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人手不足はピンチではなくチャンス

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 経済学者を名乗る人々は勝手なことばかりを言います。

 いわく、現在の日本で人手不足が深刻なのは経営者の創意工夫や努力が足りないせいで、格安の労働力として外国人を雇うことは日本経済を失速させる愚策である――。

 私が企業経営者の立場なら「ふざけるな」と言いたくなることでしょう。

 企業を経営するという行為は、ただそれだけで不断の努力を求められます。大学の先生たちは、その現実を知らないから好き勝手なことが言える。経営者を悪者扱いするのは、左派的なイデオロギー(※万国の労働者よ団結せよ!)があるからに違いない……とまで考えてしまうかもしれません。

 では、実際のところどうなのでしょう?

 歴史をふり返れば、現在の日本を超えるほどの深刻な人手不足が生じた時代もありました。

 それら人手不足は、この世界をどのように変えてきたのでしょうか?

 経済学者たちの言い分を検証してみましょう。

 

 

■ペストが農奴を解放した

 中世のヨーロッパでは「封建制度」と呼ばれる経済体制が成立していました。

 まず国王は、配下の封建君主たちに土地を与えます。土地を与えられた封建君主たちは、それを農民に耕させ、年貢を取り立てます。似たような制度はヨーロッパに限らず、世界中に存在しました。日本も例外ではありません。

 封建制度における農民にとって、君主はただの地主ではありません。警察と裁判官を兼ねる存在であり、農民たちは地代を納めるのはもちろん、無給労働にかり出されることもありました。当時の農民は奴隷に近い存在であり、「農奴」とも呼ばれます。

 ところが14世紀半ば、「黒死病」の異名を持つペストがヨーロッパを蹂躙します。ペストはその後1世紀に渡り、11~13年おきに大流行しました。15世紀前半には、ヨーロッパの人口はペスト流行前の70~60%ほどになってしまいました。3人に1人以上がペストによって命を奪われたのです。

 これは当然、深刻な人手不足を招きました。

 

 

 オックスフォード郊外のアインシャムには、こんな契約書が残されています。

「1349年の腺ペストによる大量死の際、荘園にはかろうじて2人の小作人が残った。彼らは、その荘園の当時の僧院長にして封建君主だったアプトンのブラザー・ニコラスが、自分たちと新たな協定を結ばなければ、荘園を去るつもりだと表明した[1]」

 ここでいう「新たな協定」とは、無給労働と地代の削減を訴えるものでした。ブラザー・ニコラスは小作人たちの要求を呑まざるをえませんでした。

 アインシャムの一件は例外的な出来事ではありません。

 ヨーロッパ中で同じような事態が生じたのです。

 ペストの流行とそれにともなう人手不足は、西ヨーロッパの封建制度に大きなヒビを入れました。イングランドでは、やがて自分の土地を所有する農民まで現れます。彼らを「独立自営型農民」、英語ではヨーマンと呼びます。

 ヨーマンの登場により、イギリスの農業生産性は飛躍的に向上しました。

 封建制度のもとでは、農民たちには土壌や農法を改善するインセンティヴがありません。どんなに収穫を増やしても、それを封建君主に取り上げられてしまうからです。

 しかしヨーマンは違いました。彼らの努力により、たとえば単位面積あたりの小麦の収量は1300年から1700年の間に約2倍に増えたのです。

 

 現代の私たちは、自分の才覚次第でのし上がり、社会的地位や高収入を得られることを当然だと考えています。しかし封建制度の時代には、それは夢物語にすぎませんでした。農民に生まれたら、どんなに優れた才能を持っていても死ぬまで農民のまま。社会的地位を這い上がるには、宝くじの一等を連続で当てる以上の強運が必要でした。

 血筋や育ちに関わらず、身につけた「能力」が問われる。

 そういう社会がこの世界に現れたのは、深刻な人手不足があったからなのです。

 

 

■高賃金が産業革命をもたらした

 18世紀半ばのイングランドでは、高賃金が問題になっていました。

 時代を遡ること約250年前、16世紀ごろからイングランドでは毛織物が強力な輸出商品となり、その輸出窓口であるロンドンは巨大な都市へと発達しました。

 今も昔も、都市にはたくさんの仕事があり、慢性的に人手不足になりがちです。結果、人材確保のために給与水準は高くなります。ロンドンの賃金は250年かけて上がり続け、高賃金に惹かれて農村から労働者が流出し続けました。それを止めるためには、地方の農業経営者たちもロンドンに近い水準の賃金を支払わざるをえなかったのです。

