デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

この時代に“結婚する”ということ/社畜ではしあわせになれない「嫁ぎ行動」の本質

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猿人も遠方から花嫁か 歯の化石で分析
http://www.47news.jp/CN/201106/CN2011060101000852.html


アウストラロピテクスのメスには、自分の生まれ育った集団を離れて遠隔地の集団へと“嫁(とつ)ぐ”習性があったのではないか。コロラド大学の研究チームは、化石の歯の成分を分析した結果から、そんな仮説を立てている。
社会性動物の多くがこうした近親相姦を防ぐ仕組みを持っている。たとえばチンパンジーは母系社会を作り、若いオスがそこに参加することが知られている。また魚や昆虫のなかには巨大なゲノムを持ったり、遺伝子の組み換えを活発にしたりして近親相姦に負けない多様性を持つように進化したヤツらもいる。
アウストラロピテクス――黎明期の人類が持っていた「嫁(とつ)ぎ行動」も、遺伝子の多様性を維持するために発達したものだろう。
集団から集団へと“嫁ぐ”個体の存在は、近親相姦を防ぐだけでなく、情報の共有という点でも重要だったはずだ。新たな可食植物を教えたり、毒草を薬として使う方法を共有したり――。ソトから来る人物は、いつも新たな知見を携えていたに違いない。



Female australopiths seek brave new world
http://www.nature.com/news/2011/110601/full/news.2011.338.html
※元ネタのネイチャーの記事


この「嫁ぎ行動」は現在まで脈々と受け継がれてきた。外から受け入れた新しい個体が、集団を活性化して発展をもたらす。このことを社会的動物である人類は本能的に知っている。(念のため注釈すると、女が「ヨメにいく」という風習を肯定したいわけではない。後述するが、「オスが嫁ぐ」という社会構造が構築された時期もある)
では「嫁ぎ行動」はどのように受け継がれてきたのだろう。そして、将来はどういうカタチになるのだろう。過渡期である現在、どんなことが問題となるのだろう。考えてみたい。




      ◆ ◆ ◆




アフリカの地に生まれた人類は、長きにわたって血縁・地縁にもとづくコミュニティを作ってきた。いわゆるムラ社会の時代だ。人口が増え、国家の成立、社会制度の整備を経験しながらも、この「血族をベースとした社会」は崩れなかった。
ムラ社会において「嫁ぎ行動」は個人の婚姻ではなく、家族と家族、あるいは集団と集団との結束を強めるものとして行われてきた。かつて婚姻が強い政治性を持っていたことはよく知られているし、いまでも「やんごとない方々」の家庭では「血族をつなげるもの」として扱われている(らしい。私はやくごとなくないのでわからない)。
庶民レベルでも、つい最近まで結婚は「好きな人と一緒になる」行為ではなかった。


瀬戸は日ぐれて〜、夕波、小波〜♪ あなたの島へ、お嫁にいくの〜♪


この歌謡曲が発表されたのは1972年だ。「あなたのところへ」でも「あなたの家へ」でもなく、「あなたの“島”へ」と歌っているところに注目。「嫁ぐ」という行動の本質は「集団から集団へと個人が移動する」という点にあり、この歌はそれを見抜いている。本当につい最近まで、結婚とはそういうものだった。
ところが恋愛結婚が主流になるにつれて、結婚の「家族間・集団間を結びつける」という側面が弱くなっていった。恋愛結婚が広まった背景にはトレンディドラマの普及がある――なんて分析を目にするたびに、私は首をひねっていた。だっておかしいだろ? この国には世界最古の恋愛小説があるんだぜ!? 平安時代までさかのぼらなくてもいい。江戸時代には歌舞伎や落語などの文化が花開き、当時の風俗を現在に伝えている。で、人気の演目には必ず「恋愛」が絡むものがある。同じホモ=サピエンスなのだから、私たちは1000年前から同じような恋愛感情を持っていたはずだ。トレンディドラマが恋愛結婚を礼賛するまでもなく、私たちは大昔から「好きな人と結ばれたいなぁ」と思っていた。
強固なムラ社会が存在する時代から、私たちは「恋愛結婚したい!」と思っていた。にもかかわらず、当時は「コミュニティを維持する」という観点から自由な婚姻が認められなかった。それが解禁されたのは、社会構造が変わったからだ。


そう、産業革命と高度成長にともなう核家族だ。


都市に移り住んだ人々は、それまでの血縁・地縁をベースとしたムラ社会から解放された。所得の向上と都市の発展により、単世帯家族でも生活に困らなくなった。しかし核家族化によって「嫁ぎ行動」が失われたのかといえば、そうではない。「オスによる嫁ぎ行動」が本格化したため、メスが嫁がなくてもよくなったのだ。


