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映画『ドラクエ』を見る前に考えたこと

 この記事は映画『ドラゴンクエスト ユアストーリー』の視聴前に考えていることをまとめたものです。この映画のネタバレブログ(↓)を読んで、触発されて書きました。観劇後に、また感想を追記するかもしれません。

www.cinema2d.net

 なお記事の構成上、以下の映画の重大なネタバレを含みます。ご注意ください。

ドラゴンクエスト・ユアストーリー』

『シャッター・アイランド』マーティン・スコセッシ監督

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー押井守監督

時をかける少女細田守監督

『ヴィレッジ』M・ナイト・シャマラン監督

シックス・センスM・ナイト・シャマラン監督

ファイト・クラブデヴィッド・フィンチャー監督

 

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 


「今まで見せていた世界はすべて虚構でした」というオチの映画といえば、ディカプリオ主演の映画『シャッター・アイランド』や、M・ナイト・シャマラン監督の『ヴィレッジ』が思い浮かぶ。これらの作品では終盤、主人公の今まで見ていた世界が妄想あるいは虚構だったと示され、それが物語の解決に繋がる。

 細田守版『時をかける少女』も、このパターンの1つに入れてもいいかもしれない。主人公は物語内の時間軸を過去に戻るだけでなく、クライマックスでは映画の開始時まで時間を遡る。「今まで起きたできごとは映画の中のことだ」というメタフィクションを観客が受け入れなければ、あのオチは成立しない。

 これらは、いわゆる「夢オチ」映画だ。

 押井版『うる星やつら2』もたぶん当てはまるし、あるいは世界全体が夢ではないとしても『シックス・センス』や『ファイト・クラブ』のように「作中の重要な要素が夢・妄想」というパターンもある。『シックス・センス』では主人公自身が幽霊だったと明かされる。『ファイト・クラブ』では主人公が二重人格だと明かされ、相棒のブラッド・ピットは主人公のもう一つの人格だったことが示される。

「夢オチ」は物語作りの禁じ手とされがちだが、果敢に挑戦して成功を収めている作品も珍しくない。(『シャッター・アイランド』や『ヴィレッジ』には否定的な意見もよく見かけるけれど)シックス・センス』や『ファイト・クラブ』が傑作であることは多くの人が認めるところだろう。

 夢オチが禁じ手とされるのは、登場人物たちの葛藤がどうでもよくなってしまうからだ。ドラマとは葛藤である。葛藤の末に下した決断の1つひとつに、読者や観客は心を動かされる。しかし物語の舞台が夢なら、主人公がどんな決断を下そうと「どうでもいい」。

 明晰夢の中では、ヒトは普段とは違う決断を下すものだ。目の前の世界が夢ならば、ビルの上から飛び降りることに恐怖は感じない。たぶん飛べるからだ。銀行強盗にも躊躇しない。たぶん逮捕されないからだ。

 

 夢オチを成功させるために重要なのは「納得感」だ。

 まず「その要素が夢でなければ成り立たない」という物語の構造を作らなければならない。さらに、きちんと伏線を張って夢オチであることを予告しておかなければならない。しかも、その伏線に気づかれてはいけない。丁寧に物語を組み立てないと夢オチは失敗するのだ。

「物語の構造」と「伏線」の2つの側面から、夢オチを成功させる方法を考えてみよう。

 

 まずは「伏線」からだ。

 物語の納得感を増すために、伏線の重要性はいくら強調しても足りない。主人公がピンチに陥ったとき、タイミングよく助けとなる人物が登場したとする。普通ならば「ご都合展開」に見えてしまうところだが、伏線をきちんと張っておけばそれを回避できる。

 また、伏線はただ張るだけではダメで、きちんと回収する必要がある。読者や観客は、伏線を見落としているかもしれない。思い出せないかもしれない。回収する際には「この物語にはこんな伏線が張られていました」「お気づきでしたか?」と再提示してあげる必要があるのだ。

 たとえば『シックス・センス』や『ファイト・クラブ』なら、伏線はきちんと張られているが、観客の目には上手く隠されている。そしてオチのネタバラシのシーンで「こんな伏線を張っておきました」「まさか気づかなかったんですか?」と観客に再提示している。だからこそ私たちは「やられた!」という驚きを覚え、面白さを感じる。見事な手品を見せられたときと同様、上手く騙されることは人間にとって快感なのだ。

