デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

あなたが「うわっ…私の年収、低すぎ…?」と感じるのはなぜか/貨幣の相対性。そしてお金は誰のものか。

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東京人は高いモノを自慢し、関西人は安いモノを自慢するという。
たとえば新しいコートを買ったとき、関西人はこんな会話をする:
「これ、いくらやと思う? ふふふ、なんとたったの500円!」
そんな値段のコートいったいどこで買うんだよッ! とツッコミたくなるが、実際に売っているお店があるのが大阪の恐ろしいところ。
一方、東京人の場合:
「いいでしょ、このコート。え? 値段? やだなー、そんなこと訊かないでよ(チラッチラッ)――うん、じつは100,000円ぐらい(※実際は89,000円)しちゃった/// ちょぉっと高いかなー・・・って思ったけど、セールまで待てなくてさぁ」
江戸時代から続く「宵越しのゼニは持たない」という習慣が今でも息づいているのだね。
こんな東京の風習を関西人は「イヤラシイ」とさげすみ、東京人は関西の風習を「ケチくさい」と吐き捨てる。“東男に京女”なんて言葉があるけれど、両者には越えがたい壁がある。
お金の価値は絶対的なものではなく、文化や習慣の影響を受ける。
1円の価値は人によって違うのだ。




       ◆ ◆ ◆




狩猟採集生活の古代ならばいざしらず、今の時代、先立つものはカネである。カネがなければ生きていけない。生きるということは、カネを稼ぐということだ。そしてカネを稼ぐときに真っ先に学ぶべきなのは、簿記である。
簿記を知らずに社会人になるのは、日本語をまったく知らないまま日本に留学するようなものだ。自営業者には必須のスキルだし、工場のブルーカラーでさえ「コスト意識」を問われるこの時代、簿記を知らずに生きていけるのはパトロンつきの芸術家ぐらいだろう。(いるのか、そんな人)
これだけ重要な簿記(と会計学)だが、日本の学校教育にはなぜか組み込まれていない。
近現代の教育制度が生まれたのは18世紀のイギリスであり、均質な工場労働者を供給するために「学校」が発明された。それまでも「大学」は存在したが、子供を育てるという機能に主眼を置いた「学校」が生まれたのは産業革命のころだ。ロボットのような労働者を育てるのが学校の本来の目的だった。
現代の日本の学校教育も、その精神を受け継いでいる。簿記のぼの字どころか草かんむりさえも知らない子供たちには、自営の方法が分からない。「カネを稼ぐ=給料をもらう」という考え方しか教わらない。だからみんな「勤労厨」になる。「トヨタを倒すような会社を作りたい」なんて言う人物が育たないのは当然だ。


※余談だけど、欧米式の学校教育が輸入される以前から、日本には独自の教育システムが存在した。そう、寺子屋である。18世紀のヨーロッパでは識字率が1割〜2割程度なのに対して、江戸末期の日本の識字率は7割を超えていたという。太平の時代、「刀よりも学問だ!」という意識が庶民にも芽生えていた。科挙制度のある中国の影響も大きいだろう。


簿記は――近代的な会計学は、ルネサンス期のイタリアを発祥としている。複式簿記を発明したのは、教会の支配を逃れて自由を手に入れたヴェニスの商人たちだった。詩人ゲーテに「人間精神の生み出した最も美しい発明品」と称賛された「簿記」は、シルクロードを渡り、世界中に広まっていった。
日本に複式簿記を持ち込んだのは、あの福沢諭吉である。江戸時代にはすでに近代的な学問が萌芽していた日本だか、商売はまだ単式簿記で行われていた(ex.大福帳)。西洋式の進んだ会計学を手に入れて、もともと勤勉な日本人は一気に経済を発展させた。開国からわずか100年ほどで欧米列強とガチバトルができるほどの先進国になった。福沢諭吉が最高額紙幣の顔に選ばれたのには、こういう背景がある。
現在でも簿記と会計学は絶大なチカラを持っている。会計学は「商取引をどのように記述するか」を研究する学問だ。貨幣経済を土台とした現代社会において、会計学とはOSソフトのようなモノだ。すべての経済活動が会計学のうえで動いている。
会計学の目的は、経済活動の「正しい価値」を記載することにある。売上や仕入の正しい金額を間違いなく記載すること。土地や建物などの正しい価値を見積もること。企業の事業実態を正しく開示すること。現在の会計学は、これらのことを目的に研究されている。




       ◆




しかし、だ。
こんなふうに「正しい」を連呼されると、なんだか違和感を覚えないだろうか。
そもそも「正しさ」って何だよ、と。




       ◆




アインシュタイン相対性理論は、時間の流れが絶対的なものではないことを明らかにした。彼は時間の相対性について、次のような言葉を残している。
「熱いストーブの上に1分間手を載せてみてください。まるで1時間ぐらいに感じられるでしょう。ところがかわいい女の子と一緒に1時間座っていても、1分間ぐらいにしか感じられない」
有名すぎるセリフなので、ご存じの人も多いはず。



