デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

政策よりも「失言」が重視されてしまう理由/メディアリテラシーとは情報分析力だ、と思う。

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魔力について話そう。
炎や水に次ぐエネルギー源として期待され、世界各国がこぞって発電技術の開発を急いだ。それが「魔力」だ。ところが魔力炉を使った発電は、万が一の事故が起こった際に、広範囲に長期間の魔力汚染をもたらす。そのため魔力炉の開発に反対する人々もいたのだが、政府や電力会社は耳を貸さず、魔力発電を推進してきた。しかし巨大地震をきっかけに魔力炉の事故が現実のものとなり、その国は魔力発電を続けるべきか否かの帰路に立たされている――。
私たちは「魔力発電」を続けるべきだろうか。論点を整理してみたい。
現実世界の“あるエネルギー”にそっくりですが、あくまでも今回のエントリーはフィクションです。日本によく似た「倭国」という国が舞台のファンタジーとしてお楽しみください。




       ◆ ◆ ◆





政策評価のピラミッド」の実用方法を例示したい。
政策評価のピラミッドについては以前の記事を参照のこと(→こちら)。政策を五つの項目に分けて分析する手法だ。
ひとつのニュースにピラミッドの全項目が納められている場合は少ない。とくに社説などでは、これらのうちの一項目を掘り下げるような書かれ方をする。したがってニュースを読む側である私たちは、その論説がピラミッドのどのあたりについて語っているのかを当てはめていけばいい。
そこで、こんなシートを作ってみた。


どんなテーマであろうと、社説で扱われるような議題には「賛成・反対」の立場がある。
以前はどの新聞社も「中立」を謳っていたが、最近ようやく自分たちの立場をハッキリと明かすようになってきた。ニュースの分析は以前よりもやりやすくなったと言えるだろう。
その社説で扱われたトピックスが、このシートのどこに相当するのかを判断し、当てはめていけばいい。もちろん一つの社説には様々な論点が盛り込まれている。その場合は論点を一つずつ分解して、このシートに書きこんでいく。
では、魔力炉をテーマに実際に使ってみよう。




       ◆




政策評価のピラミッドは、下から順番に検証していく。では、まず「魔力炉発電を推進する政策」のJustification/正当性を検証しよう。いわゆる「反対派」の主張が突き刺さるのはこの部分だ。


魔力炉開発の反対派は、魔力炉を「人々の健康や暮らしを害するものだ」と考えている。
国民の安全・安心な暮らしを守るのは政府の役目なので、そんな危険な発電方法は承服できない。これが反対派の主張だ。また魔力炉の開発には、背後に巨大な利権集団の存在が指摘されている。政府・官僚・産業界がグルになって、魔力炉事業で甘い汁を吸っているらしい。もちろん政府が特定の人々のため“だけ”に政策を行うのは許されないので、この点でも魔力炉の推進には正当性がない、不正義である、と反対派は主張する。


それに対して推進派は、魔力炉が「人々の暮らしを豊かにするものだ」と考えている。魔力炉が国を豊かにするものならば、当然、これを推進することには正当性がある。
また魔力炉をめぐる議論で私が驚かされたのは、「利権集団の存在」を推進派が否定しないことだ。「魔力ムラなんて都市伝説だ!」という反論は寡聞にして知らない。「そういう集団は確かに存在している」と、推進派の多くが認めちゃっている。しかし、魔力炉発電が国民すべての利益になる以上、そういう集団の存在も許される――というのが推進派の主張だ。


こうして比較すると、明確な論点がひとつ浮かび上がる。
「魔力炉は人々の暮らしに利益をもたらすのか否か」だ。
利益をもたらすとしたら、どういうカタチで、どれくらいの利益をもたらすのだろう。逆に損失をもたらすとしたら、どういうカタチで、どれほどの損害となるのだろう。これらのことを検証していけば良さそうだ。
では続くNecessity/必要性から、こういった論点を具体的に考えていこう。