 こうして18世紀半ばを迎えるころには、イングランドは世界でもっとも賃金の高い地域になっていました。ロンドンに限らずイングランド全土が、です。

 

 

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(画像出典)Wikipedia

 1764年ごろにジェームズ・ハーグリーヴスが発明した「ジェニー紡績機」は、破壊的な技術革新でした。これは綿花をほぐした「原綿」から、「綿糸」を紡ぐための装置です。

 それまでの手紡ぎ車では1本ずつしか作れなかった糸を、一度に8本以上も作れるようになったのです。ジェニー紡績機は改良が重ねられ、一度に紡げる糸の本数は12本、24本と増えました。旧来の糸紡ぎ車と同様、ジェニー紡績機は女性1人で動かすことができました。

 重要なのは、この装置の価格です。

 当時の遺産目録によれば、旧来の手紡ぎ車は1シリング以下であるのに対し、24紡錘のジェニー紡績機は70シリングもしたようです[3]。じつに70倍です。

 ここで少し思考実験をしてみましょう。

 あなたが70シリングの資本を持っていて、綿糸生産の事業を始めたいと考えているとします。もしもその資本で旧来の手紡ぎ車を購入したら、70台を揃えることができます。しかし、同時に70人もの労働者を雇わねばなりません。一方、その資本でジェニー紡績機を購入すれば、機械は1台しか買えません。しかし雇う労働者も1人で済みます。

 つまり、人件費が高ければ高いほど、ジェニー紡績機のような技術革新を導入することが得になるのです。

 じつのところ産業革命初期の発明品の数々は、さほど性能のいいものではありませんでした。人件費が安く、労働者をタダ同然で使える地域(※たとえば当時のインド)では、そんな発明品を使ってもまったく割に合わなかったのです。

 ここから「なぜ産業革命はイギリスから始まったのか」「なぜそれは18世紀に始まったのか」という疑問にも答えることができます。

 当時のイングランドは世界でいちばん賃金の高い地域であり、性能の劣悪な発明品でも、それを導入することで利益を出せたのです。

 そしてイングランドが高賃金になったのは、数世紀におよぶ毛織物産業の輸出と、それにともなうロンドンの発達があったからです。近世のロンドンで生じた人手不足が高賃金経済をイギリスに出現させ、それはついに産業革命という形で結実しました。


 現代の私たちは、学校で算数や理科を教わることを当然だと思っています。企業が「研究開発費」を使うことに疑問を抱きません。しかし、これは産業革命以降の世界の特徴です。それ以前の世界では、科学は金持ちが暇つぶしのために研究するものでした。企業は新技術を研究しなくても、安い労働力を使って利益を出せました。

 産業革命以降の世界を一言で定義するなら「技術革新が連鎖するようになった世界」だと言えます。

 たとえば18世紀半ばに実用化された蒸気機関は、19世紀前半にはそれまでのトロッコと組み合わされて、「鉄道」を生み出しました。19世紀後半からは電気工学が発達し、それらを組み合わせて「電車」が生まれました。そして現在では新幹線が日本中を駆け抜け、江戸時代には2週間以上かかった東京‐京都間を2時間少々で移動できるようになりました。

 産業革命以前の世界にも、もちろん技術革新はありました(※たとえば1230年代のドイツにおける「衣服用のボタン」の発明)。しかし、それらは散発的で、現在のように発明が新たな発明をもたらすような状況ではなかったのです。

 

 人類はようやく、技術革新が利益になるということに気付いたのです。

 その原因は18世紀に産業革命が始まったからであり、その背景にはイングランド全土の高賃金と、それをもたらしたロンドンの人手不足があったのです。

 

 

■人手不足が日本経済の「二重構造」を破壊した

 1950年代までの日本経済には「二重構造」が存在していました。

 大企業に比べて、中小零細企業の賃金水準が極めて低かったのです。大企業はそうした中小企業を下請けにすることで、格安の労働力を利用できました。現代の日本企業が、低賃金の国に海外工場を作るようなものです。それを1つの国の中で行っていたのです。