まったく同じことが「お金の価値」にも言える。



小学生のころを思い出してほしい。当時の100円は、今よりもずっと価値があったはずだ(デフレ的な意味ではなく)。この100円で、いったい何を買おう。うまい棒ビックリマンチョコか……それともミニ四駆に貼るステッカーにしようか。100円の使い道を考えるだけで何時間も潰すことができた。500円硬貨なんて魔法のコインだったよね! 大きくてピカピカして、どっしりとしたその重みをポケットに感じるだけで充足感があった。当時の私にとっての500円は、今の私にとっての5,000円以上の価値があった。
お金の価値は人によって違う。
たとえば、援助交際のことを考えてみよう。たった1万円のためにカラダを売る女子中学生に、大人たちは首をひねった。そんなわずかな金額で、どうして売春ができるの? 妊娠や性病、犯罪に巻き込まれるリスクを考えたら、ぜんぜん割にあわないはずだ。そういう「大人の視点」にもとづき、援助交際は「倫理観の崩壊」という文脈で語られることが多かった。



少女は、闇を抜けて―女子少年院・榛名女子学園

少女は、闇を抜けて―女子少年院・榛名女子学園



エンコー少女の実態を知ると、大人視点のそういう言説がいかに的外れか分かる。
援助交際は倫理観の問題ではなく、貧困と児童福祉の問題だ。大人にしてみれば「はした金」の1万円でも、中学生からすれば大金である。まして、お小遣いも満足にもらえないような家庭の子供たちだ。わずかな金額に心が揺れてしまうのも無理はない。倫理観ではなく金銭感覚が大人とは違うのだ。(で、こういう金銭感覚のずれにつけ込むからこそ、児童買春は卑劣なのだ)




       ◆




1円の価値は、人によって違う。
では、「正しい価値」とは何だろう。
財やサービスの価値は、現在は貨幣によって表現される。しかし日本以外のアジアでは――経済発展めざましい北京でさえ――100円あれば昼メシがたらふく食える。日本では最低でも500円ぐらいは覚悟しなければいけない。しかし、値段がいくらだろうと昼メシは昼メシだ。にもかかわらず、現在の経済制度は貨幣価値だけを優先する。北京の昼メシは日本の昼メシよりも「価値が低い」と見なされる。




史上最古の通貨は、古代中国・殷王朝のものだと言われている。
なお、ヒト属の動物が現れたのはおよそ200万年前、現生人類ホモ=サピエンスが誕生したのは40万年〜25万年前だ。それに対して貨幣は4000年程度の歴史しか持たない。人類史からすれば、貨幣の誕生はつい最近のできごとだ。
当時は貝殻を通貨として使用していたらしい。貨幣制度を機能させるには、「貝殻1つで麦***キロと交換できる」というルールをみんなに守らせる必要がある。通貨の誕生には中央政権的な国家の成立が必要だった。
そして現在でも、「国」の信用があるからこそお金はお金として機能している――というのが通説だ。
ところが、この通説をくつがえすような現象が観察されている。


不換紙幣には政府の裏付けは必要無い -himaginaryの日記
http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20110831/fiat_money_in_theory_and_in_somalia


混乱の続くソマリアでは1991年に中央銀行が破壊・略奪され、通貨の裏付けとなる中央銀行が存在しなくなった。現在でこそドル・ユーロ・リヤルなどの他国通貨が流通しているというが、中央銀行の崩壊後もソマリア・シリングは価値を維持し続け、ローカル市場で自由に取引されるこれら外貨と変動相場の下で交換されていた。
権力の裏付けがなくても“みんな”が価値を認めれば、通貨は紙切れにならない。


また現実世界ではなく、仮想世界にも目を向けてみよう。RPGをはじめ、多くのゲームでアイテムの売買などの経済活動が再現されている。ウルティマ・オンラインを祖とするMMORPGではその傾向が顕著で、ゲーム内に架空の経済体制が出現するらしい。プレイヤー同士でアイテムを交換できるからね。
そして、あるゲームでは開発会社側の準備した貨幣(ギルとかゼニーとかメセタとか)ではなく、特定のアイテムが「通貨」として流通したそうだ。入手難易度がそこそこ高く、それでいて継続的に誰もが使用する、そんなアイテムが物々交換を仲介するようになったという。


参考)ゲーム内経済学:(1)経済の要素 -H-Yamaguchi.net
http://www.h-yamaguchi.net/2005/09/1_f536.html


ここでも、お金の価値は「権力(この場合はゲーム会社)」とは無関係に決まった。中央集権的な“えらい人”がいなくても、私たちは通貨を利用できるらしい。
野口英世の描かれた紙きれを1,000円として使えるのは、みんながそれを1,000円だと思っているからだ。「信用があるからだ」と難しい本には書いてある。かつては「金と交換できる」のが信用の裏付けだった。現在では中央銀行が――中央政権的な権力が信用のみなもとである。(「ブレトン・ウッズ体制」「ニクソンショック」等で検索してね!)
ところが「信用」に必要なのはみんなの合意だけで、権力さえもいらないらしい。





つまり、お金って、なんだ?