       ◆




どんな政策でも、Necessity/必要性を訴えるのは推進派だ。多少のデメリットがあっても、必要性の高い政策ならば施行したほうがいい。だから魔力炉についても、推進派は必要性を強調する。


そもそも、なぜ魔力炉は必要なのだろう。それは、安定した電力供給のためだ。安定した電力は経済発展のかなめであり、豊かな経済なくして私たちは「しあわせな暮らし」を手に入れられない。だからこそ、推進派は魔力炉を推す。
また地球温暖化の叫ばれる昨今、二酸化炭素を排出しない魔力発電は魅力的だ。火力では膨大な二酸化炭素が吐き出され、水力では森林破壊により温暖化の間接的な原因になる(ていうか、水力の場合は作る場所がもう無い)。魔力炉は温暖化対策に適している。
さらに魔力炉の研究は、魔力兵器の開発につながる。魔力炉を運用しているということは「いつでも大量破壊兵器を作れるぞ」という潜在的な“抑止力”になる。国防上の観点からも、魔力炉の必要性が指摘されている。


これに対して、反対派は魔力炉の必要性を疑う。
まず、安定した電力供給には魔力炉よりも適した発電方法がある、と反対派は主張する。具体例は後述するが、さまざまな代替案が主張されている。とくに魔力炉の「出力調整が難しい」という特徴は、反対派から激しい批判を浴びている。需要に追従して細かな出力調整のできる発電方法こそ、もっとも望ましい発電方式ではないか、スマート・グリッドの実現こそが私たちの目指す社会だ、と反対派は言う。また仮に魔力炉が発電方法として最も優れていたとしても、リスクが大きすぎてメリットに見合わない。これが反対派の主張だ。
地球温暖化対策についても同様で、二酸化炭素を排出しない発電方法は他にもある。地熱、風力、太陽光等、さまざまな自然エネルギーを利用すべきだ。
さらに国防上の観点からいえば、現代の戦争は大国間の冷戦ではなく、テロ活動によるゲリラ的な攻撃が主体になった。この時代に魔力炉のようなテロの標的となりやすいものを運用しているのは、かえって危険だ――と反対派は言う。


安定した電力供給の必要性については、推進派・反対派のどちらも同意しているようだ。なかには「電気なんてなくても私たちは生きていける!」と極端な主張をする反対派もいるけれど、ごく少数なので考慮しなくていいだろう。安価で安定した電力が、私たちの社会には必要だ。
しかし、そのために「魔力炉が適しているかどうか」で意見が分かれる。推進派は魔力炉こそ最適の発電方法だと主張するし、反対派は様々な代替案を示し、さらに事故の危険性を強調する。
では具体的に、どのような点で魔力炉は「適している」のだろう。また「事故の危険性がある」とどうして言えるのだろう。続く実現可能性で検証したい。




       ◆




では「Feasibility/実現可能性」を見てみよう。


推進派は魔力炉を、実用に足る完成された技術だと主張する。実際に、魔力炉はすでに運転しており、私たちは魔力炉で作られた電力を利用して生活している。この点で魔力炉の実現可能性は一歩先んじているようだ。
またスマート・グリッドや自然エネルギーはまだ試用段階にあり、実用に耐えない夢の技術だ。「反対派の意見は現実味がない」と推進派は反論する。確かに各国の電力供給事情を調べると、自然エネルギーへの依存率はまだまだ低い。
そして何より苛酷な事故は絶対におこらない。推進派はそう言い続けてきた。実際に事故が起こってしまった現在でも、「細心の注意を払えば二度目の事故は起こらない」と主張している。また仮に事故が起こったとしても、魔力炉から得られる恩恵に比べれば大した損害ではない。これが推進派の見解だ。


