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「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

ごはんに「ありがとう」と言うと腐らない、だって?

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 なぜか科学と道徳は混同されがちだ。

 先日、Facebookで「ごはんにありがとうと言う実験」がシェアされてきた。密閉容器2つにごはんを入れて、片方には毎日「ありがとう」と声をかけたそうだ。声をかけなかったごはんはドロドロに腐敗したが、声をかけたごはんはそうならなかった。

「やっぱり感謝の気持ちを伝えることは大切なんですね!」「感動しました!」というコメントとイイネが山ほどついていて、頭を抱えたくなった。まず間違いなく、容器に混入した微生物の違いだろう。無視をした容器には米粒をドロドロに腐敗させる微生物が入っていたのに対して、「ありがとう」と声をかけたほうの容器にはそれが混入していなかったのだ。

ameblo.jp

 レーウェンフックが微生物の存在に気付いたのは17世紀。パスツールが低温殺菌法を発明するのは1866年だ。人類は紀元前からビールやワインを作っていたのに、腐敗や発酵の仕組みが解明されたのは最近だ。おそらくヒトの脳は、微生物の存在を前提に思考するようにはできていないのだろう。

「観察に基づいて仮説を立てること」は、科学的思考のなかでもっとも重要なものだ。しかし、それだけでは「ありがとうと声をかけたごはんは腐らない」のような誤った理論を許してしまう。科学的思考にはもう一つ重要なルールがある。「仮説は、反証の試みが失敗すれば受け入れられる」というものだ。

 ごはんに「ありがとう」という実験なら、私は「混入した微生物の違いだ」という反証を(※小学生レベルの理科の知識から)提示した。実験者は、「微生物の違いなどではない」ということを立証しなければならない。そうでなければ、「ありがとう」という声掛けが腐敗を遅らせたという仮説は認められないのだ。

・観察に基づいて理論を立てる

仮説は、反証の試みが失敗すれば受け入れられる

 この2つは、科学が科学であるために最低限必要な条件だ。いわゆる疑似科学では、後者の条件がないがしろにされているケースが多い。本当に科学的なものと、ニセの科学とを見分けるのに役立つかもしれない。

 

 

  人類は古くから醸造酒や発酵食品を作ってきた。にもかかわらず、微生物の働きに気付いたのは最近だった。

 似たような例で、より不可解なのは進化論だ。

 ダーウィンは『種の起源』のなかで、ハトや栽培植物などの育種をヒントに「自然選択」というアイディアを導き出している。人類はかなり古い時代から動物を家畜化し、育種してきた。にもかかわらず、19世紀の半ばまで進化論を誰も思いつかなったのはなぜだろう。「生き物が他の生き物へと姿を変える」という惜しいところまで到達しながら、自然選択という考え方に思い至らなかったのはどうしてだろう。

 微生物の働きに気が付かなかったのは、まだ分かる。顕微鏡を発明するにはそれなりの技術発展が必要だからだ。ところが進化論はそうではない。ヒントになるものは、すべて目の前にあったはずなのだ。

 進化生物学者エルンスト・マイアは、その理由を本質主義だと考えた。要するにプラトンの影響によって進化論は気付かれなかったのだと、リチャード・ドーキンスは書いている[1]

 プラトンに言わせれば、私たちの目にしている世界は、洞窟の壁に浮かび上がったかがり火の作る影にすぎない。たとえば、この世界には完璧な三角形や、完璧な直線は存在しない。どんなにきれいな三角形を描こうと、必ずわずかな歪みが生じる。完璧な直線なら、なおさら不可能だ。理想的な直線は幅がゼロになるはずだが、そんな線をどうやって書けばいいのか分からない。砂に書かれた直線は、本質的な直線の影に過ぎないのだ。

 この考え方に基づけば、生物の個体差もそういう影の揺らぎにすぎないことになる。たとえば、標準よりもわずかに耳の長いうさぎがいるとして、それは「本質的なうさぎ」の影にすぎない。実際には、このような個体差こそが進化の原動力であるにもかかわらず、それを過小評価してしまう。