 持論だが、これは赤ん坊が「いないいないばあ」で喜ぶことと本質的に同じだろう。

 ヒトは本能的に「驚き」に快感を覚える。もちろんただ驚かせればいいというものではない。B級ホラー映画が突然デカい音を鳴らすことからも分かる通り、ただ驚くだけでは不快と恐怖に繋がる。私たちが快感を覚えるのは「後から考えれば予測可能だったはずの驚き」であり、「安心できる状況での驚き」だ。

シックス・センス』や『ファイト・クラブ』は、大人である私たちを驚かせるためにシャマラン監督やフィンチャー監督が作り上げた、手の込んだ「いないいないばあ」なのだ。

 

 続いて「物語の構造」について。

 脚本家ブレイク・スナイダーは、物語が上手く「転がって」いるかどうかが面白さを分けると論じている。脚本をチェックするときは「転がり」を必ず見ろと繰り返し述べている。物語が転がるとは、要するに登場人物たちの置かれた状況が「不安定になり続ける」ということだ……と私は理解している。

 たとえば「主人公が壁に守られた街で母親や幼馴染と日常生活を送る」という状況は、安定である。物語は転がらない。ところがある日、巨人によって壁を破られたら? 母親が巨人に殺されたら? 安定は失われ、不安定な状況に陥る。安定を取り戻すために、主人公は何らかの行動をしなければならない

 映画のような娯楽作品の場合、物語はざっくりと言えば「安定した状況から不安定な状況に陥り、再び安定した状況を手に入れる」という大きな流れを持っている。「安定→不安定→安定」という構造があるのだ。

 よくできた物語の場合、序盤の安定は「望ましくない安定」になっている。経済学でいう縮小均衡のように、主人公の日常は苦痛をともなう環境で安定してしまっている。

 たとえば『バック・トゥ・ザ・フューチャー』では、冒頭のマーティは「冴えない日常を送る」という状況で安定している。ところが親友のドクがタイムマシンを発明したことで、彼は日常から離れざるをえなくなり、不安定な状況に放り込まれる。

 物語が「転がる」とは、「主人公を1つの不安定な状況から、別の不安定な状況へと次々に放り込んでいく」ということを意味する。

 不安定な状況とは、言い換えれば主人公が何らかの行動を起こさなければならない状況だ。不安定な状況を脱するために、主人公は何かをする。その結果として、別の不安定な状況に陥る。主人公はさらに何かしなければならない――。こうやって「行動せざるをえない状況」が連続しているとき、その物語は「転がって」いる。

 主人公の目指すものは「よりよい安定」だ。自己を実現し、同じ毎日を繰り返したくなるような平和な日常を手に入れることだ。それが簡単には叶わないから、物語は転がる。

 話を「夢オチ」に戻そう。

 よくできた夢オチの物語は、主人公が安定した状況に戻るための最後の鍵として「夢だと明かされるシーン」が組み込まれている。

ファイトクラブ』『シックスセンス』『シャッター・アイランド』等々のいずれでも、主人公は「今まで見たものが虚構や妄想だ」と認めなければ、いつまでも不安定な状況から抜け出せない。

 夢オチは、ただ伏線を張ればいいというものではない。「安定→不安定→安定」という大きな流れの中で、安定を手に入れるための最後の鍵が「夢」でなければならない。映画を見ているとき、観客は主人公に感情移入し、主人公と同じように「安定」を切望するものだ。「夢だった」と認めることで安定を手に入れられるなら、喜んでそれを認めるし、満足感を覚えるだろう。

 それが「夢オチ」の納得感に繋がるのだ。

 

 最後に「VR」というテーマについても考えておこう。

「今まで見てきた世界はVRでした!」というオチは、じつはさほど新鮮ではない。現実世界では2016年に「VR元年」が訪れ、ようやく日常の一端になった。しかしフィクションの世界ではずっと昔から、人間とVRがどのようにかかわっていくかが考察されてきた。いわゆる「手垢のついたネタ」だと言っていい。

