東日本大震災の直後、日本全国の企業から救援物資や義援金が集まった。が、それらの配布がうまくいかなかったという。大きな避難所ほど物資の取りあいが起こり、義援金の分配もいまだに進んでいないらしい。「行政」は平時を前提としたシステムであり、身分証明書さえも流されるような緊急時にはうまく機能しない。
その点、宗教施設の避難所では穏やかさが目立ったという。寺や、新興宗教の道場だ。信仰仲間・檀家仲間という意識があるため、譲り合いの精神が自然と機能したのだそうだ。緊急時における“助けあい”には、国家や大企業といった巨大組織はあまり役に立たない。「地域」や「信仰」といった中間的な「共同体」が必要になる。
この「共同体」という発想について、このところずっと考えている。
戦後史をざっくりと復習すると:かつて田舎の村に存在した「共同体」が高度成長とともに切り崩され、企業がその代替を果たすようになった。日本の大企業は、家族ぐるみの付き合いを強要する運命共同体だ。ところがバブルの崩壊と「失われた20年」により、緊急時に頼るべき「共同体」としての機能を企業が失ってしまう。私たちは共同体不在の時代を生きており、そのことが様々な不安の元凶になっている。
現代の私たちは、共同体の一員としてではなく、個人として「社会」に立ち向かわなければいけない。
インターネットが日本で広まり始めたころ、「ネット右翼」の登場が私たちを驚かせた。彼らの主張が、それまでマスメディアが喧伝していた思想・信条からかけ離れていたからだ。当時、「なぜ若者たちは地域・地縁といったものをすっ飛ばして“国家”に帰属意識を持つのか」という分析が繰り返された。そして多くの識者が、ネット右翼の登場を「中間的な共同体の喪失が原因」だと結論づけていた。
逆にいえば、当時はまだ個人の立ち向かうべき「社会」が、「国家」レベルで済んでいたのだ。
現在では「社会」の枠が広がり、個人が「世界」と向き合わねばならない。
所得のフラット化ー世界の変化をビジュアルで見る -Be the Change
http://blog.livedoor.jp/akanesato/archives/51292002.html
※「私たちが先進国に生まれたという既得権を保持できるのもそう長くはない」という一言は重い。
深刻化する若年失業:取り残されて -JB Press
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/22934
※若年層の失業・低所得化は世界的な傾向のようだ。上記の「所得のフラット化」と無関係ではないだろう。
日本の若者はほんとうにリスクをとらないのか? -橘玲 公式サイト
http://www.tachibana-akira.com/2011/09/3232
※「国外に出ても充分なリターンが見込めないから日本の若者は外に出ていかない」という要旨。なるほど世界中の若者が職にあぶれているのなら、そりゃ国内に留まるよなぁ。。。
80年代末から90年代初頭にかけて、日本人は「中間的な共同体の喪失」を経験した。バブル崩壊と終身雇用の行き詰まりだ。その後、ゼロ年代の前半ごろまで「セカイ系作品」が日本のサブカルチャーを席巻する。キミとボクの選択が世界の運命を決するというタイプの物語であり、個人と世界との中間である「社会」の欠落を特徴としていた。
セカイ系が最近あまり流行らないのは、「個人が世界と向かいあう」という物語がすでにフィクションではなく、現実のものになったからだ。イラク戦争にせよ、リーマンショックにせよ、「個人」が世界に対していかに無力であるかを私たちは思い知った。
そしてここ数年は「日常系」が好まれている。日常系とは「身の回りの物語」であり、言い換えれば「共同体の物語」だ。バンド仲間と放課後にお茶をして、信頼できる幼馴染や家族がいて、近所のおばあちゃんに愛されて、それがすべて――。そういう物語が求められている。失われたはずの「中間的な共同体」を、私たちは心の底から欲している。
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個人が世界と向き合わざるをえず、企業が共同体としての役割を果たさない。それが現代だ。
そんな時代だからこそ、“世界は「国家」「企業」「個人」という三つのレイヤーから成る”という視点が重要になる。
かつて「企業」や「個人」は、「国家」という土台に属していた。また「個人」にはそれぞれ帰属すべき「企業」があった。芙蓉グループに代表される旧財閥系の企業集団は、そんな時代の名残である。
ところが、「企業」はもはや国家の枠組みに縛られずに商売をしているし、個人も「企業」から離れて生活するようになった。いまの世界は「国家」「企業」「個人」の三つの層で構成されている。この三つのレイヤーのそれぞれに独自の力学が働いており、一つの層にとって利益になる出来事が、必ずしも他の層でも利益となるわけではない。