 進化論の発見が遅れたのがプラトンのせいだというのは、さすがに言い過ぎだ。

 しかし、少なくない人が(無自覚なままに)本質主義的な考え方をしてしまうのも事実だ。おそらく、私たちの脳は本質主義的にデザインされている。どういうことかというと、耳の長さがわずかに違うだけで「別種の動物」だと認識するようでは気が狂うからだ。わずかな個体差は無視して、同じ「うさぎ」という動物だと認識したほうが理に適っている。たとえ葉っぱの形は1枚いちまい違っても、キャベツはキャベツだと認識できたほうが便利だ。

 また、アリストテレスの目的論が追い打ちをかけたのかもしれない。

 本質主義という点では、アリストテレスプラトンほどイデアの実在性を信じていなかった。しかし、あらゆる自然現象には何か「目的」があると考えていた[2]。彼は生物学にも興味があり、海洋生物の研究も行っていた。胃が食べ物を消化する目的の器官で、ひれが水のなかを泳ぐ目的の器官であることは明らかだ。そこから目的論に至ってしまうのも無理なからぬことだろう。しかし実際には、進化と自然選択には何の目的もない。

 アリストテレスの目的論も、プラトン的な本質主義と同様、私たちがついつい冒してしまいがちな間違いである。

 

 歴史の大半の時代で、哲学と科学は分かちがたくつながってきた。プラトンアリストテレスは一例にすぎない。21世紀の住人たる私たちがしばしば道徳と科学を混同してしまうのも、驚くようなことではないかもしれない。

 科学が哲学と決別し、現代的なものになるのは、17世紀になってからだ。

 科学主義の原点を誰に求めるかは議論が分かれるだろうが、やはりフランシス・ベーコンを外すわけにはいかない。彼は、人類一般に幸福をもたらすには、それまでの演繹的な知的枠組みでは不充分だと気づいた。事実を偏見なしに集めて分析する帰納的方法論にもとづいたものに変えなければならないと思いついた[3]。雑な言い方をすれば、空理空論をこねくり回すよりも実験で確かめたほうがいいと彼は気づいたのだ。

 また、現代科学の父といえばガリレオ・ガリレイだ。彼はトスカーナ大公国の王妃に宛てた有名な手紙を残している。「聖書の文言という権威から始めるのではなく、実際の知的体験および実証から始めるべきです」これは、現代の私たちがとっている科学的アプローチを宣言したものだ[4]。彼はコントロールされた環境下で実験を行い、その結果を観察して仮説を検証するという、現代の科学者とまったく同じ姿勢で研究していた。ガリレオが斜面を転がる球を観察したのは、スケールの違いはあれ、現代の科学者が加速器の粒子を観測するのと同じ姿勢だ。

 なお、フランシス・ベーコンは過大評価されすぎではないかという指摘もある[5]ガリレオが実験を始めるのにベーコンの助言は必要なかった。彼らの1世紀前にはレオナルド・ダ・ヴィンチが様々な実験を行っていた。おそらくルネサンス期以降、実験を重視する姿勢が研究者の間で少しずつ広まっていったのだろう。それを1冊の著作に(やや過激に)まとめたのがベーコンだったのかもしれない。

 17世紀の科学革命は、ニュートンの『プリンキピア』でクライマックスを迎えた。ニュートンは「本質」「特性」といった用語を使わなかったし、重力がなぜ存在するのかを説明しようともしなかった。ついに科学が、本質主義や目的論から解き放たれたのだ。ニコラ・ド・マルブランシュ神父は、『プリンキピア』は物理学の著作ではなく幾何学の著作だと評した。神父にとっての物理学はアリストテレス流のままだった。物理学の定義そのものが変わってしまったことに気付かなかったのだ[6]

 

『プリンキピア』が顕著な例だが、17世紀の科学革命以降、科学は「何が」と「どうやって」のみに専念できるようになった。「誰が」「なぜ」という疑問に答えるのは、宗教の役割になった[7]