 アーサー・C・クラークの『都市と星(1956年)』の冒頭には、主人公たちがVRゲームで遊ぶシーンがある。SFに詳しい人なら、もっと古い時代の「元ネタ」を知っているかもしれない。(※はてなブックマークにはSFフリークがたくさんいるので、ご教示いただければ感謝甚大である)。個人的にはドラマ『スペースキッズ 木星脱出作戦(1994年)』がVRゲームネタの初体験だった。

 岡嶋二人クラインの壺(1989年)』では、すでに「VRと現実との境界が分からなくなる」 という世界が描かれている。映画『マトリックス(1999年)』はその後のハリウッド映画を変え、VRをテーマにしたフィクションを変えてしまった。「人間がVRとどう向き合うか」は、SFでは古くからあるテーマなのだ。

 21世紀に入ってからは「人間がVRとどう向き合うか」を真正面から扱う作品は目立たなくなったと感じる。VRも現実も個人にとっては等価だという点で、議論に結論が出てしまったからだろう。『.hack(2002年)』や『ソードアート・オンライン(2009年刊行)』では「ゲームの世界は現実と変わらない」ことを前提に物語が組み立てられている。

 したがって、「ゲームの世界も俺にとっては現実以上に価値がある!」という主張は、フィクション作品のテーマとしては周回遅れと言っていいだろう。

 そんなこと、今の子供たちは教わらなくても知っている。

 公園の砂場も『スプラトゥーン』のマップも、彼らにとっては同じ「級友と遊ぶ場所」であり、何の違いもない。塾や習い事で忙しい昨今の小学生は、放課後にオンライン上で待ち合わせすることも珍しくない。「じゃあ今日は19時に集合してマリカーしようぜ!」というわけだ。

 ユヴァル・ノア・ハラリは『サピエンス全史』の中で、人類の文明は虚構の上に組み上げられていると論じている。国家とは本質的に虚構である。通貨とは本質的に虚構である。宗教も交通ルールも、日常のあらゆるところに「人間の創造した法則」がある。宇宙の自然な法則ではない、虚構がある。

 結局のところ「虚構の中で生活する」というのはヒトの本質なのだ。

 VRやゲームは、それを技術的に拡張したにすぎない。「ゲームの世界が現実と同等以上に価値を持つ」というのは、議論の必要もないほど当たり前のことなのだ。現在のように情報技術が身近になった時代なら、なおさらだ。

 

 まとめよう。

「夢オチ」の映画を見る場合のチェックポイントは、以下の3つ。

 第一に、伏線がきちんと張られおり、丁寧に回収されているかどうか。上質の手品を見せられたときのような気持ちいい「騙された!」という感覚を味わえるかどうかだ。

 第二に、物語構造のなかで「夢オチ」が上手く機能しているかどうか。「夢だった」と認めることが、主人公が「安定」に戻るための最後の鍵になっているかどうかだ。

 これは第一の条件ともかかわる。ヒトは安心できる状況でなければ、驚きに快感を覚えられない。むしろ不安や恐怖、不快感を覚えてしまう。「夢だと認めれば安定が手に入る」と分かっているからこそ、夢オチは「安心できる驚き」になり、快感をもたらすのだ。

 第三に、「夢」の見せ方に斬新さはあるかどうか。手垢のついたネタだとしても、なんらかの新鮮な考察が含まれているかどうかだ。

「今までの世界はVRでした!」とただ提示するだけでは、現代人は驚かない。SFを味わい尽くして舌が肥えてしまった大人だけでなく、子供の観客も驚かないだろう。私たちの生きる現代社会は、数十年前のSF世界そのものだ。デジタルネイティブの子供たちにとって、仮想現実はすでに物珍しいものではない。

「ゲームとの向き合い方」という論点は、もはや物語のテーマにしにくい。私たちはグラブルの古戦場のスケジュールに縛られ、放課後にFF14スプラトゥーンのロビーで待ち合わせをする時代に生きている。

 

 個人的には、私たちはそろそろ現実と向き合うときではないかと思う。

「ゲームが日常の一部になり、VRバ美肉することも珍しくなくなった時代に、私たちはどう現実と向き合うのか?」

 こちらのほうが、よほど現代的な物語のテーマになりうるのではないだろうか。