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「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

なぜこの世界に同性愛者が存在するのか?

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 同性愛者の存在は謎である。

 動物は繁殖して、うまく子孫を残せた者だけが生き残ってきたのではないか?

 であれば、子孫を残せない同性愛者は進化の過程で淘汰されたはずだ。

 したがって同性愛がヒトの〝自然な〟行動だとは、にわかに信じがたい。理解のない人は、同性愛者を「非生産的」と考えてしまうかもしれない。同性愛は現代社会の病理――親の教育や社会的抑圧――によって生じるものではないか? と。

 結論から言えば、同性愛者がこの世界に存在する理由は、現代社会の歪みや家庭環境ではない。同性愛はヒトの不自然な行動でもない。どうやらヒトが進化の過程で身に着けた、ごく自然な行動バリエーションの1つであるらしい。

 

 なぜなら同性愛には、遺伝性があると分かっているからだ。

 このことは心理学者トマス・ブーチャードらが行った「双子の研究」に端を発して、繰り返し確かめられてきた[1]。

 一卵性双生児は、まったく同じ遺伝子を持った天然のクローンである。生まれてすぐに養子として別々の家庭に引き取られた一卵性双生児を調査すれば、ある人の個性が遺伝の影響によるものなのか、家庭環境によるものなのかを推測できる。比較対象として、二卵性双生児(※こちらは遺伝子を約半分しか共有していない)で、別々の家庭に引き取られた人を調べる。これが「双子の研究」だ。

 双子の研究は、社会学者たちから激しい反発を招いた。なぜなら、趣味嗜好から政治思想に至るまで、それまで純粋に「育ち」の影響だと考えられていたものの多くに、遺伝的影響があると明かしてしまったからだ。

 ブーチャードの行った「右派的傾向」を調べるアンケートは衝撃的だ。たとえば「移民」にノー、「死刑」にイエスと回答した者は、右派的傾向が強いとして得点を計算していくのだ。結果、別々に育てられた一卵性双生児の相関は62%だったのに対し、二卵性双生児のそれはわずか21%だった[2]。

 同性愛に話を絞れば、少なくとも西洋社会のゲイ男性には遺伝性があるという。後続の研究では、レズビアンにも同様の遺伝性があることが示唆されている[3]。要するに、一卵性双生児の片方が同性愛者である場合、もう一方も同性愛者である可能性が高いのだ。育った家庭環境が違っても、だ。同性愛が遺伝子の影響を受けていることは間違いない。

 

 慌てて補足しておくと、これは「ゲイの遺伝子が存在する」とか「その遺伝子を持つ人は必ずゲイになる」といったような、遺伝子決定論ではない。私たちは「遺伝」という言葉を耳にすると、変更不可能な運命論を思い浮かべがちだ。しかし、その認識は間違っている。

 たとえば五輪選手の夫婦から生まれた肥満体のオタクを想像すると分かりやすい。

 優れたアスリートの両親を持つ子供は、優れた身体機能の遺伝的形質を受け継いでいる可能性が高い。しかし、その子が1日の大半をパソコンの前で過ごすオタクに育ったら、その遺伝的形質は眠ったままになるだろう。その遺伝子群を目覚めさせるには、運動の習慣を持つとか、適切なトレーニングの指導を受けるとか、環境的な要因が欠かせない。

 筋トレをさぼるとすぐに筋力が落ちることからも分かる通り、ある時はスイッチがオンになっていた「筋肉を育てる遺伝子群」が、状況によってはオフになるかもしれない。環境に応じて、遺伝子は目覚めたり眠ったりする。遺伝子は柔軟なのだ。

 遺伝子は間違いなく私たちの個性に影響を与える。が、あくまでも影響するだけで、支配することはできない。「瞳の色の遺伝子」などは例外的な存在である。このことは以前、こちらの記事で詳しく紹介した。

rootport.hateblo.jp

 

 じつのところ、同性間の性交渉はヒトに限ったものではない。

 野生動物ではサルをはじめ、キリンやゾウ、果てはヒツジに至るまで、様々な種で同性愛的な行動が観察されている。Wikipediaには「動物の同性愛」というページまで存在するほどだ。自然界のなかで、同性愛は珍しいものではないのである。

 しかし、だ。

 同性愛がありふれたものだと判ったからと言って、謎が解けたわけではない。

「同性間での性交渉では子孫を残せない」という、厳然たる事実は残る。

 にもかかわらず、ヒトの同性愛には遺伝性があるという。つまり、同性愛になりやすい遺伝的傾向が、進化の過程で淘汰されなかったのだ。先祖から子孫へと、脈々と受け継がれてきたことになる。

 いったいどういうことだろう?

 

 

 

 

 

■ヒトの進化

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 私たちの祖先は、どんな姿だったのだろう?

 これは本を何冊も書けるほどの論点なので、ここではごく大雑把に理解しておこう。オランウータンとゴリラとチンパンジーを足して3で割ったような姿を想像しておけば、おおむね間違いない。専門家からは叱られそうな雑な説明だが、この記事の内容を理解するだけなら充分だ。

 諸説あるが、私たちヒトやチンパンジー、ゴリラの仲間が、オランウータンの仲間と分岐したのは約1100~1500万年前だと言われている。当時の私たちは、今よりもずっと樹上生活に適応した姿をしていた。特筆すべきは、膝の関節をまっすぐ伸ばせることだ。これは枝の上で立ち上がって、遠くの枝まで手を伸ばすための適応だったらしい。チンパンジーやゴリラではこの特徴は失われてしまったが、オランウータンとヒトには保存されている。

 チンパンジーやゴリラの祖先は、森の中にとどまった。膝を伸ばすことが有利になる状況は減っていき、やがてその特徴は消えた。

 一方、私たちヒトの祖先は森の外縁部、木々がまばらにしか生えていない場所を住処にした。そして登場したのがアウストラロピテクスだ。今から約400万年前のことである。私たちは膝を伸ばせるという特徴を失わず、直立二足歩行へと進化した。

 木々がまばらにしか生えない環境では、直立二足歩行には様々な利点がある。

 まず手足を振り子のように使えるので、長距離を少ないカロリー消費で移動できる。また視点が高くなるので、木に登らなくても外敵や食物を発見しやすくなる。さらに太陽が天頂に近づく正午ごろに、光を浴びる面積をもっとも小さくできる。四足歩行の動物が背中全体を熱されてしまうのとは対照的だ。どうやらこの時代の私たちは、肉食獣が暑さでへばっている真昼間を活動時間に選んでいたらしい。直立二足歩行なら、太陽光による体温上昇を最小限にとどめて、外敵が少ない時間帯にも活動できるのだ。

 とはいえ、この時代の私たちはヒトというより、まだサルと呼んだほうがふさわしい姿をしていた。他のサルと違うのは、背筋をピンと伸ばして歩けることぐらいだ。現在のように長いアキレス腱を持っていなかったし、食性は草食に近い雑食だった。

 アウストラロピテクスは比較的成功した動物のようで、いくつもの別種の化石が発見されている。そのうちのどれが私たちの直接の祖先なのかは分かっていないが、中には固い根茎を噛み砕くために、強靭なあご骨とハンマーのように大きな奥歯を発達させたものもいる。現在の私たちの体にもこの時代の痕跡は残っており、犬歯(※糸切り歯)はその一つだ。チンパンジーは獲物を噛み殺し、肉を切り裂くのに適した牙を持っている。一方、私たちの犬歯は薄い彫刻刀のような形をしている。これは植物の繊維をハサミのように切断するための適応だ。

 私たちの肉体がぐっと現代人らしくなるのは、約150~200万年前。

 ホモ・エレクトスが登場した時代だ。

 この時代になると、手足や関節の構造は現代人とほぼ同じものになっていた。長いアキレス腱、物を投げるのに適した柔軟な肩や腰――。

 この時代の私たちは、食性が肉食に近いものへと変化していた。狩りをして、獲物を捕食する動物になっていたのだ。ヒトは鋭いかぎ爪も牙も持たない、弱い動物だと考えられがちだ。ところが私たちには(高い知能の他に)強力な武器が3つある。暑さへの耐性と、長距離を走破する能力、そして物を投げる能力だ。

 じつをいえば、ヒトは全哺乳類のなかでもっとも暑さに強い動物である。太陽光の投射面積が小さいことはすでに述べたが、さらに大量の汗で体温を下げることができる。体毛が薄いので冷却効率も高い。アテネ五輪のような40℃近い気温でもフルマラソンを走れる唯一の動物。それがヒトだ。

 そして長いアキレス腱を始めとして(ただ歩くだけでなく)効率的に走るための適応が随所に見られる。ホモ・エレクトスの時代の私たちは、「持久狩猟」と呼ばれる方法で獲物を狩っていた。炎天下の昼間、相手が熱中症で倒れるまで何kmも追いかけ続ける狩猟法だ。獲物が身動きできなくなったら、投石や撲殺で仕留めればいい。

 ここまでの話は、以下の記事で詳しく紹介した。

rootport.hateblo.jp

 

 こちらの記事の中で、私はホモ・エレクトスを、リカオンのような生態に進化したサルだと書いた。もちろんリカオンに比べれば、肉食への依存度は低く、植物性のものをたくさん食べていただろう。暑さへの耐性はともかく、リカオンほど速く走れるわけでもなかっただろう。しかし、アフリカのサバンナで進化したことや、血縁にもとづく群れを作ること、チームワークを活かして長距離走で獲物を捕らえること等、似ている点は多い。

 とはいえ、リカオンはヒトではない。当然である。

 彼らは、私たちほど巨大な脳を持っていない。

 

 

 

■巨大な脳と「志向意識水準」

 興味深いのは、脳の肥大化が止まらなかったことだ。

 ホモ・エレクトスの時代には、私たちはほぼ現在と変わらない肉体を手に入れていた。ところが当時の脳の容積は、現代人よりもずっと小さかった。つまり、手足の進化が一応の完成を見た後も、脳は進化し続けたのだ。

 もちろんアウストラロピテクスに比べれば、ホモ・エレクトスの脳容積は約2倍ほど大きくなっていた。ホモ・エレクトスはごく原始的な石器を作っていたし、火も利用していた。周囲に生息する動物に比べれば、かなり賢い動物だったに違いない。それでも彼らの平均的な脳容積は1000cc程度だった。一方、現代人のそれは1300~1400ccだ[4]。当時と比べて1.3~1.4倍も脳が膨らんだのだ。

 断っておくが、脳が大きく進化したのは偶然ではない。

 必然的な理由があったはずだと断言できる。

 なぜなら、脳は極めて燃費の悪い臓器だからだ。体重の2%ほどの重さしかない脳は、全身のエネルギーのじつに20%近くを消費する。これに匹敵するのは腸ぐらいのものだ。そのため、霊長類の進化にはしばしば脳の大きさと腸の長さに一種のトレードオフの関係が生じるらしい。果物のような栄養価の高い食料を吟味できるほど賢くて大きな脳を持つ代わりに、短い腸を持つか、それとも、何でも消化できる長くて強靭な腸を持つ代わりに、脳を小さくして食料の吟味を諦める――周囲にある葉っぱを手当たり次第に食べる――か、である。

 要するに脳は、伊達や酔狂で大きくできるものではないのだ。

 ここで考慮すべきは、進化の「軍拡競争」という概念だ[5]。ごく噛み砕いて説明すれば、冷戦時代のアメリカとソビエト連邦を思い浮かべると分かりやすい。片方が軍備をわずかでも増強すると、もう一方はそれを上回ろうとさらに軍備を拡張する。いわゆる「正のフィードバック・ループ」が延々と続いた結果、米ソはお互いに地球を何回も滅ぼせるほどの核兵器を所有することになった。あなたが宇宙人だったとして、客観的な第三者の立場から見れば、人類はじつに非合理的な生き物だと感じるに違いない。地球が無ければ人類は生存できないのに!

