デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

最近の日本人は気持ち悪い、そしてそもそも日本人ではない(100年前の)。

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良い日本人とは、よろこんで社会の歯車になるヤツのことだ。ダメな日本人とは空気を読まずに和を乱すヤツのことだ――。そんな考え方が骨身に浸みついているから日本にはマーク=ザッカーバーグが生まれないのだろう。下記のエントリーを読んで、そんなことを思った。



最近の起業家は気持ち悪い、そしてそもそも起業家ではない。
http://anond.hatelabo.jp/20110824130137



米国の起業家はプロダクトが評価されて有名になる。マッキントッシュ、ウィンドウズ、グーグル、フェイスブックetc…… まずは制作物が評価されてから、「いったいどんなヤツが作ったんだ?」と話題になった。一方、日本の起業家はまずブログ等で名前を売ってから“クソみたいな”プロダクトをリリースする。つまり日本の起業家は、起業家というよりもタレントに近い。――なかなか辛口な意見だ。
私は業界の外側にいるので、「タレントみたいな起業家」が誰のことを指しているのか分からない。けれど、「制作物で語るべき」っていう点には同意だ。モノづくりをする人間たるもの、タレント性で名前を売るのは虚しいではないか。


タレントみたいなヤツばかりが起業家になる:この話が本当だとしたら、その原因は日本人の精神性にあると思う。昔ながらの「日本の常識」が邪魔をしているから、「優れたプロダクトを生み出せる人」が起業の道を選ばない。会社を興すのは、目立ちたがりの声の大きいヤツばかりになる。
この国では「仕事」は「ガマンしてやるもの」だ。逆に「好きなコト」とは、仕事のストレスを発散するための余暇だ。だから「好きなコトを仕事にする」のは、人の道に外れたダメ人間のすることなのだ。
好きなコトで稼ぐのにもガマンは必要なのだけど、勤労至上主義の真面目な日本人にはそれが通じない。“普通の人”からすれば、起業家なんてその日暮らしのバクチ打ちと一緒だ。だから学生諸子よ、間違っても「将来は会社を作りたい」なんて言ったらダメだぞ、親が泣く。
私はこういう日本の常識を息苦しいなぁと感じている。好きなコトして生きていたっていいじゃない! で、こういう「日本的なるもの」を捨てることができた本当に優秀な人たちは海外に羽ばたき日本には残らないのだわ。






いまの世の中、カネがなければ生きていけない。生き方を選ぶとは、稼ぎ方を選ぶということだ。だから人に誇れるような生き方を――稼ぎ方をしなさい。日本の大人たちは子供にそう言い聞かせる。では、人に誇れるような稼ぎ方とは何か。人から後ろ指を指されない仕事とはどんなものか。
日本には「おかみに立てつかない歴史」がある。どんな猛将も皇帝を敬っていたし、士農工商身分制度や丁稚奉公、社会のあらゆる分野で「おかみに従順」であることを良しとしてきた。じゃあ“おかみ”が優秀だったかというとそうでもなくて、「現場の個別判断で組織全体をうまく回す」なんてアクロバティックなことをやり抜いてきた、らしい。


池上彰の「学問のススメ」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110802/221831/?P=1&rt=nocnt


「成功すれば上司の手柄・失敗したら自分の責任」という価値観を、私たち日本人は許容してきた。現場の判断で組織運営をするには当然、空気の読み合いが大切になる。「和をもって尊しとなせ」を私たち日本人は実践してきた。
別に歴史を紐解かなくても、実例はそこらじゅうに転がっている。ほら、あなたにも記憶にありませんか? 気の強いしっかり者の女子が文化祭の実行委員になったら、かえってクラスがバラバラになってしまった――なんて経験。実行委員の子が頑張れば頑張るほど「あいつウゼーよな」「偉そうに指図しやがって何様だよ」「全部あいつ一人でやればいいじゃん」と、誰も準備に協力しなくなりクラスの出しものが大失敗に終わる。ありふれた話だ。
ここで実行委員の子がするべきなのは「泣き落とし」だ。非協力的なクラスメイトの前で泣き崩れて「どうしてみんな協力してくれないの……」と弱い部分を見せる。そうすればクラスメイトたちはきっとその子に手を差し伸べるだろう。リーダーが弱みを見せなければ日本人はまとまらない。私たちは声の大きなリーダーを必要としていない。
だから私は高校時代、文化祭や合唱祭の委員長にはふんわりとしたキャラの子をいつも推していた。アニメでいえば豊崎愛生さんが声を当てそうなキャラ。難しい人間関係の調整なんて出来なさそうな柔らかい性格の人が、どのクラスにも一人はいたはずだ。そういう人に要職を押しつけてしまうのだね。校風にもよるだろうけれど、そういう人がリーダーに就くとクラスメイトたちはみんな焦る。(――ほ、本当に大丈夫なのか!?)すると自然にみんなが協力的になり、クラスの出しものは成功する。あと俺はオタクじゃない。




