こんなツイートが流れてきました。
本日のMVP 老害「アイスコーヒーのホットで!」 「アイスコーヒーでよろしいですか?」 老害「ホットでね!!」 どちらを出すのか究極の選択・・・ 結果、ホットコーヒー出したらキレられた。
— シキくん@目指せBMI22 (@shiki198765) 2014, 9月 1
【以下引用】
本日のMVP
老害「アイスコーヒーのホットで!」
「アイスコーヒーでよろしいですか?」
老害「ホットでね!!」どちらを出すのか究極の選択・・・
結果、ホットコーヒー出したらキレられた。
ここでは客側が悪いという文脈で語られています。
しかし、本当にそうでしょうか。
たしかに何かを注文するときはできるだけ正しく伝えるべきですし、それができないと「イヤな客」のレッテルを貼られてしまいます。自分自身ができるだけ「いい客」でいようと心掛けることに、異論はありません。
しかし、客側にもそれを求めるべきか。
もっと言えば、求める意味があるかどうか。
この点は疑問です。
なぜなら商売の目的は利益を出すことであり、売上を伸ばすことだからです。友達作りが目的なら、「イヤなやつ」は排除してもいいでしょう。しかし売上の最大化を目指すなら、どんな客からもカネを絞り取らなくては 喜んでもらわなければなりません。
したがって、この場合は「温かいコーヒーですか? それとも冷たいコーヒーですか?」と言葉を変えて、客の要求を確認すべきだったと思います。
飲み物だからいいようなものの、普通は「客の発注と違うものを納品する」と色々と揉めます。悪くすると訴訟にもなりかねません。たとえば大企業の会計用ソフトウェアは、オーダーメードの場合も珍しくなく、ものによっては何千万円もします。そんなソフトウェアを、客の発注した要件を満たさずに納品してしまったら……? どれほど大変なことになるか想像に難くないでしょう。
相手の意図を確認するのは、コミュニケーションの基本です。この世界には言葉の通じにくい、あなたにとって「イヤなやつ」がたくさんいます。しかし、そういうやつらとも共存しなければいけない。私たちはそういう世界に生きています。
◆
このツイートによく似た状況を、私も経験したことがあります。
一度は中学生のころに東京で、もう一度はつい最近ホーチミンで、こういう経験をしました。
まず東京の話からしましょう。私が生まれて初めて、某緑の看板のカフェに入ったときのことです。メニュー表の読み方も注文の仕方も分からず、ひどく混乱したのを覚えています。しかも悪いことに、レジに立っていたのは(おそらく)その日がバイト初日のスタッフでした。
「すみません。このカラメルマキアートってやつをください」
「はい、サイズはいかがなさいますか」
「えーっと、大きめのやつで」
「トールとグランデがありますが……?」
「ええと、だから……。大きめのやつで……」
恥ずかしさのあまり顔は真っ赤になり、代わりに頭のなかは真っ白でした。やはりこんなオシャレな店は、私には早かったのではないか。私のようなイモ臭い中坊には、黄色い看板のドーナツ屋がお似合いだったのではないか。ああ、大人の階段を登ろうとして踏み外してしまった──。思春期に人は何度も「死にてえ」と思うものですが、あの時のことは「死にたかった度ランキング」の上位5位にランクインしています。
「大きめのやつで」
「トールかグランデか」
この禅問答を何往復かしたところで、先輩の店員が駆けつけて助けてくれました。
当時はまだ緑の看板のカフェが日本に上陸してから日が浅く、現在ほどバイト教育が洗練されていなかったのだと思います。「大きめのやつ」という注文はマニュアルに載っていないがために(もしくはあの店員がマニュアルを覚えていなかったために)、禅問答になってしまったのでしょう。
もう一つの経験は今年の1月、ベトナムのホーチミン・シティでのことです。
道路を埋め尽くすスクーターにひやひやしながら散歩して、サイゴン川のほとりにたどり着きました。川べりの小さなカフェに入って、瓶入りのコーラを買いました。カフェとは言っても、テラス席が大半を占めるスタンディングバーのようなお店です。10代後半と思しき店員たちは、みんな愛想のいい人ばかり。海外旅行で小さなお店に入ると、不愛想な接客にぶつかることも珍しくありません。ちょっと驚いたのを覚えています。