会計士たちは「正しい貨幣価値」と口癖のように言う。けれど、その「正しさ」とは誰にとっての、何に対する「正しさ」なのだろう。
誤解を恐れずに言えば、資本家だ。
株式をはじめとした金融資産を保有し、貨幣価値の昇降に戦々恐々としている人々だ。先進国に暮らす、世界人口からすればほんの一握りの人たちにとっての「正しさ」である。貨幣のみに着目して「北京のメシが日本のメシより価値が低い」と見なす価値観。「腹がふくれるかどうか」という実際面を考慮しない価値観。それが現代の会計学的な「正しさ」だ。
お金とは何か:現在の制度の下では「お金持ちのためのモノ」だ。



      ◆



繰り返しになるが、もともと会計学は権力のくびきから解放されたヴェニスの商人が発明した。当時はエクセルも電卓もなかった。そろばんはアジアほど発達しておらず、筆算をしようにも、紙はまだ高価だった。日常的な計算には、石板とロウ石、あるいは地面と棒っきれが使われていた。そんな時代に「数字の管理」をするため、彼らは「簿記」というすばらしいアイディアを生み出した。
時代が下るにつれて「数字の管理」はどんどん簡単になっていく。
とくに電算機の発達めざましい現代、数字の管理はヒトの手を離れる傾向にある。ところがなぜか現在でも、会計士や税理士といった「数字の専門家」が職を得ている。なぜなら会計制度が複雑怪奇で、専門知識を要するからだ。じゃあ、嫌がらせのように難しい会計制度をデザインしているのは誰か:会計士たちである。なんというマッチポンプだろう。
どんな会計学の教科書にも、冒頭のあたりに「左側通行のたとえ」が載っている。自動車が道路の“左側”を走らなければいけない理由はないが、みんなの便利のためにわざわざ左側に統一している。会計や簿記もそれと同じで、商取引をどんな方法で管理するかは自由だ。しかし、みんなの便利を考えて統一しましょう。:これが左側通行のたとえである。
ならば、会計なんてもっとシンプルにできるはずだ。みんなの便利を考えるのなら、小学生にも理解できるレベルにするべきだ。が、会計士と税理士の職を守るため、あえて複雑なまま放置されている。


一部の人たちの独断で大事なことが決められてしまうこと。それを私たちは「独裁」と呼ぶ。会計制度は経済のあらゆる場面に影響を与え、私たちの暮らしを変えてしまう。しかし、会計制度をデザインする人間を民主的な選挙で決めたなんて話はついぞ聞かない。
反感を覚悟のうえで書くと、そもそも会計で食っている人は何も生み出していない。誰かの生み出した“富”を数字に換算しているだけだ。シンプルな会計制度と現在の電算機があれば、今すぐにでも必要なくなる職業なのだ。
「シンプルな会計制度? そんなの正しくないから困る!」という意見があるかもしれない。しかし、正しさとは何か。困るのは誰か。
――そう、やつらは支配階級に尻尾をふるような者なのだ。ロスチャイルドの亡霊に魂を売ったゾンビどもだ! 立て、同士諸君! 穢れきった現在の経済にいまこそ決別し、共存共栄の社会を未来に描こうではないか!(もちろんジョークです念のため)


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※このゲームに登場する都市「ラプチャー」では、創造力ない人は住民権を剥奪される。この都市の会計制度はどうなっていたのだろう。




       ◆ ◆ ◆




日本には規制が多すぎて、経済活動を縛っているという。ルールの多さ・複雑さが、若い起業家の参入を阻み、経済を停滞させているらしい。新しいプレイヤーを増やし経済を活発にするには、様々なハードルを下げなければいけない。この点は大いに同意できる。
でも、こういった意見を、えらい会計士の先生や経済評論家が語っているのには笑ってしまう。まず真っ先に下げるべきハードルは、あんたらの信奉している会計制度ですよって誰か言ってやれよ。


お金とは何か:お金とは“みんな”の合意が作りあげたモノである。
経済がみんなのモノである以上、その土台となる会計制度は、それこそ小学生でも理解できるものでなければいけない。そういうシンプルな会計学を、私たちは作りなおすべきだろう。お金の価値は1人ひとり違う。しかし、統一する必要があるのも事実だ。ならば統一方法を“みんな”で決めるのが正しいやり方だ。もう、えらい人にはまかせておけない。


ユーロとドルが崩壊した後には、「国家」に裏付けられた通貨が急速にチカラを失うはずだ。その時、(たとえばポイントカードのような)実際の財・サービスとの交換が裏付けられたモノが価値を増すに違いない。というような発言を見かけて考えたのが今回のエントリーでした。
想定外に長くなってしまった。いろいろ盛り込みすぎたなあ。










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