一方、反対派は「魔力炉は未完成な技術だ」と主張する。本来は夢物語で終わらせておくべきものを、政治のチカラで無理やり実用化してしまったのだ、と。たとえば制御不能に陥った時に、魔力炉は自然に冷温停止には向かわない。放っておけば暴走して、深刻な事故に発展する。また魔力性廃棄物の処理方法も確立されておらず、土を掘って埋めるしかない。数万年先の子孫にまで、汚染の危険を残してしまう。
また自然エネルギーはすでに実用化が始まっている。依存度が低いのは歴史が浅いからにすぎない。地熱にせよ風力にせよ、「多くの国々ですでに現実的な発電方法となっている」という点に、反対派は注目する。魔力炉がここまで発展したのは、冷戦構造の下で魔力開発を急ぐ必要があり、国の支援を受けられたからだ。これと同様に、自然エネルギーを国策とすれば、発電技術は一気に発展するはずだ。
そして何より、魔力炉の苛酷な事故は実際に起こってしまった。




       ◆




では「Workability/実効性」はどうだろうか。
魔力炉は「安定した電力供給」のために必要だった。それを影で支えているのは、燃料の価格変動が少ないことだ。魔力炉の燃料となる「魔鉱石」は、石油等に比べて価格の振れ幅が小さい。これが電気料金の安定をもたらし、経済発展の基盤となる。そして、そもそも燃料の消費量が少なく、低価格で電力を供給できる。化石燃料の価格が高騰している今、魔力炉の優位性はますます高まっている。
また、苛酷な事故は起こってしまったが、適切な管理・運用をすれば二度目の事故は絶対に防げる。大事なのは魔力炉開発に足踏みすることではなく、事故の原因を究明して、きちんと対策を打つことだ。これが推進派の意見だ。


一方、こうした「魔力炉は低コスト」という弁を反対派は真っ向から否定する。
まず魔力発電が低コストなのは、政府からの補助金を差し引いた額を原価としていたからだ。補助金なしで原価を計算すれば、決して低コストだとは言えない。事故の危険性まで勘案すれば、むしろ高コストな発電方法である。
また魔鉱石の供給を輸入に頼っている以上、価格変動や為替の影響を逃れられない。値段の大小はあるものの、この点は化石燃料と同じだ。もしも本当に安定した電力供給を追及するなら、国内で供給できるエネルギー源を選ぶべきだ。
幸運にも、この「倭国」は火山の多い島国だ。足もとには無尽蔵な地熱エネルギーが埋蔵されているし、島国ゆえの長い海岸線は、潮風を利用した風力発電に適している。確かにこれら自然エネルギーは、個々の発電施設の容量は魔力炉よりも小さい。しかし必要な場所に必要な量の電気を供給するスマートグリッドを実現すれば、小さな発電施設を多数設けることで対応できる。スマートグリッドの実現には優れた情報技術が必須だが、「倭国」は世界でもっとも情報化の進んだ国だと言われている。まるであつらえたかのような状況だ。だからこそ、もう魔力炉は必要ないのだ――と反対派は声高に叫ぶ。
現在の電力会社・政府が「絶対に二度目の事故を起こさない体制」を作れるとは思えないし、仮に作れたとしても数十年先はどうなっているか分からない。なにより人間の作るものである以上、「ゼッタイ安全」などというものはありえない。
いつかまた事故は絶対に起こる、そして取り返しがつかない。




       ◆




さらに「Effectiveness/有効性」について見てみよう。
じつは推進派が魔力炉の有効性を訴えるのは難しい。なぜなら、電力消費者は「電気ならばなんでもいい」からだ。魔力炉で作った電気でなければならない理由が、とても説明しづらいのだ。


推進派は以前から、他の発電方法よりも電気代を安くできると主張している。自然エネルギーなどに頼れば電気代が信じられないほど高くなり、経済成長に大きなダメージを与える。
また将来、宇宙開発の時代に突入した際には魔力が必要になるはずだ。燃料の消費が極めて少ないという魔力の特徴は、補給の難しい宇宙開発に適している。その時のために、現在の技術を廃れさせてはならない。
さらに、魔力汚染はそこまで危険ではないという主張も耳にするようになった。魔力炉発電で死者が出たことはないが、火力や水力では同じ電力を作るのに毎年数え切れないほどの死者が出ている。魔力炉の何倍も危険ではないか、というのが推進派の主張だ。


