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少子化の原因を「価値観の変化」とする危険性

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 日本の合計特殊出生率が途上国水準の4以上から先進国水準の2前後まで落ちたのは第二次世界大戦の直後であり、本格的な経済発展が始まる前であり、高度成長よりも前だった……という基本的なデータを押さえていないと、少子化の議論はとんちんかんなものになります。

 通説では「経済的に豊かになることで生活スタイルが変わった結果、少子化が起きた」と説明されがちです。しかし日本や他の多くの途上国で起きた少子化は、この通説とは真逆でした。むしろ、経済発展よりも先に少子化が生じています[1]。この時間差を鑑みれば、少子化は経済発展の結果とは言えません。

 私の考えでは、少子化は経済発展の結果ではなく、むしろその原因の1つだと思っています。子育てに割かれる人的リソースが削減された結果、労働者はより多くの時間を生産活動や技能習得に割り振ることができるようになったはずです。高度成長には様々な要因がありますが、少子化もその1つでしょう。

 また、「出生率」と「合計特殊出生率」の違いを把握しておくことも重要です。

出生率」とは人口1,000人あたりの出生数のことを指し、これは人口構成の偏りに影響されます。たとえば20代の女性が多い社会では出生率は高くなり、それが少ない社会では低くなります。

 このような人口の偏りを統計的に補正したものが「合計特殊出生率」であり、「その社会の女性1人あたりが生涯に産む子供の数」を示しています。

団塊の世代」が生まれたのは1947~49年ですが、この時期に合計特殊出生率が急増したわけではありません。むしろ減少が始まった時期に当たります。彼らの数が多いのは、女性1人が生涯に産む子供の数を増やしたからではありません。乳幼児死亡率が下がり、彼らの多くが生き残ったからなのです。

 結果となる現象は、必ず原因よりも後に起きます。経済発展が少子化(=少産化)よりも後に起きているのなら、一般的に言って、経済発展〝が〟少子化の原因とは考えられません。「原因よりも先に結果が生じた」というのなら、なぜそうなったのかきちんと説明する責任があるはずです。

 

 

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 古今東西を問わず少子化を説明できるほぼ唯一の原因は、乳幼児死亡率の低下です。

 しかし、これは旧来の人文・社会学的な理論の枠組みではうまく解釈できません。そのため、あまり真剣に検討されてきませんでした。子供が死なないのは良いことなのに、それが少子化の原因とはけしからん……というわけです。

 しかし、進化心理学の視点からすれば、「乳幼児死亡率の低下が少子化を引き起こす」という調査結果は納得できるものです。というか、この現象を説明する主な理論だけでも3つぐらいあり、しかもそれらは相互排他ではありません[2]。ここでは理論の詳細には立ち入りませんが、もっともらしい仮説を3つも考えられるぐらい、これはごく自然な現象なのです。ヒトを普通の動物だと考えれば、このような調査結果は充分に予測できるものであり、不可解なものではありません。

 なお、この話をTwitterでしたところ「昔は子供が労働力としてアテにされていたから多産だったのではないか?」という疑問を頂戴しました。通説としてよく耳にする仮説ですので、鋭いツッコミだと思います。

 ざっくりと言えば、児童が労働力としてアテにされるようになったのは約1万年~8000年前の農耕の開始以降だとされています。じつは狩猟採集民の子供はそんなに働いていないのです[3]。でも、狩猟採集を営む伝統部族の合計特殊出生率現代日本よりもずっと高い。「子供は労働力として価値があったから多産だった」説の苦しいところです。

 また、日本で「学制」が発布され、全国に小学校ができたのは明治5年(1872年)です。学校教育の普及により「子供」の扱いが変わったことは充分に想像できることですが、1940年代後半からわずか10年ほどで進んだ日本の少産化とは、時期が一致しません。

 

 

 

 

進化心理学の基本的なアイディア

 あらゆる生物は、基本的に「自分の遺伝子をより多く残そうとする」ように設計されています。そうでない生物は、進化の過程で淘汰されてしまうからです。将来に残せる遺伝子を最大化できる個体だけが生き残ってきました。

 しかし、だからといって、ただたくさん子供を産めばいいという話ではありません。マンボウのように何億個も卵を産んでも、その大半は大人になれないからです。

(※逆に言えば、大半の卵が敵に食べられてしまうからこそ、マンボウは大量の卵を産むように進化したとも言えます。)

