界は複雑なまま存在しているのだ。
単純化されたフィクションの世界観を足がかりに、ホンモノの世界に目を向けたい。
私たちの人生は、作り話ではないのだから。








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