 このような一見すると非合理的に思えるほどの軍備拡張は、じつは生物の進化にも見られる。捕食者が少しでも速く走れるようになると、被捕食者のうち足の遅い者は死に絶える。結果、被捕食者の平均的な足の速さは以前よりも速くなる。すると捕食者のうち、足の遅い者は狩りに失敗するようになり、やがて死に絶える。そして平均的な足の速さが向上し――。以下、同じことの繰り返しだ。捕食者と被捕食者はお互いに加速し続け、それ以上足の筋肉や骨格に栄養を振り分けると子孫を残せなくなる水準まで、足が速くなる。

 たとえ話として私がお気に入りなのは、フクロウとウサギの軍拡競争だ。

 ご存知の通り、ウサギは長い耳を持ち、優れた聴覚を持っている。平均的な哺乳類の耳のサイズから考えれば、非合理的なほど大量のエネルギーを耳の成長に振り分けていると言っていい。一方、フクロウの翼には特殊な羽毛が生えており、羽ばたくときの音を消すことができる。消音できなくてもワシやタカは立派に狩りを成功させているのだから、フクロウの翼には余計な機能がついていることになる。しかし、ウサギの耳が良くなるほど、フクロウの消音能力も高くなり、逆もまたそうだった。結果としてウサギとフクロウは現在のような特徴を進化させた……という話である。

(※実際にはウサギの天敵はフクロウだけではないし、フクロウの獲物もウサギだけではない。以上の記述は、あくまでも理解を助けるための「たとえ話」だと考えてほしい。念のため)

 

 ヒトの脳に話を戻そう。

 私たちの脳が大きくなった理由は、しばしば環境に適応するためだったと解説される。食料をうまく見つけて、獲物を効率よく倒すため。道具を使うため。あるいは火を使うため――。これらの説明は、ホモ・エレクトスの時代までなら当てはまるかもしれない。だが、この説の苦しい点は、脳の肥大がホモ・エレクトスで止まらなかったことだ。それどころか脳容積の増大は、ホモ・エレクトス以降さらに加速したのだ。

 もしも現代人の脳が、狩りのためだけに大きくなったのだとしたら、私たちホモ・サピエンスが進化したアフリカのサバンナには、ヒトと同じくらい賢い獲物がいたことになってしまう。進化の軍拡競争という概念から考えれば、当然そうなる。しかし、これは明らかにおかしい。ヒトよりも賢いシマウマやレイヨウなどいるわけがない。

 ここでちょっと立ち止まって考えて欲しい。

 じつは当時のアフリカのサバンナには、ヒトと同じくらい賢い動物がいたのだ。

 いったいどんな動物か、お分かりいただけるだろうか?

 

 そう、同じヒトである。

 

 とくに同じ群れの仲間こそが、もっとも近い知能を持ち、もっとも激しい競争を行うライバルでもあった。

「生存競争」という言葉を聞くと、私たちは肉食獣に襲われる草食動物の姿を思い浮かべがちだ。しかし実際には、生存競争がもっとも激しくなるのは異種間ではなく、同種間である。あなたがシマウマだったとして、生き延びるためにライオンよりも速く走る必要はない。あなたの隣を走る友達よりも速く走れれば充分だ。

 ヒトがヒトを狩って食べていたと言いたいのではない。極度の飢餓状態ではそういう事態になっただろうが、それが進化の原動力だったわけではない。

 ヒトの場合、群れで生活することや、成熟の遅さが重要なポイントになる。

 他の霊長類との比較から、ヒトの祖先がずっと群れで生活してきたことは間違いない。またホモ・エレクトスの時代には、すでにそこそこ大きな脳を持っていた。脳が大きくなるほど、そこに詰め込める情報量も増え、一人前になるまでの時間が長引いていったはずだ。

 このような特徴を踏まえると、ヒトの脳が巨大化した理由が見えてくる。群れ社会の中で仲間と上手く関係を築き、高い地位についた個体ほど、たくさんの資源を集めてたくさんの子供を残すことに成功しただろう。一夫一妻制の傾向が強く、カップルを長く維持できる個体ほど、長期間の子育てに成功しただろう。

 ヒトの脳は仲間と協力したり、あるいは仲間を利用したり、時には裏切ったりするために大きく進化したのだ。これは「社会的知性説」、あるいはマキャベリ的知性説」と呼ばれている[6]。

 たとえばキイロヒヒのメスは、血縁にもとづく「同盟」を組むことが知られている。同盟の仲間と協力して、えさやなわばりを他の同盟から守るのだ。毛づくろいをする相手の数などから、彼女たちの社会ネットワークの大きさ、すなわち友達の数が分かる。より友達の多いメスの子供は、そうでないメスよりも生存率が高い[7]。

 また霊長類全般では、オス同士の競争が激しい種ほど、脳の新皮質のサイズが大きくなることが知られている[8]。複雑な社会関係には、高度な脳が必要なのだ。

 あなたが誰かと2人で雪山の山荘に閉じ込められたところを想像して欲しい。あなたにとって重要なのは、相手が友好的かどうか、友達かどうかだ。あなたが気にすべき人間関係の組み合わせは1組だけ――あなたと相手の関係――である。しかし閉じ込められた人数が3人になると、これは3組に増える。5人なら10組だ。野生動物も同じだ。群れのメンバーが増えると、覚えておくべき人間関係の組み合わせは指数関数的に増えていく。

 

 ヒトの知能の高さを示すものさしの一つに、「志向意識水準」というものがある。

 簡単に言えば、誰かの考えていることを推測する能力のことだ。

 たとえば「私は〇〇だと思う」「私は△△だと考えている」というように自分の内面を自分で理解できれば、一次の志向意識水準を持っているといえる。「あの人は〇〇だと考えているはずだ」と他人の内面を推測できるようになれば、それは二次の志向意識水準を持っているといえる。さらに「私が〇〇と考えているだろうとあの人は推測しているはずだ」と、他人の中に自分の姿を投影できるようになれば、それは三次の志向意識水準だ[9]。

 ほとんどの哺乳類、そして鳥類は、自分が何を求めていて、今から何をしようとしているのかを理解しているように見える。彼らは一次の志向意識水準を持つと言っていいだろう。少なくともダンゴムシのように単純な条件反射に支配されているわけではなく、複雑な環境に適応するために(ダンゴムシよりは)大きな脳を有効活用しているはずだ。

 霊長類の仲間は、ときに「戦術的欺き」をすることが知られている。自分の行動が他者の目にどのように映り、それによって自分がどんな得をするのか理解していなければ、嘘をつくことはできない。すべてのサルに当てはまるわけではないが、少なくともチンパンジーやその他大型類人猿は、二次の志向意識水準を持っているようだ。

 サル以外の動物では、イヌも二次の志向意識水準を持っていそうだ。YouTubeを開けば、まるで飼い主の内面を読んだような行動を見せるイヌの動画が大量に見つかる。慎重な動物学者なら、いわゆる「パブロフの犬」のように条件付けされているだけで、二次の志向意識水準など持っていないと言うかもしれない。しかしイヌは、およそ1万年にわたりヒトと共同生活を送ってきた動物だ。彼らが高度な社会的認知能力を身に着けていたとしても不思議はない。

 では、肝心のヒトはどうか?

 ヒトの志向意識水準は抜きん出ており、健康な大人なら五次の志向意識水準まで持つことができるという。たとえばマクドナルドで女子高生が次のような会話をしていたとして、私たちの脳は何の問題もなく理解できる。

「カズ先輩ってさー、絶対にサキちゃんのこと好きだよね」
「分かる。サキも気づいていそう」
「だけどカズ先輩にはカノジョがいるし、サキにはただの後輩として親切にしているだけ…ってふりをしてるでしょ?」
「とくにカノジョの前では」
「バレバレだよね」

 さて、この文章を読んでいるときのあなたは、何次の志向意識水準を働かせているだろう?

 進化心理学者ロビン・ダンバーは、シェイクスピアが天才たるゆえんは志向意識水準を扱うことに長けていたからだと述べている[10]。言われてみれば、たしかに彼の作品は「誰が何を考えていて、何を考えていないか」「誰が何を知っていて、何を知らないか」が重要な鍵になっている。『オセロ』も『ロミオとジュリエット』も、登場人物それぞれの考えていることがすれ違うことによって悲劇が起きる。

 シェイクスピアは、そのすれ違いの物語を観客に信じ込ませるという最後の壁を破った点で、六次の志向意識水準を持っていた。常人には五次が限界であるそれを、彼は一段階上のレベルで扱うことができたのだ。

 

 狩りや道具作成が、脳の進化に寄与したのは間違いない。しかしヒトの脳は、狩りのためだけに発達したと考えるには上等すぎるのだ。大きすぎるし、高機能すぎる。

 私たちの脳は群れの中で、他者と上手くやっていくために大きくなった。たとえば志向意識水準に焦点を合わせれば、より高次のそれを扱える個体ほど、政治的に巧みに立ち回ることができ、よりたくさんの子孫を残すことができただろう。結果としてヒトの脳はこれほどまでに大きくなり、私たちは高度な社会的認知能力を得たのだ。

 世間のサラリーマンたちが文句を垂れつつ会社に通えるのも、あなたが週末にAmazon Primeで配信されている『恋に落ちたシェイクスピア』を楽しめるのも、すべては進化した脳のおかげである。

 さてここで、脳を肥大化させた要因がもう一つある。

 もしかしたら「群れ社会を作ること」よりも、ずっと重大な影響を及ぼしたかもしれない要因だ。

 それはヒトが、一夫一妻制で繁殖することだ。

 

 

■ヒトの繁殖様式

 ヒトは基本的に一夫一妻制の動物だ。

 社会学をかじった人なら、「ちょっと待て!」と言いたくなるだろう。結婚は人間が創造した社会制度の一つにすぎず、一種のフィクションであるはずだ。ヒトが生まれつき一夫一妻制の生態を持つ動物だって? そんなの絶対、認められない! だいいち、男も女もしばしば浮気をするじゃないか。ヒトが一夫一妻制の動物だとしたら説明がつかないのでは――?