 哺乳類の場合、妊娠・育児という過程を経ることで、子供がきちんと大人になる確率を高めています。魚やカエルのような多産を諦める代わりに、少産でも子供が成熟する(=孫の顔を見られる)可能性を高めるという戦略を採っているのです[4]。

 ヒトの場合、事態はさらに悩ましいものになります。

 社会的な動物全般に言えることですが、繁殖に成功できるかどうかは群れの中の地位に大きく左右されます。社会的な地位の高い個体は多くの子供を残せる一方で、最下位の個体は繁殖機会そのものを得られません。孫の顔を見るためには、子供に充分な投資を行い、その子の社会的地位をできるだけ高める必要があるのです。

 加えて、ヒトは極端に成長が遅い動物であるという特徴も無視できません。体重60kgしかない私たちは、体重6トンのアフリカゾウと同じくらい時間をかけて大人になります。成熟にかかる時間が長いということは、その期間に親や血縁者から行われる投資が、その子の繁殖成功に与える影響も大きくなるということを意味しています。

 したがって、残せる遺伝子を最大化するための「適切な子供の数」が存在することになります。親が育児に使える経済的・時間的な資源には限りがあります。いたずらに子供を増やせば、子供1人あたりへの投資は相対的に減ってしまいます。その子は社会的地位を高められないばかりか、食糧不足で死んでしまうかもしれません。

 一方で、ごくわずかな数の子供しか産まなければ、育児資源をすべてその子に集中させることができます。しかし、その子が事故や病気で死亡した際に遺伝子を残せなくなる危険性も高くなります。

 多産により得られるメリットと、少産により得られるメリットの均衡する点が、ヒトの「適切な子供の数」です。
(※ここでいう「適切」とは、遺伝子にとっての話です。「社会的に望ましい数」という意味ではない点に注意。)


 子供を1人持つだけでは、自分の遺伝子の50%しか残せません。2人なら75%です。きょうだい間も遺伝子の50%を共有しているため、そうなります。無性生殖ができない動物の場合、自分の遺伝子を100%残すことは困難です。有性生殖により、必ず遺伝子が混ざるからです。

 おそらくヒトの(とくに女性の)脳のデフォルト設定では、自分の遺伝子の8割程度を残せれば満足できるようにできているのでしょう。乳幼児死亡率の高い環境では、その水準を満たすためにたくさんの子供を産む必要があります。乳幼児死亡率が下がれば、そのようなリスクヘッジは不要になります。

 

(19世紀末~20世紀初頭にイングランドで生じた)出生率低下の理由としては、夫婦の望む子供の数が実際は所得とは無関係で、望まれる存命の子供の数はつねに二、三人だったからだとも考えられる。子供の数をせいぜい二人にとどめたくても産業革命以前の)マルサス的経済の時代には死亡率が高かったため、五人以上の子供を産む必要があったのである。

――グレゴリー・クラーク『10万年の世界経済史』日経BP社(2009年)下p159 

 
 ここで「8割の遺伝子を残したいと考えて子供を産むようなヒトはいない」とツッコミを入れたくなる読者もいるでしょう。

 そのご指摘はまったく正しい。

 残せる遺伝子の量を考えながら家族計画を立てる人はほとんどいませんし、いるとしたらちょっと偏執的です。一般的に言って、遺伝子にもとづく本能的な行動は、本人には自覚できない場合のほうが多いのです。

 たとえば、私たちが甘いものを好むのはカロリーを効率よく摂取するためです。が、それを自覚する人はほとんどいない。大抵は甘いものが「美味しい」から、甘いものを好むだけです。同様に、私たちは「遺伝子を残すため」だと自覚して子供を作るわけではありません。単純に子供が可愛いから、子供を欲しがるのです。

 問題は、なぜ私たちの脳は甘いものを「美味しい」と認識するようになったのか。子供を「可愛い」と感じるように進化したのか、です。

 本人にも自覚できない進化適応上の意味を探ろうとすることが、進化心理学の基本的な考え方です。

 

 

 

 


自然主義の誤謬に注意

「乳幼児死亡率の低下が少子化をもたらす」という事実に、嫌悪感を覚える読者も多いでしょう。というか、かつての私もそうでした。子供が死ななくなったのは「善い」ことであるはずなのに、それが少子化の原因とはにわかに信じられません。子供が死ななくなったことは「悪い」ことなのでしょうか?