こうした意見に対して、反対派は次のように反論している。
まず電気料金についてだが、諸外国と比較して、倭国の電気代はすでに信じられないほど高い。その原因は電力市場への新規参入を厳しく規制し、市場の機能を歪めていたからだ。安い電気代が経済発展を助けるのは間違いないが、そのために必要なのは規制緩和と自由化であって、魔力炉ではない。
また宇宙開発の研究ならば、その時代が来たときに宇宙で行えばいい。現代の、地球上でやる必要がない。
そして何よりも反対派が強調するのは、事故が起きた際の損害の大きさだ。
まず魔力汚染により、発癌の可能性が飛躍的に高くなることが知られている。こうした直接の健康被害だけでなく、長期にわたり広範囲の「人の住めない土地」が出来てしまう。そうした土地の周辺では、汚染と風評被害のダブルパンチで農水産業が壊滅する。さらに「倭国は技術的に進んだ国」「倭国産の食品は安全」等のイメージが壊れ、国際的な「倭国のブランド」が著しく毀損される。多数の住民が健康被害を被り、それを上回る数の人が家を失い、膨大な数の失業者が生まれ、将来にわたり国際市場での競争力が失われた。事故による損害は「天文学的」という言葉でも足りない。もはや算出不可能だ。
死者の数でしか「安全性」を語れないのは、ただの視野狭窄だ。たとえば現実世界では雪印乳業がかつて大規模食中毒事件を起こした。死者は1人も出さなかったし、ほとんどは軽症患者だった。しかし雪印の業績はあっという間に悪化し、グループ解体・再編の憂き目にあった。死者の有無だけでは危険性は計れない。


事故による被害について、推進派は次のように反論する。
たしかに事故による損害は甚大だが、事故は滅多に起こらない。どんな生き方をしていてもリスクはつきまとう。ゼロリスク志向は、思考停止だ。たとえば一度の自動車事故で1000万円の損失が見込まれるとしても、事故のおこる確率が1000分の1ならば、事故のコストは1000万円×1/1000の1万円と見なすべきだ(保険料はこうやって算出される)。このように、事故のリスクは、確率をかけてやらなければ正しいコストを計算できない。事故の生じる確率が小さいので、魔力炉発電は充分にコスト・メリットを取れる。


これに対して、反対派は次のように再反論する。
一度の事故で生じる損害はあまりにも大きく、遠い将来にまで及ぶ。もはや算出不可能なほど甚大だ。したがって、リスクがどれだけ小さかろうが、とてもコスト・メリットは取れない。「無限大」に1000分の1をかけようが1億分の1をかけようが、「無限大」のままである。




       ◆




魔力炉に関する議論で取りざたされるトピックスを集めて、シート上に当てはめてみた。その結果がこちらである。pdfにしてみた。


PyramidSheet.pdf
※2ページ目です。(1ページ目は白紙)


「政策のどの部分に関する話題か」に基づいて各トピックスを振り分けると、自然と論点が噛み合いはじめ、「議論の流れ」が見えてくる。もちろん私が拾い逃したトピックスもあるだろうし、ここにない論点があればぜひ教えてください。
魔力炉について私は個人的な見解を持たないし、この議論の流れから何をどう判断なさるかは読者にお任せする。ていうか魔力炉ってフィクションだし。現実世界とは全然カンケー無いし。




       ◆




おまけ:このシートに当てはまらない場合は?
新聞やブログのエントリーを読んでいると、しばしばこのシートに当てはまらないトピックスが登場する。どうすりゃいいんだー、と私も初めの頃は頭を悩ませた。というか今でも悩ませっぱなしである。はっきり言うが、このシートに当てはまらないトピックスがある場合、そのトピックスは政策決定にまるで関係がないと考えていい。