 社会学の多くの分野における問題点は、ヒトを生まれつきの傾向や特徴を何一つ持たない知性的な主体だと想定していることだ。私たちを取り巻く社会制度や風習はすべて、人間の創意工夫で作り上げたものにすぎず、そこに遺伝的影響や生物学的基盤があることを認めようとしない。このような人類観を、進化心理学者のジョン・トゥービーとレダ・コスミデスは「標準社会科学モデル」と名付けた[11]。

 標準社会科学モデルは、経済学における「合理的経済人モデル」によく似ている。古典的な経済学は、ヒトを経済的に合理的な選択をする動物だと仮定して発展してきた。情報を過不足なく計算して、数学的に正しい選択が行えるはずだ、と。

 しかし、これは現実には一致しない。

 たとえば他人が冷蔵庫に入れた100円の缶コーラを勝手に飲んでしまう人でも、100円硬貨を盗むことには躊躇する[12]。あるいは「98%の確率で52万円もらえるのと、100%の確率で50万円もらえるののどちらがいい?」と問われたら、大半のヒトは後者を選ぶ。期待値でいえば前者のほうがお得なのにもかかわらずだ[13]。合理的経済人モデルは空想にすぎない。標準社会科学モデルも同じだ。

 

 動物の繁殖様式は、大きく4パターンに分類できる。

 一夫一妻制、ハーレム制、一妻多夫制、乱婚制だ。

 このうち乱婚制や一妻多夫制の動物は、オスの睾丸が大きくなるという特徴がある。1匹のメスが複数のオスと交尾をするので、他のオスよりも多くの精液を生産できないとメスの膣内に精子を残せないからだ。私たちの近縁種ではチンパンジーが乱婚制であり、オスの睾丸は体重比でヒトの3~6倍、ゴリラの13倍も重い[12]。ヒトは乱婚制や一妻多夫制ではなさそうだ。

 ゴリラはハーレム制の動物で、1頭のオスが多数のメスと繁殖する。メスたちが他のオスと交尾する心配がほぼ無いので、大量の精液を作る必要もない。そのため睾丸は私たちよりも小さい。

 反面、ハーレム制の動物には「オスとメスの違いが明瞭になる」という特徴がある。

 たとえば鳥類には、オスが美しい羽毛を持つ種が多い。それらの種では、ごく一部の美しいオスだけが多数のメスと交尾できる。そのため進化の過程でオスの羽がより美しく、より派手になったのだ。一方、メスは一見すると別種に思えるほど地味である。

  さらにハーレム制の動物では、雌雄の体格差が広がる。オスが巨大化するのだ。哺乳類にせよ鳥類にせよ、ハーレム制の動物はオス同士が激しく争う。より体格に優れているオスや、より強そうな武器を発達させたオスでなければ、ハーレムの支配権を得られない。

 ゾウアザラシは典型的なハーレム制の動物で、オスの体重はメスの7倍に達する。ゴリラの場合、オスの体重はメスの約2倍だ。ライオンのオスは体を大きく見せるたてがみを発達させているし、シカの仲間ではオスのほうが大きな角を持つものもいる。

 

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(画像出典)Humanbody社チンパンジーの骨格模型商品ページ

 

 ヒトの男女の体格差は、さほど大きくない。

 上記の画像は、チンパンジーの頭蓋骨の骨格模型だ。左がオス、右がメスである。オスのチンパンジーは狩りや戦争を行うため、大きな牙が発達していることが分かる。ご存知の通り、ヒトのオスにこんな牙は生えていない。法医学者でもない限り、頭蓋骨だけでヒトの男女を見分けるのは難しい。

 体重でいえば、男性は女性の1.2~1.3倍程度だ。ゾウアザラシのように明白なハーレムを作る動物だとは考えにくく、ゴリラに比べても体重差は小さい。このことは「ヒトは基本的に一夫一妻制の動物である」という仮説に一致する。

 血液免疫学の分野でも、この仮説を支持する証拠が見つかっている。41種類の霊長類の白血球を調べたところ、乱婚制のサルはそうでないサルよりも様々なタイプの白血球を持つことが分かったのだ[15]。

 メスが多数のオスと交尾する種では、性感染症に罹患するリスクも高まる。だから特定のオスとしか交尾しない種よりも、複雑な免疫系が必要になったのだろう。私たちの免疫システムは、乱婚制のチンパンジーよりも、一夫一妻制のテナガザルや、ハーレム制のゴリラ(※メスは特定のオスとしか交尾しない)に類似しているという。

 極めつけは、脳のサイズだ[16]。

 フクロウやカラス、オウム等の鳥類には、一夫一妻制の種が存在している。彼らは繁殖期のたびに相手を変えるのではなく、同じ相手と死ぬまで添い遂げる。浮気率も低い。このように長期間にわたりカップルを維持する鳥たちの脳のサイズは、そうでない種のそれよりもずっと大きい。哺乳類の場合は、オオカミやキツネ、レイヨウが一夫一妻制を取る。彼らの脳は、乱婚制の近縁種よりも大きいという。

 つまり大きな脳は、夫婦を維持するためにも重要なのだ。

 一夫一妻制を取るためには、自分の配偶者が誰であるかをきちんと認識して、覚えておかなければならない。個体識別の能力や、記憶力が問われる。さらに相手の行動を観察して、破局しないように自らの行動を調整しなければならない。動物にとって夫婦関係は、文字通り頭を悩ませるような大問題なのだ。

 では、地球上でもっとも大きな脳を持つ動物は?

 鏡を見れば分かる通りだ。

 

 ついでに言えば、ヒトのオスが若いメスを好む原因も、おそらく一夫一妻制にある。

「バカを言うな!」と、一部のフェミニストは激怒するかもしれない。「若い女は美しいという社会規範があるから男は若い女が好きなのだ」と。

 ところが――。

オスが若い配偶者を好む現象も、動物界で普遍的に見られるものではない。オランウータン、チンパンジーニホンザルなどの霊長類では、すでに出産を経験し、繁殖能力をもつことが立証されている年長のメスのほうが、配偶者として好まれる。これらの霊長類のオスは、若いメスにはあまり性的関心を示さない。若いメスは、まだ成熟していないため繁殖能力が低いからである。しかし(…)人間の配偶行動では結婚が中心的な役割を占めるために、男性は若い妻を求めるようになった。彼らの欲求もまた変化し、いま妊娠可能な状態にあるかどうかだけでなく、将来にわたって繁殖能力を維持できるかどうかによって、女性を評価するようになった[17]。

 要するに「ヒトのオスは美しいから若いメスを好む」という説明では浅すぎるのだ。ヒトのオスは、出産可能な期間が長く残っているからこそ、若いメスを美しいと感じるように進化したのである。

 ヒトの女性は10代後半から繁殖可能になり、繁殖を終える年齢(=末っ子を産む年齢)は、様々な文化圏でほぼ一定で38~41歳である[18]。私たちの祖先に近い暮らしをしている狩猟採集民の場合、合計特殊出生率(※1人の女性が生涯に産む子供の数)は2.8~8.0と幅広い。が、中央値は4.5。普通は1人の女性が4~5人の子供を産むようだ[19]。繁殖期間は約20年であり、4~5年に1人のペースで出産していることになる。

(※余談だが、4~5年間というのは、赤ん坊が母国語を習得して物語を作れるようになるまでに要する期間[20]とほぼ一致している。興味深い一致だ)

 この狩猟採集民が産む子供の数だが、意外と少ないと感じないだろうか?

 たとえば1920年生まれの私の祖母は、7人きょうだいの長女だった。「昔の人は多産だった」というイメージを私たちは抱きがちだ。

 そういうイメージとは裏腹に、狩猟採集民は乳離れが遅く、出産の間隔が長い。そのため子供の数が少なくなる。子供を抱えたまま長距離を移動しなければならず、離乳食を安定して入手できるとは限らない。同時に複数の赤ん坊を世話できないのだ。ヒトの合計特殊出生率が(私の曾祖母のように)7前後まで上昇したのは、農耕と定住生活を開始して、出産間隔が短くなってからである[21]。

 いずれにせよ、ヒトのメスが生涯に産める子供の数には上限がある。オスにしてみれば、配偶者のメスが若ければ若いほど、将来に持てる自分の子供の数も増える。だからヒトのオスは若い――出産可能な期間が長く残っている――メスを好むようになった。

 ただし、ここには「ヒトが一夫一妻制の動物だから」という前提がつく。

 もしもヒトがハーレム制や乱婚制の動物だったら、このような好みを発達させる必要はない。手近にいる妊娠可能なメスと、片っ端から交尾したほうが多くの子供を残せるだろう。年齢で選り好みするようなオスは不利になってしまう。

 

 ヒトが一夫一妻制に進化した原因の一つは、成熟に時間がかかることだろう。

 たとえば平均的な現代日本人を100人、何も持たせずにアフリカのサバンナに放り出したとしよう。1週間後に生き残っているのは、おそらく10人に満たないはずだ。知識と経験がなければ、安全に飲める水を入手できない。食用植物と毒草との区別もつかない。狩りなんてほぼ不可能だろうし、肉食獣からどうやって身を守ればいいかも分からない。

 私たちが自然界で生き抜くには、知識の有無が決定的に重要である。

 では、誰がその知識を与えるのか?