 この嫌悪感の原因は、「自然主義の誤謬」にあります。

「自然である=善い」という、ごく素朴な勘違いのことです。

 言うまでもなく、自然であるからといって、それが即座に「善い」とはいえません。物事の善悪を決めているのは私たち人間の社会的合意であって、この宇宙には善も悪もないからです。

 言い換えれば、「である」ことと「あるべき」ことは違うのです。

 たとえばロケットエンジンは、核弾頭を飛ばすために進歩したもの「である」と言えます。コンピューターは、核兵器の弾道を計算するために発展したもの「である」と言えます。しかし、だからといって、ロケットやコンピューターを核攻撃のために使う「べき」とは言えません。問題のカテゴリーが違います。

 ヒトは乳幼児死亡率が低下すると、合計特殊出生率を下げるように進化した動物「である」と言えます。しかし、だからといって乳幼児死亡率を高める「べき」とは言えません。

 子供が死ななくなったことは、間違いなく善いことです。

 当たり前の話です。

 

 

 

 

■生涯未婚を選ぶヒトがいるのはなぜか?

「生物は自分の遺伝子をできるだけ多く残そうとする。ヒトも例外ではない」という話ですが、「生涯未婚率の上昇を説明できないのではないか」とツッコミを入れたくなる読者もいるでしょう。

 生涯独身を選ぶなら、自分の遺伝子は残せません。にもかかわらず、それを選ぶヒトがいるのはなぜでしょうか? ごく真っ当なツッコミですので、ちょっと考察してみましよう。

 ポイントは「包括適応度」という概念です。

 包括適応度の概念から言えば、ヒトは自分が子供を作らなくても自分の遺伝子を残すことができます。ヒトはきょうだいと50%の遺伝子を共有しているので、その子供である姪や甥とは25%の遺伝子を共有することになります。姪や甥がきちんと成人して子供を残せるのなら、その分の遺伝子を残せるのです。

 つまり、ヒトはきょうだいの子育てに協力する(=姪や甥の面倒を見る)ことでも、自分の遺伝子を残せます。ここから考えれば「姪や甥の多い人は結婚を諦める可能性が高い」という調査結果が予測できます。

(※浅学を恥じるばかりなのですが、もしもそういう調査結果をご存じの方がいればご教示いただけると嬉しいです。)

 

 ヒトは自分が子供を産む以外でも、血縁者の子育てを手伝うことで遺伝子を残せます。それを端的に示す例は、女性に閉経があることでしょう。じつは哺乳類のなかで、閉経を経験する種はとても珍しいのです。大抵の哺乳類のメスは、寿命のぎりぎりまで妊娠可能です。

 では、なぜヒトには閉経があるのでしょうか?

「現代では平均寿命が延びたからだ」という説明は間違っています。なぜなら、近代以前の世界で平均寿命が短かった一番の要因は乳幼児死亡率が高かったからであり、最長寿命はあまり変わっていないからです。旧約聖書にも「人生は70年、健やかであっても80年」と書かれています。モーセの時代から、20代まで生き延びたヒトはそのまま70歳ぐらいまで生きました。大昔から、ヒトには閉経があったのです。

 有力な説の1つは「おばあちゃん仮説」と呼ばれるものです。

 高齢女性は体力に限界があるので、自分が子供を産むよりも、孫の面倒を見て、孫がきちんと成人するのを助けたほうが、より効率よく遺伝子を残せるはず……という説です。ヒトは成長の極めて遅い動物だからこそ、孫の世話が重要になりました。

 ヒト以外では、クジラの仲間には閉経があることが知られています。たとえばシャチは(太古のヒトのように)数頭~数十頭の血縁者による群れを作って暮らしています。また、年長のメスが群れの知恵袋として重要な役割を果たしているらしいことが分かっています。そして、シャチには閉経があります。

 群れの年長のメスが死亡した場合、その子供である成獣のメスの死亡率は5.7倍、オスの死亡率は13.9倍に跳ね上がる……という報告もあります。彼らがいったいどんな知識を伝えているのかは分かりません。しかし、群れのおばあちゃんが重要な役割を担っているのは間違いなさそうです[5]。


 話を「生涯未婚を決意するヒトがいる理由」に戻しましょう。

 甥や姪がいるヒトの場合、わりと簡単に説明できることを示しました。問題は、甥や姪がいないにもかかわらず(それどころか一人っ子であるにもかかわらず)生涯未婚を選択するヒトがいることです。

 これは、どう解釈すべきでしょうか?