日本の大企業は「家族的経営」により成長してきた。上司‐部下がまるで義兄弟のような関係を結び、週末には家族ぐるみで運動会をする。人生の節目を迎えた若手社員は、父親代わりの年上社員にアドバイスを求める。本質的な議論を避けて人間関係の機微を重視した組織運営が行われてきたという。父親が●●●製鉄の社員だったから、息子も同じ会社に入る――なんてコトが平然と行われてきた。(余談だけど、あの東電OL殺人事件の被害者女性も親子二代に渡る東電社員だった)
「嫁ぎ行動」の本質は、集団が新しい個体を受け入れる点にある。つまり高度成長時代の日本ではオスたちが「企業」というコミュニティへと嫁いでいたのだ。
これが「オスによる嫁ぎ行動」だ。現在でも「就職は結婚みたいなもの」という言葉を耳にするが、なんのことはない、新卒就職とは結婚そのものなのだ。大手ビールメーカー勤務の新郎は結婚式の時にビールサーバーを背負って挨拶回りをするという。なんつーか、ウゲーって感じだ。人生のいちばん大事な局面まで(大事な局面だからこそ)会社に支配されるのかよー。マジで気持ち悪いな。
この「オスによる嫁ぎ行動」は、「集団に新たな知見・刺激をもたらす」というメスの役割を剥奪した。かくして女性たちは経済社会から完全に排斥された。女性が経済的な地位を手にするためには「男並み」になるしかなく、男のように「企業との婚姻」を強制されるようになった。初期のキャリアウーマンの多くが結婚を断念せざるをえなかったのは、「企業」という手のかかる配偶者がいたからだ。


こうした「オスによる嫁ぎ行動」や核家族化、女性の専業主婦化を実現できたのは、あくまでも大企業に属することができた人たちの話だ。背後には当然、“家族的企業”に所属できなかった/しなかった人たちがいる。そういう層の人たちは、どんな生活をしていたのだろう。そういう層の若者たちはどんな青春を過ごしたのだろう。
実をいうと私の両親がそれに該当する。私の父は高専卒、母は保母学卒の典型的な低学歴ワーキングクラスだ。小学生のころに60年安保をラジオで聞き、高校を卒業するころに70年安保をテレビで見た。冷戦は続いており、うたごえ喫茶反戦フォークソングを歌うのが彼らの青春時代だった。
で、彼らの間では「友だちの結婚式をプロデュースする」のが流行っていたらしい。
これが全国的な流行だったのかは分からないけれど、仲間内で「●●くん・○○さん結婚式実行委員会」を結成し、式場の手配から料理の準備、司会進行から余興まで一切合財を請け負ったという。公民館や市民会館を借りて式場にしていたというから驚く。当然ビールサーバーなんて背負わなかった。
結婚費用が高騰したのはバブルの頃だ。
それまでは新婚旅行といえば国内が主だったし、結婚式場で豪華な披露宴を行うなんて、一部のお金持ちだけに許された道楽だった。ムラ社会においては結婚式のプロデュースを「家族」が請け負っていた。しかし一方、私の父は上京一世、母は二世だ。仲間たちも大体そんな感じで地方出身者が多かった。結婚式を運営できるような「実家」を持たない若者たちだったのだ。そういう背景から、必要にかられて「実行委員会方式」が生まれたのだと思われる。
この「実行委員会」は新しいカップルが生まれる場でもあったらしい。友だちのおめでたい話をプロデュースしているうちに、実行委員会のメンバーもなんだかテンションがあがってしまうのだね。若い男女なわけだし。
私の両親もこうした結婚式実行委員会を通じて、交際を始めたそうだ。


血縁にもとづくムラ社会は、産業革命・高度成長・核家族化の3点コンボで解体された。それまで「家族」の担っていた社会運営の役割を、「家族的企業」が代替するようになった。その背後で大企業のコミュニティに属せなかった人たちは、「仲間の手」により「家族」の役割を補っていた。