 人類が進化した太古のアフリカでは、両親からの知識の伝達が――つまり教育が――もっとも大きな役割を果たしたはずだ。

 また、ヒトには社会を作り、文化を作るという習性がある。自分の属する部族の風習や掟をきちんと理解していなければ、配偶者を得て子供を残すことは難しい。反面、周囲よりわずかでも脳が発達した賢い人は、風習や掟をうまく利用して、よりたくさんの子孫を残せただろう。そういう社会的知識を授ける上でも、両親からの教育が重要だったに違いない。

 より大きな脳を持つ親は、夫婦関係をより長く維持し、よりたくさんの教育を行うことができた。より長く親から教育を受けた子供は、より上手く成長し、より長い夫婦関係を維持できる大人になった。卵が先かニワトリが先かのような話だが、ここでもやはり正のフィードバックが働いたのだろう。

 実際、ヒトは飛び抜けて成長の遅い動物である。体重わずか60kgの私たちは、6トンのアフリカゾウと同じくらい時間をかけて大人になる。チンパンジーの成人体重はヒトとほぼ同じだが、5~7年早く生殖的に成熟する[22]。他の哺乳類には、幼児期や青年期は存在しない。大抵の動物では離乳とともに児童期に入り、体が大人と変わらない大きさまで育ったらさっさと成人期へと移行する。

 ヒト属の動物のなかでも、私たちホモ・サピエンスはとくに成長の遅い動物であるらしい。あるネアンデルタール人の乳児の化石は、6歳児相当の大きさの頭蓋骨を持っていた。しかし歯の化石を調べてみると、その子はまだ2歳だったのだ。

 成熟の遅さと、脳の大きさと、一夫一妻制。

 これら三つの要素がお互いに正のフィードバックを与えあって、私たちは現在のような姿に進化したのである。

 

 そもそもヒトが一夫一妻制でなければ、あなたの心に「嫉妬」の感情が存在する理由を説明できない。不貞や不倫を悪とみなすのはキリスト教的な価値観の影響で、かつての日本人は性に奔放だったと考える人もいるらしい。しかし古典落語や歌舞伎、能の演目には、男女の愛憎をテーマにしたものが珍しくない。『平家物語』の異本『源平盛衰記』には、嫉妬のすえに鬼になる女が登場する。日本人は西洋文明が入ってくる以前から、心に嫉妬を宿していた。

 特定の誰かをパートナーにしたい、その人を独占したいと感じるのは、文化的なものではなく、ヒトの生まれ持った感情である。ヒトが基本的に一夫一妻制の動物であることは、疑う余地がない。

 しかし、そうなると謎は深まる。

 同性愛の遺伝的形質は、なぜ淘汰されなかったのだろう?

 チンパンジーボノボのような乱婚制の動物であれば、同性愛的な行動をする個体でも、たまには気まぐれに異性と交尾するかもしれない。しかし一夫一妻制では、そうはいかない。特定のパートナーとの関係を長く維持する習性があるなら、同性愛者が子供を残す可能性はますます低くなりそうだ。

 かつて私たちが進化した時代に、いったい何があったのだろう?

 

 

 

■ヒトの男女差

 ヒトは雌雄の体格差が小さい――。

 この記述に「本当にそうか?」と感じたなら、あなたは鋭い。

 たしかに他の動物に比べれば差異は小さいかもしれないが、それでもハッキリとした男女の違いがある。男性は背丈や体重が女性よりも大きくなるし、ライオンのたてがみのようにヒゲも生える。男性には乳房もない。大抵のスポーツは男女別で大会が開催される。これは男女の身体能力に、埋めがたい差があるからだ。

 誤解を恐れずに言えば、ヒトの男性は、女性よりも戦闘に向いた肉体を持っている。

 これはハーレム制の動物の特徴ではないのか?

 白状すると、私がしつこいぐらいに〝基本的に〟一夫一妻制だと書いてきた理由は、ここにある。ヒトはわずかにハーレム制の傾向も持ち合わせているのだ。

 狩猟採集民のような伝統社会では、社会的地位の高い男性が複数の妻をめとっていることは珍しくない[23]。このような緩やかなハーレム制の傾向は、現代日本にも残っている。男性の再婚率は、女性のそれよりも高いのだ[24]。一部のモテる男性は生涯に複数回結婚することで、時間差の一夫多妻を実現している。

 したがって正確を期すならば、「ヒトは一夫一妻制」という説明では単純すぎる。

「ヒトは基本的に一夫一妻制の動物であり、わずかにハーレム制の傾向もある」と書くべきだろう。

 このようなヒトの繁殖様式は、男女の性的欲求にも違いをもたらしている。

 

 

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 (画像出典)研究室に行ってみた 第5回 「男脳」「女脳」のウソはなぜ、どのように拡散するのか

 

 男女の「心」の差について話を進める前に、このグラフを紹介しておこう。

 これはメンタルローテーション課題という、紙のうえに書かれた図形を脳内で三次元的に回転させる能力を測ったテストの成績だ。統計的には、男性のほうが三次元的な立体認識が得意だと言える[23]。

 メンタルローテーションは男女の差がもっとも大きく出る課題の1つだとされているが、それでも結果はこれぐらい微妙だ。「すべての男性は女性よりも立体認識が得意」とは言えないし、「すべての女性は男性よりも立体認識が苦手」とも言えない。一部に立体認識の得意な男性がいて、彼らが男性の平均点を引き上げているように見える。

 これから書いていく性的欲求の男女差も、これくらい微妙なものだと了解したうえで読み進めて欲しい。

 Twitterを眺めていると、たまに「進化心理学から考えて女性は〇〇という恋愛観を持つ」みたいなツイートがバズッているのを見かける。ああいうツイートは、ほぼ100%デマだと考えていい。進化論から導かれる男女差は、平均値の微妙な差に注目しているにすぎない。すべての女性の心理に当てはまる絶対的な特徴など、進化心理学では導けない。上記のグラフを見ても分かる通り、多くの女性に当てはまる心理的特徴は、同じくらい多くの男性にも当てはまってしまう。

 男女の脳には明らかに違いがある。けれど、それはあくまでも平均的な傾向の違いであって、絶対的な違いではない。

 このことを念頭に置いたうえで、先に進んで欲しい。

 

 1979年版ギネスブックによれば、歴史上もっともたくさんの子供をもうけた人物は17~18世紀のモロッコの皇帝ムーレイ・イスマイルだという。彼は敬虔なイスラム教徒であり、妻は4人しか持たなかった。が、常時500人からなるハーレムを囲っており、あわせて888人の子供を産ませた[26]。彼の第一夫人ゼルダーナが、夫のためにハーレムを厳しく管理していたという。妾たちは30歳になると、どこか別の権力者のハーレムへと移譲され、代わりにもっと若い妾が補充された。

 イスマイルのやったことは、歴史上の専制君主のなかで珍しいものではない。洋の東西を問わず、強大な権力を手に入れた男性は巨大なハーレムを作った。妾たちの日常の世話を宦官や女奴隷にさせていた点も共通だ。ある中国皇帝のハーレムでは、妾たちの月経周期まで管理して、もっとも妊娠しやすい時期に性交が行われるよう調整していたという。

 他の男から隔離したうえで、できるだけたくさんの女を妊娠させたい――。

 これが彼らの欲望である。

 もちろん、彼らの存在が人類の進化に影響を与えたとは思えない。地球上に専制君主制が登場したのはせいぜい数千年前で、数十万年からなるホモ・サピエンスの歴史から見れば、つい昨日のできごとだ。ここで言いたいのは、男性が頭に思い描く「性的ファンタジー」をもしも何の制限もなく実現できたら、いったい何が起こるのかということだ。

 理論上、男性は生産できる精子の数だけ子供を作ることができる。女性が生涯に産める子供の数に上限があることとは対照的だ。したがって、「より多くの女と性交したい」という欲望が男性の心のなかに進化したとしても、何の不思議もない。

 実際、浮気性の傾向は男性のほうが強い。

 様々な調査から、配偶者以外の相手とのセックスには男性のほうが強く興味を示すし、一夜限りの関係にも積極的だということが分かっている。(恋人ではない)友人とのセックスにも、男性のほうがためらわない。男が浮気をする理由に、生物学的な謎は無いのだ。

 ただし、浮気性の傾向にも一定のブレーキが存在する。

 私たちが進化した太古のアフリカは、危険な場所だった。浮気相手を探すことに熱中しすぎれば、妻を他の男に奪われるかもしれない。夫の協力が足りなければ、妻は子育てに失敗するかもしれない。肉食獣に妻や子供を殺されるかもしれない。

 何より、ヒトの女性は排卵の時期が分からない。他のサルのようにお尻が赤くなったりしないし、女性本人も自分の排卵に気づくのは難しい。男性はできるだけ妻のそばにいて、毎日セックスしないと子供を残せないのだ。人類学者ジャレド・ダイアモンドは、このような排卵の隠匿が、ヒトを「基本的に一夫一妻制」に進化させた要因の1つだと述べている[27]。

 歴史上の専制君主たちも、たいていは正妻や第一夫人を娶って、特権的な地位を与えていた。性的欲望を自由に満たせる状況でも、ヒトは結婚を選ぶ動物なのだ。

 さて、男性に浮気性の傾向があることは分かった。

 では、浮気をする女性がいるのはなぜだろう? たくさんの男性とセックスしたところで、生涯に産める子供の数が増えるわけではないのに。

 単純な繁殖のチャンスから考えれば、一夫一妻制はメスの得るメリットのほうが大きい。オスは他のメスと繁殖するチャンスを失うのに対して、メスは様々な協力をオスから受けられる。たとえば食料を分けてもらえるし、肉食獣や他のオスから、自分や子供を守ってもらえる。前述の通り、排卵の兆候が分かりにくくなるほど、オスはメスのそばに張り付いていなければならない。ヒトの排卵時期が隠されるようになった理由の一つは、オスからの協力を引き出すためだろう。

 この前提に立つと、女性が浮気をするメリットは分かりにくい。

 もしも浮気がバレたら、夫に見限られて、協力を打ち切られるかもしれない。太古のアフリカのサバンナでは、それは子育ての失敗を意味したはずだ。最悪の場合は、浮気相手の子供を夫に殺されてしまうかもしれない。残酷に聞こえるかもしれないが、オスが他のオスの子供を殺して、メスに自分の子供を妊娠させるというのは、霊長類に広く見られる行動だ。

 このようなリスクを負ってまで、女性が浮気をするのはなぜか?