 驚くべきことに、社会性の高い動物ではしばしば「心理的去勢」が起きることが知られています。たとえば群れのなかで順位が低く交尾できないオスヒツジは、メスとの肉体的な接触があっても、性的不能になる場合があるというのです[6]。これはいったい、どういうことでしょうか?

 私はヒツジの生態には詳しくないのですが、ヒトのように子供や孫、甥・姪を手厚く世話するとは思えません。にもかかわらず、自分の繁殖機会をみすみす見逃すような個体が現れる。これは結局のところ、「同種の動物であれば血縁関係になくても遺伝的には近い」という話に要約できると思います。

 かなり殺伐とした話になりますが、「繁殖を諦めたオスヒツジ」が群れの中に混ざっていることで、繁殖中の他のヒツジが肉食獣の餌食になる確率は相対的に低くなるはずです。言うなれば「ライオンやトラに肉を提供することで、自分に近い遺伝子を持つ群れの仲間を守っている」というのが、解釈の1つです。

 ただ、この解釈は悪名高い「群淘汰」仮説に危険なほど近づいています。実際には「繁殖機会をめぐって群れの中で戦い続けることで得られる遺伝的メリット」が「繁殖を諦めることで得られる遺伝的メリット」を下回ったときに、心理的去勢が生じるのでしょう。

 言うまでもなく、ヒトの社会はヒツジのそれよりもはるかに複雑です。生存を脅かす敵が、肉食獣ではなく同種の人間である場合も多かったでしょう。「肉食獣に肉を提供する」以外でも、繁殖を諦めることで遺伝的メリットを得られる状況があったのかもしれません。たとえば創意工夫をこらした発明品を作ったり、群れが過去に経験した戦争を語り伝えたりすることでも、「遺伝的に近い仲間」を助けることができたかもしれません。とても興味深く、好奇心をくすぐられます。

 

 

 

 

■乳幼児死亡率だけで説明できないのは当たり前

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「生涯に産む子供の数の判断」は、いわゆる「複雑系」です。判断を下すまでには様々な要因が影響を与えますし、初期値の違いが結果を大きく左右します。したがって、乳幼児死亡率という単一の要因だけで合計特殊出生率が決まるわけではありません。当然、他の要因も影響します。

 たとえばフィリピンでは、1970年代に「乳児死亡率が変化していない(むしろ微増している)にもかかわらず合計特殊出生率が下がる」という現象が起きました。この時期は、独裁者であるマルコス政権が戒厳令を敷いていた期間と重なります。社会情勢が不安定だからこそ「産んだ子供がきちんと大人になれる」と判断する女性が減ったのでしょう。

 1966年の日本の「ひのえうま」にも言えることですが、合計特殊出生率は社会情勢や文化の影響も受けます。

 ただし、これらは進化心理学的な解釈を否定するものではありません。

 むしろ、その強力な証拠の1つになります。

 進化心理学的な視点の核にあるのは、「ヒトは将来に残せる自らの遺伝子を最大化しようとするはずだ」という発想です。乳幼児死亡率の低下が少子化をもたらすというのは、その発想から導かれる付随的な予測にすぎません。

 社会情勢が不安定なら、子供はきちんと育たず、将来に残せる遺伝子も最大化できません。ひのえうまに産まれた女性は夫を早死にさせるという迷信がありました。その迷信を理由に結婚を避けられてしまうのであれば、やはり将来に残せる遺伝子を最大化できません。

「将来に残せる遺伝子」に影響する文化・風習・社会情勢であれば、それは合計特殊出生率に影響するはずです。

 問題は、与える影響の大きさと普遍性です。

 たしかに合計特殊出生率は、乳幼児死亡率の他にも様々な要因の影響を受けます。しかし、乳幼児死亡率を超えて普遍的な(つまりあらゆる地域・文化圏・時代に当てはまる)要因は、現在のところ見つかっていないのです。

 

 

 

 