だからこそ「個人」たる私たちは、個人の集合である「共同体」を求める。
「共同体」による自治が必要とされるのは、寂しいとか一人では生きられないからとか、そういうレベルの問題ではない。国家や企業といった巨大システムへの依存が、個人としての利益に一致しないから――個人のしあわせを踏みにじる場合さえあるからだ。
世界は三層構造でできている 「国家」「企業」より重視したい所属先は? -ダイヤモンド・オンライン
http://diamond.jp/articles/-/13597
※世界の三層構造について、こちらの記事に分かりやすくまとめられている。必読。
ユニクロや楽天の社内公用語の英語化など、現在はまだ企業の「脱・国家」ばかりが目立つ。しかし今後は、あわせて個人による「脱・企業」が加速しそうだ。企業に属してもしあわせが保障されないのなら、企業の外に「生き方」を求めるのは当然だろう。
「面白い人ほど会社を辞めていく」3つの理由 -ソーシャルウェブが拓く未来
http://www.ikedahayato.com/?p=4983
こうした流れのなかで、ノマドなエリートたちの物語に私たちが心ときめかすのは当然だ。国家も企業も頼りにならないのならば、1人でも生きていける能力を身につけるしかない。外資系金融機関の社員やIT社長のブログがウケるのはそのためだ。「勝ち組の物語」を知ることで、私たちはこの時代を生き抜こうとしている。
帰属すべき地縁を持たず、大企業にうまく属することもできず、かといってノマドなエリートにもなれない――。そういう私たちのような「凡人」が、いまの時代いちばん苦しい。「勝ち組の物語」をどんなに熟読しても、勝ち組になれるとは限らない。理想と現実のギャップに苦しみながら、何の支えもない虚空にぽんっと放り出されてしまう。凡人にとっては生きづらい時代になった。
晩婚化も、この流れの一部だろう。
言うまでもなく、いまの若者が結婚しないのはカネがないからだ。しかし、なぜカネが無いと結婚できないのだろう。一昔前ならば、少しばかり貧しくても結婚していた。違いがあるとすれば、「共同体」の有無だ。現在では、いざという時に頼れる「共同体」が存在しないため、私たちはカネでそれを代替するしかない。
◆ ◆ ◆
私はまだ、「共同体」について確たる考えを持っていない。最近になってようやく、「共同体」をめぐる議論の大枠がぼんやりと見えてきたところだ。
まず第一に、まだまだ現状分析が必要だ。「共同体が失われた」というのは本当だろうか。本当だとしたら、いったいどういうメカニズムで人々は分断されるのだろう。たとえば私が幼い頃には、「公園デビュー」という言葉に象徴される「地縁的なつながり」が存在していた。こういう繋がりって、現在でも残っているのかな。
ヒトは社会的な動物であり、放っておけば勝手にコミュニティを形成する生き物だ。「共同体の喪失」が事実ならば、コミュニティを破壊しつづける仕組みがあるはずなのだ。
幼少期には地縁的つながりの中で育った子供たちだが、その後、熾烈な受験戦争へと投げ込まれる。テストの結果によりふるいにかけられて、似たような仲間としかつるまなくなる。成績による分断だ。
社会人になるば、さらなる「分断」が待ち構えている。たとえば大企業の「転勤」はゼネラリストを育成するというお題目の下に行われてきた。が、同時に、社員をそれまでの人間関係から引き離し、自社以外の帰属先を無くす効果がある。/一年ほど前、『餃子の王将』が非人道的な新入社員研修を自慢げに紹介して話題になった。あれは「社員を自社だけに帰属させる」という日本企業の体質が原因だ。社員を他のコミュニティから切り離した結果、「外からの視点」が無くなる。世間一般からすれば非常識なことが、社内では常識となり、反省の機会は二度とこない。
このような分断のメカニズムを、まずはきちんと理解する必要がある。現状分析、つまり「いま」についての論点だ。
そして第二に「過去」についての論点。そういうメカニズムは、いったいどんな時代背景から生まれたのだろう。この部分には先行研究が山ほどありそうだ。もしも良著をご存じでしたら教えてください。
さらに第三に「未来」についての論点。どういう方法で私たちは「共同体」を取り戻せばいいのだろう。分断のメカニズムにあらがうのか、それとも別の方法を模索するのか――。そして共同体を取り戻す過程で、SNSはどんな役割を果たすだろう。ツイッターやフェイスブックは、分断のメカニズムを機能不全に追い込めるだろうか。インターネット上の人間関係から、どうやって「顔の見えるつき合い」を作り上げればいいのだろうか。
学ぶべきことが「いま・過去・未来」のそれぞれに山積している。すぐには答えにたどりつけそうにないが、これからも「共同体」について考えつづけたい。なにか考えがまとまるたびに、このブログに書いていこう。
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