 有力な説明の1つは、「セクシーな息子」仮説と呼ばれるものだ[28]。

 たとえば「資源獲得が上手く社会的地位も高いけれどブサイクな男性」を夫に選んだ女性を考えて欲しい。子孫繁栄という点で、彼女は悩ましいジレンマを抱えることになる。飛び抜けて優秀な男性が父親であっても、統計的回帰により、生まれてくる子供は平凡に近づく。つまり、平凡なブサイクが生まれてきてしまう。

 であれば、他の女性から人気のあるイケメンの子供を産んで、その子の養育を現在の夫に手伝わせたほうがいい――。

 何というか、ろくでもない仮説だ。こんなことを考えているから、進化心理学者は他分野の研究者から袋叩きにされるのだ。とはいえ、説得力はある。

 あるいは、「女性は遺伝的なポートフォリオ戦略を持とうとしている」とも考えられる。

 現代にせよ数十万年前のアフリカにせよ、将来は不確実だ。大きな災害が起きるかもしれないし、疫病が蔓延するかもしれない。わずか10年先のことでさえ、私たちには予測できない。生涯に産む4~5人の子供のなかに浮気相手の子供を混ぜておけば、子供の遺伝的多様性が増す。たとえば伝染病が広がった際に、子供の全滅を避けられるかもしれない。

 男女が浮気をする理由は、この他にも様々な説が提唱されている。進化心理学者は週刊誌のゴシップのような話題が大好きなのだ。それら仮説の多くは相互排他ではなく、どれもそこそこ説得力がある。いずれにせよ、男性ほど頻度は高くないものの、女性が浮気をする理由にも不思議はない。

 遺伝子鑑定の結果からは、アメリカとイギリスで生まれる赤ん坊の95%、どれだけ少なく見積もっても70%は、実際に婚姻関係にある夫の子供だという[29]。もしもこの比率が太古のアフリカでも同様だったとすれば、女性が生涯に産む4~5人の子供のうち、父親の違う子供が1人いるかいないかだった……ということになる。

 おそらく、女性が浮気によって得られる遺伝的メリットと、浮気が発覚した際のリスクとが均衡する点が、この率なのだろう。

 男性から見ても、これは悪くない数字だ。哺乳類は子供を1人残すと、自分の遺伝子の約50%を残せる。子供が2人になれば、この数字は75%だ(※子供同士も50%の遺伝子を共有しているのでそうなる)。4~5人のうち1人ぐらい別の男の子供が混ざっていても、まずまず満足できる量の遺伝子を残せる。もちろん全員が自分の子供であることに越したことはないが、それ以上厳しく浮気を咎めようとすれば――妻を厳しく管理して他の男から遠ざけようとすれば――愛想をつかされて、かえって繁殖に失敗してしまうかもしれない。

 なんだか話がややこしくなってきたので、一旦まとめよう。

 男女ともに、浮気によって得られる遺伝的なメリットは存在する。しかし、それは浮気によって生じるリスクによって制限されている。男性のほうが浮気によって得られるメリットが大きく、あるいはリスクが小さいために、より多数の相手と性交したいと望む傾向がある。その極端な例がムーレイ・イスマイルのような専制君主だ。一方、女性はそのような望みを抱く傾向が弱く、どちらかといえば、1人の相手と継続的な関係を維持して、協力を引き出そうという欲求を持つ。

 繰り返しになるが、これはあくまでも平均値の微妙な差に着目したものだ。

「男は必ず浮気をする生き物だ」というようなステレオタイプは誤りであり、ここで紹介した「男女の特徴」に当てはまらない人もたくさんいることを念押ししたい。

 

 ここまでの話は、異性愛者の性的欲望についてだった。

 では、同性愛者はどんな欲望を持つのだろう? 

 

 

 

■同性愛者の求めているもの

 私たちの社会にどれくらいの頻度で同性愛者が存在しているのかは、じつは正確には把握されていない。

 統計を難しくしている原因の一つは、同性愛者の定義のあいまいさだ。

 思春期にちょっとだけ同性愛的な行動を試してみたことがある人は珍しくないし、本来は異性愛の男性でも、刑務所内のように女性に近づく機会がないと、代替として同性との性行為に及ぶ場合がある。同性愛の基準をどこに置くかによって、調査結果が変わってしまうのだ。

 性科学者アルフレッド・キンゼイによれば、男性の三分の一以上は生涯のある時点で同性愛的な行為に及んだことがあり、それは思春期に多いという。ただし、もっぱら同性のみを性的対象とする人となると、ぐっと数が減る。男性で3~4%。女性の場合は1%ほどだそうだ[30]。

(※なお、ここでいう「男性/女性」とは、それぞれ「XYの性染色体を持つ人/XXの性染色体を持つ人」という意味である。文章を簡潔にするために、本人の性自認はここでは問わないことにする。また、クラインフェルター症候群のように普通とは違う性染色体を持つ人が、いったいどんな性的欲望を持つのか――。非常に興味深い論点だが、これも今回は触れないことにする)

 

 進化心理学者は、新聞の恋人募集広告が大好きだ。

 日本ではあまり馴染みがないが、アメリカでは新聞広告が出会い系サイトのような役割を果たしているらしい。恋人を求める男女が、自分のアピールポイントや相手に求める条件等を新聞の個人広告欄に載せるのだ。心理学者ケイ・ドゥーとランデル・ハナは合計800件の恋人募集広告を収集し、男女や異性愛者、同性愛者の違いを調べた[31]。

 すると、面白いことが分かった。

 パートナーの容姿に条件をつけているのは、女性の場合、異性愛者でも同性愛者でも2割に満たなかった。一方、男性の場合は、異性愛者では5割近く、同性愛者でも3割近くが、相手の外見に注文をつけていた。どうやらXYの染色体を持つ人は、相手の容姿を重視する脳を持っているらしい。

 また、自己アピールの内容も興味深い。

 自分の身体的魅力をアピールしているのは異性愛の女性がもっとも多く、7割近くの広告でそういう記述がみられた。「男性は相手の外見を重視しがち」という傾向を、彼女たちは正しく認識しているのだ。

 一方、身体的魅力に触れている同性愛の男性は5割、異性愛の男性は4割だった。つまり異性愛の男性は、相手となる女性には「外見をあまり重視しない傾向がある」と理解しているらしい。

 これら4つのグループで容姿に関する記述がもっとも少ないのは同性愛の女性で、わずか3割だった。

 このような傾向は、他の研究でも何度も追認されている。

 容姿だけでなく、相手の年齢や収入、社会的地位についても同様だ。同性愛の男性は、異性愛の男性と同じように、自分よりも若い相手に魅力を感じがちである。異性愛の女性は年上を好みがちだが、そのような傾向は同性愛の男性にはない。また、異性愛の女性は相手の収入や資産残高、社会的地位に興味を示しがちだが、同性愛の男性はそれらにあまり興味を抱かない[32]。

 ここまでの文章を読んだだけで、心がざわざわする読者がいるかもしれない。

 覚悟して欲しい。たぶん私はこれから、あなたをもっと怒らせてしまう。

 サンフランシスコ・ベイエリアの男性同性愛者を対象としたある調査では、75%が過去に100人以上のパートナーを持ち、さらに25%は1000人以上のパートナーを持っていると分かった[33](※この調査はエイズの流行以前に行われた)。このような乱交の傾向は、レズビアンには見られない。別の調査によれば、彼女たちの多くは生涯に10人未満のパートナーしか持たないのだ[34]。1000人ものパートナーを持った人はおらず、100人くらいという人が2%いただけだった。

 注意して欲しいのだが、「ゲイは必ず乱交をする」というようなステレオタイプは誤りである。同性愛の男性でも、特定の相手と安定した関係を築きたいと望む人は多いし、実際にそういう関係を結んでいる人は珍しくないだろう。例によって、平均値の違いに着目すると、こういう〝傾向〟があると分かるだけだ。

 さらに言えば、「同性愛の男性はたくさんの相手と関係を持ちたいと望みがち」という分析では、事実を正しく捉えていない。相手が同性だろうが異性だろうが、XYの性染色体を持って生まれてきた人の脳は、たくさんの相手を持ちたいと望みがちになるのだ。ただし、異性愛の男性では、その望みを満たしてくれる相手の女性が見つからないだけである。性風俗が主に異性愛の男性を客として発展した理由もここにある。

 インターネットを眺めていると、「同性愛の男性だからと言って、心が女性になっているわけではない」という注意書きをよく目にする。実際、その注意は正しい。これらの調査から分かるのは、同性愛の男性の性的欲求は異性愛の男性に近く、また同性愛の女性のそれは、異性愛の女性に近いということである。

 これこそ、私たちの配偶行動がいかに複雑に制御されているかを示す証拠だ。

 私たちの性的欲求は、カシオの電卓のようにスイッチ1つですべてが動きだすようなものではない。大規模なサーバーシステムのように、複雑な手順を踏んで機能するものであるらしい。少なくとも「どちらの性別を相手に選ぶか」と「どのような性的欲望を持つか」とは、脳の中で別々に処理されていることが分かる。

 月並みな表現だが、私たちの心は複雑なのだ。

 

 私の考えでは、同性愛と異性愛は、きっぱりと白と黒に色分けできるようなものではない。無限階調のグラデーションを描いているはずだ。

 たとえ異性愛者であっても、その〝色濃さ〟には個人差がある。同性とキスまでならできるという人もいれば、同性と手をつないだり、ハグをすることを想像しただけでゾッとする人もいる。

 同性愛の定義があいまいゆえに、正確な統計が取れないことを思い出して欲しい。

 ヒトの男女の体格差は小さい。自分を異性愛者だと考えている男性でも、中性的な顔立ちの少年にドキリとさせられることはありうる。異性愛者の女性でも、カッコいい女の先輩にトキメキを覚えることはありうる。刑務所内や戦場の宿営地のように、異性と接する機会がない場所では、同性を相手に性的欲求を発散することがある。バイセクシャルの存在も忘れてはならない。

 同性愛と異性愛は、同じ軸の両端にすぎず、その間には無限の中間段階が存在しているのだ。

 たとえば身長なら、140cmに満たない人もいれば、200cmを超える人もいる。その中間には無数のバリエーションがある。指の長さでも、足の速さでも同じだ。なぜ脳だけが別だと言えるだろう?

 あるいは数学能力でも同じだ。ジョン・フォン・ノイマンのような天才がいる一方で、中学生レベルの数学が理解できなくても不自由なく社会生活を営んでいる人がいる。その間には無限の中間段階がある。なぜ性に関するものだけが別だと言えるだろう?

 私たちの脳は、二元論が大好きだ。何かにつけて、物事を白黒つけたがる。善と悪、賛成と反対、敵と味方、同性愛と異性愛――。しかし現実の世界は、そんなに単純ではない。むしろ自然界には、境界を明確に設定できないグラデーションのほうが多く存在している。

 たしかに性染色体だけなら、XXとXYの2つに分類できるかもしれない。

 けれど、その染色体上の遺伝子群が脳を作り上げるまでの過程には、極めて複雑で柔軟な発達過程が存在している。その複雑さと柔軟さこそが、私たちの心を1人ひとり違う色へと染めていくのだ。

 私たちは多様なのだ。

 多様だからこそ、あらゆる環境に適応し、今日まで生き残ってきたのだ。

 

 

 

■同性愛者の進化

 いよいよ核心に迫ろう。

 なぜ同性愛者はこの世界に存在しているのだろう?

 どうして同性愛には遺伝性があり、それをもたらす遺伝的形質は進化の過程で淘汰されなかったのだろう?