■「第二の人口転換論」の苦しさ

 かつての少産化と、現代の少産化とは、別の現象だとする理論があります。

 第二次世界大戦直後の日本で生じたような「乳幼児死亡率の低下→人口増大→少産化」の過程を「人口転換」と呼びます。

 これに対し、現代ではまったく違うメカニズムの「第二の人口転換」が起きているというのです。

 西欧諸国では1960年以降に出生率が低下し始め、80年以降は人口置き換え水準よりも低い値で停滞するようになりました。その原因は(乳幼児死亡率の低下ではなく)3つの文化・習慣的な革命――すなわち、

経口避妊薬の普及による「避妊革命」

・セックスを夫婦間のものに限定しなくなった「性革命」

・女性の解放・男女の雇用機会均等のような「ジェンダー革命」

――が起きたからだ、とする仮説です。

 これを「第二の人口転換論」と呼びます。

 

 実際、第二の人口転換論は西欧諸国にはよく当てはまるようです。スウェーデンデンマーク、ドイツ、オランダ、ベルギーのような北ヨーロッパの国々では、この仮説がほぼ間違いないものだと見なされているそうです[7]。

 しかし、第二の人口転換論は3つの点で問題があります。

(1)西欧諸国以外にはあまり当てはまらない。

(2)循環論法的である。

(3)「自然の斉一性の原理」を無視している。

 順番に見ていきましょう。

 


(1)西欧諸国以外にはあまり当てはまらない。

 出生率が人口置き換え水準よりも低い値で停滞しているのは、西欧諸国に限りません。日本も例外ではありません。

 では、日本では経口避妊薬が普及しているでしょうか? 現在の日本では性体験のない若者が増えていますが、「性革命」が起きたと言えるでしょうか? 男女の所得には未だに大きな差がありますが、「ジェンダー革命」は起きたのでしょうか?

 答えは「ノー」です。

 第二の人口転換論には、乳幼児死亡率低下のような普遍性はありません。少なくとも日本にはまったく当てはまりません。

 オックスフォード大学のデイヴィッド・コールマンは、第二の人口転換論は一部の西欧諸国には当てはまるものの、アジアやアフリカなどの他の地域には適用できないと批判しています。また、同じヨーロッパでも、ポーランドウクライナのような東欧諸国では話が変わります。これらの国のエリート階級には第二の人口転換論が当てはまりますが、一般の労働者階級には適用できないというのです[8]。

 ごく一部の地域にしか当てはまらないのであれば、それを普遍的な法則だと考えることはできません。フィリピンにおけるマルコス政権の戒厳令や、日本におけるひのえうまのような、地域特異的な要因だと見なすべきでしょう。

 むしろ、第二の人口転換論を普遍的な法則だと見なすのは危険でさえあります。

「日本にも同じ法則が当てはまるはずで、それが見えにくくなっているだけだ」と判断してしまい、法則が当てはまる都合のいい証拠を集めてしまうからです。そんな研究姿勢では、西欧中心主義の差別的な思考法だという批判を避けられないでしょう。

 シャーロック・ホームズのセリフを思い出さずにはいられません。

「事実を知る前に理論を立ててはならない。理論に合わせて事実を歪めることになる」

 西欧諸国にしか当てはまらない理論を普遍的なものとして扱うのであれば、西欧諸国が「人類を代表するサンプルである」ことを証明する必要があります。

 


(2)循環論法的である。

 少子化以外の現象にも言えることですが、人間の行動が変化した原因を「文化や習慣、イデオロギー」に求める議論は、あまり筋がいいものにはなりません。循環論法になりがちだからです。

「文化が変わったから行動が変わったのだ」

「その証拠に、実際に文化が変わっている」

 これでは何も説明していないのと同じです。

 文化や習慣が変わったから人間の行動が変わったのではなく、人間の行動が変わったからこそ、それらも変化したのかもしれません。行動が変わった原因は他にあるのかもしれません。

 たとえば「核家族や1人暮らしが増えたのは、個人主義が広まったからだ」という命題を考えてみましょう。この命題そのものは、決して間違ったことは言っていません。しかし、循環論法的です。なぜなら「個人主義」という言葉には、「核家族や1人暮らしを好む」という含意があるからです。

 たとえるなら、「インフルエンザ患者が増えたのは、インフルエンザ・ウィルスに感染する人が増えたからだ」と言っているようなものです。同じ現象を別の言葉で記述しているだけなのです。