 しかし1960年、池田勇人内閣が成立。そのブレーンである経済学者・下村治は所得倍増計画を立案しました。それから10年以上に渡り、日本は猛烈な経済成長を経験します。

 この経済成長を牽引したのは通商産業省(現・経済産業省です。

 重点産業と見なした業界を支援しつつ、経営者に生産計画を立案させ、その計画よりも強気で増産を目指すよう指導したのです。

 企業が生産活動を拡大するには、当然、設備投資が必要です。それに応じるためには、機械、鉄鋼、セメントなどの産業は生産を増やさなければならず、自らも設備投資が必要になります。結果として設備投資が設備投資を呼ぶ状況になり、日本は好況に沸き、経済大国へとのし上がりました。

 この急速な経済成長により、「二重構造」は完全に破壊されます。

 じつを言えば、団塊の世代によって労働者の数が増えすぎ、失業が問題になるという予想もありました[4]。しかし実態はまったく逆でした。爆発的な経済成長により、この時代には人手不足が深刻化したのです。

 その結果、1960年までは4000円前後だった中卒者の初任給は、わずか2年ほどで6000円に跳ね上がりました。また、「臨時工」という名目で本工の半分ほどの賃金で働かされていた労働者は姿を消しました[5]。労働組合も強気に賃金闘争を行い、1961年以降は毎年2ケタのベースアップ率が達成されます[6]。

 さらに、労働組合のある大企業を中心に賃金水準が引き上げられた結果、中小企業も高賃金を約束しなければ労働者を確保できなくなりました。高い給料を支払いながら経営を続けるためには、生産性を高める――つまり労働を節約して資本(=機械・新技術)の利用を増やす――しかありませんでした。

 そして、それができない企業は淘汰されていったのです。

 こうして大企業と中小企業との賃金格差は是正されていき、1969年には国民の約9割が自らを中流階層だと認識するようになりました[7]。いわゆる「一億総中流」の時代が到来したのです。

 その後も日本は着実な成長を続け、1990年までには欧米先進国と遜色ない生活水準を手に入れました。

 

 

■人手不足とどう戦えばいいのか

 歴史をふり返れば、人手不足はピンチではなくチャンスです。

 深刻な人手不足が起きるたびに、世界はより良い方向へと進歩してきました。農奴は自由を手に入れ、産業革命により人々の創意工夫が評価されるようになり、日本人の経済格差は大幅に改善されたのです。

 企業経営に携わる私の知人・友人のなかに、「世界を悪くしてやろう」と考えている人は1人もいません。自分の事業によって、この世界をより良いものにしようという高い志を持った人ばかりです。企業経営者を悪者扱いするのは、まったくナンセンスと言っていいでしょう。

 しかし反面、もしも「正しい」と信じて行ったことが世の中を悪い方向へと導いてしまうのであれば、それは笑えない喜劇です。

 では、現在の日本の人手不足と、どのように戦えばいいのでしょうか。

 

 結局のところ、私の結論も経済学者の先生たちと同じです。

 つまり「格安の労働力を求めるのではなく、労働者の利用を減らして、新技術の利用を増やすべきだ」というものです。

 歴史をふり返れば、格安の労働力は経済成長の推進力ではなく、むしろ足かせになります。新技術を導入するインセンティヴを奪ってしまうからです。

 たとえばロシアでは19世紀まで農奴制が残り、農業経営者は格安の労働力を利用できました。が、結果としてロシアは、西ヨーロッパ諸国の産業革命に大きく遅れをとることになりました。より賃金水準が低かったインドのような発展途上国では状況はさらに深刻で、継続的な経済成長が始まったのは20世紀の終わりごろからです。

(1950年代のインドでは)洗濯ものをほすのに、ものほしざおにかけたりはしない。女が身にまとうサリーは、ながい1枚の布である。ふたりの男が、その両端を手にもって、日のあたるところにたつのである。そのまま、かわくまでたっている。
 わたしはまた、道ばたにはいつくばって、手で地面をたたいている男をなんどもみた。それは、道路の修理工である。道具ももたずに、れんがのひとつひとつを、素手で地面にうめこんでいるのである。おそるべき人海戦術だ。
 ──梅棹忠夫『文明の生態史観』中公文庫(1974年)p21