       ◆




現在、都市部の若者たちが血縁関係によらない共同生活を始めている。
いざという時に助け合える距離で友人のネットワークを作る人たちもいれば、ルームシェアをしてマンション全体で「お醤油の貸し借りをするような」ご近所づきあいをする人たちまでいる。程度の差はあれ、若年層が「助け合う暮らし」に目覚めているのは確かだ。「都会では隣人の顔が分からない」といわれた時代から私たちは卒業しつつある。
こうした血縁によらない共同生活を、私の友人たちは「21世紀型ムラ社会」と呼んでいる。ヒトは一人では生きられないことを、彼らは肌感覚で知っているのだ。
「21世紀型ムラ社会」の萌芽の背景には、「企業家族」の崩壊がある。バブル崩壊とリストラによる終身雇用の崩壊は一因にすぎない。いちばんの原因は社会の情報化だ。コミュニティを個人が自力で見つけられる時代になった。これは大きい。
また「嫁ぎ行動」は、それまで所属していたコミュニティとの断絶とセットで行われる。サラリーマンなら入社初日に必ず言われるはずだ。「学生気分を捨てろ」――あなたが学生時代に培った価値観は、なんの理由もなく全否定される。「企業家族」に属することと引き換えに、私たちはこういった横暴な「大人の理屈」を受け入れてきた。いわゆる「社畜」の精神性は、その人を学生時代のコミュニティから引き離し、それまでの人格を徹底的に毀損することで形成される。ところが情報化により、学生時代の友人といつまでも近しい距離を保てるようになった。このことも「企業家族の崩壊」と「21世紀型ムラ社会の成立」のそれぞれに関わっているだろう。


先輩・上司の誘いを断って、“孤独な時間”を満喫!? なぜイマドキの若者は積極的に「ひとり飲み」するのか -ダイヤモンド・オンライン
http://diamond.jp/articles/-/13644


こちらの記事はその端的な例。「ひとり飲み」という認識がまず間違っている。ツイッターで友人の動向を眺め、帰宅後はビール片手にスカイプで友人とオンラインゲームに興じる。イマドキの若者は孤独などころか、つねに「誰かと一緒」なのだ。先輩社員や上司には入り込むスキがない。


こうした「21世紀型ムラ社会」に生きる人たちの間では今、「結婚」をどのように扱うかが課題になっているという。
将来的には家族ぐるみでの協力関係へと発展させて、たとえば保育園の送り迎えを仕事が早く終わった仲間に一任したり、子育てのあらゆる局面、人生のあらゆる局面を、手を携えて乗りこえていくのが目標だそうだ。
前述の「ルームシェア・マンション」の話をすれば、現在は男女とわず全員が独身だからこそ上手く運営されている側面がある。ここで誰か一人が結婚したときに、現在の共生関係が崩れてしまうのではないか――。私の友人たちはそれを危惧している。


今までの人類の歩みを鑑みれば、21世紀型ムラ社会においても「嫁ぎ行動」は不可避だろう。


それまでのコミュニティを離れて、新たなコミュニティに属する。それが「嫁ぎ行動」の本質だ。また「嫁ぐ(コミュニティ間を移動する)のはメスでなくてもいい」ということが分かっている。
封建時代、貴族たちの「結婚」は血縁関係を広げてチカラを蓄えることが目的だった。現代では血縁関係によらない「共生関係」の輪を広げることに役立つだろう。「嫁ぐ」ことが単なる断絶ではなく、コミュニティのさらなる発展につながればいい。
誰かの「結婚」をきっかけにコミュニティが広がる。なんだかすごく楽しそうな未来だ。




       ◆




現在は、企業家族の時代から21世紀型ムラ社会への過渡期だ。
それゆえに現在の「夫婦」は孤独だ。かつてのように頼れる「実家」もなければ、ぶら下がることのできる「企業」もない。この時代に結婚するということは、たった二人で大海原に投げ出されるようなものだ。仲のいいカップルが結婚に踏み切れずにいるのはそのためだろう。彼らのマリッジブルーの原因には、相談相手やモデルケースの少なさがあげられる。
私たちは「優しく見守る」のを良しとしてきた。けれど、これからは「手を差し伸べる」ぐらいのお節介も許されるんじゃないだろうか。仲良しな男女に向かって、冗談めかして「お前らもう結婚しちゃえよ!」と言うことはある。「21世紀型ムラ社会」を堅牢な社会体制にするためには、それを冗談では終わらせない勇気が必要だ。
昭和の「企業社会に属せなかった人たち」と同程度には若い夫婦を応援してあげてもバチはあたらないと思う。結婚式の「実行委員会方式」ってすごく面白いやり方だと思うんだけど、復活させている人はいないのかな。ブライダル会社にぜんぶ任せるよりも安上がりだし、2次会ぐらいから試してみませんか?
























なお今回のエントリーの最大のオチは、これだけ「結婚! 結婚!」と書いてきた私に恋人がいないことなんだけどな! ほっとけッつーの。ぐすん。










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