おかみに立てつかない価値観とは、おかみを持ち上げる価値観とセットなのだ。




この価値観は敗戦後も変わらなかった。というか奇跡的な経済復興を影で支えた。集団就職は食い詰めた田舎の間引き策だった反面、背景には「丁稚奉公」の発想がある。高度成長期からバブルにかけて「企業戦士」がこの国の経済を盛りたてた。新渡戸稲造の発見したブシドーの精神は、現代まで脈々と受け継がれてきた。
ところがこの「日本的なるもの」には構造的な欠陥がある。「和を乱すヤツ」が登場した時に、それを扱いきれないのだ。経済の余剰は余暇を生み、余暇は個性を育む。社会が発展して経済が豊かになれば、当然、自分のやりたいことを優先するヤツが現われはじめる。「日本的なるもの」が行き詰るのは時間の問題だった。
しかも悪いことは重なるもので、経済の絶頂からバブル崩壊でドン底へと叩き落された。企業はリストラ合戦を始めて、大量の失業者――和から外れた人を生み出した。ところが日本の社会は、こういう「和から外れた人」をうまく受け入れられなかった。そりゃそうだ。農民なら村八分にすればよかったし、武士なら腹を切らせればよかった。和を乱す人がいない環境で、この国の社会はぬくぬくと育ってきた。現在でこそ切腹はなくなったが、年間三万人の「和から外れそうになった人」が首をくくっている。
和から外れたら死ぬしかない。こんなに恐ろしいことはない。
だから21世紀だというのに、親たちは相変わらず「和をもって尊しとなせ」と子供に言い聞かせる。日本的なるもの――従順な生き方は、すでに機能不全に陥っている。しかし「従順じゃない生き方」のノウハウが日本人にはない。だから大人たちは適切なアドバイスができない。起業したいだなんて一言でも漏らそうものなら、「そんなバクチを打たせるためにあんたを育てたわけじゃない!」と叱られる。「わかってんの? あんたは東大生でも京大生でもないのよ!」……ぉぉぅ。




かくして東大生でも京大生でもない凡人たちは、従順で真面目な日本人へと成長する。





       ◆





この国のモノづくりは、そういう「真面目な日本人」が支えてきた。職人気質とでも呼べばいいのだろうか。カネのためじゃなくて、その作業が好きで好きでたまらない。そんな人たちが世界一の工業国を作り上げた。いわゆるオタク、ナードたちがこの国の経済のエンジンだった。だけどこのエンジンには、ハンドルを操作するAIがついていなかった。「従順であれ」という価値観のせいでAIを剥奪されていた。
ところで、この「職人気質」という発想、なんか都合が良すぎると思いませんか?
なぜ「好きなコト」と「カネを稼ぐこと」が切り離されているのだろう。「カネを目的にしないヤツが一流」という命題の対偶には、「カネが欲しければガマンして“好きじゃないこと”をやりなさい」という教条がある。
この「カネ」と「好き」を切り離す考え方は本当に根強くて、社会のあらゆる局面で顔をのぞかせる。たとえばコミックマーケットのような同人誌即売会には「スケブ」という文化がある。これは「スケッチブック」の略で、同人誌を販売している絵描きさんにスケッチブックを渡し、即席のイラストを描いてもらうことをいう。絵描きさんは自分の技能で稼いでいるのだから、スケブをお願いする側はお金を払うべきだ。が、日本ではなぜか無料だ。絵描きさんの“善意”に甘えてしまっている。一方、アメリカにもAnime ExpoやOtakonといった同人誌即売会があるが、スケブは有料で当り前だという。事情を知らずに参加した日本人が無料でスケブを請け負ってしまい、周囲の参加者からひんしゅくを買う――なんてコトも往々にしてあるらしい。
日本のナードは「カネ」と「好き」を切り離してしまう。洗脳教育のたまものだ。アメリカのナードたちはそれを切り離さない。だから自分の制作物が人気を集めはじめたら、そこから儲けを出そうと考える。そして「モノを作れる経営者」が生まれる。
日本の「モノ作る人」が起業を志向しないのであれば、一体どんな人たちがこの国で会社を興しているのだろう。それは功名心が強く、目立ちたがりで、大人から「このバクチ打ちめ!」と罵られても涼しい顔をしていられる人だ。(で、これらは経営者に必要な資質でもある、たぶん)/いい意味で尾崎豊的な不良精神の持ち主が、この国では起業を目指す。「こんな世の中、間違っている!」と声高に叫ぶのが彼らの目的であって、モノづくりは二の次なのだな。そういう性格の人じゃなければ会社を興せないほど、日本のブシドーは性根が腐ってしまった。