 たしかにこの命題そのものは間違ったことを言っているわけではありません。しかし、インフルエンザ患者を減らしたいという目的には役に立ちません。インフルエンザ患者が増えた理由は(たとえばワクチンの接種率が低いなどの)他の原因で説明されるべきです。

 

 文化的要因、イデオロギーには、それ自身だけで出生転換、人口転換を牽引する力はないと考えるのがより妥当であろう。それは出生率低下を促進する触媒的な働きを持っていても、蒸気機関車的な牽引力は持たないのである。
 さらに、レザフォード(Robert D. Retherford)らの日本に対する研究、リンドファス(Ronald R. Rindfuss)らのアメリカに対する研究によれば、出生率低下のような人口動態の現実的変化が生じた後に価値観の変化が起きるという状況がみられ、その逆ではない。
――河野稠果『人口学への招待』中公新書(2007年)p137-138

 

 

(3)「自然の斉一性の原理」を無視している。

 自然科学では「今日当てはまった法則は、昨日も、明日も当てはまる」ということが暗黙の前提になっています。たとえば「水の入った鍋を火にかければ沸騰する」という現象を今日観察したのであれば、明日も同じように水は沸騰するだろうし、もしも昨日試していたら同じように沸騰しただろう……と考えるわけです。

 何を当たり前のことを、と思われるかもしれません。

 しかし、科学的な思考をするうえでは非常に重要です。

 もしも「水の入った鍋を火に掛ければ沸騰する」という法則が過去や未来では当てはまらないとしたら、そもそも科学的な理論を立てること自体ができなくなります。

 この前提のことを「自然の斉一性の原理」と呼びます。(※註1)

 

 第二の人口転換論で不思議なのは、この期間にも乳幼児死亡率が下がり続けていたにもかかわらず、それをほぼ無視していることです。過去の人口転換で当てはまった法則があるのなら、現在でも当てはまるだろうと期待することが、科学的には妥当な態度であるはずです。わざわざ旧来のメカニズムを捨てて新しいメカニズムを考案するのなら、まず旧来のメカニズムが働かなくなったことを証明しなければなりません。

 第二の人口転換論者は大抵、「乳幼児死亡率だけでは説明できない場合がある」ことを理由に、旧来のメカニズムを捨てることを正当化しています。

 しかしすでに書いた通り、合計特殊出生率が社会情勢や文化・風習の影響を受けることは、乳幼児死亡率を重視する進化心理学的な見方とは矛盾しません。つまり、これだけでは旧来のメカニズムを捨てることを正当化できないのです。

 

 ところで、ヒトが甘いものを好むのは、私たちが進化した太古のアフリカのサバンナで効率よくカロリーを摂取するためでした。ところが現在の先進国社会では、太古の地球ではありえないほど大量の糖分を摂取できます。しかし、私たちの脳はこのような状況に適応していません。その結果、肥満や糖尿病などが社会問題になってしまいます。

 同様に、現在の先進国の乳幼児死亡率は、太古のアフリカではありえないほど低くなっていると考えていいでしょう。しかし、私たちの脳はそのような状況に適応していません。その結果、合計特殊出生率が自然界ではありえないほど低くなっているのかもしれません。

 この仮説が正しいかどうかは分かりません。ここで言いたいのは、わざわざ新しいメカニズムで代替しなくても、現在の先進諸国で見られる出生率の低迷を説明することは充分に可能っぽいぞ……ということです。

 それでもなお旧来のメカニズムを捨てるというのなら、それ相応の理由が必要です。不勉強を恥じるばかりですが、私は説得力のある理由を聞いたことがありません。

 

 自然の斉一性の原理という考え方は、19世紀初頭の地質学者チャールズ・ライエルによって広まりました。

 当時はまだ、科学と宗教が充分に分離していなかった時代です。ライエル以前の地質学者の多くは、目の前にある地層と、旧約聖書の解釈との間で苦悩していました。炭鉱を開発するために地面を掘れば、複雑な地層と化石がざくざくと出てきます。それらが形成されるのに長い時間がかかったであろうことも想像できます。しかし、それでは天地を七日間で作ったという聖書の記述と矛盾してしまうのです。