 

 レイ・ブランチャードという研究者が、興味深い仮説を提出している。

 彼の調査によれば、男性が同性愛者になるかどうかは、男の子としての出生順位が関わっているらしい。同性愛の男性に兄がいる確率は、異性愛の男性やレズビアンに比べて有意に高かったのだ。この傾向は世界中の14の標本集団で一貫しており、兄が1人増えるごとに同性愛である可能性は三分の一増加するというデータが得られた[35]。たくさんのお兄さんを持つ弟は、ゲイになりやすいらしいのだ。

 ここから導かれる仮説を、「優しい叔父さん仮説」とでも名付けようか。

 同性愛の男性は自分の子供を残すのではなく、異性愛のきょうだいが作った子供――甥や姪――の養育を手伝うことで、自分の遺伝子を伝えてきた。これが、この仮説の概要である。

 すでに書いた通り、親と子は約50%の遺伝子を共有している。そして、きょうだいの間でも同じく約50%の遺伝子を共有している。したがって、きょうだいの子供である甥や姪は、あなたと約25%の遺伝子を共有していることになる。甥や姪の数が充分に多ければ、自分自身が子供を作らなくても遺伝子を残すことができるのだ。

 ヒトにはわずかにハーレム制の傾向がある。狩猟採集民のような伝統社会では、地位の高い男性はたくさんの妻を持っている場合が多い。私たちの進化した太古のアフリカでも、これは同じだっただろう。一部の男性が複数の女性を妻として独占すると、当然ながら妻を得られない男性が出てきてしまう。

 そういう男性は、ある意味、危険な存在だ。

 女性を奪うために他部族へと戦争を仕掛けるなら、まだマシだ。妻を求めて、自分の父親や兄に戦闘を挑むかもしれない。それでうまく下克上が果たされるなら(進化の上では)問題ない。しかし、そのような社会的混乱が群れの結束を弱体化させ、群れそのものが絶滅してしまうかもしれない。さらに母親の視点も忘れてはならない。自分の産んだ兄弟が殺し合うのは、繁殖の面でも悲劇である。

 一定の確率で同性愛の男性が生まれてくるなら、このような女性をめぐる男同士の緊張関係を緩和できる。

 母親の子宮は、男児を出産するたびに免疫反応が強くなる。胎児に対するこの免疫反応が引き金となって、弟が同性愛になる確率を高めているのではないかと、ブランチャードは指摘している。

 ただし今のところ、この仮説を支持する明確な証拠は見つかっていないようだ。

 たとえば「同性愛の男性はそうでない男性よりも甥や姪の面倒をよく見る」とか、「伝統社会で妻を持たない同性愛の男性は、妻を得られない異性愛の男性よりも(甥や姪を通じて)たくさんの遺伝子を残している」とか、そういう証拠が見つかれば、この仮説の信憑性は高まる。しかし現時点では、そのような調査結果は得られていないらしい。

 さらにはレズビアンの存在だ。

「兄をたくさん持つ弟は同性愛になりやすい」という調査結果は、なるほど、とても興味深いものではある。けれどここからは、この世界にレズビアンがいる理由について何も説明できない。

 

 私の個人的意見は、「そこまで難しく考える必要なくない?」である。

「優しい叔父さん仮説」には説得力があるし、今から私が書くストーリーと相互排他ではない。同性愛者の叔父さんが、甥や姪の養育を手伝うことで遺伝子を残したケースはあっただろう。けれど、甥や姪の存在を仮定しなくても、同性愛であることが有利になる状況はありうる。彼らが生き残り、自分の遺伝子を残したことに不思議はない。

 まずはレズビアンから考えてみよう。

 念頭に置いて欲しいのは、私たちが進化した過去の世界は、極めて剣呑な場所だったということだ。狩猟採集民のような伝統社会の人々は穏やかな平和主義者で、過去の私たちもそうだった――。そう信じている人は珍しくないが、残念ながらこれは神話だ。実際には伝統社会の部族間では戦争が頻発しており、殺人やレイプも横行している。太古の私たちも、きっとそうだった。

 戦争は農耕定住生活の開始以降に「発明」されたものだと考えられがちだが、これは正しくない。たしかに農耕定住生活と国家の成立により、戦争がより組織立った大規模なものになったことは間違いない。しかし、狩猟採集民が戦争をしないかというと、まったくそんなことはない。

 なぜなら狩猟採集生活は、農耕定住生活よりもさらに広い土地を必要とするからだ。現代の狩猟採集民族は、おおむね250~500平方キロメートルの広さの土地に25人ほどの集団(7~8家族)で暮らしている。この人口密度でいけば、マンハッタン島の広さに2~4家族しか暮らせないことになる[36]。彼らのなわばり争いは、農耕定住生活者と同じかそれ以上に激しいのだ。

 ある民族学的調査によれば、狩猟採集部族のうち65~70%は2年に1回の頻度で戦争をしており、90%までが1世代に1回は戦争を経験している。そして、ほぼすべての部族が過去に戦争をした言い伝えを持っているという[37]。

 彼らがこれほどまでに好戦的なのは、国家がないからだ。他集団からの暴力行為を防ぐためには、「いつでも反撃する準備があるぞ」という強硬な態度を取るほかない。わずかでも危険を感じたら、先制攻撃をするしかない。弱腰であるところを見せたら、相手に付け込まれるだけなのだ。

 とはいえ、このような強硬な態度には非常にコストがかかる。冷戦時代のアメリカとソビエト連邦を見れば分かる通り、報復の準備があることを示すだけでも多大な労力を伴うのだ。だから歴史が進み、国家が成立すると、人々は喜んでそれをアウトソースするようになった。

 

ニューギニア高地に住むアウヤナ族の1人は、パクス・オーストラリアーナ(※編註:オーストラリア政府が介入したことで治安が改善したこと)の効果について、「政府がやってきてから生活はしやすくなった」と話す。「食べ物を食べるときに後ろを気にしなくてもよくなったし、朝起きて外便所に用を足しに行くときも、矢が飛んでくるんじゃないかと心配しなくてよくなったよ」[38] 

 

 そして性欲を満たすことも、彼らが戦争をする動機の1つだ。

 すでに書いた通り、伝統社会では妻を得られない男性が出てしまう。ソープランドもXvideosもPornhubもない世界で、彼らがどうやって性欲を解消すればいいか? 隣の村に攻め込んで女性を奪ってくればいい――。そんな物騒な判断に至ってしまうのだ。

 戦争とレイプはいわば邪悪な兄弟で、歴史上、いつでもセットで現れる。古代ギリシャの戦記にせよ、旧約聖書の記述にせよ、中近世の戦争でも第二次世界大戦でもそうだった[39]。戦場では性的な倫理規範が崩壊し、男たちはのべつまくなしレイプしまくる。

 現代の軍隊ではレイプが禁じられているが、その起源は性病の蔓延により戦闘力が下がることを防ぐためだった。そのために兵士専用の売春施設まで設けられた[40]。また、敵国の女性をレイプすると、敵兵の憎悪を煽り、抵抗が激しくなることも考えられる。短期的な戦争終結を目指すためにも、現代の軍隊ではレイプが禁止されるようになったのだろう。

 レイプが「女性に対する犯罪」だと見做されるようになったのは、つい最近だ。

 モーセ十戒に「汝、強姦することなかれ」とは書かれていない。それどころか旧約聖書が編纂された時代には、レイプ被害者の女性を、その兄弟はレイプ犯に売り渡すことができた。たしかに、レイプを禁じる戒律や規範は古今東西の文化圏に見られる。が、それは被害者女性の権利を守るためのものではなく、その夫や父親、兄弟の権利を守るためのものだった。

 夫婦間のレイプが認識されるようになるのは、1970年代になってからだ。女性が自分の繁殖能力を自分でコントロールできるようになってから、まだ半世紀も経っていない。文明の力がなければ、ヒトはレイプをする動物なのだ。残念ながら。

 このような見方は、一部のフェミニストから反論されるかもしれない。

 レイプはヒトの生得的な性欲に基づくものではなく、学習された支配欲によって起きるのではないのか? 西洋文明のテレビや出版物によって、男性たちは「女性を支配したい」という欲望を学習していく。その支配欲こそがレイプの原因であるはずではないのか――?

 レイプの原因が性欲ではないという説は、かなり苦しい。

 この説では、レイプ犯の多くに妻や恋人がいることを根拠の1つに挙げる。セックスパートナーがいるから、性欲は満たされているはずだという。しかしモロッコの皇帝を思い出して欲しい。男性は1人のパートナーで満足できるとは限らないのだ。むしろ「パートナーが1人いれば充分満足できるはずだ」という考え方そのものが、非常に〝女性的〟だと言える。

 また、レイプが性欲に基づくなら、それは衝動的で無計画であるはずだという。実際のレイプ犯には周到な計画を立てて犯行に及ぶ者も珍しくないので、性欲はレイプの原因ではないという。しかし、恋人とのデートでも浮気相手との逢瀬でも、計画的に行われるセックスはレイプに限らない。計画的かどうかは性欲の有無とは関係がない。

 さらに、レイプの被害者は若く美しい女性ばかりではない。だからレイプの原因は性欲ではないという。しかし、この根拠も怪しい。レイプ犯だって本当は若く美しい女性が好みかもしれないが、犯行に及ぶ際には「襲いやすさ」が優先されるのかもしれない。そもそも若く美しい女性を好むという性的嗜好は、一夫一妻制に基づくものだ。レイプ被害者の年齢や容姿が問われないのは、性欲が不在だからではない。乱婚的で見境のない性欲が存在するからこそ、年齢や容姿が無視されるのだ。

 レイプの原因が性欲ではないという説への反論はまだいくらでも挙げられるのだが、今はこれぐらいでいいだろう。事実として、レイプは現代の先進国社会に限ったものではない。歴史上のあらゆる時代と場所に見られるものだし、狩猟採集民も例外ではない。野生動物だってレイプをする。レイプが生得的な欲望ではなく、学習された欲望に基づくとは信じがたい。

 ヒトの進化の過程では、想像を絶するほどの数の女性がレイプの被害者になったはずだ。望まない妊娠を経験したはずだ。彼女たちに頼れる父親や兄弟がいたとは限らない。敵部族の男によって、家族を皆殺しにされてしまったかもしれない。

 ここでようやく、女性の同性愛者が登場する。

 子供を身ごもったにも関わらず、相手男性からの協力を得られず、頼れる父親や兄弟もいない――。このような状況下では、異性愛の女性よりも、同性愛の女性のほうが有利になる。異性愛の女性では産まれた子供を1人で育てなければならない(というか、おそらく育児放棄するしかない)のに対して、同性愛の女性ならばお互いにパートナーの育児を協力できるからだ。

 結局のところ、女性の同性愛者が淘汰されなかった理由は、人類の歴史の大部分で女性が自分の繁殖能力を自分でコントロールできなかったという点に尽きる。たとえ同性愛者であっても、レイプの被害にあうことはあっただろうし、親の命令で結婚させられることがあった。「同性愛者は子供を残せないはず」という素朴な発想は、女性の同性愛者には当てはまらない。

 そして、ときには同性愛者のほうが有利になる――うまく自分の遺伝子を残せる――状況もありえた。かなり限定された状況ではあるが。

 

 同性愛の男性が淘汰されなかった理由は、少しだけ説明が難しくなる。

 レイプされたところで、彼らが子供を身ごもるわけではない。肉体的には男性である以上、女性よりもずっと自由に自分の性をコントロールできたはずだ。やはり「優しい叔父さん仮説」が正しく、彼らは直接自分の子供を残さなかったのだろうか?