       ◆




だから日本の起業家には二つの道がある。一つはパートナーを見つけて、「モノづくり」と「経営」をそれぞれ分担すること。もう一つはくだらない職人気質を捨てて、稼げるナードを目指すことだ。我慢を美徳とする価値観には、大声でノーと言ってやろう。
信頼できるパートナーと二人三脚で商売をするのは、日本人に向いた方法なのかも知れない。職人気質を是とする価値観と合致するからだ。本田宗一郎の隣にはいつも藤沢武夫がいたし、宮崎駿には鈴木敏夫がついている。この国の「すぐれた経営者」とは、ナードをサポートし、うまく使役できるヤツのことだ。
あなたが“経営側”の人間なら優秀なナードを捕まえるべきだし、あなたがナード側の人間なら、パートナーが本当に信頼に足る経営者なのか見極めなくちゃいけない。あなたのパートナーは、変わり続ける会計基準や税制をきちんと勉強しているかな? 銀行や取引先ときちんと折衝できそう? そういう地味な実務をすっ飛ばしてしまうヤツは少なくない。ドラッガーの著書に耽溺して理想論ばかりを振りまわすヤツには要注意だ。
そしてもう一つの道:あなた自身が「稼げるナード」を目指す方法がある。これはモノづくりが好きで好きでたまらない人にオススメだ。以前の記事で、私は「日本の同人誌は海外で高く売れるはず。もっと外に出ようぜ! 中国人はすでにやっているよ!」と書いた。すると「コミケは趣味・余暇の時間を充実させるものだから、儲けるのは二の次」というブクマコメントを頂戴した。こういう商売っ気を忌避する風潮が、日本のナードを不幸にしている。お金儲けは悪いコトという発想は、日本の勤労至上主義な大人たちが足並みを揃えて作りだした幻想だ。だって、みんなが好きなことで稼ぎはじめたら誰も勤労なんてしなくなるからね。「お金儲けは悪!」だと刷り込むのは、隷属的な労働者を育てるための第一歩なのだ。
ガマンしながらカネを稼いで、余った時間で好きなことをする? バカげている。そんな時間のムダをするぐらいなら、最初から好きなコトで稼いだほうがいい。
ただし、稼げるナードを目指すには一つだけ条件がある。それは実力があることだ。身もフタもないけれど、モノづくりの実力がない人にはこの道は選べない。寝食を忘れてモノづくりに没頭できる人、好きだからこそ自分の技能を磨き続けられる人。そういう飛びっきりのナードでなければ、起業家としては成功できないだろう。ブログの記事を書いているヒマがあったら、コードの一行でも書いたほうがいい。
で、制作の実力がない・だけど起業して成功したい人は、さっさとパートナーを見つけよう。モノづくりよりもブログを書くほうが好きな人だ。実力のあるナードを捕まえて、彼をサポートする立場に身を置くほうが得策かもしれない。あなたの書くプログラムは、たぶんあなたの書く文章ほど優れていない。





       ◆ ◆ ◆





今回のエントリーに書いた内容は、きっと自己啓発本に繰り返し書かれてきたことなのだろうな。そもそも業界の外側にいる私が偉そうに何を書いてるんだ――と、もにょもにょした気持ちになってます。ごめんなさいどうか石を投げないで!
ただ、時代遅れな日本の価値観がたくさんの人に我慢を強いて、息苦しい思いをさせているのは事実だ。で、そういう価値観から解放された人じゃないと「好きなことで稼げない」のはおかしい。本気でそう思う。
一昔前、「韓国や台湾は日本の20年遅れだ」と言われていた。経済も風俗・文化も、かの国々は日本を追いかけていた。(最近じゃ追い抜かれそうだけど)/つまり現在の20代と、20年前に20代だった人たちとの間には、出身国が違うレベルでの価値観の相違がある。いまの日本人は100年前の日本人ではない。100年前の価値観がいつまでも通用するはずがない。
ウチ・ソトを異常に気にする排他性や、文字通りの意味で死ぬほど勤勉だったり――。「日本的なるもの」には反省すべき点も少なくない。こういう部分では積極的に日本人をやめようと私は思う。