 ここから、進化論が誕生直後から非難轟々だった理由も分かる。

 進化論は、生物の形態や行動についての「なぜ」に答えてしまうからだ。従来なら宗教や哲学の領分だった疑問に、答えることができる。

 進化論が生まれる以前は、「ヒトはとても賢い生き物だ」と記述することが科学の役割だった。「なぜなら神は自身の姿に似せてヒトを作り、ヒトに似せて他の生き物を作ったからだ」と答えるのが宗教の役割だった。ところが、進化論はこの役割分担を粉砕した。ヒトがとても賢い生き物なのは、賢いサルが生き延びたからだ。当時の宗教家からすれば、完全な領土侵犯だ。

 似たような事例は、現代も続いている。生物学者E.O.ウィルソンは、あるシンポジウムで講演した際に水差しの氷水を浴びせられたという。学生たちはウィルソンの免職を叫び、人種差別や知能検査や階級社会の廃絶を叫ぶ団体が怒りの宣言を飛ばし、批判書を出版した[8]。ウィルソンは従来の文化決定論を否定し、私たちの行動や心理にも遺伝的な影響がある(※そして遺伝子は進化の影響を受ける)はずだと指摘したにすぎない。しかし、ヒトの生物学的進化はすでに終わり、文化的進化に取って代わったと考えている人々にとっては、受け入れがたい発想だった。

 今でも、アメリカ人の3人に1人は進化論に対して否定的だという[9]。ことほどさように、科学的事実と、宗教や哲学、道徳とを切り離すのは難しいようだ。進化生物学は「なぜ」に答えることができる。それゆえに、科学の領分をはみ出しているように思えるのだろう。

 

 宗教や哲学の役割が終わったと言いたいのではない。

 むしろ科学が発展するほど、政治哲学の重要性は増すのではないかと思う。このブログではたびたび書いてきたが、私たちがどのような進化を遂げたかと、私たちの行動の善悪とは、まったく別のレベルの問題だからだ。私たちは生まれつき食欲を持っているが、食い逃げが許されるわけではない。何が罪になり、何が尊い行動になるのか。それは、科学的な事実とはまったく違う次元の問題なのだ。

 だからこそ、道徳観念を「実験」で導くべきでもない。

 疑いようもなく、「ありがとう」と言うのは大切だ。けれど、それは疑似科学的な実験で説明されるべきことではない。感謝を示すことの重要性は、ごはんに声をかけなくても、身近な人に声をかければすぐに証明できるはずだ。適切な場面で「ありがとう」と言われて嫌な顔をする人はいない。

 思うに、道徳主義的な科学は、道徳にも科学にもよくない。ヨセミテ公園に舗装道路を作るのが愚かで、ゴードン・ゲッコーが悪、マザー・テレサが善なのは確かで、それは最新の生物学研究でどんな結果が出たかにかかわらない。

 ──スティーブン・ピンカー『心の仕組み』 

「ありがとう」と言うべき相手は、ごはんではない。

 大切な人に対して言うべきだ。

 

 

 

 

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◆参考資料等◆

[1]リチャード・ドーキンス『進化の存在証明』早川書房(2009年)p71~74

[2]スティーヴン・ワインバーグ『科学の発見』文芸春秋(2016年)p45~46

[3]ウィリアム・バーンスタイン『「豊かさ」の誕生』日経ビジネス人文庫(2015年)上p185

[4]マイケル・モーズリー&ジョン・リンチ『科学は歴史をどう変えてきたか』東京書籍(2011年)p40

[5]スティーヴン・ワインバーグ(2016年)p265~266

[6]スティーヴン・ワインバーグ(2016年)p315

[7]ウィリアム・バーンスタイン(2015年)上p190

[8]スティーブン・ピンカー『心の仕組み』ちくま学芸文庫(2013年)上p103

[9]アメリカ人の3分の1が未だに進化論に対して否定的