 ここで注意したいのは、同性愛の男性であっても、社会的地位の向上には利害関係を持つという点だ。

 私たちが進化した太古の世界に戻ろう。群れの中で高い地位にいるオスは、多くのメスと交尾できるだけでなく、様々な資源を集めることができた。食料資源、あるいは戦闘時に仲間に護衛してもらえるという人的資源。権力の本質は、いざというときに味方についてくれる仲間の数である。さらに群れのボスになれば、自分よりも上位のオスから気まぐれに暴力を振るわれるリスクもなくなる。

 つまり同性愛の男性でも、そうでない男性と同様、群れの中でより高い社会的地位を目指すインセンティブが存在したはずなのだ。

 ここで、異性愛の男性がボスの座にいる群れで、同性愛の男性カップルがボスに挑むという状況を考えてみて欲しい。

 愛情は、ヒトが持つ感情の中でもっとも強い絆を生み出すものの1つだ。群れのボスはたくさんの仲間を護衛につけているかもしれないが、その仲間たちと愛情で結ばれているわけではない。今は護衛をしている仲間だって、胸の内ではボスの座を虎視眈々と狙っているかもしれない。彼は裏切りや反逆を防ぐよう政治手腕を振るいつつ、究極的には1人で挑戦者を迎え撃たなければならない。

 一方、挑戦する側の同性愛カップルには、そんな政治的駆け引きは必要ない。愛情に基づいて、パートナーと2人でボスを倒すことに集中すればいい。やはり限定的な状況ではあるものの、同性愛のほうが有利になる状況はありうる。

 さて、同性愛カップルが見事に下克上に成功し、新たなボスの座についたとしよう。群れの女性たちが、その群れを去るとは考えにくい。ヒトは1人では生きていけない動物だ。危険を冒して新たな群れを探すよりも、今までの群れに留まったほうが――つまり同性愛カップルのボスの子供を身ごもったほうが――安全に繁殖できる。

 余談だが、ヒトのペニスは本人の意識とは無関係に、直接の刺激を受けただけで完璧に勃起できる[41]。これは反射性勃起と呼ばれるもので、脳ではなく下半身脊髄神経によって制御されている。要するに同性愛の男性だからといって、女性を相手にした際に性的不能に陥るとは限らない。

「同性愛者は子供を残せないはず」という素朴な発想は、やはりここでも当てはまらない。

 実際、同性愛の男性でも社会的な要請により女性と結婚することは珍しくない。たとえば「結婚して子供を持たなければ男として一人前ではない」というような社会的規範に従って、子供を作ることはありうる。映画『ブロークバック・マウンテン』には、その様子がうまく描かれている。この映画の主人公は男性同性愛者カップルだが、彼らは異性の相手と結婚し、子供をもうけるのだ。

 

 生まれ持った性染色体がXXだろうとXYだろうと、同性愛だからといって子供を残さないとは限らない。個人の自由がこれほど保証された現代社会ならいざしらず、過去の地球ではなおさらだ。同性愛者が異性の相手と子供を作ることは珍しくなかっただろうし、その遺伝的形質が淘汰されなかったとしても驚くにはあたらない。

 さらに、ときには同性愛であるほうが有利になる状況もあった。

 もちろん私も、それが極めて限定された状況であることは認める。もしも私たちの祖先が、進化の過程で「同性愛のほうが有利な状況」に頻繁に直面していたら、私たちの大半が同性愛者になっていたはずだからだ。実際にはそのような状況は、ごく稀だったはずだ。

 では、どの程度珍しい状況だったのか?

 同性愛者の出現率が、おそらくそういう状況の発生率を反映しているのだろう。もっぱら同性を性的相手に選ぶのは、男性で3~4%、女性で約1%だ。これぐらいわずかな頻度で、しかし確実に、同性愛のほうが有利になる状況が過去の地球では存在していた。だからこそ、その遺伝的形質は淘汰されず、現在まで保存されてきたのだ。 

 

 

 

■なぜ同性愛者は差別を受けるのか?

 生物学的に言えば、同性愛者の存在は謎ではない。

 むしろ、それを差別することのほうが不可解だ。

 異性愛の男性からすれば、本来、同性愛の男性が存在することは歓迎すべき事態である。ヒトは基本的に一夫一妻制の動物なので、同性愛の男性が増えるほど、相手を見つけられない異性愛の女性も増える。結果、自分が妻を得るチャンスが増えるし、より若くて美しい妻を吟味したり、複数の妻を娶るという贅沢すら味わえるかもしれない。

 一般的に言って、同性愛の男性への差別やバッシングは、レズビアンに対するそれよりも激しいものになる。この点は、さほど不思議ではない。たしかに理論上は、レズビアンカップルが1組成立すると、異性愛の男性が2人あぶれることになる。しかし人類の歴史では、女性は自分の繁殖能力を誰かに支配されてしまうケースが多かったはずだ。異性愛の男女どちらから見ても、レズビアンの存在はさほど問題にはならなかっただろう。

 しかし、だ。

 同性愛の男性に対する差別は、異性愛の女性のみならず、本来ならそれで得をするはずの異性愛の男性からも行われる。それも、激しい嫌悪感情をともなった攻撃的な形で、である。同性愛の男性がリンチされて殺された場合、その犯人はほぼ間違いなく異性愛の男性だ。

 これはいったい、どういうことだろう?

 進化論からは、同性愛者への差別をうまく説明できないのだ。

 したがって、彼らに対する差別意識はヒトの生得的なものではなく、文化的な影響を色濃く受けたものだと私は考えている。

 

 これは人種差別を例に出すと理解しやすいだろう。

 ルイ・アガシは19世紀の地質学者で、「氷河期」の存在を明らかにしたことでその名を永遠のものにした。彼はスイス生まれのアメリカ人であり、物腰は柔らかで、聴衆を魅了する知的な弁舌の持ち主だったらしい。宗教的には自由思想家であり、聖書を自由に解釈するユニテリアン派の妻ともうまく折り合いをつけていた。そもそも創世記の内容を固く信じているような保守派であったなら、氷河期を発見できたはずがない。

 しかしフィラデルフィアを初めて訪れたとき、彼は激しい衝撃を受けた。

 生まれて初めて、黒人を間近で目撃したのだ[42]。

 

ホテルにはアフリカ人のウェイターの一群が立っており、「大きな唇のある黒い顔としかめっ面、頭の上にある羊毛」は彼らが「劣って退化した人種」であることを証明していた。アガシは黒人に会ったこともなければ、晩餐の場にいると考えたこともなかった。でもそのとき、「弓なりの大きな爪のある長い手」が彼の皿に伸びてきた。体に衝撃が走った。(…)強い嫌悪感はどうにもならなかった。

 

「ちょっと離れてくれと言おうにも、目が吸い付いたように彼らから離れなかった。そして給仕のぞっとするような手が皿に伸びてきたとき、どこでもいい、ほかの場所で、わずかばかりのパンを食べるだけでいいから、彼らから離れていられればと願わずにはいられなかった……」

 

 アガシの感じた感情が、いわゆる「生理的嫌悪」であったことは間違いない。

 しかし進化論から考えると、彼の反応は不思議である。

 なぜなら、私たちが進化した太古の世界では人口密度が低く、人々の移動範囲もそう広くなかった。他人種と出会う機会はほぼ皆無だったはずだ。当時の私たちが敵対したのは、すぐ近くの集落に住む人々――つまり同じ人種――のはずである。敵意や嫌悪感が進化するとしたら、それは同じ人種に向かうはずであり、他人種に向かうとは考えにくい。

 したがって現在の進化心理学では、人種差別は進化の産物ではないとされている。

 そもそもヒトには、馴染みのないものや異質なものを嫌うという傾向がある。警戒心を抱いたり、恐怖や嫌悪を感じる。また、人間の集団を敵と味方に分けて、味方をひいきして敵を排除しようとする習性もある。それらの、より汎用的な心理メカニズムが人種差別の土台であり、人種そのものは差別意識のトリガーになっていないらしい。

 面白いのは、進化心理学者ロブ・カーズバンらが行った男女混合バスケットボールの実験だ。学生たちにバスケットボールの試合を観戦させたところ、彼らの人種認識が弱まったというのだ[43]。

 その試合は手に汗を握るような接戦で、選手たちは違う色のユニフォームを着ていた。学生たちがチームを誤認することはなかったし、同じチームの男女を混同することもなかった。しかし、同じチームの黒人と白人は、しばしば誤って認識していた!