 当時のインドは、経済規模に対して人口が多すぎました。要するに「人が余っていた」のです。人々はきわめて貧しく、また、どんな機械よりも安価に労働力を使うことができました。

 おそらく、物干し竿を買うよりも男2人を雇うほうが安上がりだったのでしょう。 ハンマーを購入すれば短時間で作業が終わるかもしれません。しかし、ハンマーを買うよりも、労働者を増やすほうが安上がりだったのでしょう。

 

 世界をより良いものにしたいのであれば、格安の労働力を求めるべきではありません。

 それは時計の針を逆転させることに繋がります。

 たとえば低賃金の外国人労働者が日本に流入すれば、日本人労働者は彼らと競争せざるをえず、結果として日本人の給与水準も低下します。賃金が下がれば人々の購買力は減り、企業は売上を伸ばしづらくなります。さらに、格安で労働者を確保できるなら、人件費を削減するために新技術を導入しようと誰も考えなくなります。

 結果として、近世以前の世界に――経済成長は停滞し、技術革新は散発的にしか起こらず、科学は暇人のためのものという世界に――近づいてしまうのです。

 

 噛み砕いて言えば、「それまで年収200万円の非正規雇用者3人にやらせていた仕事を、年収500万円の正社員1人にやらせる」という発想が必要なのです。その100万円の利ざやを稼ぐには、今までの仕事のやり方を根本的に変えなければならないでしょう。

 いったいどうすれば、そんなことが可能なのか?

 残念ながら、私はその答えを持ち合わせていません。その具体的な方法は、業界ごと、企業ごとに違うでしょう。正解のない難問であることは間違いありません。

 ただ、1つ言えるとすれば、経営者であるあなた自身がその答えを持っていなくてもいいはずです。あなた自身が妙案を思いつくことができなくても、いいアイディアを生み出せる人を雇えばいい。企業経営とは、そういうものではないでしょうか。

 むしろ日本独自の問題として生じそうなのは、高齢の正社員による反発です。

 ベトナムやフィリピンに行ったとき、その社会の若々しさに衝撃を受けました。それらの国々の平均年齢は20代~30代、働く人々は新しいもの好きで、仕事のやり方を変えることにも柔軟に適応できる年齢層でした。

 対する日本人の平均年齢は46.35歳です[8]。

 中年を過ぎた正社員のなかには、自分の仕事のやり方を変えることを嫌がる人も珍しくないでしょう。「今まで10年、20年もこの仕事のやり方で上手くいっていたんだ」「なぜ今さら変えなければならないんだ」と反発する社員が現れることは想像に難くありません。

 そういう社員の意識をどのように変えていくのか。

 どうやって自社の生産性を高めるアイディアを出してもらうのか。

 この点にこそ、企業経営者の手腕が問われるはずです。

 

 繰り返しになりますが、求められるのは「それまで年収200万円の非正規雇用者3人にやらせていた仕事を、年収500万円の正社員1人にやらせる」という発想です。もしも、あなたの経営する企業がそれに成功すれば、同業他社を大きく引き離すことができるでしょう。

 今こそ勝負をしかける時です。

 人手不足は、ピンチではなくチャンスなのですから。

 

    ◆ ◆ ◆

 

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 今回の記事はかなり駆け足で、重要な論点をいくつもすっ飛ばしています。当然、異論反論があるでしょう。また、今回は企業経営者側に視点を置いた記事として書いてみました。「技術革新を導入するのはいいけれど、それで切り捨てられる労働者はどうなるんだ?」という疑問を抱く方も多いはずです。

 

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■参考資料■
[1]ダロン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』ハヤカワノンフィクション文庫(2016年)上p176
[2]ロバート・C・アレン『世界史のなかの産業革命名古屋大学出版会(2017年)p217
[3]ロバート・C・アレン(2017年)p218
[4]中村隆英『昭和史』東洋経済新報社(2012年)下p671
[5]中村隆英(2012年)下p669-670
[6]中村隆英(2012年)下p674
[7]中村隆英(2012年)下p673
[8]世界の平均年齢 国別ランキング・推移 – Global Note