気温はあまり高くなく、空気はカラッとして、気持ちのいい日でした。このコーラは川べりを散歩しながら飲もう。そう思って、私は店を出ました。
ところが何メートルか歩いたところで、私は自分のミスに気付きました。栓抜きを持っていなかったのです。
このままではコーラが飲めない。どうしたものか……。
振り返ると、店員の一人が店から出てくるところでした。手には栓抜きを握っており、ニコッと笑うとコーラ瓶を開けてくれました。
(あの日本人観光客はきっと栓抜きを持っていないだろう)
(しかし開封せずにホテルまで持ち帰るのではなく、きっと今すぐ飲むつもりで買ったのだろう)
彼はそう考えて、栓抜きを手に飛び出してきたのでしょう。
私はベトナム語が喋れず、彼は英語が喋れませんでした。しかし言葉が通じなくても、「相手の必要としているもの」を見抜くことができる。ヒトの脳みそはそういうふうにできています。
海外旅行をしたときや、外国人観光客のガイドをするときは、こういう経験をよくします。言葉が通じないのに、なぜか心は通じてしまう。これは、ヒトの脳のアーキテクチャが基本的に共通だからです。文化の差があっても、遺伝的にプログラムされた「脳みその作り」は変わりません。そもそも相互に翻訳可能だという点で、ヒトは一種類の言語しか持っていないと見なすこともできます。細かなニュアンスの違いまでは翻訳できなくても、イルカと会話するよりは人間同士で会話するほうが簡単なはずです。
工夫さえすれば、ヒトは意思疎通ができます。
意思を伝えた結果、友好的になれるとは限りません。それでも伝えることはできるし、相手の意思を理解することもできます。工夫さえすれば。
では、工夫とは何か。
結論から言えば、相手に合わせて自分を変えることです。
◆
「ホットのアイスコーヒー問題」に戻りましょう。
このケースでは客の注文を取ることができず、コミュニケーションに失敗しています。原因は明らかで、マニュアルに書いてある「アイスコーヒー」という言葉を捨てられなかったからです。これを別の言葉に言い換えていれば、客の間違いをそれとなく正して、誤解を避けることができました。
マニュアルに載っていない状況に直面したとき、アドリブで切り抜ける力のことを「コミュニケーション能力」と呼びます。人間の会話と意思疎通は一種のゲームですが、このゲームはルールがあまりにも複雑です。そのため、マニュアルにすべてを書いておけるわけではありません。
相手にあわせて自分の態度や行動を変えなければ、コミュニケーションはままなりません。
なお、相手に変わってもらおうと期待するのは無駄です。他人を変えることは不可能だと考えたほうがいい。なぜなら人は、欠点を自覚したときにしか変わりません。そして誰かに欠点を自覚させるのは、きわめて難しい。欠点を指摘されたら反感を覚えるのが普通で、たいてい反省しません。
だから、他人は変えられない。
自分を変えるしかないのです。
二次産業が経済を支えていた昭和のころとは違い、現在の私たちはコミュニケーション能力を求められがちです。二次産業の現場でさえ「カイゼン」が標語になり、創造的な意見交換が必要とされています。与えられたマニュアルを淡々とこなす時代は終わりました。
コミュニケーション能力とは、大きな声を出すことや、調子よく冗談を飛ばすことではありません。それらはコミュニケーションのごく一部にすぎません。空気を読んで適切なタイミングで笑うのも、コミュニケーション能力ではありません。そういうスキルは予想可能な行動しか取らない相手と会話するときには役立ちますが、そうでない相手と接するときは無力です。
コミュニケーション能力とは、口のうまさやノリのよさではないのです。
外国人観光客のコーラを開けるために店を飛び出すのは、おそらくマニュアルには載っていません。しかし、こういう行動をアドリブでとっさにできることが、コミュニケーション能力の高さだと思います。
言葉の通じない相手や、自分の予想とは違う行動をする相手。
そういう相手とも意思疎通が図れることが、本当のコミュニケーション能力だと私は考えています。自分の会話のフォーマットを一旦捨てて、相手のそれに合わせる能力と言ってもいいでしょう。相手にあわせて自分を変えることが、本物のコミュニケーション能力ではないでしょうか。
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