 どうやら私たちの人種認識は、意外とあやふやらしい。

 白人の差別主義者が黒人を嫌っているのは、相手が黒人だからではない。自分とは違う社会集団に属している相手だと認識しているから、「敵」だと誤認し、嫌悪感を覚えるのだ。違う人種の相手でも、同じ目的を共有した「仲間」だと認識させれば、差別意識を消し去ることができるかもしれない。実際、アメリカ軍のような多人種混成の軍隊が上手く機能するのは、この辺りに理由がありそうだ。

 ルイ・アガシは黒人と接した機会がなく、フィラデルフィアで目撃したときに彼の脳は相手を「異質なもの」として認識したのだろう。だから警戒心や恐怖が生じた。さらに、彼は洗練された上流階級の人間であり、黒人の給仕とは属する社会集団がまったく別だった。だから「敵」だと誤認してしまい、その場から逃げ出したくなったのだろう。

(※余談だが、アガシと同時代の生物学者チャールズ・ダーウィンには、黒人に対するこのような嫌悪の反応は無かったと思われる。彼は若いころから黒人を見慣れていたし、親しい知人もいたからだ。医者になる勉強に嫌気がさしていた10代後半のころ、ダーウィンは勉学をサボッて、ジョンという黒人から剥製製作の技術を学んだ。黒人を異質と感じないばかりか、ジョンに対しては野生動物が好きという点で仲間意識さえ抱いていたかもしれない。当時、ダーウィンのような上流階級の男性にとって狩猟は重要な社交的趣味の1つだったが、剥製づくりはもっぱら使用人の仕事だった。ダーウィンが剥製製作を学ぼうと思いついた理由は分かっていない。だが、白人と黒人は同じ祖先を持つはずだという信念こそが、彼を進化論の発見へと導いたのではないかと、科学史研究者のエイドリアン・デズモンドとジェイムズ・ムーアは『ダーウィンが信じた道』という著書の中で述べている)

 

 私たちの脳は「異質なもの」や「違う集団の相手」を見ると、差別意識のスイッチが入ってしまうようだ。

 おそらくこれは、同性愛者への差別にも当てはまる。

 同性愛者が差別されてしまうのは、おそらく、彼ら/彼女らが同性愛者だからではない。差別主義者にとって異質であり、別集団の人間に見えるからこそ、差別を受けるのだ。

 またしても「待ってくれ」と言われてしまいそうだ。

 日本で同性愛者が異質な存在だって? テレビをつければおかまタレントが人気を集め、同性愛カップルを主人公にしたドラマがヒットする。日本で同性愛者が異質で、馴染みのないものだとは思えない――。

 たしかに宗教的戒律の厳しい国に比べれば、日本での同性愛はそれほど異質ではない。同性愛を明白に禁じる法律はないし、結婚だって、異性愛者のそれに近い制度が整備されつつある。同性愛者が結婚式を挙げたいと言えば、どこの式場も喜んで会場を提供する。

 私の個人的な経験を話せば、高校時代の部活の先輩に1人、大学時代のサークルの後輩に1人、同性愛者であることをカミングアウトしている人がいた。だから私にとって同性愛者は馴染みのないものではないし、異質でもない。別集団とも思えない。だから嫌悪も敵意も感じない。

 しかし世の中、そんな人ばかりではないのだ。

 そもそも同性愛者は――もっぱら同性を相手にする人は――その数が少ない。人生の中で一度も出会わずに過ごしてきた人もいるだろう。たとえ近くにいても、カミングアウトされなければ気づかないかもしれない。そういう人にとっては、同性愛者はやはり珍しくて、馴染みがなくて、異質な存在なのだ。

 さらにニュースをつければ、同性愛者の集団が虹色の旗を掲げて、何やらデモ行進をしている。「自分とは違う集団の人間だ!」と感じて、警戒心を抱いたとしても不思議はない。

 そういう人は、ルイ・アガシが黒人に対して感じたのと同様の「生理的嫌悪」を、同性愛者に抱くのかもしれない。

 ここから、同性愛者に対する差別感情を取り去る秘訣も推測できる。たとえばあなたの職場に同性愛者の同僚がいて、仕事でめちゃくちゃ助けられていたとしたら、おそらくあなたの心に差別感情は芽生えない。あなたの脳は、その人を同じ目的を共有した「仲間」だと認識する可能性が高く、差別感情の元凶となる敵対心を緩和できるはずだからだ。

 

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(画像出典)江戸時代に掛け布団はなかった!? 知っているようで知らない布団の歴史

 

 むしろ興味深いのは、日本において、いつから同性愛が「異質」になったのかだ。

 古代ギリシャ古代ローマの上流階級にせよ、日本の「衆道」にせよ、おおっぴらに同性愛的な行為をしていた社会は枚挙にいとまがない。上掲の絵は18世紀前半の画家・宮川長春の作品で、『三侍』というタイトルが付けられている。浮気現場を押さえられて修羅場一歩手前という雰囲気だが、この三人は全員男性であるらしい。

 どうやら江戸時代までの日本では、同性愛は珍しいものではなかったようだ。当然、異質ではなかったし、同性愛者を別集団だと感じることも、まずなかっただろう。何らかの原因があって、現代の日本では同性愛がしばしばタブー視され、異質だと認識されるようになってしまったのだ。

 日本において同性愛をタブー化したものがあるとすれば、その原因としてもっとも有力なのは――。

 おっと、ここから先は進化論で扱える範疇を超えてしまう。

 社会学者に道を譲るとしよう。

 

 私たちの周囲にある「文化」、すなわち風習や制度の背景には、そのすべてに生物学的な基盤がある。進化の過程で形作られた心理的傾向が、土台として存在している。しかし、そういう生物学的特徴と、実際に目の前にある文化との間には、大きな隔たりが横たわっている。

 たとえば生物学的な一夫一妻制と、制度としての「結婚」とを同一視することはできない。私たちが結婚するように進化した理由は、フクロウやオオカミが一夫一妻制になった理由と同じだろう。けれど、だからといって、そこから現代日本における結婚制度を直接に導けるわけではない。

 たとえば「結婚式」のやり方だけを見ても、花嫁が白い衣装を着ることに進化的な背景があるとは考えにくい。引き出物としてバウムクーヘンを送ることに、生物学的根拠などあるわけがない。私たちの進化した太古のアフリカにバウムクーヘンは存在しなかったからだ。

 進化論は、ヒトが贈り物をする理由を説明できる。甘い食べ物を好む理由も説明できる。しかし「なぜ結婚式でバウムクーヘンを贈るのか?」という疑問には答えられないのだ。

 生物としてのヒトの特徴と、目の前にある文化の間には、かなりの距離がある。この距離を埋めることこそ、社会学が得意とする分野だろう。「標準社会科学モデル」が否定されたとしても、社会学者の仕事がなくなったわけではない。

 

 最後に、よくある誤解を解いておこう。

 この記事の中で、私はヒトの男性には浮気性の傾向があると書いた。また、レイプがヒトの自然な行動バリエーションの1つだとも指摘した。しかし、これは浮気やレイプを肯定しているわけではない。

 そもそも「である」ことと「あるべき」ことは違う。

 たとえばロケットエンジンは、核弾頭を飛ばすために発展してきた。歴史的な経緯を振り返れば、ロケットは核ミサイルを飛ばすためのもの「である」。しかし、だからといって核ミサイルを飛ばす「べき」とはいえない。

 同様に、たとえヒトの自然な姿がどんなもの「である」としても、そこから人間はどう「あるべき」とはいえない。自然なものだからといって、それが正しいとか、善だとは主張できないのだ。自然は善悪を判断しない。否定も肯定もしない。それを判断するのは、私たち人間の理性である。

 

 これは本当によくある誤解で、立派な学者や政治家でも頻繁に同じ間違いを犯す。

 わざわざ「自然主義の誤謬」という名前まで付いている。

 したがって、「同性愛者は不自然だから悪だ」という主張は、二重に間違っていることになる。まず、同性愛者が不自然だという事実誤認。そして、自然かどうかから善悪を導こうとする自然主義の誤謬。この主張は完全に間違っているのだ。

 

 同性愛者は善でも悪でもない。

 ただ自然に、この世界に存在しているだけだ。

 

 

 

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※参考文献※

[1]マット・リドレー『やわらかな遺伝子』紀伊國屋書店(2004年)p106、p209

[2]マット・リドレー(2004年)p109

[3]「同性愛の遺伝子」をめぐって

[4]リチャード・ドーキンス『進化の存在証明』早川書房(2009年)p197

[5]リチャード・ドーキンス利己的な遺伝子〈増補新装版〉』紀伊國屋書店 (2006年)p390

[6]デヴィッド・C・ギアリー『心の起源』培風館(2007年)p41

[7]デヴィッド・C・ギアリー(2007年)p44

 

[8]ロビン・ダンバー『友達の数は何人?』インターシフト(2011年) p20

[9]ロビン・ダンバー(2011年)p181

[10]ロビン・ダンバー(2011年)p198

[11]デヴィッド・F・ビョークランド&アンソニー・D・ペレグリーニ『進化発達心理学新曜社(2008年)p68

[12]ダン・アリエリー『予想通りに不合理』ハヤカワノンフィクション文庫(2013年)p405-407

[13]ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』ハヤカワノンフィクション文庫(2014年)p150-151

[14]ADVANCES IN THE STUDY OF BEHAVIOR, 9th Edition. p137,p144,p

[15]デヴィッド・F・ビョークランド&アンソニー・D・ペレグリーニ(2008年)p25

[16]ロビン・ダンバー(2011年)p11

[17]デヴィッド・M・バス『男と女のだましあい』三陽社(2000年)p120

[18]マッシモ・リヴィ‐バッチ『人口の世界史』東洋経済(2014年)p13

[19]グレゴリー・クラーク『10万年の世界経済史』日経BP社(2009年)上p138

[20]デヴィッド・F・ビョークランド&アンソニー・D・ペレグリーニ(2008年)p132

[21]マッシモ・リヴィ=バッチ(2014年) p40

[22]デヴィッド・F・ビョークランド&アンソニー・D・ペレグリーニ(2008年)p106

[23]マーティン・デイリー&マーゴ・ウィルソン『人が人を殺すとき』新思索社(1999年)p216

[24]人口統計資料(2014)表6-6 性,年齢(5歳階級)別再婚率:1930~2012年

[25]第5回 「男脳」「女脳」のウソはなぜ、どのように拡散するのか | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

[26]マーティン・デイリー&マーゴ・ウィルソン(1999年)p220

[27]ジャレド・ダイアモンド『セックスはなぜ楽しいか』草思社(1999年)p105-147
※より正確を期すなら、排卵の隠匿と一夫一妻制はお互いに影響を与え合って、ともに進化してきたのではないかとダイアモンドは考察している。

[28]デヴィッド・M・バス(2000年)p153

[29]ジャレド・ダイアモンド(1999年)p127

[30]デヴィッド・M・バス(2000年)p106-107

[31]デヴィッド・M・バス(2000年)p108-109

[32]ダグラス・ケンリック『野蛮な進化心理学白揚社(2014年)p128-129

[33]スティーブン・ピンカー『心の仕組み』ちくま学芸文庫(2013年)下p327

[34]マット・リドレー『赤の女王』ハヤカワ・ノンフィクション文庫(2014年)p297-298

[35]マット・リドレー(2004年)p210

[36]ダニエル・E・リーバーマン『人体 600万年史』早川書房(2015年)上p154

[37]スティーブン・ピンカー『暴力の人類史』(2015年)上p116

[38]スティーブン・ピンカー(2015年)上p121

[39]スティーブン・ピンカー(2015年)下p38-39

[40]ビルギット・アダム『性病の世界史』草思社(2003年)p193

[41]バーバラ・N・ホロウィッツ、キャスリン・バウアーズ『人間と動物の病気を一緒にみる』インターシフト(2014年)p105

[42]エイドリアン・デズモンド&ジェイムズ・ムーア『ダーウィンが信じた道』NHK出版(2009年)p372

[43]ダグラス・ケンリック(2014年)p90