たとえば魔力炉推進派の「自動車も規制するべき」という主張。
魔力炉よりも自動車のほうが事故のリスクは高いのだから、魔力炉に反対するのなら自動車の廃絶も一緒に訴えるべきだ、なんて話を耳にしたことはないだろうか。こんにゃくゼリーとお餅のどちらが危険か、という話題に似ているので、ついうっかり納得しそうになる。
しかし「政策評価のピラミッド」に当てはめようとすると、とたんにワケが分からなくなる。「自動車も規制すべき」という主張のうまく収まる場所がないからだ。
結論から言えば、自動車と魔力炉を「同時に規制しなければならない」理由がない。こんにゃくゼリーとお餅はどちらも「食品」という共通項を持っている。しかし魔力炉と自動車とでは、事故の発生原因も被害の質もまったく違う。自動車が存在しようがしまいが、魔力炉がなくなれば魔力炉事故の不安はなくなる。この二つをセットで扱うほうが不自然だ。
したがって推進派の人がこの主張をする場合、「なぜ同時に規制しなければいけないのか」を説明しなければいけない。こういう状況のことを、ディベート用語では「この主張の立証責任は推進派にある」と言う。
「魔力炉を推進すべきか廃止すべきか」という議論において、「自動車も規制すべき」という話題は無関係だ。


また、汚染に対して「過剰な反応をする人々」が、しばしば叩かれる。
汚染された野菜が給食に使われているかもしれないから子供を学校に通わせられない――なんて親に対して、「過剰反応だ!」という意見が噴出していた。それこそゼロリスク志向は思考停止だし、リスクを正しく見積もり、適切な判断をすべき……云々。
これもシート上にあてはまる箇所がなくて困惑する。
「汚染に対して各個人がどういう行動を取るべきか」という論点は、じつは政策決定には関係がない。「汚染とのつきあい方」は個々のプレイヤーが取るべき行動の指針を論じている。それに対して「政策」とは、プレイヤー全員がどういう社会を目指すかを考えている。
たとえば「ババ抜きをしているときにジョーカーを引いてしまったら、残念そうな表情は隠しましょう」という話題。この話題は、個々のプレイヤーが取るべき行動指針にすぎない。ババ抜きをするか七並べをするかで揉めている時には関係がない。これと同じだ。
政策と個人の行動とは、まったく別次元の話題だ。
これを一緒くたにして語る人がいたら、論理的思考力が弱っちょろいか、わざとやっているかのどちらかだ。




       ◆ ◆ ◆




まとめ:
政策に関するニュースを見たら、そこで扱われているトピックスが「政策評価のピラミッド」のどこに当てはまるかを考えよう。ピラミッドシートを埋めていくと、そのニュースに関わる「議論の流れ」が見えてくる。
また、シートにどうしても当てはまらないトピックスがある場合、思い切って「そのトピックスが議論の本題に関係ない可能性」を考えてみよう。たとえばラジカルな反対派から飛び出す「科学者まかせにはできない! 現代の科学は正しくない!」みたいな意見。魔力炉を作るべきか否か、という政策の議論においてはあまり関係がない。科学を信じるべきかどうかなんて、哲学的すぎる話題だ。


倭人たちが政策よりも失言で政治家を判断してしまうのは、政策を評価できないからだ。
正確には、評価する“方法”を知らないからだと言える。方法さえ分かれば、勤勉な倭人のことである、政治家を言語能力だけで評価することの愚かしさに気がつくはずだ――と信じたい。
倭人に限らず、どんな国の人でも「どうしてうちの国民はこんなにバカなのだろう……」と嘆きたくなる瞬間はあるだろう。しかし嘆くだけなら、それこそバカでもできる。どうすればかしこい人の思考方法をシミュレートできるようになるかを考えたい。










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