 旧約聖書の登場人物たちを家系図にまとめれば「地球が創られた時代」を特定できます。しかし、聖書から計算できる地球の年齢では、地層が形成されるには短すぎました。

 そこで、ライエル以前の地質学者の多くは「過去の地球では現在とは違う科学法則が働いていた」と考えました。極端な火山噴火や大規模な洪水など、現在では観察できない現象が次々に起きて、ごく短期間に地層が形成されたと考えたのです。これを天変地異説と呼びます。

 一方、ライエルはこの説に異を唱えました。「現在の地球で見られる現象は、過去の地球にも当てはまったはずだ」という前提のもとに地質学理論を打ち立てたのです。ライエルの理論では、地球の年齢は旧約聖書の記述よりもずっと長いものになりました。これにより地質学は宗教から一歩飛び出し、現代的な科学へと歩み始めたのです[9]。

(※以上はごく噛み砕いた説明です)

 じつのところ、ライエルの理論がすべて正しかったかというと、そうでもありません。彼は、過去の地球では極端な天変地異は起こらなかったと考えていました。しかし、現代の科学では「トバ・カタストロフ」のような大規模な火山噴火や、全球凍結(スノーボール・アース)のような極端な天変地異が起きたことが分かっています。

 しかし、それでも、地質学と宗教とを切り離したライエルの業績が否定されるものではありません。

 第二の人口転換論に固執する論者には、ライエル以前の地質学者の姿が重なります。彼らは旧約聖書に記された教条を守るために「現代の地球と過去の地球では違う法則が働いた」と考えました。同様に、第二の人口転換論者は「イデオロギーの変化が少子化をもたらす」という教条を守るために、わざわざ過去の人口転換と現在の少子化を「別の現象」と見なそうとしているように思えます。

 

 

 

 

■結局、どうすればいいの?

「現在の先進国では乳幼児死亡率が自然界ではありえないほど低くなっているため、出生率も人口置き換え水準以下で停滞している」という推測が正しいとすれば、なかなか絶望的です。子供が死なないのは善いことですから、今さら乳幼児死亡率を高くするわけにもいきません。いったいどうすれば、少子化を解決できるのでしょうか?

 突破口は、やはり「乳幼児死亡率は付随的なものにすぎない」という点でしょう。

 あくまでも、ヒトは「将来に残す自分の遺伝子を最大化する」という行動の法則を持っているだけで、乳幼児死亡率はそれに影響する要因の1つにすぎません。進化の過程で手に入れたヒトの心の仕組みがより詳しく解明されれば、低い乳幼児死亡率を維持したままでも、若者に「子供が欲しい」と思わせるようなトリガーが見つかるかもしれません。

 少なくとも、「子供に充分な投資ができる」という期待を持たせることは重要でしょう。出産したら仕事をやめざるをえず、収入が大きく下がってしまう。そんな世の中では、女性が「子供1人あたりへの投資を最大化できる」と信じられるわけがありません。また、日本では結婚と出産が強く結びついているため、男性の収入も重要です。「結婚して子供ができても大丈夫」と思えるほどの収入がなければ、男性は結婚に踏み切ることができないでしょう。

(※とはいえ、出産・育児周りの社会福祉を手厚くしたからといって、必ずしも合計特殊出生率の向上に繋がるとは限らないことが、他国の事例から分かりつつあります。悩ましい点です。考えてみれば当然で、10万年前のアフリカでは役所に行って子育て給付を受け取ることはできませんでした。私は社会福祉の充実が非常に重要だと考えていますが、それだけではヒトの「心」を動かすには不充分なのでしょう)

 

 結局のところ、問題はヒトの心のメカニズムがよく分かっていないということに集約されます。

 私たちが結婚に踏み切るメカニズムも、産児数を決定するメカニズムも、ようやく解明が始まったところです。この部分が闇に包まれている限り、効果的な社会福祉政策を計画することはできず、それは手探りで場当たり的なものにならざるをえません。

 

 それでも、少子化の原因を「価値観の変化」とする議論よりは「マシ」だと私は考えています。

「価値観の変化」こそが少子化の原因であるという説は、なぜこんなにも人気があるのでしょうか? それは、おそらく「最近の若者はけしからん」という考え方に一致するからです。

 最近の若者は結婚しなくなり、少子化が進みました。その原因は、フリーターやニート、パラサイトシングルといった人々が増えたからで、そういう人々が増えた理由は「価値観が変わった」からだ――。つまり「悪いのは最近の若者だ」というわけです。

 このような世界観に浸っていれば、そんな社会を作り上げたのは自分たち年長者の世代であるという責任から目をそらすことができます。

 しかし、そんな世界観から、よい政策が生まれるはずがありません。

 

 

  ◆ ◆ ◆

 


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 ヒトに限らず、ある生物の生態を解明するには1世代だけを観察してもほとんど意味がありません。最低でも3世代、できれば5~6世代を観察しなければ、その生物がどんな生活環を持ち、どのような繁殖様式を持っているのかは分かりません。

 テレビやネットの論者たちは、大抵、自分たち1世代の経験だけから社会を語ります。しかし、野生のサルの社会を知るには、まずそのサルの生態を知らなければなりません。ヒトも同様です。ヒトの生態が分からなければ、その社会についても分かりません。

 ヒトの場合、1世代(=生まれた子供が次の子供を産むまで)は約25年です。6世代で150年。つまり1世紀半という時間軸で観察しなければ、「ヒトはどういう生き物であるか」という疑問に答えることはできないのです。

 

 したがって、歴史的な統計データを見るしかないということになります。

 

 今の私たちが生きる近現代の社会は、18世紀後半のイギリスで始まった「産業革命」に大きく影響されています。

 なぜ、それはイギリスで始まったのでしょうか?

 そして、なぜ18世紀後半だったのでしょうか?

 また、江戸時代までの日本は経済的には貧しい後進国でした。いったいなぜ、私たちの日本は世界第三位の経済大国になることができたのでしょうか?

会計が動かす世界の歴史 なぜ「文字」より先に「簿記」が生まれたのか

会計が動かす世界の歴史 なぜ「文字」より先に「簿記」が生まれたのか

 

 新刊『会計が動かす世界の歴史 ~なぜ「文字」より先に「簿記」が生まれたのか~』では、これらの疑問にもかなりの紙幅を割いて解説しています。

 議論の前提となるごく基本的な知識を、分かりやすくまとめました。

「高校生でも楽しく読めるお金の歴史」「大人も驚くお金の真実」というのが本書のコンセプトです。とにかく面白く読めることを優先して書いたので、経済史・会計史の入門にはちょうどいいと思います。

 また、博覧強記・頭脳明晰なはてなーの諸賢におかれましては、「いつもブログで突飛なことを書いているRootportが歴史をどう書くんだ?」とニヤニヤしながら楽しめると思います。

 ぜひご一読いただけると嬉しいです。

 

 

 

 


■参考文献■

[1]少子化の原因が分かったので対策書く/書籍『失敗すれば即終了』の補足 - デマこい!

[2]Why Does Fertility Decline? Comparing Evolutionary Models of the Demographic Transition(pdf)

[3]ダニエル・E・リーバーマン『人体 600万年史』早川書房(2015年)下p33

[4]マッシモ・リヴィ‐バッチ『人口の世界史』東洋経済(2014年)p2-5

[5]水口博也『シャチ 生態ビジュアル百科』誠文堂新光社(2015年)p40

[6]バーバラ・N・ホロウィッツ, キャスリン・バウアーズ『人間と動物の病気を一緒にみる』インターシフト(2014年)p115-116

[7]河野稠果『人口学への招待―少子・高齢化はどこまで解明されたか』中公新書(2007年)p132
[8]河野稠果(2007年)p136-137

[9]ライエルの業績については様々な文献があるが、入門編としてはマイケル・モーズリー&ジョン・リンチ『科学は歴史をどう変えてきたか』東京書籍(2011年)の第3章(p100-141)が分かりやすい。また、この時代の科学思想については松永俊男『ダーウィンの時代―科学と宗教』名古屋大学出版会(1996年)が詳しい。

 

 

※註1:自然の斉一性の原理
じつは「自然の斉一性の原理」は、数学的に正しいことを証明できない。自然の斉一性の原理を証明すること自体にこの原理が必要になるため、循環論法に陥ってしまうからだ。しかし、この原理を前提としなければ科学技術は発展せず、私たちは現代のような豊かな生活を手に入れることもできなかった。経験から言って、「自然の斉一性の原理」は数学的な正しさを脇に置くとしても「有用である」とは言えるはずだ。